無 関 心 の 関 心   P13

 

              惟神会委員長 川    俣       均

 

 ものごとに関心を持つということは、心にかけて注意することであって、無関心はその反対のことであります。

 世の中には当然関心を持たなければならないのに、無関心の例が甚だ多いのであります。たとえば政治に対しては国民として当然関心を抱かなければならないのに、特に若い世

代において無関心な層が広がっているのであります。

もちろん政治不信がもたらす無関心ではありましょうが、政治不信であればこそ、国民としてさらに関心を持つべきであります。

 ここに無関心の関心ということは、惟神会員としてまた氏子として、信仰生活上当然心にかけて注意すべきであるにかかわらず、無意識に或いは意識して無関心であるために、いっこうに信仰が向上せず、したがって頂けるみいつも頂くに由ないこととなってしまう場合があるのであります。

 関心を有すべきことがらに無関心であるのは、要するに信仰に対する熱意、研究、勉強心の不足に加えて、()れという惰性からきていると思うのでありますが、さらに無関心に導く原因として反省を怠ることが挙げられるのであります。

 教勢拡張を主眼として新会員を得るためにも、現在の氏神信仰者として当然関心を抱くべきことに無関心であっては、教勢拡張も望み薄となりますので、この点に関し二、三申し上げて御参考に供したいと思います。

@ 氏神信仰それ自体が最大の御神徳であることに無関心であってはならない

 異常のことにのみ関心を抱いて、あたりまえのことに無関心なところに不幸が芽生えてくるのであります。

日常生活が平凡なものであるように、氏神信仰生活は平凡であります。

 何事も起らず波瀾のない平凡な日常生活のもとに、おだやかな信仰生活が送れること、そのことが氏神信仰における最大の御神徳であります。この平凡な生活に大いなる関心を持って、氏神信仰を見直さなければならないのであります。

 氏神信仰において何がいちばん大きな御神徳と申せば、敬神崇祖・四魂具足の真の惟神の信仰のもとに、四魂具足という絶対の善を物指しとして物の価値をはかり、世の中の見方を確立し得ること以上の御神徳はないのであります。

人の話や書いたものの正邪善悪を正しく判断して神に恥じざる人生観を確立して迷いのない生活が送れるその力は、魂を磨く信仰である氏神信仰によってのみ考えられるのであります。

 有名な作家 芥川竜之介は、三十六歳の昭和二年の夏自殺したのでありますが、芥川の死は大正期以来の教養の無力を事実において示したものといわれているのであります。

その読書の量と範囲において同年輩で芥川ほどの者は(まれ)であったそうでありますが、しかしかれはついに一人の師をも見出すことができず、かれのいう「ぼんやりした不安」に堪えずみずから死を選んで命を絶ったのであります。

 氏神信仰は、魂を磨く信仰・心のよりどころを与えてくれる信仰・心のふるさとに導いてくれる信仰であります。なんとなれば、魂は祖神氏神によって授けられているからであります。

学問や知識だけでは解決されない魂の問題を解決してくれるのが氏神信仰であります。

 さらに申せば四魂具足という絶対善のうえに立って世の中を見る心のはたらきを与えてくれるのが氏神信仰であります。氏神を信仰するからには不安もなければまた取り越し苦労もなく、ただ絶対の信頼の毎日があるのみであります。                       

 このことが氏神信仰の最大の御神徳であります。氏神信仰に専心するかぎりこの御神徳は夜となく昼となく身辺についてまわりますが、それに狎れて、つい、この最大の御神徳に無関心となり勝ちなのであります。この御神徳こそ氏神信仰における最大の関心事でなければならないのであります。

 また氏神さまという四魂具足の高貴な真神霊をいぶせき (むさ苦しい) 茅屋にお祀りして、同床共殿の信仰生活を毎日送れることは、このうえもないありがたいことでありますから、かりそめにもこの幸せに無関心であってはならず、つねに心にかけて感謝を忘れてはならないのであります。

A 感謝に対し無関心であってはならない

 人間と動物と違う点は種々あげられますが、人間は恩を知って感謝しますが、動物にはそれがないのであります。

 前項@の氏神信仰の最大の御神徳に対しては重大な関心をもって大いに感謝のまことをいたすべきにもかかわらず、この最大の御神徳にいっこうに無関心のあまり御神恩感謝に無関心であってはならないのであります。

目に見えたきわだった御神徳に感謝するのは当然でありますが、前項@の最大の御神徳こそ大いに感謝して、そのまことをいたすことが大切であります。

前項@の最大の御神徳を認めて心から感謝のまことをいたすことが、すなわち氏神信仰を体得してその極致に至る道と思うのであります。

 前項@の御神徳は、一見 抽象的(ちゅうしょうてき)(具体性を欠くさま)に思われますが、この御神徳こそ

氏神信仰最大の御神徳でありまして、この最大の御神恩に対して感謝のまことを行うところに、諸事順調に運ぶとともに、信仰はいやがうえにも向上して思頼を蒙ることができるのであります。

B 四魂具足に関心をもたない

 申すまでもなく、四魂具足は氏神信仰の絶対的中核をなすものであります。四魂具足という絶対善の教えが闡明(せんめい)(道理や意義をハッキリさせる)されて実践しなければならないようになったのは、畏くも八意思兼大神さまの御諭(みさとし)のまにまに四魂具足の真の氏神を自分の家の守りの祖神(みおやのかみ)として奉斎することができるようになったからであります。

大神さまがお出ましになられたのも、今の世があまりにも四魂不具足的に乱れているから、氏神信仰によって四魂具足の世の中に建て替えなさろうとの救国済民の大御神慮にほかならないのであります。

 ところが儒仏渡来後千年以上このかた、一般国民はあまりにも四魂不具足の世相に馴れ且つそれを当然のことのようにしてきましたがために、四魂具足ということは何かよその世界の教えのように、甚だ窮屈に感じられますので、折角真の氏神信仰に入りながら旧来の惰性的な四魂不具足的在り方を改めようとしないのみならず、むしろ無関心でおられる方もないわけではないと思われるのであります。

 氏神信仰において、いちばん関心をもたなければならない四魂具足に対して無関心であることは、求めてみずから御神威を拒むようなものであります。

氏神さまは、氏子が四魂具足する或いは四魂具足しようとするその努力に対して絶大の御神威を賜るのであります。

申すまでもなく、四魂具足だけが氏神さまに通じる唯一の信仰のパイプであります。

すなわち四魂不具足は、けがれとなって氏神さまに通じる信仰のパイプを詰らせて、

御神威を曇らせてしまうのであります。

C 御神業に無関心ではないか

 大神さまがお出ましになられましたのは、国教確立という大御神業を達成せられんがためであります。

しかしながら大神さまは御出座の当初において、恐れ多くも大神ひとりでは何もできない手足が必要であると仰せられ、その手足として、氏神を教え示され給うて、氏神奉斎の神事が執り行なわれるようなったのであります。                          

 でありますからわれわれ会員たるものは、できるだけたくさんの氏神を世にお出し申しあげて、大神さまの大御神業に翼賛(よくさん)申し上げなければならないのであります。またそのように努力することが、「みこともち」の立場を全うすることとなって結局、大神さまや氏神のみこころに叶い、いやますますに御神威を蒙ることとなるのであります。

 御神業翼賛はすなわち教勢拡張でありますが、教勢拡張など面倒くさいことはご免だ、誰かがやってくれるだろうなどと、他人まかせで御神業に無関心のまま、ひとりよがりの抱え込み信仰に陥っている傾向はないでしょうか。

 惟神会員として当然重大な関心をはらうべき 御神業に無関心であることは、大神さま

御出顕の大みこころに背くのみならず、大神さまおわしての氏神であり祖霊であるという稜威の源泉を断ち切って、求めてみずから幸福を拒むようなものであります。自分がやらなくとも誰かがやってくれるだろう((ふた)を明けてみれば結局誰もやっていなかったという、笑えぬ悲劇は世間によくある例である)という依頼心を棄てて、人がやらなければ自分ひとりでもやるという自主独往の気慨がほしいのであります。

 儲け仕事にはかぎりない関心を示すが、然らざる事には、たとえそのことが社会公共のためであっても、いっこうに無関心であるのは世のつねの在り様ではありますが、こんなことでは人間社会の進歩向上は望むべくもないのであります。

ましてや、御神業こそは、荒魂のなかの荒魂としてこれにまさる社会公共への奉仕はないのであります。

平田先生も仰せられていますように、惟神会員は犠牲者であります。犠牲のないところに進歩も発展もないのであります。

内外状勢のただならない今日、御神業の恢弘は緊急最大の関心事であります。

 どうかみなさん、御神業には重大の関心を寄せられて実践躬行、大神さまの大みこころに応えまつって、「みこともち」の立場を遂行して頂きたいのであります。

またかく努力することが、大神さまの大みいつのまにまに、氏神や祖霊の恩頼(みたまのふゆ)をいよいよ厚く蒙ることとなるのであります。

D けがれに無関心であってはならない

 けがれは、神さまの忌み嫌うところであります。ましてや四魂具足の真神霊にまします氏神は、けがれに対してはきびしいものがあるのであります。

 ご存知のように祓の起原はイザナギノ命がけがれに触れられたので、そのけがれを祓い清めんとする禊祓から生じているのであります。

神言も天津祝詞もすべて、けがれを祓い清めて清々しくなることに主眼を置いているのであります。また人間はそれほどけがれに触れ勝ちなのであります。

邪神邪霊が横行して四魂不具足が大手を振って通用している現在においては、人間はつねに大小軽重さまざまのけがれに触れ易いのであります。

さればこそ祓祝詞にも「過ち犯しけん罪けがれあらんをば…」とあって、過ち犯したかもしれない罪けがれがあるならば…と最大限度に謙虚な気持ちで素直に自分の罪けがれを反省して、祓い清めることを念願しているのであります。

 祭事のご奉仕に際しての潔斎は神の要求するところでありますように、けがれを祓い清めることもまた神の要求されるところであります。神さまがけがれを忌み嫌われる有力な例証として、昭和四年十二月十三日の神人交通を申し上げたいと思います。すなわち

問 人間に動物霊が()いている場合、氏神の守護を受けられないと考えてよろしきや

答 云う必要なし

 まことにきびしいものがあるのでありまして、ここに動物霊が憑いているということは、けがれの中でも動物霊が憑依するほど大きなけがれを犯していることを意味しているのであります。

 ところが人間という生き物はまことに横着なものでありますから、少しくらいなけがれは、いっこうに意に介しない、すなわち無関心になり勝ちでありますが、この無関心が(こう)じるとやがては大きなけがれに対してもいささかの関心もはらわず、結局、前掲御神示のように動物霊が憑依して氏神の守護を受けられないようになりますから、つねにけがれに対してはたとえ小さなけがれであっても無関心であってはならないのであります。

 またそれかといって、けがれに対して戦々競々のあまり、けがれノイローゼになっても困るのであります。

 でありますから、そこは稜威信じて疑わず、若しけがれに触れた場合は、素直にそして謙虚に反省懺悔して、けがれに触れた過ちを氏神さまにお詫びするとともに、場合によっては祓によって祓い清めることが必要であります。

なかには少しくらいのけがれを犯しても神さまが守ってくれるから平気だなどと豪語して、けがれに対してさらに無関心な方がないわけではないと思いますが、そうした場合はいまだ信仰が未熟で、神さまの御守護を十二分に受けられない状態であることを自分自身で表明しているようなものでありますから、けがれにはつねに関心を持ち、清々しい身心を保って神さまのみいつを頂くように心がけて頂きたいのであります。

昭和九年五月二日の神人交通にも

 『人の信仰が進めば進むほど、けがれに鋭敏に犯されるように思うが、信仰の進歩とけがれの感受性は比例するものである と考へてよろしい』とありますように、けがれに無関心であることは、前述のように自分自身の信仰の未熟を表わしているようなものでありますから、けがれに対してはつねに関心をもって頂きたいのであります。

E 祓に無関心ではないか

 祓は、前項Dのけがれの冒頭で申し上げましたように、イザナギノ命の立花小戸阿波岐原における禊祓にその起原があるのであります。しかも日本神道をつらぬいているものは、祓の精神であり禊の心であります。したがって祓をよそにして日本神道を語ることはできないのであります。

 本会においては、懺悔の祓、清祓(遠祓も含む)など祓の重要性が御神示によって教えられておりますが、本会の祓は、祓戸四柱の神々の威力にさらに大神さま或いは氏神さまの御神威が加わっての祓でありますから、その威力は絶大なものがあるのであります。

 この意味において本会の祓は、祓の正しい道すじを行くものでありまして、祓こそまさに神与の武器とも称すべきであります。

でありますから、本会の祓に対しては、いかなる邪神邪霊も 抗すべくもないことは、

みなさますでにご体験のとおりであります。

 祓はもちろん邪神邪霊憑依の足がかりとなっている罪けがれを祓い清めて、悪業をなす邪神邪霊の退去を促して自分の信仰を高めるものでありますから、氏子としては当然祓に関心を抱いて、この神与の武器の威力を蒙って信仰向上につとむべきであります。

けがれのために、神さまと氏子との間のパイプが詰まっては、御神助を頂くに由ないこととなります。祓に無関心であってはならないのであります。

 また祓は心の煙突掃除のようなものでありますから、罪けがれという過ちを犯しがちなわれわれ人間は、祓という神与の武器によって心の煙突に詰った(すす)を排除し、身心ともにつねに清々しく保ち、恩頼を蒙り得る状態に置かねばならないのであります。

 かっての御神示に

氏神のみいつは体霊に直接はたらくのでなく、第二霊をとおして作用する』というようなことがありました。祓によって第二霊(本霊)が清まれば、氏神のみいつはその清まった第二霊をとおして体霊に及ぶため、病気も自然とよくなる道理であります。

 しかしながら祓はどこまでも祓でありまして、祓は決して信仰そのものではないのであります。けがれのために邪神邪霊が憑依して氏神のみいつを曇らせるのでありますから、かれら邪神邪霊の憑依の足がかりたるけがれを祓い清めて、邪神邪霊の退散を促して、神さまのみいつが伊照り輝くようにするのが祓であります。

 従って祓は信仰生活のゴール(到着点)でなく、どこまでも信仰生活のスタート(出発点)であります。すなわち祓を受けたから、やれやれ、ゴールに到着できたと安堵すべきでなく、祓を受けたことにより、これからスタートに立って信仰生活がはじまるのだという心がまえが必要であります。

ここに信仰生活における祓の関心事の重要さがあるのであります。

 ところが祓に関心を抱くのあまり、いわゆる祓マニア(熱狂者)になり、祓を乱用して祓の本質からはずれて、いわゆる邪神追放祓になってはならないのであります。

もちろん祓は何度行なってもよいのでありますが、ただ忘れてならないことは、祓の都度、自分の信仰が向上しなければなりません。しからざれば祓の乱用のそしりを免がれないのであります。

換言すれば、祓以前に比して、より四魂具足的にならなければならないのであります。

 『祓の効果は信仰に比例する』という御神示は、祓を受けた当時はもちろん、祓後においても信仰が向上しなければ、その効果はないものと解釈してよろしいと思います。

 それでこそ祓は信仰そのものでなく、また祓はゴールでなくスタートであるといえるのであります。

 氏子として当然関心を持つべきこの大切な祓、神与の武器とも称すべきこの祓に対して、無関心であることは、この武器をお授け下さった大神さまや氏神さまに対して申しわけないばかりでなく、自分自身で御神助を拒んでいるようなものでありますから、大いに戒心を要するところであります。

 以上申し上げましたほかに、氏神信仰において当然関心を寄せるべきにも関わらず平然と無関心であることはたくさんあるのであります。    【】

たとえば反省ということに無関心なために過ちを繰り返えして、ついには取り返えしのつかないような大きな過ちを犯したり、また氏子として当然心にかけて行なうべき家庭の月次祭などの家庭祭事に無関心であるために、氏神さまや祖霊さまとの距離がだんだん遠くなってしまってはならないのであります。

 思いますのに、氏神を信仰しながら当然関心を持たなければならないことに無関心であることは、氏子であると同時に惟神会員であるという同時原則に対する認識が不徹底だからであります。

 さらにまた自分は御神許によってつくられた惟神会という神人共存の団体の一員であるという団体精神に徹しないで、ひとりよがりの抱えこみ信仰に堕しているからであります。

 氏神信仰者として、当然関心を寄すべきことに無関心で過してはいないか、謙虚に反省してそのあやまちを正して頂きたいのであります。            以 上

 

                    (昭和四十三年六月十六日 八意思兼大神月次祭における講演要旨)


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