氏神奉斎の根本義 【38年1月号】 P13
惟神会委員長 川 俣 均
は し が き
本会で申し上げている氏神とは、およそ次のような特質と条件を具えられた神さまです。
第一、氏神はニニギノ命第一世の御子神である。
ニニギノ命家【系】は、天孫降臨当時の初代のニニギノ命とその御子神火照命、その御子神火須勢理命、その御子神火遠理命と四代あるが、本会の氏神は、初代のニニギノ命の御子神たちである。
第二、氏神は、八意思兼大神さまの神はかりによって、その数は一六八柱に神定されている。
第三、氏神は、全国各地にそれぞれ御領域をもっている。
第四、氏神は奇荒和幸の四魂を円満具足された真神霊である。
第五、氏神は、大和民族同化の親神である。人間の出生と同時に、魂(本霊または意識霊、或いは第二霊とも呼ぶ)を授けてくれる。この本霊は、氏神を信仰することによっていつでも四魂具足し得る素質をもっている。
第六、氏神は、幽人間が死亡すればその魂を霊界に引取って祖霊としての浄化を助けて下さる。
氏神は顕幽一貫して人間の魂を支配する神である。
第七、氏神は、民族の大祖神天照大御神の御経綸を地上に実現すべき唯一の大使命を帯びられる第一線の神である。
天照大御神は、この世を四魂具足の神則に基づいて治めるために、天孫ニニギノ命を、この世に
遣わされた。初代ニニギノ命は、その御子神たちをして、当時の先住民族を天照大御神系の天孫大和民族にまで同化するために、いわゆる民族同化の作業に当らしめられた。
第八、氏神は、政治の神、知恵の神にまします八意思兼大神の御統卒のもとに、民族同化に当られている。大神さまは、かっては伊勢皇大神宮の相殿の神として、天照大御神の御付託きわめて厚い神さまであった。
第九、氏神は、八意思兼大神の大みいつを離れては、その威力を十分に発揮できない。
第十、氏神は、祖霊のはたらきを可能ならしめるために、祖霊に活動力を与える神である。
氏神は、大体以上のような特質、条件を具えられた神であります。
ですから、一口に氏神といっても、いわゆる鎮守の森の氏神でもなければ、また.屋敷内の氏神と称する神でもないのでして、真の氏神は、直接、八意思兼大神に感合されて、四魂具足のまにまに、はたらかれる真神霊です。
日?本?民?族?と?氏?神
民族が異なるということは、言語、風俗、習慣等を異にしているからですが、根本は、祖神を異にしているからです。各民族の魂は、表現の形式や内容、はたらきにおいては、多少共通するものがあるかもしれませんが、その魂の根本的在り方においては、各民族独特固有なものをもっているのです。
ということは、各民族とも、それぞれ異った祖神によって異った魂を入れられているからです。
われわれ日本人は、氏神によって、四魂具足し得る素質を有する魂を入れられているのです。四魂具足すれば、なぜ、幸福になれるかということは、四魂具足することによって氏神との感合がいちだんと緊密となり、従って氏神のみいつがいっそう伊照り輝く(威光が増す)から、われわれに災害をもたらしている邪神邪霊との感合が断ち切られ、取越し苦労のない物心共に安心立命の毎日が送られるからです。
過去を苦悩し将来を杞憂(取り越し苦労)して毎日を送るくらい不健康であり不幸はないのです。
文明病と称する現代の病患は、こうした苦悩や杞憂から生じる心の重圧とゆがみ(歪み)に起因しているのです。さらに申せば、現代の混濁した世相の根本原因は、民族の祖神を見失って魂のよりどころがつかめないからです。
民族のあるところ、かならず祖神があるのです。
世界中で、いちばん祖神がハッキリしているのは、わが日本民族だけです。
古来、日本民族には氏神という絶対の祖神が厳然とそれぞれの御領域内に鎮まりまして民族同化、民族守護に当っておられたのです。
ところが邪神はしらず、四魂具足の真神霊の氏神は、氏神の方から人間に足を運ぶことはまずないものと考えるべきです。
『神は近づかず近づくべし』であります。
また『貞永式目』(約八百年前、時の執権北条泰時が制定した武家の法典)の第一条に
『神は人の敬うによって威を増す』とあるように、真の神は人間の方から足を運んで近づくようにしなければ、恩頼を下さらないのです。恩頼とは、つねに申し上げているように清浄なじぶんの魂を神に捧げるならば、その捧げた魂に神の威力が加わり、威力の増大された魂となって、自分に再び還ってくることです。
昔から『報本反始』という語があります。これは支那の『礼記』という書物の中にあることばでありますが、その意味は、『本に報い始にかえる』ということであります。
ここにいう本に報いるとは、先祖の恩を感謝して報いることです。
この先祖を、先祖のまた先祖というぐあいに、だんだんさかのぼっていくと、最後の究極においては、先祖をして先祖としてあらしめた、すなわち先祖を日本民族としてあらしめたところの祖神たる氏神にまで到達せざるを得ないのです。先祖の恩を感謝して報いる心は、すなわち崇祖となるのです。
ですから、崇祖のきわまるところは、民族の祖神にまします氏神を敬い信仰することになるのです。
敬神は崇祖に在りという氏神信仰の鉄則は、この報本反始のことばからも、容易に理解されるのです。
また天孫降臨の御神勅に「此の鏡は専ら我が御魂として、吾が前を拝くが如、伊都岐奉れ」とありますのは、敬神は崇祖にありという真の敬神崇祖の
かむながら
の信仰を教えておられるのです。
天照大御神は、皇孫命にとりましては、大祖神であられると同時に、大先祖であられるのです。
ですから、皇孫命が御神授の御鏡を大御神の御魂として斎き祀ることは、敬神であると同時に崇祖であります。
ここに、敬神は崇祖にありという日本民族固有の民族信仰の在り方が厳然と確立されているのです。敬神と崇祖とは不可分のものであることを忘れてはなりません。
敬神と崇祖との関係は、このように強い絆によって固く結ばれているのです。祖神たる氏神にあらざる他の神を信仰しましても、絶対に真の崇祖とは成りえないのです。
日本民族は、日本民族本来固有の祖神信仰をすることによって、日本民族としての真の幸福が得られるのです。日本人は、日本人らしい幸福の在り方を考えねばなりません。
日本人でありながら、他民族的幸福を求めたところで、それは大地に足のつかない付焼刃(急に覚える)的幸福でありますから、いつの日か、砂上の楼閣となって不幸を味わうことになるのです。
日本人は、日本人らしい幸福を求めることが大切です。精神的にも物質的にも肉体的にも、日本民族固有のニュアンスがあるはずです。
外国で発達した思想、哲学、宗教も結構ではありますが、ただそれだけでは、日本民族は真に幸福にはなれないのです。過去に苦悩せず将来を杞憂しない真の安心立命による幸福だけが、けわしい現実に処する真の幸福でありまして、それには民族の祖神たる氏神を信仰して、神授の魂をば氏神のみいつの
息吹きにかけて磨き光り輝かし、四魂具足の真澄みの魂としなければならないのです。
崇?祖?と?氏?神?信?仰
われわれが先祖を祭るのは、およそ、次の三つの理由からです。
第一、われわれが今日あるのは、先祖のおかげとして、その恩を感謝する。
第二、その家が二代や三代で絶えることなく、いついつまでも天地と共に続いてもらいたいという願望から先祖を祭る。肉体の死は、やがて祖霊の再生によってよみがえる。
第三、先祖がその家の守りの祖霊として、夜となく昼となく家族たちを指導し守護してもらうために先祖を祭る。
第一の先祖の恩を感謝することは、すなわち前項に述べた報本反始の在り方であって、祖神たる氏神
を奉斎しなければ、感謝の念は先祖に通じないのです。
第二の家の永続性を望むためには、氏神信仰によらなければならないのです。
ということは、人のこの世における死は、かの霊界における生であります。すなわち人間の魂は、肉体の死後すべて霊界に入り、そして霊界に生れてゆくのです。霊界に入った後は、浄化されて再び人間の霊魂となって再生するのです。この霊の再生を司どる神は、氏神すなわち祖の神のみです。
ですから、氏神信仰以外の邪神信仰に入っておれば、死後の霊魂は、浄化はもちろん再生の機会すらも得られないようになるのです。われわれは、家族の邪神信仰のために、死後の霊魂が妖魅(怪しげで魂を奪う)の霊界においてさまよい如何に悲惨な状況のもとに呻吟(苦しみうめいている)しているかを注目しなければなりません。
まことに家の永続性は、死後の霊魂の再生によって実現されますので、その再生を司どる神が、氏神であるのです。
約言すれば、顕幽一貫の氏神信仰だけが、家の永続性を保証してくれるのです。第三の先祖がその家の守護霊であるということが祖先祭祀の最大眼目です。
先祖が守護霊としてはたらくためには、まず祖霊が自由に活動できる状態にあらねばなりません。
この状態がすなわち祖霊の浄化の状態です。浄化するためには、なんとしましても氏神のみいつを蒙らなければならないのです。
ということは、氏神は現界においても霊界においても人間の霊魂を支配するただ一つの神であるからです。すなわち人間が生れれば、氏神によって魂が入れられ、また人間が死亡すれば、出生の時に入れられたその魂は氏神によって霊界に引取られるからです。
しかも祖霊の浄化の程度は、氏神信仰に比例するものです。先祖がその家の守護霊であるためには、家族は氏神信仰をますます高めることが必要です。
家庭におけるさまざまの災害は、家族が邪神信仰に迷って、正しい祖先祭祀の道を誤ったことに起因していると申しても、過言ではないのです。邪神は一時は御利益をくれますが、後でかならずお釣りをとるのであり、これが邪神信仰の恐ろしいところです。
本会におきまして、八意思兼大神さまの御神示により、先きに氏神奉斎を行い、次に祖霊奉斎を行なうのは、まず、最初に遠津祖の神氏神を祀り、次に人間にいちばん近い直接の祖先の霊たちを後に祭るという、真神霊と人霊との秩序とけじめをハッキリさせんがためと拝察されるのです。
真神霊はどこまでも真神霊であって、人霊とはその根本において素質を異にしているのです。
以上申し上げましたように、真の崇祖は、氏神信仰によって、はじめて完成されるのです。諸悪の根元は、正しい祖先祭祀の道を誤っていることに起因しているのです。
氏神奉斎の根本義
前二項において申し述べたように、われわれ日本人が祖の神として氏神を奉斎することは、当然のことです。
また日本人にとっていちばん大切な崇祖ということを完成するためには、氏神奉斎が絶対的条件となっていることも前述のとおりです。
このようにわれわれは民族信仰である敬神崇祖の氏神信仰にいそしむと同時に、氏神信仰における不可欠の条件であるところの四魂具足につとめるならば、物心ともに安心立命した生活が展開されてくるのです。
神に二言なし、われわれは稜威信じて疑わずという固い信念をもって、自からこの信仰を高めるために努力しなければならないのです。
もともと宗教というからには救いというものがなければなりません。われわれは、氏神奉斎によって、四魂具足的にまた惟神会的に救われるようになるのが、この信仰の常道です。氏神を奉斎して、敬神崇祖・四魂具足の氏神信仰にいそしむならば、かならず救われるのです。
畏くも八意思兼大神さまが、大みはかりをもって氏神を奉斎すべきことをお示しになられましたのは、四魂具足の真神霊を世にお出し申し上げて、三魂以下の邪神たちによって混迷の巷にうごめいている現代の病患を排除して、四魂具足の道をもって、世の立替えをなされんとする思召しと拝されるのです。
換言すれば、天照大御神の大経綸・大理想をこの地上に顕現せんとする大御神業達成のための氏神
奉斎であります。
氏神は絶対の神でありますから、これに絶対の信仰を捧げるならば、ここに氏神のみいつは伊照り輝き、もろもろの災害の根元たる邪神邪霊も退散するようになって、精神的にも物質的にもまた肉体的にもその人相応の安心したみいつの毎日が送れるのです。
ところが人間というものは、得てして、自己中心になり勝ちなものですので、氏神奉斎の大目的が国家救済という大いなる自覚と犠牲とを要求しているにもかかわらず、いつのまにかこの大目的を忘れて、自分だけが救われることにのみ没頭するようになるのです。
本会の信仰の在り方が、家庭に氏神を奉斎するという一種の家庭信仰の形態をとっておるがために、ともすると自己中心の傾向に陥りがちなのは、まさに人情の自然ではありましょうが、真神霊は人情だけでは動かないということを忘れないで頂きたいのです。
氏神奉斎を自己救済だけの目的に限定してしまうことは、結局、自己救済とはならないのです。かりに百歩を譲って氏神奉斎の当座は、自己救済だけに終始しましても、氏神はおおらかな広い御心をもって、氏子が御神業のための氏神奉斎であることにめざめるのをお待ちになっておられましょうが、ものにはおのずから限度というものがありますから、この氏神奉斎をば他の御利益信仰と同じようなものに考えて自己中心自己救済だけに絞ってしまうと、氏神は、いわゆる横を向かれるのです。横を向かれるということは、稜威の天線であるところの天線が断ち切れるということです。
稜威の線はいかなる邪神といえどもこの天線を犯して侵入することはできないのです。氏神と氏子との間を支えてつなぎとめているのが、この天線です。
はじめはそういうつもりではなかったでしょうが、人間というものは我欲、横着、自分勝手という悪い面をもっておるために(これはすべて邪悪な第三霊・第四霊のしわざである)つい心ならずも大御神業の上に立つべき氏神奉斎をば、自己中心のことだけに限定して利用するようになってしまうのです。
神は絶対に人間に使われないのです。
平田先生の御訓示にあるように、
自分は国家救済の先覚者であり犠牲者であるという不退転の確固たる信念をもって、氏神奉斎の真の目的を貫かなければならないのです。
畏くも八意思兼大神さまが本会にお出ましになられたのは、氏神奉斎によって国家万民をお救いなされて、大祖神天照大御神の大理想をこの国に顕現なされんがためです。
約言すれば、大御神業のためであります。氏神奉斎の根本義は、実にここのところに存するのです。
氏神奉斎の根本義を忘れて、自己中心、我欲中心の信仰に走り、この本筋を外れて支葉末節にも比すべきことがらのみにこだわってしまうと、氏神信仰はいつの間にか抱え込み信仰になり御利益目当てに明け暮れするようになって、神さまは横を向かれてしまうのです。
自分は氏子であると同時に会員である。この同時原則は過不足なくつねに充たされなければならないのが氏神信仰です。
毎日が御利益目当てだけの信仰になりますと、四魂具足などということは甚だ面倒くさくなり、真神霊信仰も邪神信仰もさして変らぬくらいに考えるような恐ろしい過ちを犯すのです。
真の御稜威というものは、氏神奉斎の根本義をよくわきまえて、御神業第一につとめることによって、はじめて神のみそなわすところとなり、神より授かるものです。
会員としてまた氏子としてつくすべきをつくさず、ただ御神徳だけを求めても、その望みはおよそ叶えられないものと考えるべきです。氏神は、八意思兼大神さまの大みいつを蒙ることにより、測り知るべからざる威力を発揮されるのです。この威力に対しては、いかなる邪神邪霊といえども立ち向うことはできないのです。
ですから、この威力をわれわれの日常生活の上に及ぼして頂くためには、氏神奉斎の根本義をよく身につけて、おのれを空しゅうして大御神業のためにつくす覚悟がなければならないのです。
「鹿を追う猟師、山を見ず」ということばがありますが、これは、猟師が鹿を追うのに夢中になると目の前に大きな山が遮っているにも気がつかず、獲物の鹿を逃がすばかりかその大きな山に突き当って大失敗をするということを戒めているのです。
御利益追求だけに夢中になると、氏神奉斎の根本義を見失って、御利益どころか、かえって反対の結果となってしまうのです。
む す び
氏神を奉斎し祖霊を祭って、真の敬神崇祖の信仰に入るからには、それ相応の御利益を望むのは人情の自然でありましょう。しかしながら、しばしば申し上げているように、御利益は御利益のための御利益でなく、どこまでも御神業に御奉仕せんがための御利益であることを深く心に銘記して頂きたいのです。
氏神信仰に入って、神のみいつを頂こうとするならば、まず、氏神奉斎の根本義をよくわきまえて、氏神奉斎の根本義を信仰の基本として大御神業に対して忠実でなければならないのでありまして、みいつを頂かんとする心は二の次ぎです。
かつて祓のことについて申し上げましたが、祓の効果は、自分の犯した罪けがれを祓い清めることだけに専心して、祓の後のことはすべて神任せにするというところに、祓の好結果が出てくるのです。
真神霊を信仰の対象とする氏神信仰の行き方は、すべてこの流儀でなければならないのです。氏神の下さる御利益こそ、ほんとうの御利益でありまして、邪神のようにお釣りをとられることはないのです。
つねに氏神奉斎の根本の道理に忠実であって、この道理を信仰の基本としておれば、大御神業におつくししようとする利心(確りした心)は、当然胸奥(心の中)に湧いてくるのです。
こうなれば、御神徳は求めずして、授かるのであり、神さまは、必要なときに必要なもの、必要な時間、必要な人間すらも下さるのです。
これが、稜威信じて疑わずという氏神信仰のほんとうの姿です。
それもこれも、氏神奉斎の根本の道理をよくわきまえて、これを信仰の基本として毎日の信仰生活の中に顕現しようとする意欲と努力があればこそです。
昭和五年一月二十七日に霊界の平田先生から次のようなお諭しがあったのです。
今迄の各氏子は、信仰ではない、功利営利的……氏神を営利的利用、敬神が乱れている事が第一の問題である。
また昭和八年十一月十六日の交通には
問 御神業は絶対服従にて、神の御心と合致したる時、御守護下さるものと決めてよろしくありますか。
答 決めてよろしくあります。
とあるのです。
何人といえども御守護を願わないものはないのです。これは人情です。
ところが真神霊は人情だけでは動かないのです。
ですから、氏神奉斎の根本義をよく頭に刻みこんでこれに忠実であることでなければなりません。かくしてはじめて神の御心は動いて、氏子に対して御稜威を下さるのです。
甚だ恐れ多い表現で恐縮ですが、八意思兼大神さまの大御心が、各氏神をとおして各氏子の心にまで浸透(しみとおる)するようにならなけれぱなりません。
それには、氏神奉斎の根本義をよく理解し、これに忠実であるという信仰の基本を確立しなければならないのです。
御利益追求の心が繁くなるにつれ、氏神奉斎の根本義が薄れてくる傾向があるのです。
こんなことでは、いつまでたっても真の御守護は頂くことはできないのです。
どうかみなさん、御神徳を求める前にまず、氏神奉斎の根本義を信仰の基本として頂きたいのです。
この氏神奉斎の基本を確立して、この基本に忠実であれば、御守護は期せずして頂けるのです。
真の敬神崇祖の信仰に入ることにより、自分の魂は四魂具足を目ざしてますます磨かれ、わが家の祖霊は安住のところを得ていよいよ浄化して祖霊本来の使命を果すようになり、ここに過去を苦悩せず未来を杞憂しない真に安心立命した毎日が送れるということは、まさに、はかりしれない大きな運が開けてきたものと考えねばなりません。
『神に二言なし 稜威信じて疑わず』 という固い信念をもって、この氏神奉斎の根本義を信仰の基本として、この大きな運がいよいよますます伸展するように努力しようではありませんか。
(昭和三十七年十一月十八日 八意思兼大神秋季大祭における講演要旨)