氏神信仰の或る勧め方  【43年4月号】  P11

 

惟神会委員長 川    俣       

 

 われわれは氏子としては、四魂具足にいそしみはげむと同時に、惟神会員としては八意思兼大神さまの大御神業に翼賛申し上げなければならないのです。

 およそ大神さまの大御神業くらいこの世に大きな事業はないのです。この御神業について岸先生は次のように説明されてます。

@ 崇神天皇(第十代)以来何人(なにびと)にもできなかった、わが国神祇(じんぎ)(天神と地祇―天つ神と国つ神)の立て替えをせられたこと

A 民族魂の由来を明らかにせられ、民族のあるところ必らず祖神あり、崇祖をもって敬神の大本として、世界の平和を招致せられんとする

B    これがために、まずわが大和民族魂を革正(かくせい)(改正)して、国民精神の作興をはかられる大神さまは、本会をばこれより大きな事業はないとせられて、わが国を立て直し、国民を救う道は、真の敬神崇祖の氏神信仰に基づく四魂具足の道よりほかはないとして、われわれに氏神奉斎の神事を教え(さと)され、御神業を御開始になられたのです。

したがって荒魂という社会奉仕は、本会の事業翼賛以上のものは何ものもないのです。

御神業恢弘(かいこう)(押し広める)のために、事ごとにまごころこめて御神恩感謝のまことをいたさなければならない理由は、実にここのところにあるのです。

 神に二言なし「会の経営は神がする」という御神示に副いまつることを忘れてはならないのです。

 ですからわれわれ惟神会員は、荒魂を発露させて御神恩感謝のまことをいたすと同時に、大神さまが本会にお出ましになられた大みこころに応えまつるために、できるだけ大神さまの御活動に翼賛申し上げなければならないのです。

「大神ひとりでは何もできない。手足が必要である」と仰せられて、その手足として氏神をお示しになられました大神さまの大みこころを恐懼(きょうく)(大変恐れ多く)拝察申し上げて、御神業のために献身努力しなければならないのです。

ですから、われわれ惟神会員は、日本国民のすべてを日本民族固有の氏神信仰という祖神信仰民族信仰に導き入れて、民族的自覚を促すとともに、日常生后のなかに氏神のみいつを蒙らせて、物心ともに充ち足りた四魂具足的安心立命の生き方を確立させなければならないのです。

ことに大神さまを新しい御神殿(みあらか)にお遷し鎮め給うた現在においては、御神業の拡大強化はまことに緊急切迫の感しきりなるものがあるのです。

 申すまでもなく、氏神信仰に入れば、信仰の中心と国家の中心とが一本の軸の上に合致しますので、日本民族としての自覚と誇りとが理論のうえからも、また体験からも如実に感得されますと同時に、他方では、大神さまの大みいつ、氏神の守護、祖霊のはたらきによって、邪霊信仰のようにいささかもお釣りを取られることなく、まことにすっきりした御神助がいただけて、物心ともにそなわり安心立命の生活が送れるのです。

 ですから会員の方々にはそれぞれの行き方で、新しい氏子さんを得るために、教勢拡張にご熱心にご努力なさっておられることと拝察するのですが、ここに氏神信仰の勧め方の一つの事例として、

N氏の行き方を取り上げてご参考に供したいと思うのです。

 N氏はこれから申し上げる勧誘の行き方で、たくさんの新しい氏子さんを得られて、御神業につくされ、いまもなお折角努力中です。

 N氏が未入会者に氏神信仰を勧める方法は、次の三項目に絞られているのです。

すなわち

 @ 伝家の宝刀(でんかのほうとう)

 A 羽化登仙 (うかとうせん)

 B 打出の小槌(うちでのこづち)

です。

 以下順を追ってご説明申し上げたいと存じます。

@ 伝 家 の 宝 刀

 伝家の宝刀ということは、文字どおり解釈すれば、その家に宝として伝わっている家重代の名刀の意でして、素晴らしい威力はあるが、秘めておいてみだりに使用してはならないものの例えです。

 これを氏神信仰に置き換えて端的に申せば、伝家の宝刀とは、祓ということです。祓は日本神道に欠くことのできないものですが、本会の祓は真神霊のみいつをいただいて行なうのですから、この意味において、本会の祓は素晴らしい威力を秘めている本会独特のものです。

すなわち懺悔の祓においては、八意思兼大神さまの大みいつを蒙り、また清祓においては、氏神のみいつをいただいて行なうのですから、その効果の顕著なことは、多くの体験の示すとおりです。

 懺悔の祓は、入信以前に邪神邪霊と因縁を結んだことを反省懺悔お詫びして、その罪けがれを祓い清めて、邪神邪霊たちの退去を乞う祓です。換言すれば、大神さまや氏神に対する氏神信仰の誓いです。誓いなきところに真の信仰は成り立たないのです。さらにまた懺悔の祓は、絶対の氏神に絶対の信仰を確立するために不可欠の条件です。

 清祓は、入信後ゆくりなくも過ち犯した罪けがれを反省懺悔お詫びして、その罪けがれを祓い清めて、邪神邪霊の退散を促す祓であって、かくて禍事も解消して身心ともに清々しくなるのです。

 人間は生理学的には細胞の組織体でありますが、一面また霊的組織体です。

すなわち第一霊(体霊…両親から授かる)、第二霊(本霊または意識霊…祖神氏神から授かる)、第三霊(外界から人間に感応憑依する経験霊)から成る組織体が人間の霊的存在です。

 第一霊は細胞のはたらきを司る一種のエネルギーです。第二霊は人事の意識や概念をつくりなす主体を成すものです。第三霊は人間の意識や概念の構成に参与する外界霊であり、人間は生きている以上は好むと好まざるとに拘わらず、必らずこの第三霊を持たざるを得ないのであり、この第三霊と第二霊との感応復合によって人間の考えとか概念が生じるのです。

換言すれば、生きているということは第三霊を持っているということにほかならないのです。

したがって第三霊の正邪善悪が人間生活に至大の影響を及ぼすのです。

たとえば第一霊と第二霊とがうまく調和しておれば人間は健康ですが、第一霊と第二霊とが調和を欠いた場合は病気となるのであり、この両者の不調和をもたらすものは邪悪な第三霊の仕わざとされているのです。病気は第一霊の遺伝によるものもありますが、多くの場合、第一霊と第二霊との不調和が原因です。

また人間は第三霊という見えざる手に導かれて行動するものですから、もし邪悪な第三霊と感応復合すれば、その場合の行動は四魂不具足的となって氏神さまのみいつをいただくすべもなく、不幸や災難に見舞われざるを得ないのです。                 

 邪悪な第三霊は人間の罪けがれに感応して憑依するものですから、このような場合には、自分の第三霊は邪悪なものであると同時に自分の第二霊の不浄化なことを自覚反省して、その罪けがれを祓い清めて第二霊を磨くとともに邪悪な第三霊憑依の足がかりを除去しなければならないのです。邪悪な第三霊は人間の罪けがれを足がかりとして憑依するのです。

 世間一般の祓は、霊力の強い邪霊が霊力の弱い邪神を祓うという相対的なものですが、本会の祓は、四魂具足の真神霊のみいつをいただいて行なうものですから、絶対的なものです。

すなわち、祓戸四柱の神々に真神霊のみいつが作用しての祓ですから、いかなる邪神邪霊も、本会の祓には抗すべくもないのです。

 まことに本会の祓が伝家の宝刀といわれる所以です。しかも祓は伝家の宝刀ですから、これを濫用してはならないのです。すなわち濫用して、いわゆる祓マニアになってはならないのです。祓は信仰そのものでなく、どこまでも罪けがれを祓い清めて、禍事のもとをなす邪神邪霊の退散を促して、信仰の立て直しをはかる神与の武器であり、伝家の宝刀はむやみやたらに抜くものではありません。ひとたび抜けば、珠散る氷の(やいば)が伝家の宝刀です。本会の祓は神与の武器とでも申すべきですから、我慾にとらわれてみだりに使用してはならないのです。こうした伝家の宝刀の切れ味は名刀一閃(いっせん)素晴らしいものがありまして、これはひとり氏神信仰者だけに許された起死回生の神事です。

 すでにはやく岸先生は、「邪神邪霊といふ言葉を絶対的の意味を以て、又此の言葉を以て表はされたものが、人間社会の一切の悪業又は不正不義奇妙不思議の行動をなして居るものの本体である」(『国教』昭和五年七月号二十二頁)と喝破して邪神邪霊の悪業を警告してます。

 しかもこの恐るべき邪神邪霊にとって、人間の罪けがれは、かれらが人間に感応憑依する絶好の足がかりをなすものですから、邪神邪霊を退散させるには、まず、自分の犯した罪けがれを祓い清めて邪神邪霊憑依の足がかりを除去することによって、かれら邪神邪霊たちに退散を促さねばならないのです。

 かくて懺悔の祓・清祓(遠祓も含む)はまさに伝家の宝刀として絶対的の切れ味を示すのです。

 幸福とは不幸のない世界ですが、世間には不幸のために悩んでいる人は実に多いのです。

しかも不幸の原因は、身から出た錆とは申しながらほとんどの場合前掲岸先生の喝破されたとおり邪神邪霊の仕わざですから、不幸の 原因を剪除(せんじょ)切り除く、幸福をもたらすためには氏神信仰に入って、祓という伝家の宝刀の素晴らしい威力にたよるべきです。

A () () (とう) (せん)

 羽化登仙ということは、文字どおりに解釈すると、人間に羽が生えて仙人となって天に登るということです。仙人は支那の道教という老子の思想に描かれた理想的人物であって、人間界を離れて山中に棲み、穀食を避けて、不老・不死の法を修め、神変自在の法術を得たというものでして、いわば想像上の人物です。この意味から氏神信仰に入れば、人間は死んでも霊魂は霊界において氏神のみいつを蒙って、生前のけがれを洗い清めて浄化の一途を辿り、自由自在に活動できるということです。約言すれば羽化登仙の境地にひたれるということです。

 人が死んだ場合、肉体を離れた霊が直ちに行くことのできるところは、通常霊界の分野さえはっきりしない黄泉(よみ)の国というところです。一般に人が死んだ場合は、ここでぼんやりと約十日間くらい経過して、十日祭によって忌み明けとなり、二十日祭、三十祭を経て、四十日合祀祭によって、はじめて霊界の祖霊舎に入って代々の祖霊たちと合祀されるのです。それから家族の信仰熱心によって、氏神のみいつを頂いて浄化するにしたがって次第に自由のからだとなり、漸く祖霊として霊界に活動することができるようになるのです。祖霊が氏神の指導によって浄化されれば、神さまと同じように、一時間千里くらいの速さで自由に活動できて、氏子たちの家庭にあらゆる指導をして下さるということが、『国教』昭和五年三月号の岸先生の「祖霊奉斎後の心得に就いて」に見えております。

 真の氏神がかくろいなされてからは、人間の死後の霊を指導するものはなくなり、人間の霊は霊界でみな途方に迷うに至ったのです。仏教では人の死後、その霊を祭るような式をしますが、実際霊界に入ってからは決して仏教によって指導されていないのです。みな妖魅界において、当てどもなく妖魅とともに彷徨(さまよ)うているのです。この紊乱(ぶんらん)(乱れること)した霊界に堕落昏睡(こんすい)している人の霊を救済するには、真の氏神信仰によって、氏神の威力と恩頼(みたまのふゆ)を蒙るよりほかは手段方法としては絶対にあり得ないのです。

 まことに顕幽一貫して人間の霊を支配するものは、ひとり人間の魂の授け祖たる氏神のみです。

 申すまでもなく、人間は肉体と霊魂とから成っているのです。死によって肉体は腐敗し解体して、再び人体としての活動はできませんが、霊魂には死ということなく、したがって腐敗解体もなく、人の死によって霊魂はその肉体を離れて、独立して自己の社会すなわち霊界に入って、いわゆる霊界生活に入るのです。ですから、人の一生というものは現世生活ばかりでなく、死後の霊界生活の方がむしろ長期に亘る重要な生活です。

ところが間違った信仰にある場合は、死後浄土に行くとか、誰かが迎えにきて導いてくれるとかいうようなことを固く信じて死んだものの霊が、いざ幽界に入ってみれば、予期した出迎え人もなければまた浄土にも行けません、入りこんだ幽界なる霊界は百鬼夜行のような霊界であって、そこでは悪鬼に騙された結果ついには投げ棄てられるものもあれば、また自ら少しは求めてみても、ついには力尽きて横臥(おうが)昏睡の状態に陥ってしまうものもあるのです。或いは最悪の場合は、霊分解をすらきたして動物霊に成り下がるものもあるのです。

 もともと人間は前述のように第一霊(体霊…親から授かり細胞の働きを司る)、第二霊(意識霊…祖神氏神から授かり意識或いは概念構成の主体となる)及び第三霊(外界から第二霊に感合して意識或いは概念構成に参与する)から成っている霊的組織体です。人が死ねば第一霊は宇宙普遍のエネルギーの世界に入り(邪神邪霊が使用すればその力となり真神霊が使用すればその力となる)、第二霊は霊界生活に入り、また第三霊は因縁を求めて去っていくのです。

 第二霊は通常人間の霊魂といっているのです。祖神氏神から授けられたのですから、その授け祖の氏神を信仰することによって、第二霊は霊界において氏神の御指導御守護のもとにいよいよますます浄化するのです。他のことばで申せば、第二霊は他の祖霊たち(祖霊のみたまもひとしく氏神から授っている)とともに、天線という氏神のみいつの線に囲まれたなかで、他の邪神邪霊などにいささかも脅かされることなく、安居楽住して浄化の一途を辿って家族たちと守護することができるのです。そしていよいよ浄化を遂げて玲瓏(れいろう)(透きとおった)(たま)のような清純無垢のみたまになりますと、氏神に伴われて天照大御神の御神庭に連れていかれて、その大みいつを蒙って最後の仕上げをなし、やがて生れてくるものの第二霊として再生すべく待機しているのです。(この場合再生はもちろん祖神氏神がなされる)

 戦後は物質生活のみにとらわれて、非物質の世界すなわち霊界生活を無視して認めようともしませんが、人間は、前述のように霊的祖織体でありますから、氏神信仰に徹して死後の安居楽住再生の霊界生活を確信してその線に沿って信仰を進めていくならば、現界における人間生活もそれにつれて物心ともに充実したものになれるのです。

 換言すれば、生前において死後の羽化登仙の霊界生活を信じて氏神信仰に徹することによって、現界生活も真に安心立命のもとに充実して送れるのです。

B 打 出(うちで)小 槌(こづち)

 打出の小槌ということは、打てば何でも自分の好きなものが出てくるという小槌のことです。

 氏神信仰を目して、打出の小槌にたとえるのはあまりにもご利益一辺倒の観なきにしもあらずですが、真に氏神信仰に徹すれば、みいつは求めずしていただけるのです。すなわち打出の小槌は日常生活のいたるところに横たわっているのです。

 われわれはご利益だけで氏神信仰にいそしんでいるものではありませんが、救いなきところに信仰は成り立たないと思います。要は惟神会的に、また氏神信仰的に四魂具足的に救われて、その救いを土台として、御神業にいそしみはげまなければならないのです。しばしば申し上げてますように、御神徳は御神徳のための御神徳でなく、御神業のための御神徳でなければならないのです。

 氏神は魂の祖、祖霊は肉体の親です。魂と肉体との相違はありましても、氏神と氏子、祖霊と家族との関係は、利害を超越したオヤとコという本能的なものでさえあるのです。

もちろん氏神は真神霊として神界の神掟に従われているのですから、氏子の四魂不具足の願いに対しては一顧もせられずというきびしい御存在ですが、氏子が氏神を放すことなく、稜威信じて疑わず、ひたすらに氏神に縋りついておれば(もちろん四魂具足というまごころを忘れてはならない)いつの日か、いつの時か、必らず氏神は氏子を救って下さるのです。その救いの方法は時に応じ変に臨んで千差万別ですが、その救いは、邪神邪霊のご利益のようにお釣りを取られるようなことなく、スッキリした四魂具足的な救いです。必要な時に必要なものを、また必要な時間を、さらにまた必要な人間をすら下さるのが氏神のみいつです。

ところが人間は我慾が強いために、必要でないときに必要でないものを求めようとします。

その我慾に対し邪神邪霊が感合して人間生活を損うこととなるのです。

 氏神は魂の祖ですから、魂の子たる氏子に対して悪くはからうはずはないのですが、人間は前述のようにとかく我慾にとらわれて折角の氏神のみいつを取り落してしまうのです。

 恩頼(みたまのふゆ)ということばがあります。その意は神の御守護、神の御稜威ということで、「ふゆ」は殖えることです。自分の魂を清らかなものにして神さまに捧げるならば、神さまはその捧げられた魂に、さらに神さま御自身のみたまを付け加えて、すなわち捧げられた魂に神さまのみたまが加わって、威力の増大した魂となって魂を捧げたものにかえってくるから、そこに神さまの偉大な御守護・御稜威がいただけるようになるのです。氏神信仰において恩頼を蒙るということはまさにこのようなことを申し上げているのです。氏神はみいつに成りませるみいつの神ですから、氏子の捧げた魂に、いかほどたくさんの氏神の威力あるみたまを付け加えて、そこにみたまのふゆということが成り立ちましても、氏神のみいつの源泉はいささかも減じることはないのです。ここにみいつに成りませるみいつの神としての氏神の特質があるのです。この意味において、氏神は甚だ恐れ多いことですがまさに打出の小槌です。

 以上申し上げましたように、氏神信仰に入れば、祓という伝家の宝刀によって、不幸や災難の原因をなしている邪神邪霊との関係を断ち切って幸福になることができます。と同時に、羽化登仙といって死後の霊界生活の安居楽住が保証されるばかりでなく、打出の小槌によって後くされのないすっきりしたみいつをふんだんにいただくことができるのです。

 N氏はこうした行き方で氏神信仰の勧誘に努力されて、それ相当の実績を上げておられるのです。もちろん氏神信仰は、日本人ならば誰でも当然実践すべき民族信仰・祖神信仰です。

氏神信仰を勧めるからにはこの点を強調して、民族的自覚を促すことは当然ですが、伝家の宝刀・羽化登仙・打出の小槌というひとり氏神信仰によってのみ達成され得る人間生活の幸福の在り方を説示する要があると思うのです。新館落成、いよいよ教勢拡張の大進軍の巨歩を進めるに当り、N氏の行き方をご参考までに申し上げた次第です。

                      (昭和四十三年三月十日 八意思兼大神月次祭における講演要旨)

以 上

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