発行者:桑原由紀子            2003年1月10日発行
皆さま、明けましておめでとうございます。賀状有難う
ございました。読者の皆さまには毎年、1月発行誌面にて
ご挨拶させていただいてる次第です。思えば、「子供が生まれ
ました」から始まって「(子供が)結婚しました」「孫ができ
ました」「元の二人の静かな暮らしに戻りました」などなど、
みんなそれぞれの歴史を経ての2003年の始まりです
 今年もまた、今までのご縁を大切に、新たな出会いに期待
して、感謝と笑顔を忘れないで頑張りたいと思っています。
改めて本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
ところで、前号ご紹介した「アストロラマのエピソード」はいかがでしたでしょうか?
みどり館関係以外の読者からよく「アストロラマって何?」って質問されるのですが、
その答は今号で解決されるでしょう。今回また、奥野達郎さまの原稿より、アストロラマ
に関するさまざまを載せたいと思います。アストロラマを知ってる方も知らない方もあの
巨大な映像をイメージしてみてください。アストロラマが世に出たいきさつなど、私も今、
初めて知りました。NHKの「プロジェクトX」なみですね。
 智恵と勇気、努力と行動の結果、あのようなすばらしいものができたのだと思います。
では、奥野さまの原稿より・・・・
ア ス ト ロ ラ マ 以 前
【ドーム映像】
我国初のドーム映像は、アストロラマの1年前に「アストロビジョン」の1号機として、山梨県の
遊園地に納入されました。
これは、アストロラマを受注するためのデモンストレーション機器の天頂部分を独立させたもの
でした。アストロビジョンのデモフィルムを撮影していた時の事ですが、新宿の駅前でカメラのレ
ンズを空に向けて撮影していたら、側を通った若い女性いわく「この人空を撮ってるわ」。ちゃん
と地面から空まで全部撮っていますよと言いたかったけれど、魚眼レンズの説明をするほど暇
ではなかったので、無視しました。
デモ機は周囲5台、天頂1台の合計6台の映写機で、直径18mのドームに映像を映しました。
みどり館の関係者にも見て頂き、アストロラマの受注へとつながったのです。
このデモ機に先立ち、ドーム映像が実現可能であることを証明するために、3台の映写機で直
10mのドームに映像を映しました。新聞発表や映画関係者への試写等を行い、かなりの反
響を呼びました。
映写ができたということは、撮影もしたということで、当然3台の撮影機(アイモ:撮影機の名称)
を連動させた実験機をつくり、ロケに出かけたのです。
【全周映画】
当時一般公開していた映写方式は、全周映画でした。それも、9台か11台の映写機を使い、9
面か11面の多面体(各画面は平面で、円筒でも球面でもない)スクリーンを採用していました。
スクリーンの境目には黒い帯びがあり、映写方式をサークロラマとかサーキノと呼ばれていました
映像がつながっているといえば、言えなくもないのですが、水平な直線が画面の境目で折れ曲がって
見え、なんとも不自然なものでした。それでも、車で移動するシーンでは、すれ違った
車がそのまま後ろの画面に映っている等の、平面スクリーンでは体験できない現象が
あり興味を引きました。
【全天全周映画】
全周映画に空の部分を付けたら、すばらしいものが出来ると考えた
のが、五藤光学の先代社長でした。
全天全周映画(後に全天周映画との呼び名が使われるように
なった)の名称は、空の部分の全天と周囲の部分の全周を、
同時に映写するというところから命名されました。
【アストロラマの誕生】
1970年3月、みどり館でアストロラマとしてデビューしたのです。
会期中の人気や評判は、皆さんがご存知の通りです。
ということで、全天全周映画“アストロラマ”が生まれたのですね。
命名は秋山さんってお聞きしましたね。
これから先、撮影の場面でもいろんな楽しいことや、ご苦労があったようです。
撮影に関しては以前、秋山さまからも原稿をいただき、皆さまにもご紹介しましたが、
また、別の角度からもお楽しみいただければと思います。では、引き続き、
奥野さまの原稿より・・・
【ロケ隊:九州編】
ロケ隊に同行した思い出としては、ユニットカメラを東京の晴海から鹿児島へ船で運んだこと
です。船は晴海から鹿児島経由の沖縄行きでした。当時沖縄は返還前で、鹿児島から先に行く
人はパスポートが必要でした。(我々は鹿児島で下船するので必要ありませんでした)
晴海を出航したのが夕方で、鹿児島に着いたのが翌々日の朝でした。なんと35時間も船に揺
られ通しで、鹿児島に降りてから1時間位は目が回っていました。(まともに新聞が読めません
でした)
船内に居た時も、ひたすらベッドで横になっているだけで、他には何も出来なかったことだけ覚
えています。いつ何を食べたかも覚えていません。
九州ロケでは、桜島の溶岩、宮崎の埴輪、臼杵の石仏等の撮影をしました。(私は機材にトラブ
ルがない限り見ていただけですが)
【ロケ隊:北海道編】
北海道ロケでは、雌阿寒岳の原生林、硫黄山での土方巽さんの踊り、阿寒湖の花火等を撮
影しました。
雌阿寒岳の麓では、原生林にカメラを置いて、太陽が木の間を移動するシーンを駒撮で撮影し
ました。天候の関係での待機中や、撮影中にはすることがないので(カメラに近づくと画面の中
に写ってしまうから)、私は2,3人で雌阿寒岳に登ったことも
ありました。宿の人が今日は大丈夫と言ってくれたので登ったの
ですが、本当は活火山で煙も出ていて登山禁止でした。
【宿での出来事】
ここの宿の電話で面白い話しがありました。今はもうないと
思いますが、宿から掛けている電話の声が、FMラジオから明瞭
に聞こえてきたのです。
それは、スタッフの一人が知り合いに電話していた時、私が
たまたまラジオを触っていて、FMの受かるところを探していたら
なんとスタッフの話し声がラジオから聞こえてきたのです。後はご想像にお任せしますが、かなり
冷やかされていましたね。
【朝の散歩】
宿の近くにオンネトー湖があり、散歩したこともありました。水に色が着いているのに透き通っ
ていて、湖底の小石がよく見えました。6月下旬だったと思いますが、蕗が大きな葉をつけ、あち
こちに自生していました。確か、ぜんまいも生えていたように記憶しています。
【ネオン】
宿の周りには人工的なものが何もありませんでした。
雌阿寒岳麓の宿に全員が宿泊した訳ではなく、二手に分かれました。
ネオンが恋しい飲べー派は阿寒湖畔に、自然大好き派は雌阿寒岳の麓にそれぞれ宿泊したの
でした。  秋山さん、相原さんは湖畔へ、私はもちろん麓でした。
220°の魚眼レンズ】
220°の画角を持つ魚眼レンズをテレビカメラに取り付けて、ユニットカメラの中央付近に固定

し、ユニットカメラ全体のモニターとして使用しました。

もしこれがなかったら、撮影中にどのカメラ(5台あるから)に、どんな映像が写っているか、見当
がつかなかったでしょう
このレンズは当時、一般には売り出されていなかったものです。日本光学がNASAからの特注
で作ったものの試作品を借用したのでした。
アストロラマが5台のレンズを使って撮影したのと同じ範囲を、
1台のレンズでカバーしてしまう優れものでした。
水平から20°も下から来た光線を、レンズの中を通る間に約
90°も曲げて、フィルム面まで到達させ、更に等距離射影方式を
採用しているのだから、驚きです。
このタイプのレンズは、万博後に商品化され、更に改良もされて、
今ではもっと明るいものも出ています。
【大林組の工事現場の皆さん、お世話になりました】
映写機の据付工事では、大林組の現場関係者に面倒を
見て頂き感謝しております。入場証もない状態で、大林組の
現場事務所に行き、何とか頼み込んで仮の通行証を頂き、
助かりました。
本来は、みどり会が発行すべきものだったのかな?
【現場監督さん本当にごめんなさい】
そんな中で、思い出されることが1つ有ります。現場監督さんに、
ひどく怒られたことです。それは、10月の夕方のこと。まだ丸太の足場が建物の
外側に組まれていた時のことです。
その日の作業が終わり、私が、通勤に使っていた車を取りに行き、仲間の居るところ
(後のエントランスホールあたり)に戻って来たときのことでした。
今思うと、なんであんなことをしたのか説明しにくいのですが、車を道路に止めないで、
そのまま多数の足場の間をバックで進めて、ドームに横付けしてしまったのです。
仲間が乗り込んで、出ようとした時、ちょうど帰る人達が出てきて、その中の1人が血相を
変えて、近づいて来たのです。後は書きたくありませんので、ご想像にお任せします。
確かに、もし足場に車が触れて屋根に傷が付いたり、壊れたりしていたら、本当に
どうなっていたか…。まあ、今頃こんな原稿が書ける状態には、なっていなかったでしょうね。
’69年の暮れ】
暮れも押し迫った20日頃だったと思いますが、あの寒いコントロール室で「誕生」のダビング
が行われました。ダビングは、フィルムに合わせて音を入れていく作業です。
一般には録音スタジオでする作業ですが、アストロラマの映写機は、ここにしかありません
ので、作曲者の黛敏郎氏自身がお見えになり、何度も映像を見ながら音を入れていきました。
映写機が5台もあり、映写の準備も大変でした。
【電気ストーブが1台】
黛氏と日本無線の片山氏と私は、準備が出来る間「寒いですね」と言いながら、たった
1台の電気ストーブに手をかざしながら、ひたすら映写準備が終わるのをコントロール室で、
待っていました。電気ストーブは、本当に気休めにしかならないのです。近付き過ぎると
火傷をするし、離れると寒いし、部屋は暖まらないし、電気ばかり食うし。それでも、
石油ストーブの使用許可は出ないのです。理由は、火災になる可能性があるから。確かに、
ここまで出来ている建物で火災を起こしたら、どうすることも出来ないから、
我慢するしかないのでした。
確かに3月の開幕時にも雪が降るような寒い年だった記憶がありますね。奥野さま、いろ
んなエピソードを有難うございました。33年の空白が一瞬かき消され昨日のことのように
思い出されます。
人生の折り返し点を過ぎ、さらに自分の生き方がはっきりしてきた
ような・・・これからも沢山の出会いを重ねて自分の人生を歩んで
行きたい。  人は一人では生きて行けないから・・・
沢山の人にかかわりながら、沢山の人の世話になりながら・・・
いっぱい感謝して歩んで行きたい。
皆さまのご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。
「アストロラマ」が発行できることに感謝して、115号を
お届けします。    では、次号をお楽しみに。