家庭における信仰一致   P12

 

              惟神会委員長 川    俣       均

 

氏神信仰は、各家庭に氏神及び祖霊をおまつりする点において、家庭信仰の形をとるものであります。

だからといって抱え込み信仰の許されないことは、『国教』昭和四十五年十一月号に

おいて、るる申し上げたとおりであります。

氏神信仰はまた惟神の信仰として日本民族本来固有の信仰でありますから、日本国民のすべてが充ち満たし践み行なうべき民族信仰であり、従って全国民が一致して信仰すべきものでありますように、氏神信仰は家庭信仰として家族が一致して信仰すべきものであります。

人間は社会の中で生活しているのでありますが、さらにこれをせばめていくと、家を単位として生きているのでありまして、ここに氏神信仰に対する家というものの重要さがあるのであります。

従って氏神信仰は個人の信仰でなく家の信仰というべきであります。すなわち氏神信仰においては、家庭内において不統一、不一致があってはならないのであります。

氏神は四魂具足の真神霊でありますから、非義の願いには一顧もせられない(四魂不具足の願いには、ちょっともふりかえってもみない)のでありますが、祖霊はもともと人霊として、われわれにいちばん身近かの存在でありますから、われわれの身辺のことについてよく働いて下さるのであります。

しかしながら祖霊が働くための活動力は、いかなる邪神邪霊も犯し得ない天線という

みいつの線に護られたなかで発揮されるのであります。

しかもこの天線は、家族の信仰の一致、統一によって、いよいよ濃くもなりまた太くもなり、かくて祖霊の浄化はますます進んで、その活動力は強靭(きょうじん)(強くてねばりがある)さを加えるのであります。

もちろん氏神のみいつが伊照り輝くようになるには、大神さまの大みいつはいうもさらなり、家族の信仰一致がなければなりません。

国家には、しろしめす首長(おさ)として天皇がましますように、家庭には家庭を()べる(個々をまとめる)家長があるのであります。

家を構成するものは、縦の関係では親と子、横の関係では夫婦であります。

ところが戦後アメリカ製の憲法により民法も変改され、明治以来伝統の家族制度は廃止されたのでありますが、日本民族のあるかぎり、家(いえ)の観念は失われていないのであります。そこに日本古来伝統の風習というものが、本質的に日本人の心をしっかりととらえているのであります。

家というものは、物質的には人間の住む一種の建造物でありますが、非物質的にすなわち精神的にまた霊的には「家庭」であります。英語であらわせば、前者はハウスhouse)であり、後者はホームhome)であります。

家長はまた「いえおさ」でありますから、ひとり男子のみならず、婦人にも家長があるわけであります。換言すれば氏子として氏之祖ノ神を奉斉し得る資格のある人は、女子でも家長であります。

岸先生もいわれたように、わが国の家庭というものは、わが国家のようなものであります。

従って天皇が国家をしろしめす首長(おさ)として、国民から尊敬される四魂具足の御存在であられるように(天皇は御即位と同時に、大祖神天照大御神の御孫ニニギノ命の四魂具足のみたまが直接

おからだにお憑きになるから、すめみまのみこと―神聖なおからだの持主―と申しあげる)家長は、氏子となることによって氏子のからだに氏神のみいつが伊照り輝くのでありますから、そのみいつを蒙るためには、身心ともに清らかに保つように努力しなければならず、かくて家族から尊敬される家長となるのであります。

すなわち国民が一致して天皇を尊敬するように、家族全員が一致して家長を尊敬するようにならなければならないのであります。

それには、家長は家族から信頼される家長でなければなりません。ここに「信頼される」ということは、単に物質的な面のみならず、心の面においても信頼されることであります。

こうした状態になるには、家族全員の信仰一致ということが、先決問題であります。

このことに関し岸先生は次のようにいっておられます。(『国教』昭和九年六月号)

一家の信仰不統一、不一致ということは、実に信仰上の重大問題である。敬神崇祖の信仰に醒め(めざめ)たるものは殊に著しく之を感ずるものである。そこで家長たる人は家族の一致せぬものが悪いとして此の事を神に訴え、又他人にも困ると話される様な場合は実に多いのである。これは大きな間違いであって、家族の信仰の統一の出来ぬのは、家長は之を決して家族が悪いと思ってはならぬ。

家族の信仰不統一ということは家長の信仰が足らぬからである。

その責任は家長が負うべきである。

家長の信仰が四魂不具足の場合には、その家族たる両親、兄弟或いは子供等が、如何にも信仰が悪い様な場合がある。併しこれが原因はその家長の信仰にあるのである。

家長の信仰が徹底(てってい)すれば必ず一致するのである。…(中略)信仰というものは神々に奉仕する事だけではない。信仰は四魂具足の行を為し一家を平らけく安らけく治めるのが真の信仰であるということを弁え(わきまえ)ぬのである。…(中略)子供等の信仰不統一の場合の如きも、家長の何処かにまだ四魂不具足の処があるに相違ないから、自分が気を付けてその不具足の点を補佐(ほさ)して上げねばならぬのである。…(原文のまま)

以上岸先生の戒められたように、家庭の信仰不一致は、家長に責任があるのでありますから、家長たるものはこの点をよく反省すべきであります。

そこで家長たるものの心がまえとして、およそ次のことがあげられると思います。

@ 尊敬される家長であり、信頼される家長とならなければならない。

A 家長はつねに四魂具足に叶うようにつとめる。

B    家族に対する思いやりがほしい。具体的に申せば、家族の病気とか苦難のときなどは、深い思いやりをいたし、また 家族の誕生日・成人式・入学・卒業・就職・結婚など

人生の折り目には、ともに喜び合う。

C 強制しないが、信仰が一致するように、人間的に工夫し努力しなければならない。

D 氏神信仰の必要なわけを、機会あるごとによく話して聞かせる。それには家長自身が内部的に信仰をしっかりと固める要がある。― 内部固めの徹底 ―

E 命令や弾圧は、かえって反発(はんぱつ)を招きやすいから、よく説いて聞かせて、共感を得るように導かねばならない。

F        家長はできるだけ祭式を習得して、形のうえからも敬神思想を培養(ばいよう)(つちかいやしなう)

する。

 要するに家長は敢えて「足の裏」になるということであります。

「足の裏」については、『国教』昭和三十七年九月号にて記述しましたが、約言すれば、家長が高い所から家族たちを家長の線にまで引きあげることよりも、家長は進んで家族の線にまで下がって、家族たちといっしょに、ともにともに手をたずさえて、家長の線にまで這い(はい)上がることであります。

 人間は、頭もあれば足の裏もあってこそはじめて立つことができるのであります。

 ところが誰でも頭になることを望みますが足の裏にはなりたがらないのであります。

進んで敢えて足の裏になる心がまえと実行力が、信仰一致にはきわめて大切と思うのであります。

「足の裏」ということに関連して家長は家族たちと、心のわだかまりなく、話し合うことが大切であります。「断絶」ということは、ひとり社会的現象のみならず、家庭内においても、避けられないのが昨今の現象でありますから、これを解消して家庭信仰の一致を期するためには、話し合いが必要であります。

換言すれば、家長を含めて家族たちの間に「対話」をもつことであります。さらに申すならば「家族ぐるみの座談会」をもつことであります。

 また「子は親の鏡」ということばがあります。これは読んで字のとおりでありまして、子どもが信仰になじまないのは、親が信仰になじんでいないからであります。

 ここに親たるものの反省すべき大きな理由があるのであります。

 また明治の先覚者の福沢諭吉は、

 「徳教は目より入りて耳より入らず」といっております。(徳教とは道徳の教えのことである)その意味は、耳に結構なことばを聞かせるよりも、目に立派な実行を見せることこそ大切だというのでありまして、家長たるものは実践躬行(じっせんきゅうこう)()をもって敬神崇祖、四魂具足の氏神信仰の(はん)(てほん)を示すべきであります。すなわち空疎(くうそ)平板(へいばん)(形だけでなかみがなく、単調なこと)なお説教(せっきょう)の無効なことを戒めているのであります。

 しかしながら信仰の一致をはかるためには、「目より入りて耳より入らず」式も大切でありますが、さらに一歩を進めて、「目より入り、耳より入る」ということも忘れてはなりません。

 従って、身をもって四魂具足の範を示すとともに、氏神信仰の絶対必要な理由をじゅんじゅんとわかりやすいようによく説いて聞かせることも大切であります。

 前述したように、信仰の内部固めはすなわちこのことであります。

 まことに氏神信仰は、自分一代だけでなく、これを子々孫々に伝えなければならないのであります。

この意味において家長たるものは、この氏神信仰を「家族に対し目より入れ、耳より入れ」の方式にしたがって、よく教えよく伝える必要があるのであります。

 家庭信仰の不一致をもたらすものとして、「暗い家」ということがあげられます。

家は人間の生活にとって楽しい憩い(いこい)の場でありますが、ともすると苦しみの場にもなるのであります。すなわち「明るい家」の反面に、「暗い家」があるのであります。

 一口に暗い家といっても、それは物理的に暗い家と霊的に暗い家の二つに分けられるのであります。

 物理的に暗い家は、人工的に手加減(てかげん)することによって明るくなりますが、霊的に暗い家を明るくするためには、まず、霊的原因を取り除かねばなりません。

 このことに関し岸先生は次のようにいっておられます。

 「霊的に暗い家とは、家庭の人々の間に和魂が消失するために起る現象であって、和魂の現わるるべきところに現われず、互いの感情のうえに暗い影を濃厚に投げかけるものである。…(中略)その最初は必らず感情の衝突となって現われるものであるが、その感情の衝突を起させるものは、通常邪神信仰により、或いは邪神の因縁(いんねん)により来るものである。

すなわち邪神が感応するときは、人の心は殊に四魂不具足となり、周囲の人に対する

態度は甚だしく強硬頑固(きょうこうがんこ)となり、親は子に対し、子は親に対し、夫は妻に対し、妻は夫に対して和魂が欠け、自我をつらぬかんとして、私欲を満たさんとするのである」(『国教』昭和九年一月号)

 四魂の信条にも、「和魂、和合親愛の情を養ひ家、国を治め斎へん事を期す」とあるとおり、家庭のなかに、和合親愛の情がかもし出されるように、家長はもっていかねばなりません。

 和魂を欠くために家庭における信仰の不一致となるのでありますが、この原因は岸先生のいわれるとおり、四魂不具足の邪神邪霊のもたらすものでありますから、かつて(以前)も、しばしば申し上げましたように、邪神邪霊のよってきて憑依する足がかりたる罪けがれを自覚反省懺悔して祓い清め、かれら邪神邪霊たちをして、おるにおられないようにしてしまうほかはないのであります。

 さればこそ昭和七年五月十二日の神人交通には

「妻が家庭で信仰に共鳴せぬのは邪神と関係がある」とさえ見えているのであります。

 この場合、妻を子どもにおきかえて考えてもよろしいと思います。

 もちろんこうした場合においても、家長たるものは果して自分自身が四魂にかなった生活態度をとっているか否かを、心から反省してみることは当然のことであります。

 おのれの自覚反省なくして、いたずらに他に責めを帰せんとするのは、絶対にとらないところであります。

 また氏神信仰において、祖霊はいちばん身近かの存在として家族をなにくれとなく守護して下さるのでありますが、それには何を措いても祖霊の浄化ということが先決問題であります。

 祖霊の浄化をはかるには、条件として家族の信仰一致ということが特に要求されるのであります。家族の信仰が、氏神信仰一本にかたまらないかぎり、祖霊は浄化しようにもしようがないのであります。

 家庭信仰の一致には、和魂の必要欠くべからざるは前述のとおりでありますが、そのほかに、幸魂の発露ということを見のがしてはなりません。ここに幸魂とは、もちろん自分の生業(なりわい)にいそしみはげむことであります。

 特に一家の家計をあずかって家族の生活を磐石(ばんじゃく)の安きにおくものは、ほとんどの場合家長でありますから、家長において幸魂の発露につとめないかぎり、物質的に家族の信頼が得られず、引いては信頼される家長となり得ず、かくて信仰の不一致はこの面からも避けられないようであります。

 すなわち家長は幸魂の発露により(もちろん四魂具足の一環としての幸魂)みずからの生きがいを見出すとともに、家族は家長に対して信頼の念を深く寄せるようになるのであります。

 このことは、物質的だとか金銭的だとか、かるがるしく非難し去るべきものでなく、特にきびしい戦後の現実の生活を維持する点において、重要な部門を占めると思うのであります。

 次の笑い話は極端な例でありますが、幸魂の発露に関し、いちおう考えさせられるものがあるのであります。

 いい若い者が昼間からゴロゴロ寝でいる。としよりがそれをしかって、

 としより「いい若い者がなんだ。起きて働いたらどうだ」

 若い者 「働くとどうなるんですか」              

 としより「働けばお金がもらえるじゃないか」

 若い者 「お金がもらえるとどうなるんですか」

 としより「金持ちになれるじゃないか」

 若い者 「金持ちになるとどうなるんですか」

 としより「金持ちになれば、寝て暮らせるじゃないか」

 すると若い者曰く『はあ、もう寝て暮らしています』

 このやりとりは、一場(いちじょう)の単なる笑い話として済されるものでなく、なんらかの示唆(しさ)(それとなく教える)をふくんでいるのであります。

 でありますから家長たるものは神人感合という奇魂のもとに生業(なりわい)にいそしみはげみ、それによって得たものを、一部は御神恩感謝として御神業のために捧げ、一部は家族たちの幸せのために有効についやし、いわば四魂具足的に消費することによって、家長は、信頼される家長として、一家の信仰一致に役立つようになるのであります。

 もちろん物質だけが家庭の信仰の一致をもたらすものでなく、物質以外に、霊的なまた精神的な要素も欠くべからざるものがあるのでありますが、「人はパンなくして生くるあたわず、また人はパンのみにて生くるものにあらず」という物心両面の併わせととのった生き方は、家庭信仰の一致にはきわめて大切と思うのであります。

 戦後は、いわゆる誤まった民主化による欧米流の個人主義思想の影響を受けて、信仰の個人化が強く打ち出されましたので、家庭信仰の一致ということは、容易ではないかもしれません。

 殊に戦後の子どもは、素晴らしく博学(はくがく)でありますが、その反面自分の行動を決定する力は、ほとんど零に近いものがあるといわれているのであります。

 従って、家長という形だけの強い権力をもって、家庭における信仰の一致をはかるのは困難と思うのでありますから、まず家長は四魂具足という絶対善につとめて、処生の方針を身をもって示すべきであります。

 また人間には、生理的に拒否反応(きょひはんのう)といって、異物(いぶつ)が体内に入ると、これをしりぞけこばむ作用をあらわすものであります。心臓移植(しんぞういしょく)における拒否反応は、その被手術者を苦しめてついには死にまで追いやるそうであります。

 この拒否反応はひとり生理的な面のみならず、霊的にまた精神的にも起こるのであります。

すなわち氏神信仰に対してなんらの理解を有せざるとか、或いは無神論的であるとか、または氏神信仰の家庭にありながら他の信仰に傾いているとか、そうした場合にこの敬神崇祖、四魂具足の氏神信仰を説いて聞かせても、それはかれらにとっては一つの異物として受けとられて、これをこばみしりぞけようとする拒否反応の状態を呈するのであります。

 でありますから、家長は本文前段のくだりで申し上げましたように、まず、「足の裏」となって、信仰の一致をはからなければならないのであります。

 すなわち信仰一致のために神さまの恩頼(みたまのふゆ)を蒙る以前の問題として、まず人間的に努力し工夫しなけれぱならないことは前述のとおりであります。

 人間的努力を差し措いて、家庭信仰不一致の責めを、かりそめにも氏神や祖霊に帰するようなことがあってはならないのであります。

神は人間の努力に感合する ということを忘れてはなりません。

従って家庭の信仰一致には、人間的に工夫し、努力することがきわめて大切であります。この人間的な努力や工夫をしたうえで、氏神さまや祖霊さまの御指導御守護を願うべきであります。

 このお話しをおわるにあたり、次の岸先生のおことばをもって結びたいと思います。

 『子孫を敬神崇祖の信仰に導くには、自分がこの敬神崇祖の信仰によって、なるべく

四魂具足に近づけばそれに越したことはないが、それは容易ではないのである。故に人は神の示された四魂具足の道を標準として反省せねばならぬ。

ここに反省の必要があるのである。

 自ら反省して四魂具足に近かい行ないをすれば神はますます感合して下され、四魂具足の行ないによって子孫を導き得るのである。

 反省は誰でもするが、その標準が異る故にその効果が著明に現われないのである。

それがためには、四魂具足の神の教えをつねに座右(ざゆう)(みぢかなところ)に置き、これを標準として反省すべきである』                        以 上

                 

(昭和四十六年一月十七日 八意思兼大神月次祭における講演要旨)


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