われら何をなすべきか   P12

 

    惟神会委員長            均

 

 本会は、畏くも八意思兼大神さまの大みいつのもとに、昭和三年五月十九日に発足して今日に至っているのであります。

 例年この日をもって創立記念祭をお仕え申し上げているのでありますが、本年は満三十五周年にあたりますので、その意義ひとしおなものがあるのであります。

 われわれはこの日を迎えるたびに故岸会長先生の筆舌につくされぬ御苦労に対しましては感謝のことばも見出されないほどであります。

さらにまた、平田篤胤大人命が本会創立以来霊界における本会々長として、われわれ会員を御指導御統率下さっておられるその御苦労に対しては、われわれは(かみ)(おきて)のまにまに、絶対服従の精神をもって感謝のまごころと御神業奉仕の()(ごころ)を振い起さなければならないのであります。

 平田先生は天保十四年九月十一日御齢六十八才をもって帰幽されたのでありまして、本年は百二十年祭の年に当ります。追って適当の機会に感謝と慰霊の祭典をお仕えしたいと存じます。

先生の辞世に

  思ふこと一つも神に務めをへず今日やまかるか(あた)らこの世を

とありますが、われわれはこのお歌を拝誦するにつけ、わが身の努力のいたらないことをただただ恥じいるばかりであります。なお歴代の委員長先生を始め先輩諸氏の方々のひたむきな御努力に対しては、ここに謹んで感謝申し上げる次第であります。

申し上げるまでもなく本会創立の目的は、真の惟神の大道を広く世に宣布して、敬神崇祖の氏神信仰と四魂具足の絶対善をもって国家万民を救うことの一点に存するのであります。すなわち御神業と(たた)えまつる所以であります。

 大神さまが故岸会長先生の切なる懇願を容れられて、天平九年以来かくろいましまされた京都藤之尾の地からお出ましになり本会を(いづ)磐境(いわさか)としてお鎮まりになられましてから、ここに千数百年来閉ざされていた真神霊界の扉が開かれ、大神さまの偉大なる御経綸のもとに氏神奉斎という御神業がことはじめさせられたのであります。

 われわれが氏神を奉斎し祖霊を祀って敬神崇祖、四魂具足の信仰にいそしむのは、ただ単に自分の一身一家の安泰を望むことだけにとどまるべきでなく、さらに進んでこの正道を広く世に宣布して真の惟神の信仰によって国家万民を救わんがためであります。

 四魂の信条は、四魂具足の内容を各魂について(おし)えているのでありますが、この信条のどの(くだり)をとりましても、自分個人だけのことに終始しているのではなく、奇荒和幸各魂それぞれの過不足のないはたらきによって自分自身の四魂的大成を期すると同時に、それによって大成された自分自身の力をもって世のため人のためにつくすべきことを(おし)えているのであります。

 四魂具足し或いは四魂具足を目ざして努力することだけが、神人感合を得るただ一つの

方途でありますから、氏神信仰の最終最大の目的は他を救うことによって自分も救われるということにあるのであります。

 申し上げるまでもなく他人を救うということは、他人の魂を救うことであります。多くの場合人間の吉凶禍福はその人の魂の如何に起因していることは、つとに惟神科学の教えるところであります。しかもわれわれの魂は(みおや)の神にまします氏神から頂いているのでありますから、魂を救って清浄ならしめるためには、なんとしましても魂の授け(おや)たる氏神のみいつを頂くほかはないのであります。

 真の氏神以外のいかなる神仏といえども、絶対にわれわれの魂を救って清浄ならしめることはできないのであります。でありますから万民を救うということは、結局、万民の魂を救うことにほかならないのであります。ここに国民各戸に氏神を奉斎させようとする御神業の御神業たる所以があるのであります。

 なるほどわが国の経済は、異常といわれるほどの発展を遂げつつありますが、それはいわば三魂的或いは神仙霊的発展でありまして、その(あかし)は過去においてもまた現在においても、これを随所に認めることができるのであります。したがいまして、生成発展弥栄の真の惟神の道にのっとり、わが国の経済を四魂的或いは真神霊的経済にまで高めることが必要でありますから、この面におきましても真の惟神の大道の浸透(しんとう)(しみとおる)と実践が要望されるのであります。

 いわんや国民の精神生活においては、敬神崇祖、四魂具足の真の惟神の大道によってつらぬかれなければならないのであります。

 古来、わが国民の精神生活の基本となっているものは、大祖神天照大御神の依さし給える道でありまして、敬神崇祖の信仰と四魂具足の道以外にはないのであります。

 すなわち絶対の信仰、絶対の道といわれる所以であります。

平田先生はその著 『古道大意』のなかで、天津神天照大御神の依さし給える惟神の道には、秘事(ひじ)口伝(くでん)などということは露ほどもなく、若しさようなことを申し立てるならばそれは邪道である。一体(まこと)の道というものは事実の上に(そなわ)っているものであるから、世の学者などが教訓ということを記した書物でなくては道は得られぬように思っているのは甚だ心得ちがいのことであると申されているように、わが国の真の惟神の大道は古今をつらぬき明々白々天下の公道を行く絶対の道でありますから、日本人たる以上は、あまねくこの道に随順して実践すべきであります。

すなわち 天照大御神―ニニギノ命―ニニギノ命第一世の御子神(氏神)という揺ぎない霊統の上に()てられた道であります。換言すれば天皇は天照大御神の直系にましまし、われわれ国民はその傍系になるのでありまして、したがって、国家の中心と信仰の中心とは完全に一致するのでありまして、氏神信仰が民族信仰といわれる所以であります。

また平田先生は、同じく『古道大意』のなかで、自分ばかりでなく、人にも語り聞かすのが人間の(まこと)の道であると仰せられているのであります。

 昭和八年十月六日の御啓示に

『日本に於いては宗教と国教とは区別してよろしい、真の宗教とは、本会で今説いているが如き国教の如きものをいう。国教とは民族教と考へてよろしい』とありますように、敬神崇祖の信仰と四魂具足の道は、国家万民が実践すべき信仰であり、また充ち満たすべき道であります。国教と申し上げる所以であります。                       

 この国教確立を目ざして努力するのが、すなわち御神業への御奉仕であります。

 故岸先生はその著『信仰読本』のなかで

『国教確立を目的としてする作業は、其の如何なる形式たるを問はず、皆之れは神に対する御奉仕というべきものである』と説かれ、さらに次のように御神業に御奉仕する心構えについて力説されております。すなわち『御神事に奉仕すれば必ず夫れ相当に物質的に御報酬があると信じてすることである。この種の考へ違いは、神を信仰によって使用せんとする意志のあるものには必ずあるのである』と戒められ、さらに先生は同著のなかで、『真の社会奉仕は物質を以てのみするものにあらずして非物質(精神)を以てするものである』と教えられ、また同じくその著において『神は常に真に我が身の上の万事を守護してくださるものである。無我(むが)(私心ないこと)にして御神業に就事せしめられるのである。無我の意識は神に頼りているのである』とも申されて、御神業に御奉仕するからには、私心なく我慾なくただまごころひとすじであらねばならないことを説いておられるのであります。

この無我の精神は、真の大道をつらぬいている鉄則であって、恩頼を蒙る随一の在り方であります。

 本会の霊界の会長にあられる平田先生は昭和四年四月二十八日春季大祭第一日に次のように御訓示されているのであります。

 本会員たるものは、自己の私利私慾、即ち自分の慾を先に解決仕様と思う心では、会員たるの価値はないのである。茲に於いて会員たる者は、モットモット心を広くもって、自己一個の考を棄て、日本のため、国家のため、この日本人を導くといふ強い心を常に有って居って頂えきたいのである。

 さらに先生はこの御訓示のなかで次のように仰せられているのであります。

 今集つている氏子達は、先覚者であると共に、此の日本国家を救済するところの犠牲者であると認めるから自己のことばかりを考へずに、本会に於て四魂具足の惟神の道を研究して、万民に教えを宣べ伝へる心になって貰ひたい。日に一分間でもよいから此の心になるやう希望するのである。

まことに平田先生は御生前、国学四大人の一人として、真の惟神の道は自分ばかりでなく人にも語り聞かせてその(もう)(くらいこと)(ひら)くべきことを強調され御実行になられましたが、いまや先生は神霊界において神格を得られ、八意思兼大神さまの大みいつのまにまに御活動なされて、右のようなわれわれの魂をゆさぶる烈々たる気魄をもって御訓示を垂れ給うたのであります。

 このようにして大神さまと氏神との仲執(なかと)りもちのお役は、すべて平田先生がなさっておられるのであります。でありますからわれわれは、氏子としてまた本会員として、平田先生の御訓示のとおりにわが身を処して行動するならば、かならずや氏神の恩頼(みたまのふゆ)を蒙ることができるのであります。神に二言はないのであります。

しばしば申し上げますように、みいつの天線は、大神さまにその大源泉(おおみなもと)を発し、氏神から氏子へと及ぶのでありますから、大神さまの御神業すなわち国教確立を目ざして努力を怠らないならば、われわれはこのみいつの天線に囲まれたなかで、身心共に安らぎを得て信仰生活を送ることができるのであります。

 反復して申し上げますが御神徳は御神徳のための御神徳でなく御神業のための御神徳であります。この道理をわきまえないでいわゆる(かか)え込み信仰に陥ってしまうと神さまは横を向かれ、邪神たちのつけいるところとなって不幸も避けがたくなるのであります。

 大神さまは氏神の総代表として

本会にお鎮りになつておられることを忘れてはなりません。

 氏神は、国教確立という大御神業を大祖神天照大御神から御付託(ふたく)たのみまかせる)を受けられている八意思兼大神さまの手足という御存在であります。

またわれわれ会員は、氏神の手足であります。

もともと日本神道の根本的在り方は、みこともちということであります。みこともちとは、天津神の御心(みこころ)をうけ継いでこれを実行に移すことであります。すなわち大神さまは、天照大御神に対してみこともちであられ、氏神並びに氏子は、大神さまに対しみこともちであります。われわれは、まことの惟神の信仰にいそしむからには、このみこともちということを忘れてはならないのであります。

 われわれが、氏子としてまた本会員として、国教確立という大御神業に対して献身的に努力すべきことは、このみこともちの精神からいっても当然のことであります。

 それでこそ大神さまの大みいつは氏神を通して氏子に及ぶわけであります。

 このわかりきった道理を忘れて、自分だけの抱え込み信仰に陥ってしまうのは、わけても戦後の幸福観が、「個人的」「利己的」に終始していることも大いにあずかっているのでありますが、本文冒頭にも申し上げたように、四魂の信条は決して自分一個の幸福だけを願っているものでなく、結局は世のため人のためにつくすべきであるという点に御注意願いたいと同時に、自分が真に救われるということは他を救うことによって達成されるという人間は個にして全であるという人間規定の第一義を固く持って頂きたいのであります。

 由来わが国の惟神の道は、(こと)()げせざる道であります。言挙げせざるとは、特にとりたてて、かれこれ論議しないことであります。

 たとえば四魂具足ということは、言挙げの必要ない絶対の教えであります。

 本文冒頭にも引用しましたが平田先生はその著『古道大意』のなかで、

(まこと)の道というものは事実の上に(そなわ)っている道である』と仰せられましたのは、わが国の真の惟神の道というものは、いまさらかれこれ言挙げを要しない事実の上に明らかな道であることを訓えられているのであります。

でありますからこの(まこと)の惟神の大道の精神から申しましても、われわれこの道を奉じるものは、かれこれ言挙げせずにただこれを実行に移すべきであります。信仰生活における素直さは、また言挙げせざる道においても当然要望されるのであります。

 国教確立という大御神業に対しては、いまさら言挙げの要はなく、ただ即時実行ということだけが要望されるのであります。

 それでこそ真の惟神の大道を信じるものの往くべき道が見出されるのであります。

    動物は行って言はず                     

    人間は言って行はず

という比喩(ひゆ)(たとえ)は実行心に乏しいわれわれ人間の、(いた)いところを()いてあまりないのであります。

 昭和八年十一月十六日の御啓示には

 御神業は絶対服徒にて神の御心と合致したる時御守護下さるものと決めてよろしい。

 また昭和九年七月十三日の御啓示には

 氏神等の方でも今日までこの信仰の宣伝の心があるものと

無いものとを区別して守護した。

とありますように、国教確立という大御神業に御奉仕することは、大神さまの至上命令と解すべきであります。

 われら何をなすべきか

 答はただ一つ、国教確立という大御神業達成を目指して、

新会員増加の猛運動に挺身努力することであります。

 最後に平田先生の歌を拝誦して心の誓いといたしたいと存じます。

   為せば成り為さねば成らず成る業を成らずと棄る人のはかなさ

 

             (昭和三十八年五月十九日 惟神会創立三十五周年記念祭における講演要旨)

                 以 上

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