いのちの信仰としての氏神信仰    P15

 

              惟神会委員長 川    俣       均

 

 いのちは(いのち)でありまして、生命のことであります。

 しかしながら、いのちということばには、単なる生命という語ではいいあらわせない、ひろがりつながり流れ、というような意味が強く感じられるのであります。

 生命という語には、何か物質的な感じがあるのでありまして、生物学者によれば、生命現象とは、遺伝代謝であるといっているのであります。

 遺伝とは、親から子に、(からだ)の形や性質が伝わる現象であります。顔かたちが子に伝わってこそ、はじめて人間としての存在が認められるのであります。

 もし仮りに、人間でない顔やかたちが子に伝わったならば、それこそたいへんなことであります。                  

親の性質が子に伝わるのは親の性質を形成していた第三霊は、親が亡くなった場合、親から離れ、子という因縁を求めて、子につきますために、親の性質が子に伝わるようになるのであります。よく、「親に似ぬ子は鬼っ子」などといわれておりますが、これも一理あると思うのであります。

 また父親の細胞と母親の細胞が合体して、一つの新たな細胞ができるわけでありますが、その新たな一個の細胞から、どうして血液の細胞とか神経の細胞などにわかれて生ずるのかという問題については、いままでの生物学の範囲ではわからないといわれているのであります。

 代謝ということは新陳代謝のことであって人間は生きていくために絶えず物質を摂り消費して不用となった物質を体外に排泄し、それを補給するために外界から新たな物質を摂取し、これを同化作用によって自分の成分とし、生活を持続する現象であります。

 このいのちに関する神の摂理の一つの例として、岸先生は「胎生(たいせい)(子どもが母親の体内にやどる)の時代にすでに男女の差異があり、その差異に応じて出生のときに、男女それぞれ異なった第二霊(本霊)が氏神さまから与えられるものである」といっておられます。

 したがいましてわれわれは、いのちというものを、単に生物学的立場からでなく信仰的に換言すれば氏神信仰のうえにとらえて考えたいのであります。

 近代生物学では、生命現象というものを単なる細胞のはたらきという物質的に説明しておりますが、前述のように最後の一線において行き詰ってしまうのであります。

 人間は、第一霊(体霊―両親から授かり細胞のはたらきを(つかさど)る)、第二霊(本霊―祖神氏神から、出生と同時に授かり人間の意識や概念やらの構成の主体となる)、第三霊(外界からやってきて人間に憑依(ひょうい)し、第二霊と複合感応して人間の意識や概念や心の構成に参与する)などの霊的組織体であります。

 人間がこうした霊的組織体であるということは、すでにはやく、惟神科学の名において系統的に説明されておりますので(もちろん惟神科学は神人交通にもとずいている)人間のいのちの問題が、信仰的に解明され得るのであります。

すなわち氏神信仰におけるいのちというものは単なる物質的な生命でなく、つながりひろがり流れという多分に信仰的な面をもっているのであります。

生物学者は、生命とは

 生命は生まれるものである

 生命は死への抵抗である

生命は化学的機能である

などの言を引いて説明しておりますが、この生物学者ですら最後は、「生命とは、生きているものに特有な、そして生物がそれによって生きている神秘な機能である」とでもいうよりほかないとして、神秘な機能(はたらき)に帰結しているのであります。

また生物学者は、「生命は地球上に起きた最大の奇跡であるが、そのなかでも最も驚くべき奇跡は、人間という高度に進化した物ができたことである。

なぜなら人間は考える力があり、ゆたかな感情があり、言葉によって情報や意志を交換することができ、芸術を愛し、科学技術を創造し、過去を記憶し、将来を予測し得るなどの能力において、高い精神的文化的生命をもっているからである…(中略)

いい換えると人類は、原始生物以来、最もしばしば神の試練を受け、またそのたびごとに神の救いを得て進化した生物である」といっておりますが、ここにも生物学者は、神の試練とか神の救いなどと、人間の進化に神の存在を持ち出し肯定しているのであります。

神人交通によれば、神は最初にまず植物をつくり、次ぎにその植物をつくった経験によって動物をつくり、さらに、その動物をつくった経験によって最後に人間という生物をつくったのであります。

 神は経験によって知識を得 とのおことばがありますが、まことに、ごもっとものことと拝察されるのであります。

 いのちというものを、生物学的にまた物質的にとらえようとしても、最後は、前述のように行き詰まって、神の摂理ということに行き着かざるを得ないのでありますから、われわれは人間の魂を支配する氏神を信仰することをいのちの信仰として、とらえたいのであります。

 われわれは神と人とが連結している宗教的生命観を奉じているのでありますから、いのち(おや)たる氏神のみ前に立つことは同時に代々の先祖に向って立つことであり、また、自分の子孫に向って立つことであります。

すなわち自分は自分であって自分でなく、この自分のからだのなかには、無数の祖先が息づいているのであります。さらにその奥には、魂の神氏神がおられるのであって、そこにいのちの信仰としての氏神信仰があるのであります。

 ある人のことばをかりれば『いったい、自分はなぜ生れた。死んでどこへゆくのか。この自分は、いったい、だれか。何物だ』という宗教的な根本問題に触れなければ、いのちの解明はできないといっております。

 人間は、申すまでもなく、私利私欲を満たすために生れてきたものでなく、あきらかに、四魂の信条にあるとおり

 奇魂 神人感合の力を得て皇国に奉仕せん事を期す

 荒魂 義務奉公の行を果し社会に奉仕せん事を期す

 和魂 和合親愛の情を養ひ家、国を治め斉へん事を期す

 幸魂 利用厚生の術を研き国利を図らん事を期す

ために生れてきたのであります。一言にして申せば、人間は、四魂具足のまにまに人類の繁栄と幸福と平和のために生まれてきたのであります。

 この四魂の信条は、ひとり日本民族のみならず、世界人類の行なうべき生活信条であります。

 また人間は死んでどこへゆくのかについては、氏神はわれわれに魂を授けて下さった魂の(みおや)の神でありますから、死ねば氏神信仰にある人の魂(第二霊U本霊)は、氏神のみもとに引き取られ、祖霊として浄化してその家を守護するはたらきをなし、やがてはその家に生まれてくるものの本霊として氏神のみいつのもとに再生するのであります。

 また、いったい自分はだれか、何物かの問題は、フランスの哲学者デカルトの

「考える故に我あり」の言ではありませんが、われわれ人間は、思考力を有する生物として、第二霊、第三霊を有する点において自分が何物であるかが、はっきりとわかるのであります。

特にわれわれ日本人は祖神氏神によって四魂民族としての魂を授けられているのでありますから、この意味においてわれわれは神の子であります。

 思いますのに、いのちがあるということは魂を有することにほかならないのであります。

 その魂は、前述のように、出生の瞬間に祖神氏神から授けられ、また、死ねば氏神によってその魂を霊界に引き取られるのであります。

 すなわち顕幽一貫して人間の魂を支配されるのが氏神であります。

 すなわちいのちはまた魂でありますから、氏神によってこのいのちは 祖先から子孫へと

ひろがりつながり流れていくのであります。

 祖霊(はい)()のなかに「弥孫(いやひこ)次々(つぎつぎ)(いや)益々(ますます)に栄えしめ賜いて」とあり、また家庭の月次祭の祝詞の後段にも「子孫(うみのこ)八十(やそ)(つづ)き、いかし()(くわ)()のごとく、いや益々に栄えしめ給いて、いや遠永(とうなが)祭典(みまつり)うるわしく仕え(まつ)らしめ給え」とありますように、いのちは魂として、ひろがりつながり子々孫々へと流れていくものであります。

思いますに人間だれとて、永生を願わないものはありません。昔、支那の秦の始皇帝は不老長寿の薬を求めて、臣の(じょ)(ふく)をわが日本の国につかわしましたが、ついにその薬を求め得られなかったといわれております。

 人間は、空気を吸って、時間というかぎられたなかで生きているのでありますから生命にはかぎりがあるのであります。

神さまは、時間や空間を超越した四次元以上の世界におられるのでありますから、神さまには死ということはあり得ないのであります。

かつての神人交通に、「神は四魂具足の神が成りますと、その神に代をゆずって、御自分はそのまま残られる」というような意味のことがありましたが、人間は有限であるために、死はまぬかれないのであります。すなわち神は無限でありますが、人間は有限であります。

 従って無限の宇宙のなかに、有限の人間が生きるのでありますから、そこに、いのちに対する覚悟とか真の悟りが要求されるのは当然のことであります。

 換言すれば、われわれ氏子は、生も死もすべて神まかせであるところに、いのちひろがりつながり流れというものを確信できるのであります。

いのちは、ひろがって、子孫につながり、そして子孫に向って流れていくのであります。

 昭和三年十二月三十日の神人交通に

 人間はこの世に生を享けてより、死するの時は定まっているや否や。

 定まってはいない。

 人と神との関係で人生を延縮し得るものなりや。

 然り。長短を定むることが出来る。

 これは人間が延命を願ふによって神が働くか。

 惟神の(まにま)にあるものである。

というまことに含蓄(がんちく)に富んだおことばがあったのであります。

 ここに、死生一貫の真の惟神の信仰たる神まかせの氏神信仰の真髄があるのであります

 さればこそ帰幽(きゆう)(亡くなる)した場合、亡き人の霊魂(みたま)を氏神のみいつにより、

()(れい)(さい)(みたまうつしのみまつり)を行なうその霊魂安定詞のなかにも

()ける人の身退(みまか)ることは、()べて(かむ)(ながら)のまにまにあるものにして、人の力もちて(とど)めあえぬことにしあれば、今はただ御霊の御祭りうるわしく仕え奉りて、 ひたすらに氏之祖ノ大神に祈願(ねぎ)(まつ)り、御霊(みたま)御幸(みさち)を乞い奉る外はあらじと云々」とありますように、

そこにいのちの信仰としての氏神信仰の荘厳さがあるのであります。

人間の死ということについて、わが国では先般の心臓移植問題をめぐって、種々論議されておりますが、昭和八年五月三十日の神人交通には次のように見えております。

 人が死ぬのを恐れるのは、第三霊が怖(おそれ)れるためと考えてよろしくありますか。

 第三霊のためであります。

 そのほかに原因がありますか、ありませんか。

 あります。

 人の意識霊が死を怖れるのでありますか。

 関係あります。

 第二霊が第三霊と離れるのがいやなのでありますか。

 いやであります。

 また意識霊は体霊と離れるのもいやではありませんか。

 いやであります。

 申すまでもなく、人間のいのちは、第一霊(体霊―両親から授かり細胞のはたらきを司る)と第二霊(意識霊―祖神氏神から授かり、人間の意識や概念を構成する主体となる)と第三霊(経験霊―外界からやってきて第二霊と複合感応して、人間の心の形成に参与する―生きている以上は人間は誰でも第三霊を持たざるを得ない)の霊的組織体として三者は固く結びついているのでありますから、第一霊、第二霊、第三霊がそれぞれ分離して、はなればなれになることは、お互いにいやなことがよくわかるのであります。

 ここに人間は、霊的組織体として、死を恐れる、すなわちいのちの絶えることを怖れる霊的理由があるのであります。

 西欧でもスイスの有名な哲学者のヒルティ(一八三三〜一九〇九)は、

その『幸福論』のなかの詩で

  死はよく生の苦痛を終らせる

  されど生は死の前におののいている

  生はただ死の暗い手を見るのみで

自分にささげられた(さかずき)を見ないのだ

といっておりますが、生というものをほんとうに味わい、生きているということの意味をほんとうに理解するには、死の問題をいのちの問題として徹底的に理解し会得(えとく)しておかなければならないと思います。

したがって、死ということを霊的にまた信仰的に理解する必要があるのであります。

 そこで生はすなわち死であり死はすなわち生であるという命題を解決するためには、いのちの信仰としての氏神信仰に拠らざるを得ないのであります。

 われわれのいのちは、すなわち魂でありますから祖神氏神によって与えられ、そのいのちが、ひろがりつながり流れて、今日にいたっているのであります。

 申すまでもなく、氏神は血統の神でなく、霊統の神として、われわれのいのちを顕幽一貫して支配される神さまであります。

 人間は前述のように霊的組織体でありますから、死ねば、第一霊(体霊)は宇宙普遍(ふへん)(全体について)のエネルギーのなかに入り(このエネルギーは独占でなく、邪神が使えば邪神の力となり、正神が使えば正神の力となる)、第三霊は、第二霊を離れ、因縁を求めて去っていき、第二霊(本霊U通常魂という)は氏神にともなわれて霊界に入って、氏神のみいつのもとに浄化してその家の祖霊として守護指導にあたり、浄化をとげた最後には、氏神にともなわれて天照大御神の大前において浄化の最後の仕上げを行ない、やがて氏神のみいつによってその家に生まれてくるものの第二霊(本霊―魂)として再生することとなるのであります。ここのところにも、いのちの信仰としての氏神信仰というものが厳として存在しているのであります。

本居宣長先生は、歌集『(たま)(ぼこ)百首(ひゃくしゅ)』のなかで

 「たまきはる二世(ふたよ)はゆかぬうつそ()

いかにせばかも死なずてあらむ」

と詠まれ、『死してまたさらにふたたびとは、来直(きなお)しのならぬこの()なれば、(いのち)は、至極(しごく)おしきものである。死ぬるは、しごく悲しきことである。いかようにしたならば、死なずにいられようぞ』といっているのであります。

また本居先生は同じ歌集で

  「うつそ身はすべなき物かあかなくに

       此世わかれてまかるおもへば」

と詠まれて『命は飽くこともなく惜きものなるに、死してこの世を別れゆくことを思へば、人の身というものは、せんかたもない物である』と仰せられておりますが、そのいずれのお歌も人のいのちはかぎりあるから、大切にせよとの意と承まわれるのであります。

 しかしながら、われわれは、いのちとは魂であり、その塊の授けの祖神は氏神でありますから、氏神を信仰することによって、死後の霊魂の行方がはっきりします。死はまた生なりとの確信が得られるのであります。

 先年物故された東大の有名な宗教学専門のある教授は、生前「ガン」とたたかってその告白の『死を見つめる心』のなかで、「死を宇宙霊への帰入(きにゅう)」というふうに考えてみたと告白していたそうでありますが、死後、宇宙霊(宇宙普遍のエネルギー)に帰入するのは、前述したとおり第一霊(体霊)だけであります。

 でありますからある学者は、「その教授もまた、死をもって個人的存在の滅亡を意味するだけと死というものを物質的に理解する現代人のからを脱ぎすてる事はできなかったのである。その教授のように宗教の研究に一生をかけた人でさえ、現代知識人の物質的死生観のらちを越えることはできなかったのだと申さなければならない」といっております。

 ところがわれわれは、氏神信仰によって、目に見えない世界の実在感をいっそう強く認識することができるのであります。

すなわち神霊の実在を、身をもって知ることができるのであります。

 古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、霊魂の死後の存続を自明(じめい)(既に明白)のことと信じ、死後の霊魂の生まれかわりさえ認めて、この世で、節制、正義、勇敢、真理を愛し、英知の楽しみに熱中してきた人は、神々に導かれて、不死で神的で英知的な場所へゆき、反対に、この世で、悪業にふけり、この世の不純な欲望にとらわれていた人の霊魂は、それぞれに相応した種類の動物に生まれると説き、泰然自若として、毒を仰いで死んだのでありますが、かれソクラテスは、一生を悔いのない姿勢で生きとおした自分は必らず立派な神々のところへゆくのだとの固い信念をもっていたのであります。

 ノーベル賞を受けた物理学者の湯川博士は、ある書物のなかで、

 「私はこの現実の世界のほかに、何らかの意味で別の世界があることを想像せずにはおられない。すなわち現実の世界の裏にはいろいろな意味で多彩多様の世界があるのではないか。そして現実の世界も、その別の世界と一つであって、それが偶然かあるいは何らかの理由によって、別の世界のエネルギーが物質となって実現されたのではなかろうか」といっております。

 また現代の原子物理学の基礎をなした量子論でノーベル賞を受けたドイツの物理学者マツクス、プランクも、「科学と宗教」のなかで、「科学の行き着く先きは、目に見えない敬虔(けいけん)の世界である」というようなことをいっております。

ところが現代は、ヨーロッパにはじまった機械文明のまっさかりの世の中にあります。その結果、人間は孤独化し、断片化して、人間性が失われつつある現在であります。

 自由主義も共産主義も、この機械文明の矛盾を解決することができず、人間はますます機械文明のどれいになっていくのであります。ことに核開発の進展は、人間に絶望感をすらもたらすのみならず、いろいろな人間を刹那主義者に追い込みますので、生や死に対する考え方もすべて物質的とならざるを得ないのが世界の現状でありましょう。

かく考え、かく認識しますと、霊魂の実在、ことに神霊の実在を確信する本会の信仰としての氏神信仰は、いよいよますます、その重要さ、その絶対的価値を発揮せざるを得ないのであります。

ましてや氏神信仰が、人類最高の倫理たる四魂具足をその内容とし根幹としているにおいておやであります。

近頃、生命論がやかましくとりあげられておりますが、その多くは物質的あるいは生物学的生命論の域を出ていないのであります。

しばしば申し上げましたように、人間は霊的組織体でありますから、この意味において、生命は単に生物学的にまた物質的に解すべきでなく、まさに氏神信仰でとらえられたいのちでなければならないのであります。

われわれのいのちは、日本民族育成の当初から、日本民族のいのちとして、ひろがりつながり流れて、今日にいたっているのであります。ここにいのちの信仰としてその氏神信仰の真髄があるのであります。

氏神信仰のとらえ方は、さまざまではありましょうが、ここに、いのちの信仰として、氏神信仰をとらえた次第であります。

氏神信仰をいのちの信仰としてとらえることがまた「内部固め」の一環となるのであります。                                以 上


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