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| 支部総会を兼ねて、講演会を、「下水道人の夢を語る-長与専斎、バルトン、久保赳、そして関西の群像-」と題して開催しました。 講師に大阪経済大学名誉教授 日本下水文化研究会評議委員の稲場 紀久雄氏にお願いし、明治から現代までの”下水道人”、”水守り”の活躍と夢について話を聞き、これからの水問題を考えました。 41名の参加者があり、関西支部の最後の講演会にふさわしい講演会となりました。 |
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会場の大阪市下水道科学館 |
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主催 一般財団法人 都市技術センター、NPO法人日本下水文化研究会 関西支部
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講演 「下水道人の夢を語る-長与専斎、バルトン、久保赳、そして関西の群像-」 |
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講演の概要 <第1部>夢は時空を超えて伝播する (1)久保さんの祈り 久保 赳氏は敬虔なクリスチャンで、義侠心が強く、正しい道を忍耐強く探し求めた強い人だった。 “下水道人の夢とは何か。”この課題について、久保さんは「稲場君、一番大事なことは水の基本法の研究だよ」と厳しい口調で、峻拒された。 私は、久保さんの「不滅の真理」とは「下水道によって水を守り、生命を守ること」であり、そのために「水の基本法」が不可欠なのだと肝に銘じた。 私も基本法制定運動を起こし、余曲折を経て遂に2014年4月「水循環基本法」が成立した。 |
(2)長与専斎の衛生行政と下水道 専斎は、文部理事官田中不二麿の随員として欧米医学教育制度調査のため同年11月12日アメリカにわたり、専斎の眼は、公衆衛生行政の存在を見逃さなかった。 専斎は、公衆衛生行政の導入こそ喫緊の課題と考え、“畢生の事業としておのれ自らこれに任ずべし”と決意した。 専斎は、1875年(明治8年)6月医務行政が内務省に移管された時、「衛生局」を創設、局長となった。この年が「わが国の衛生行政元年」である。 (3)専斎の総合対策 専斎は、1882年~1884年(明治15年~17年)にかけて一連の施策を進めた。 第一に国民に近代下水道の実物を見せるべく、モデル事業として神田実験下水道建設に踏み切った。 第二に国民の衛生思想の普及啓発機関として大日本私立衛生会を設立し、上下水道事業を含め様々な衛生問題の相 談に応じた。 第三に事務官永井久一郎(永井荷風の父)をヨーロッパに派遣し、上下水道事業制度の調査に当たらせた。永井は、帰 国後ヨーロッパの上下水道事業の財政と法制の諸制度を報告すると共に、それを『巡欧記実衛生二大工事』として 刊行した。この書物がわが国最初の衛生工学の専門書である。 最後に、専斎は、・神田実験下水道の経験を通じて、次の重要な問題提起を行った。「汚水モ共ニ通スルナラハ、神田川 モ汚水溜ト同シコトニナルヘシ。」 (4)バルトンの運命的な来日 バルトンは、何故日本に来たのか。来日直前、バルトンは、ロンドンで既に成功していた。 バルトンの周辺の人間模様を考えれば、バルトンが少年時代から日本の情報に模し、関心を持っていたことは充分想像できる。その上、日本は、ヨーロッパを席巻したジヤポニズムの芸術の国。プロ中のプロの写真家バルトンのことだ。来日動機は、損得勘定を超えた憧れのようなものでなかったか。バルトンの来日は、運命的としか言い様がない。 (5)幻の下水道計画 わが国最初の下水処理計画が1889年東京市区改正委員会に提出された。計画策定者は、バルトンを主任とし、専斎も委員に加わった「上水下水設計調査委員会」である。専斎の厳正な吟味をクリアした計画と考えて良い。 計画の概要は、処理対象は生活雑排水(し尿を含まない)、排除方式は分流式、処理方式は間断向下濾過法(いわゆる緩床濾過法)という本格的内容である。 この計画は、財政的理由から建設されなかったので、「幻の計画」となったが、生活雑排水のみを対象に下水処理を行うという画期的なものであった。 (6)バルトンが遺した学統 バルトンの学統は、特に大阪、京都に残った。 帝国大学工科大学士木工学科衛生工学講座は、バルトンが台湾に去った後、中島鋭治が引き継いだ。このため中島の弟子たちが上下水道の学界に影響力を持った。 バルトン直系の大藤高彦、 1897年(明治30年)京都帝国大学工科大学創設と同時に大学の助教授になり、留学から帰国すると直ぐ教授に昇任した。大阪市、京都市、鳥取市、福井市などの上下水道事業を指導した。 大阪市も京都市も草創期の上下水道計画策定にバルトンが関わっている。 大阪市の上水道計画は、H.S.パーマーが策定したが、最終的にバルトンの意見を入れて修正された。 上水道工事に当たった滝川釼二、神戸市の上水道事業に携わった佐野藤次郎、両名ともバルトンの弟子である。 一方、下水道工事は、明治27年から「上水道布設付帯工事」として開始された。江戸時代から使われていた「背割下水」を活用した下水道工事で、バルトンはコンクリートの品質問題などに技術的な助言を与えた。 京都市では1894年(明治27年)から下水道建設の調査が行われ、翌年8月にはバルトンを迎えて計画策定の協議を行ったが、大藤高彦に引継がれた。大藤は、「下水道工事調査報告書」で分流式を提案したが、財政上の理由で実現に至らなかった。 大藤は、淀川中流域の最大の都市・京都市に本格的な下水処理場を備えた下水道計画の策定が必要だと考えていた。 大藤は、1922年(大正11年)、島崎孝彦を大阪市下水道課長に据えた。こうして、大渾-島崎の師弟コンビによって「下水処理の本格的調査」が始まった。島崎は、市岡ポンプ所内に活性汚泥法の実験処理場を設けた。 (7)大藤-島崎師弟の夢-下水処理と水源保護- 大藤と島崎の基本思想は、直接的、間接的に久保に引継がれ、現代の下水道事業制度に反映されている。この意味で、久保もバルトンの学統に繋がっている。 島崎は、水道部長に昇任した。 市岡ポンプ所の実験場は、排水区域92ヘクタール、人口26、000人、計画汚水凌5000トンまさに実用規模の実験処理場で、実験成果は、津守、海老江処理場の設計、運転管理に活かされた。 島崎は、関一大阪市長とは就任当初から1935年(昭和10年)1月関が現役のまま急死するまで名コンビだった。 関によって、下水道使用料制度、下水道受益者負担金制度が導入され、事業の財源基盤が確立した。 島崎は、退任直前の1940年(昭和15年)2月「水道源水保護について―大阪市水道の事例を中心に―」を水道協会雑誌に発表し、「源水保護地区設定」を提唱した。大阪の水道水源を保護するには、京都市の下水処理の早期着手が不可欠であった。 (8)久保を育てた関西の群像 久保が生粋の下水道人になったのは、島崎同様運命的であった。その影には、原口忠次郎、海淵善之助、岩井四郎という関西の関係者がいた。三人は、いずれも京都帝大工学部土木工学科の卒業生である。原口は1916年(大正5年)卒、海淵と岩井は同期で1930年(昭和5年)卒である。 原口は、内務省から満州国を経て神戸市の戦災復興に当たり、その後、参議院議員から神戸市長になった。 海淵は、卒業後、京都市に入って吉祥院処理場や鳥羽処理場の設計に当たり、戦後原口に招聘されて神戸市の下水道事業に従事し、その後目水コンの専務取締役になった。 岩井は、大阪市水道部に入った。当時の水道部長は島崎だったから、島崎の影響を受けている。岩井もまたバルトン-大藤の学統につながる。 久保は、以上の三人の指導で生粋の下水道人になった。 久保は、北大を1944年(昭和19年)9月卒業、満州に渡り官吏養成の大同学院で学んだ。 1946年(昭和21年)10月札幌に引揚げて来た久保に恩師井口鹿象教授が神戸市の原日吉次郎戦災復興本部長に会い、原口の仕事を助けるよう勧めた。原口は、戦災復興を機に神戸市の下水道整備を一挙に進めたいと考え、海淵善之助を招聘していた。原口は、久保を海淵に引き合わせ、海淵の下に配属した。 こうして、久保は、原口という人生の師と海淵という技術の師を同時に得た。 久保は原口の斡旋で1948年(昭和23年)11月建設省水道課に入った。 水道課長は、岩井四郎であった。岩井は久保に、自分が執筆を進めていた博士論文 『砂濾過池を中心とする浄化機能』に必要な実験に当たらせた。このため久保は、1950年(昭和25年)の前半、淀橋と金町の浄水場で緩速濾過と急速濾過の実験に明け暮れた。 久保は、実験が終わった直後、結核が再発し、病の床に就いた。 久保は、戦後、水道行政三分割までの12年、人生で最も苦しい日々を過ごすが、その中で下水道人としての夢を育んだのである。 ) |

| <第2部> 水道行政三分割から60年 その意味を問い直し、次なる60年を考える (1)はじめに 「水道行政三分割」(以下「三分割」)は、1957年(昭和32年)1月18日断行された。現状は、三分割の終着点。 三分割から現在までの間に、島崎、藤原、久保、三人の水守がそれぞれ夢を語り、最後に水循環基本法が制定された。だが、現在は水守と評価される人でさえ、断片の中で育った人だから、基本法を自分の問題と考える人は殆どいない。 しかし、やがてその限界を感じる時が来るだろう。そして、久保が遺した課題は、次第に輝きを増し、次なる60年の方向を照らし出すと信じる。 (2)三分割で葬り去られた総合政策 三分割以前は、上・下水道行政は「水道行政」に一括され、厚生省が主に事務管理、建設省が主に技術管理を所管する共管行政であった。 「総合政策」とはどのようなものだったか。「生命の水」を守るため水道条例を廃止し、新水道事業法の下で「水源保護区域」を指定し、水道原水の水質保全のため悪質工場排水の規制などを果たすものである。 1954年(昭和29年)5月政府提案(閣法)の水道法案が国会に上程され、参議院先議となった。この法案の基本的な考え方は、三分割後、厚生省が単独で提案した水道法案のそれとは全く違っている。 以下に重要条項毎に要点を説明する。 (用語の定義) 第2条 この法律において「水道」とは、飲用その他の日常生活、業務、消防又は鉱工業等の需要に応じて、水を供給する施設で導管の設備を有するものの総体及び導管等によってこれに水を供給する施設の総体をいう。(以下略) (水源保護地域の指定及び解除) 第26条 主務大臣は、上水道事業のために特にその水源の水質を保護し、又は水量若しくは水位を保持する必要があると認める時は、一定の地域を限って水源保護地域に指定できる。(以下略) (水源保護地域内における行為の制限) 第27条 水源の水質を保護するために指定された水源保護区域内においては、都道府県知事の許可を受けなければ、汚物、下水又は工場若しくは事業場の廃液若しくは廃物を投棄し、放置し、その他これらの物が水源に流れ込み、又はしみ込むおそれかおる行為をしてはならない。(以下略) (主務大臣) 第42条 この法律の定める主務大臣の権限は、左の各号に定める区分に従い、当該各号に規定する大臣が行うものとする。(以下略) 1簡易上水道については、厚生大臣 2簡易上水道以外の上水道については、政令の定めるところにより厚生大臣、又は建設大臣/ 3(略) 4もっぱら鉱工業の需要に応じて水を供給する事業用水道については、政令の 定めるところにより、通商産業大臣又は 建設大臣 5(略)/ 6(略) 2前項第2号から第5号までの規定に基づく政令を制定するに当たっては、なるべく同一の事項について2以上の大臣がその権限を行うこととならないようにしなければならない。 この法案は、継続審議、廃案の道をたどり、再上程されなかった。政府は、行政改革を先行し、その後法案を策定し直して、再上程する道を選んだ。このことが結果的に総合政策を葬り去る結果になった。 (3)水道行政三分割は、何をもたらしたか? 行政改革「水道行政三分割」は、“下水道行政を二分割した”ことが問題だったのか。決してそうではない。三分割は、各事業の本質を歪めたのである。 [上水道事業] 上水道行政は、三分割の功罪について評価を欠いている。上水道行政も傷ついた。現在の上水道行政が三分割後の水道法の枠の中で進む以上、例えば利根川ホルムアルデヒド事件等が再発した場合、的確に対応できない。このことは、国民にとっての不幸である。 [工業用水道事業] 「工業用水」は商品であり、料金はサービスに対する代価である。商品の価格は、「適正」であるべきだとは言えても、第1条目的の「低廉」である必要は無い。まして通達では、「適正な原価」の算定費用項目に「適正な利潤」を明記している。工業用水道事業は、上水道事業に悪乗りして公共性の仮面を披っている。 60年という歳月を経た今、経営形態を見直すべきである。 [下水道事業] 建設省水道課は廃止され、同年4月30日下水道課が誕生した。それから1年後の1958年(昭和33年)4月24日新下水道法は公布された。新下水道法の策定は、難航した。激務の中から、終末処理場の放流水に厳しい自己規制を課す(第8条)政策が産み出された。 岩井課長が民間人になって3年後の1962年、「どんな形でも水道行政一元化はできなかった。水道界そのものの一元化に対する認識と熱意が足りなかったのではあるまいか」と回想している(水協誌第332号、81頁)。 一元化とは、上水道、下水道、工業用水道、いわば三水の完全統合が目標だったのだ。 (4)水道行政三分割の連鎖反応一水質二法の誕生- 新下水道法が公布されてから2ヶ月弱の1958年6月10日、本州製紙江戸川工場に浦安の漁民約1000人が押し掛け、警察隊との乱闘事件が起こった。 内閣審継室の吉田信邦室長は、関係各省による対策会議を開いた。室長は、河川法第19条に「流水の清潔」という条項があるから、河川管理を強化した水質汚濁防止法の策定を提案した。建設省河川局は、何故か反対した。 一方、産業振興にとって工場廃水規制問題は重要で、7月24日、通産省は「工業汚水等の処理に関する法律案」を臨時国会に上程する決定を行った。 政府は、9月9日「水質汚濁防止対策要綱」を閣議了解し、経済企画庁が水質保全行政を担当、「水質汚濁の規制に関する法律案」を臨時国会に上程することを決めた。ここに河川管理の総合体制は崩れた。水質管理行政からの撤退である。 かくして、1958年(昭和33年)12月25日水質二法、即ち「公共用水域の水質の保全に関する法律」(水質保全法)と「工場排水等の規制に関する法律」(工場排水規制法)が公布された。 「水道行政三分割」という行政改革は、水道法、工業用水道事業法、下水道法、水質保全法、工場排水規制法の五つの個別法及び水質規制機能を損なった河川法を誕生させた。清掃法は、下水道法が都市域を対象にした特別法として終末処理場を包含する法体系となったため、改正されなかった。工業用水法は、三分割直前誕生したが、地下水保全法は今(2017年の今)もって未制定である。 留意点は、水質規制がいわば自主規制となり、通産行政の意志が貫かれたことである。以上を通観して、「水道行政三分割」とは“取排水の総合管理体制を構成する行政要素の分解”、つまり縦割化である。そこにはメリットもあったが、同時にディメリットも存在した。 (5)水道行政三分割から60年間の顛末 各事業関係者は、個別化された狭い枠の中で60年間も安住し続けた結果、隣接事業の問題点すら分からないように見える。この間、総合化回復の努力は、何も無かった訳ではない。 [下水道事業] 三分割以降60年間の前半(久保時代)、二分割された下水道行政を一元化し、流総計画制度を打ち立てた。 しかし、後半は、前半とは異質で、混迷の様相を深めている。 [上水道事業] 水道事業者は水源水質の汚濁激化に堪り兼ね、水源汚染関係者に正式に意見を述べ、対策を要請できる法的根拠を整えた(水道法第43条)。生活環境審議会は、1993年「水道原水水質保全事業の実施の促進等に関する制度について」答申した。 この答申を受けて厚生省と環境庁との間で熾烈な所管争いが起こった。 その結果、環境庁は「特定水道利水障害の防止のための水道水源水域の水質の保全に関する特別処置法案」を、厚生省は「水道原水保全法案」を上程することに決まった。両法律は、1994年3月4日成立したものの、意図通りには機能しなかった。 水道事業者が頼れる手段は、費用を度外視して超高度浄化技術を導入する以外にない。水道事業者は、完全に受身な状況に追いやられているのである。 [工業用水道事業] 工業用水は、水道水とは性質が違う訳だから、60年も経った現在、純粋に「経済財」としての取り扱いを打ち出すべきではないか。 (6)久保の基本法に向けた遺志 久保の基本法に対する考えは、次のようなものだ。 「わが国には水量と水質とを合めて総合的に水管理の原則を明記した法律はない。根本的な問題解決のために水(管理)基本法の案現に向けて努力しなければならない。下水処分の機能は、水の保全と河川の水量と水質の管理と共に、水循環全体の一部として考えなければならない。私は、やれるところからやったつもりだ。下水道法には「流域下水道」、「流総計画」が明示されている。さらなる目標は、流域に着眼し、地表水だけでなく、地下水をも含めて総合的に管理する方向で「水(管理)基本法」を明らかにすることである。その上で、下水道法を改正し、下水道でできることはここまでと明示し、事業を進める。」 (「久保赳自伝一熊蜂のごとく―」、228、229、232、233頁)。 (7)水循環基本法と上・下水道事業 水循環基本法(以下「基本法」)の目的は、損なわれた水循環サイクルの再建である。 基本法の目的(第1条)は、「健全な水循環の維持又は回復」である。基本理念(第3条)は、六つの原則で構成されるが、主要なものは次の4点である。 第1:健全な水循環の維持又は回復の取組みを積極的に推進すること。 第2:水(地表水・地下水)は、国民共有の貴重な財産であること。 第3:水の適正利用が行われ、国民がその恵沢を将来にわたって享受できること。 第4:流域に係る水循環について、流域として総合的、一体的に管理されること。 以上の理念を基に第14条「貯留・涵養機能の維持及び向上」、第15条「水の適正かつ有効な利用の促進等」、第16条「流域連携の促進等」を規定している。 政府は、基本法第13条に基づいて2015年7月「水循環基本計画」を公表した。 上下水道事業に直接関わる項目は、主として「2貯留・涵養機能の維持及び向上(4)都市」と「3水の適正かつ有効な利用の促進等(1)~(4)」で、代表的記述は、次のようなものである。 「水道事業、下水道事業、工業用水道事業等の事業基盤の強化のため、今後の人口規模等を見据え、地域の状況に応じた施設整備や事業運営が必要となる。このため、必要に応じ、更新等に合わせて、施設の統廃合やダウンサイジング、広域化等による施設の再構築、経営の統合や管理の共同化・合理化を図るとともに、民間の経営ノウハウ、資金力、技術力の活用を図るための官民連携の支援を行う。」(3(3)水インフラの戦略的な維持管理・更新等の第5項) 基本法は、個別法の上位法だから、個別法の所管省庁には、基本法の法意を個別法に反映させ、法律運用の適正を期する義務かある。水循環基本計画にはそのための努力の形跡は伺えない。 上下水道事業は、相互に入り組んでいる。東京都でさえ配水量が、減っている。今や高度経済成長時代と同じ「普及率向上」という御題目では事業基盤の強化は出来ない。今や、三分割とは逆の総合化、統合化の利益を追求する時代になった。 (8)コンセションの幻想、ビジネス・モデルなき循環の道 下水道人は、コンセションという幻想に生きているのか。 三分割から60年を経て、上下水道事業は共に利水事業に脱してしまったのか。大藤や島崎は、久保は、納得するだろうか。島崎は、50年前(昭和42年)「内閣に水政省または庁の設置を望む―人間は水に生きる―」と提案した。 久保さんは、「何よりも水の基本法が重要だ」と主張して、その実現のために自らの生命を縮めた。そこには、「水守」としての夢が輝いていないか。 私達が継承し、60年先に伝えるべきは何か。三分割体制が60年を経て一つの完成を見た今、三分割以前に立ち返って、次なる60年のおり方を考えるべき時ではないか。 水循環基本計画にも「官民連携の支援」などとある。しかし、利潤を追求する企業が利益の期待出来ない事業に参入するとすれば、自治体にとってそれは危険を招き入れる以外の何物でもない。企業は、慈善事業を行ってはいない。 問題は、国交省の下水道行政である。コンセション事業は、現時点では下水道法違反である。安易なコンセション導入は、下水道行政を歪める。 東日本大震災や利根川ホルムアルデヒド事件のような災害が勃発した時、運営権企業に適切な対応ができるか。導入するならば、公私の責任分界を法制化すべきである。 一方、国交省は、2015年(平成27年)下水道事業団法を改正し、「下水道工事代行制度(特定下水道工事)」(団法第26条1項3号、第30条-36条)を導入した。これは、コンセションとは真逆の制度ではないか。また、水コン協は、「上下水道事業運営支援業務活用の手引き」(平成28年)を策定し、「多様な官民協働」体制を模索している。 下水道事業は、「担当職員は、平成9年と平成25年とを比べると40%減少した。特に専門性の商い職員の減少が大きく、中小市町村では職員の絶対数が少ない」。 「公共下水道事業の経費回収率の推移(人口規模別)」を見る限り、コンセション導入は、人口30万人以上の都市に限られるのではないか。だが、そのような大都市は、自力対応が可能だ。問題は、人口30万以下の都市にある。 下水道行政上の問題がどこにあり、救済方法は何か。行政は、幻想でなない。 「循環の道」という政策も具体性を欠く。 リサイクル製品は経済財である。従って、下水道事業の公共側と市場側の責任分界を明確にしなければならない。 このような事業の先例が広域汚泥処理事業(エースプラン)であった。 (9)次なる60年に向けて―発想の転換と市民の奮起こそ― 人ロ動態は変わる。 2010年までをフェイズ①、以降をフェイズ②とすれば、施設更新だからと言って同じ施設の再建に合理性はない。フェイズ①では水運式施設だが、フェイズ②では加圧式計画が適当な場合がある。次なる60年は、単純な更新時代ではない。 次なる60年では、上水道と下水道の一体化が進むと同時に、水需給の合理化は不可避になる。さもなければ、ダムからの無効放流は増大の一途を辿り、上下水道使用者は過大な経費負担に苦しみ、経費回収率はますます鈍化する。中小都市の悲惨は、目も当てられない。 また、次なる60年は、大震災など災害対応、水環境の一層の快適化、湧水や地下水の質的・量的保全、環境衛生の向上などが求められる。雨水流出問題も、水循環の観点から都市の水景観や緑地との関係が出て来る。 さらに、次なる60年は、問題の両面を総合的に考える時代になる。例えば、平常時と非常時の両方、高水と低水の両方、上水道(動脈系)と下水道(静脈系)の両方、水循環と水環境の両方である。そして、河川流域ベースで計画化するのである。従って、上下水道一体整備の流域総合計画を策定する時代になる。 下水道行政は混迷している。補助金制度は、交付税制度にシフトして久しい。 下水協の活動は、空洞化している。文化研のようなNPO団体もエネルギーを欠く。誰が日本の水を守るのか。結局、水守は、私たち一人ひとりであり、「生命を守る」意志と行動力が頼りではないか。私たちの力は小さくても、集まると大きくなる。例えば、文化研は、バルトン記念石碑をエディンバラに建立したではないか。専斎も同じ思いで「私立衛生会」を結成したに違いない。 |
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2017.9.13 木村記
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