【46年8月号】 P13

 

惟神会委員長 川    俣       

 

 

 われわれ日本人の信仰は、四魂具足のうえに立つ敬神は崇祖にありという氏神信仰でなければならないのです。このことは、拙稿「日本人と氏神信仰」において申し上げてありますから、いまいちど、ご繙読(はんどく)(本を開いて読む)願いたいのです。

 自分は素直であると自負(じふ)する人が案外素直でなかったり、また謙虚(けんきょ)を売りものにする人がほんとうの謙虚でないように、惟神会の信仰は何でもわかっているのだという人にかぎって、その実、信仰の本質についてはわかっていないようであるばかりでなく、素直にそして謙虚に勉強しようとする意欲にも欠けているようです。

 敬神は崇祖にありという、真の氏神信仰の基底(きてい)(きそ)となるものは、もちろん四魂具足です。かつて岸先生もいわれたように、今日の日本の文明開化・産業経済興隆の出発点であった明治維新は、まさに世紀の一大革新でありました。それは荒魂・和魂の二魂に、天皇御親政による幸魂のはたらきが加わった三魂具足の維新であったのです。したがってわが國の現代の産業経済の隆昌はまさに世界の驚異ですが、それはどこまでも三魂的神仙的の枠を一歩も出ていないのです。

 荒魂・和魂の二魂はほとんどの人が持っており、また幸魂は天皇の御親政により発揮されて、いちおう三魂具足のはたらきとなっているのですが、真の氏神信仰が行なわれていないために、真の奇魂が発揮されず、いわば禍津神(まがつかみ)的な奇魂となっているのです。

ですから、われわれ惟神会員は、荒・和・幸の三魂に氏神信仰という真の奇魂を加えて、四魂具足の日本となるように努力しなければならないのです。

 ここに本会の主神(まはしら)と仰ぎまつる八意思兼大神さまの依さし給える大御神業が厳然(げんぜん)(おごそか)と存在しているのです。

すなわち氏子としては四魂具足にいそしみはげみ、惟神会員としては大神さまの大御神業達成のために努力しなければならないという、氏子にして会員であるという同時原則に忠実でなければならないのです。

もちろんわれわれは物質の世界に住んでいるのです。しかしながら日常の行動は、心という非物質のはたらきのあらわれにほかならないのです。

 心とは、魂であります。

 惟神科学的に申せば、出生と同時に氏神から授けられる本霊(第二霊)に、外界から感合してくる経験霊(第三霊及び第四霊)が複合感応する事によって、ここにはじめて心というものが生じるのです。

 人間は生きているかぎり、必らず第三霊をもたなければならず、また第三霊をもつということが生きているということです。心はすなわち魂であるわけは、実にここのところをいうのです。

 したがって心の善悪がそっくりそのまま、行動の善悪となってあらわれるのです。

 世間一般では心の問題を解説してますが、それは心すなわち精神の発現状態、換言すれば精神現象だけをとりあげているに過ぎず、心そのものの実態の解明はなされておらず、否な解明不可能でありましょう。

 申すまでもなく、われわれの本霊は奇魂・荒魂・和魂・幸魂の四魂から成ってますが、この四魂がつねに円満に過不足なく具足されなければならないのです。

 換言すれば、われわれ日本人は、日本人をして日本人としてあらしめた祖神の氏神から、四魂具足し得る素質を有する立派な魂を授けられているにもかかわらず、この魂の授け祖(おや)たる氏神を信仰しないで、他の非日本民族的な信仰に走っているために、自分の魂を磨くすべもないばかりでなく、生得の魂はだんだん汚れてくるのです。

 そのために、四魂不具足を繰り返えしてみずから不幸を招くのみでして、そんなことでは魂の授け祖(おや)であられる氏神や氏神の総代表にまします八意思兼大神さまに対しまつり申しわけないかぎりです。

 氏神はもとより四魂を完全に円満具足された真神霊でありますから、氏子は氏神に絶対の信仰を捧げて四魂具足にいそしみはげむことによって、ここに神さまのみこころに叶って神人感合という素晴らしい真の奇魂のはたらきがあらわれ、祖霊の守護のもとに仕合せな日常が送れるようになるのです。惟神会員として大神さまの大御神業に翼賛(よくさん)(力を添えて助ける)申し上げるためには、神人感合のもとに行なうということが、それこそ絶対的に必要となってくるのです。

 神のみいつのまにまにということは、四魂具足する、或いは四魂具足にいそしみはげむことによって、もたらされる直接の神人感合という奇魂のはたらきのまにまにということです。

ですから四魂具足ということは神さまの至上命令であり、さればこそ『非義(四魂不具足)の願いは神の一顧も得べからず』というきびしい御神示があるのです。

 なるほど四魂具足ということは、よそめにはむずかしいことかもしれません。しかしながら神さまは、人間に不可能なことを強いるはずはないのです。

ただ人間が氏神を信仰せずして四魂不具足の世界に住み、或いは氏神を信仰していても自分の魂がけがれてきよめられていないために、四魂具足ということがいかにも重荷に感じられるまでのことです。

 祓とは、自分の罪けがれを祓い清めて、四魂具足しやすいようにすることです。

 かつても申し上げましたが、フランスの有名な哲学者のベルグソンは、「道徳には憧憬(どうけい)(あこがれ)威圧(いあつ)(押さえつける)の二面がある。威圧というのは仕方なくそれに服従しても、できることならそれから避けたい、逃れたいという気持ちである。ところが(あこが)れというのは、こちらから、そちらの方へ結び付きたい、引き付けられるような気持ちになることである」といっております。

 この威圧と憧れは道徳の正反対の立場をとるものですが、結局、この両者は異なるものでなく一致するものだということです。

 この論理から申せば四魂具足ということは最初は氏子に一種の威圧感を与えるようでありましょうが、この威圧にめげず進んで四魂具足にはげめば、そこに直接の神人感合が成るのです。

さらにみたまのふゆを頂けるようになりますので、進んで四魂具足することに憧れを持つようになるのです。

 ですから、威圧の四魂具足は憧れの四魂具足にまで昇華(しょうか)(さらに高度の状態にのぼる)しなければならないのです。

 国学四大人の一人の本居宣長(平田先生は御自身で本居先生没後の門人といわれる)は、道とは神代の昔から天照大御神の依さし給える日本独特固有の道であって、いや次ぎ次ぎに伝うべきものであり、いささかも(から)よう(シナの儒教)のものではないと、直毘霊(なおびのみたま)のなかで喝破(かっぱ)(邪説を排し真理を解き明かす)してますが、天照大御神の依さし給える道とは、即ち四魂具足そのものの道です。

 第三十六代孝徳天皇紀には、「惟神とは、神の道に(したが)ひて亦自ら神の道有るを()ふなり」とありますが、神の道とは天照大御神の依さし給える四魂具足の道にほかならないのです。

 惟神の道とは四魂具足の道であることは、本会創立の当初から、畏くも八意思兼大神さまの御神示し給うところです。したがって惟神会とは、四魂具足の惟神の道のうえに立って、敬神は崇祖にありという御神示のもとに、真の氏神信仰を世に弘め、日本の国を惟神の道一色にせんとする神人一体の団体です。

したがいまして、四魂具足ということはわれわれ日本人の大祖神と仰ぎまつる天照大御神の依さし給える道ですから、惟神会員はもとより日本人のすべてが満ち充たし()(道徳を実際に)行なうべき絶対の道であるのみならず、世界万国の人たちにとっても絶対善の道です。

ですから、われわれ氏子たるものは、なんとしてもこの四魂具足を(ぎょう)ずる(修行する)ことを先決問題としなければならず、それでこそ敬神崇祖の氏神信仰は完全なものとなって、氏神や祖霊の御守護を蒙ることができるのです。

 前掲ベルグソンの言ではありませんが、最初は威圧感をもってわれわれに臨んでいるかに見える四魂具足ということに対して、むしろ一種の憧れを抱いて、すなわちつねに四魂具足でありたいという憧れのもとに、心に四魂を具足して、平田先生の御訓示に拝するように、いつも四魂具足ということが脳裡から離れないように努力すべきです。

 換言すれば、四魂具足ということが一つの完全意識(かんぜんいしき)(信念)となって自分の行ないの上にあらわれるようにならなければならないのです。

 四魂具足ということは、御神示によれば神代の昔から厳然(げんぜん)とあったのですが、その後渡来した儒教や仏教の手によって湮滅(いんめつ)(跡形もなく消える)されたため、世は挙げて儒仏の思想一色に染まっているのであります。この神代からなる日本民族固有の絶対善の道たる四魂具足を現状において満ち充たし()み行なうことは、あたかも狂瀾を既倒(きとう)に廻らす(起死回生-どうしようもないほど傾いた形勢をもとの状態に回復する)の困難があるかもしれませんが、進んで四魂具足につとめることは神さまの至上(しじょう)命令(めいれい)(このうえもない最高の命令)です。なお直接の神人感合のもとに偉大な御稜威を頂く唯一の在り方であり方法ですから、氏子たる以上は何んとしても四魂具足にいそしみはげまなければならないのです。

 また前言したように大神さまの国教確立という大御神業達成をめざして、この氏神信仰を国内(くぬち)にあまねく弘めるためには、各氏子が四魂を心に具足することにより、直接の神人感合を得て、すなわち天線というみいつの線に守護されたなかで、何ものにも妨げられず心を安んじて国教宣伝一本に打ち込む必要があるのです。

 もともと真の信仰というものは、人をあやまらせないように、正しい信仰態度というものを万人に教えて、一つの信仰の対象、信仰すべきものをあたえて、これを信仰しておれば、人間の生活をあやまらせないぞというものです。これに該当するものは、ひとり四魂具足という絶対善のうえに立つ敬神崇祖の氏神信仰あるのみです。しかしながら四魂具足といったところで、大なる四魂具足もあればまた小なる四魂具足もあることは、かつて岸先生もいわれたとおりであります。四魂具足するにはいたずらに高望みせず、小なる四魂具足から始めた方がやりやすいと思うのです。

いわゆる四魂具足を心がけることによって、小は小なりに、直接の神人感合を得て、みたまのふゆを蒙り、神の実在を確信することができるのです。

 換言すれば手近のところから四魂具足に心がけ実行して頂きたいと思うのです。

 筆者は学生時代に、先生から数学の試験問題を解く場合には、まずやさしい問題から手をつけ、しかる後難問に取り組めと教えられて、たいへん参考となったことをいまだに忘れません。

 「高きに登るは低きよりす」ということばがあります。すなわち高い所に登るには低い所から始める、物事を行なうには順序というものがある、という意でして、四魂具足するにも、いきなり高く大きなことから始めず、まず、手近な低い所から四魂具足に努力したらよいと思うのです。もちろん小さな四魂具足であっても、四魂具足するからには全身全霊を傾むべきは当然のことです。

 百獣の王といわれる獅子は小さな兎を獲るにも全力を使うといわれてますように、どんなに小さな四魂具足であっても、全力全霊を傾けて行なうべきは当然のことです。

 また「大功(たいこう)細瑾(さいきん)を顧(をかえりみ)ず」といって、大いなるいさをしを立てるためには、小さなあやまちはかえりみないなどと大言壮語(たいげんそうご)する向きもあるようですが、小さなことのできない人に大きなことができるわけはないと思うのです。

 同様に、手近の小さな四魂具足のできない人に、大きな四魂具足ができるわけはないのです。

 人生に飛躍(ひやく)なし、その日その日の積み重ねあるのみ、ともいわれてますが、小さな手近の四魂具足の積み重ねが、大きな四魂具足となるのです。

 極小は無ではないように、どんなに小さな四魂具足であっても四魂具足の本質に変りなく、その程度に応じて神に通じるものがあることを忘れてはなりません。

 一に一を足せば二になるということは、ことばのうえでは誰でも知っていることですが、大切なことは一に一を足して二にするという努力をしなければ意味ないのです。これと同様に四魂具足すべきことは、よくわかっているのですが、実際に四魂具足の行為をしなければ有言不実行で意味ないことです。

それには、手近の小さな四魂具足から始めて、大きな四魂具足に到達すべきです。前掲の「大功は細瑾を顧ず」ではありませんが、大事を行なうためには小事に心をわずらわしたくないという向きがあるならば、その人は、おそらく大事にも心を労さない人でしょう。

 大きな四魂具足をするからとて、小さな手近な四魂具足をおろそかにする人は、必らずや大きな四魂具足もできないでしょう。

 岸先生は『国教』昭和九年七月号において次のようにいっておられます。

 『人は神の実在を認識することによって、はじめて真の信仰に入り得るのである。この神の認識ということは、信仰の程度に応じて得られるものであり、大いに信仰する人がその目的過大なるために神を認められぬ人がある。

すでにしばしば申し上げたように、四魂具足の祈願でも、祈願の大きさと信仰とは並行せねばならぬものであるから、大なる祈願をする場合は信仰がそれに一致する事を努めねばならぬのである。

 故に祈願の目的は

最初は四魂具足の小さなる目的をもってすることが、最も必要である( )(傍点は筆者付す)

 この岸先生のおことばの意味は、結局、四魂具足するには、手近の小さなことからはじめよということであろうと思うのです。

生活即信仰、信仰即生活といわれてますが、一言にして申せば、果して四魂具足の生活をしているか否かということです。

すなわち、絶対の氏神に絶対の信仰を捧げて、他をかえりみないという奇魂のはたらきが完全に発輝されているか、口先きだけの御神恩感謝でなく、現実に分に応じて御神恩感謝のご報賽をして、「会の経営は神がする」という御神示に忠実であるという荒魂の発露に抜かりはないか(何がいちばん大きな社会奉仕といっても、大神さまの国教確立という大御神業に翼賛申し上げる以上の社会奉仕はあり得ない)

 また氏神信仰の新しい同志の獲得に心魂をくだいて実行しているか。新会員の造成は、荒魂の発露を意味し、それは御神恩感得のあらわれにほかならない。

 一家はもとより、他人ともなごやかにするという和魂に欠けるところはないか。

 生業(なりわい)(生活を立てるための仕事)に我慾一点張りでなく、自分の生業を通じて国利民福に役立つ心がまえが確立されているか、すなわち真の幸魂に徹して生業をいとなんでいるか。約言すれば果して四魂の信条に叶った生活をしているか否かということです。

 しかもこれらの奇荒和幸の四魂は、大は大なりに、また小は小なりにそれぞれ過不足なく平均して発揮されているか否かということが大切です。

 故古川前委員長先生は、四魂具足の行ない方について次のように述べておられます。

 『四魂具足は民族的自覚にめざめれば、即ち先祖を祭り、氏之祖ノ神を祀り、心から信仰を捧げるならば、きわめて平々坦々の日常生活の中に実行できるのである。

 即ちその時その時において、昨日を反省(・・)しつつ、四魂具足であると考えたことを実行すればよいのである。そこで四魂具足はだんだん拡大されて行く。だんだん軌道に乗って行く。

 たとえ今日から見て昨日の心持は悪るかったと気付くことがあっても、昨日の行動は矢張り善であったのである。その時においては絶対であったのである。その時にはこれ以上のことは如何に望んでも不可能であった。

 ただ昨日を反省して今日を改めるということは、昨日の行為を悪とするのではなく、今日は一歩進んだ心境で善を行なわんとするのである。                     

 かくして人格は向上して行く。

 このような過程にある人は如何なる難問題でも立ちどころに処断を下し得るのである。それは心に四魂具足即ち真心が確立しているからである。

 この道こそ今日人類の最も渇望(かつぼう)(しきりに望む)しているものである。これを我々は太古から持っておったことに今漸く気付いたのである』国教』昭和十四年九月号)

 また小さな一株の苗も、ちょうど自分の子供を育てるようなつもりで育てて、はじめて沢山の実を結ぶようになるのですから、衣食住はもとより立ち居振舞(たちいふるまい)(日常の動作)にいたるまで、(こまか)いところはどうでもよいというような投げやり的な生活態度をとってはなりません。

 つまり人間の生活には心の働きと、行ないにあらわれる働きと二通りの働きがあるわけです。

前述のように心が行ないとなってあらわれるのですから、どんなに小さな行ないでも、それは心に四魂を具足した場合の行ないが、いわゆる心一致という四魂具足のまごころの発露となって、神のみこころに叶うところとなるのです。

ですから四魂具足に心がけるからには、()く手近かな小さなことから、四魂に叶うような行ないをすることが肝要です。

 もちろん前掲古川先生のおことばにあるように、あとで果して自分の行ないは四魂に叶った行ないであったか否かを、四魂具足という物指しで反省することを忘れてはなりません。

 反省しない人は論外でありますが、要は反省の仕方です。必らず四魂具足という物指しによって反省しなければならないのです。

 現代のようなきびしい現実において、四魂具足などは迂遠(うえん)(遠回り)だとしりぞけられるかもしれませんが、そうした迂遠な人たちが一人でも多くなれば、それだけ世の中は神に近づき、よくなっていくのです。まさに「極小(きょくしょう)()ではない」のです。

ですから再言しますが、四魂具足を心がけるからには、きわめて手近な、小さなことから始める必要があるのです。

 まことに自分をほんとうに知ることができるものは、自分だけです。反対に自分を最も知らないものもまた自分です。

この自分に関する相反したものを解決する道は、ただ一つしかないのです。

 それはよそ目には困難かもしれませんが、謙虚に素直に、そして理屈をいわずに自分をよく見つめて、反省することであります。その反省の仕方は、四魂具足という絶対善の物指しによらなければならないことは、前言のとおりです。

 小さな四魂具足のできない人には、もちろん大きな四魂具足ができるはずはないのです。それにはくどいようですが、極く手近なところから四魂具足を行なって頂きたいのです。

 自分のことを申し上げて甚だ恐縮ですが、何かの本で武者小路実篤氏(現存八十六才、人道主義をかかげる著名な老大作家)の話しを読んだことがあります。

 それによりますと、同氏は或る朝、東京武蔵野郊外の玉川上水の桜並木を果物を食べながら散歩中、果物の食べ残りを捨てようとしたのですが、並本道はきれいに掃除されてあるのでそこに捨てるわけにもゆかず、とうとう持っていたステッキで桜の木の根元に穴を掘ってそこに埋めて処理したということです。

 この話しを読んで、筆者は心にきめて紙くず類などを手当り次第にどこにも捨てず、もし捨てる場所がないときは適当な捨てる場所まで持ち運んで処理することを心に誓って、それからというものいまもなお実行してます。

 まことに些細(ささい)なことですが、こうしたところにも四魂具足のまごころの手近な実行面があると思うのです。

 渋谷駅から本会本部に行くまでに、長い歩道橋がありますが、その歩道橋の上は、マッチ棒、タバコの吸いがら、紙くずなどで、みにくく汚れており、いつも専属の係員が清掃しているのを見かけます。公衆道徳の点から見てまことにお恥ずかしいかぎりです。

 日本人は、すべて祖神氏神から四魂具足し得る立派な素質を有する魂を授けられているにも拘わらず、なぜこのように公衆道徳に反した行ないを敢えてするかということについて、岸先生は、多くの日本人は四魂具足の氏神信仰をせず、動物霊信仰をしているために、第三霊として動物霊をもっているからであると、いうようなことをいっておられます。

 ですから、四魂具足を行うべき氏神信仰にあるからには、つねに心に四魂を具足するように心がけて、どんなに些細なことであっても、それが行ないのうえにあらわれるようにつとむべきは当然のことです。

それでこそ直接の神人感合のもとに、みたまのふゆを蒙る事ができて、安心立命のもとに、いよいよますます大神さまの大御神業に翼賛申し上げんとする利心(とごころ)(しっかりした心)が湧いてくるのです。

 したがいまして、はじめから大きな四魂具足をめざさず、ごく手近なところから四魂具足を心がけ、それによる信仰の向上とともにだんだん大きな四魂具足に及ぶべきと思うのです。

 小さな四魂具足であっても、四魂具足の本質にはかわりないのですから、そこに直接の神人感合を得てみたまのふゆを蒙り、神の実在を認識することができるのです。

 生地(きじ)は磨けば磨くほど光りますが、鍍金(めっき)は磨けば磨くほどはげるのです。

 神さまは万事見とおしですから、鍍金の四魂具足、偽装(ぎそう)(人目を欺く)の四魂具足では、いささかも神さまに通じる由もないばかりか、自分の人格を低下させて、信仰の向上など望むべくもないと思うのです。

 「平凡の道を非凡に歩め」ということばがありますが、四魂具足は氏神信仰においては平凡(へいぼん)(あたりまえ)の道です。このあたりまえの道の四魂具足を非凡(ひぼん)(あたりまえでない)に行なうためには、まず手近なところからはじめる要があるとともに、つねにかえりみて四魂具足であったか否かを、反省することを忘れてはならないのです。

 神に二言なし、四魂具足すれば必らず直接の神人感合が得られ、神さまのみたまのふゆを蒙って幸せとなり、この幸せを土台として、大いに御神業のお役に立つことができるのです。

 本文冒頭に申しあげたように、「高きに登るは低きよりす」です。どうかみなさん、ごく手近なところから四魂具足にいそしみはげんで、それから大きな四魂具足に進んで頂きたいのです。

 もちろんくどいようですが、どんなに小さな四魂具足の行ないであっても、四魂具足と信じて行なったのですから、素直に反省することを忘れてはならないのです。

(昭和四十六年六月二十日 八意思兼大神月次祭における講演要旨)

                                       以 上

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