三次元漂流記 2004
ド迫力! [4月のモデル; 私の苦手なもの] 犯人はコイツです!
隣町の古墳公園の前の歩道橋の上に、こんなものが!
何ですか、コレ、3月ですよ。
この日はもの凄い風で、夢中で写真を撮りまくる私に、
おとうさん鯉が尾ビレを振りかざし、バッサ〜〜〜!
ひえ〜〜〜〜っ、思い出した。
私は、鯉のぼりが怖いんだった!
頭の上にある、大きなものが苦手なのだった。
今では見かけなくなったが、スーパーの入り口にいて、
屋根から首を伸ばして客を歓迎する恐竜も、
博物館の天井に吊るされた捕鯨船も、大嫌いだった。
右が、私を襲った兇鯉である!!!!!

□■■ Apr  27th

イラク派兵に反対する人は気を付けよう。
「反日分子」呼ばわりされ、並べて銃殺されてしまうかも知れない。
柏村とかいう、ファシスト議院に。


□■■ Apr  26th

側溝に大きなエビがいる。
違う。
ざりがにだ。
まっすぐで、日本ザリガニだのようだけれど、
まだ色がついていない、若いアメリカザリガニなんだろうな。
泥の中から、長〜い虫が沢山、にょろにょろしている。

興味深いアイドルがいる。
今時、考えられないほどに作り込まれたタレントである。
古い。
フィンガーファイブ級の古さなのである。
こんな「様式美」が、出来損ない流行りの今、何故、受けているのか?!
せっかくなら、歌をちゃんと教えてあげればいいのに。
というより、教えられる人間が業界にいればいいのにね。

新聞を読みながらオカンが
「ジュラ紀か、えらい古いな。」
すると、今夜の嵐の予報をテレビで見ていたオトンが
「うん。犬、玄関に入れとくわ。」
2人の間には、何億年もの距離があるらしい.....


□■■ Apr  25th

トカゲ!
この間、キョンが追いかけていたのと違って、小さくて、尻尾が瑠璃色をしている。
うちの庭はジャングル。
イモを植えてある花壇は、キョンが朝夕、ほじくり返す。
綺麗に囲われて守られているのは、ニャンの花だけ。

「可哀想。自分じゃなくて良かった!」
というのは、事実に目を向けていることにならない。
増してや涙を流すなど、他人事でなくてはあり得ないことだ。
問題意識とは、悲しみや同情とは離れた場所にあるもの。
志のない「感動」では誰も癒せない
世界は何も変わらない。

画一的な世の中だからというのは、画一的な考え方しかできないことの言い訳にはならない。
変わったことを言ってみたり、妙な格好をしてみたところで、それは天才を意味しない。
ただ、誠実に生きること、
考えること、
生き物としての志を欠く者に「個性」など無い。

君が馬鹿なのは当然だし、気の毒でもない。
勉強しないでそうなった。
今も、努力をしていない。
望んで、楽な馬鹿でいるのだから。

「私は馬鹿だから」
それで 考える事から逃げられるなら
「私は弱いから」
それで 耐える事から解放されるなら
それで叱られなくなったなら
見放されたということだ

「叱られている」ことが認識できない。
「文句」「見解の相違」だと思ってしまう大人がいる。
ちゃんとした人は、ちゃんと叱られて育つもの。
叱られた訳を理解することができる動物なのだから。
褒められなければ大きくなれない子は、
あまり大きくしない方が世の為だ。


□■■ Apr  24th

世話になる時だけ、親し気にコンタクトを取って来たかと思えば、用が済むと連絡を断つ。
得にならないこちらからの問いかけは、一切、無視、、、、、
頼みごとができると、
「御無沙汰してま〜す!」
何かをつなぎ止めているつもりなら、哀れだ。
それでも自分に魅力の無いことに気付く能力が無いなら、格好悪いが、幸せか。

プライドとは、体を張って闘う者だけが持ち得る、
独りで背負った荷と同じ重さのもの。
登った高さに等しくのしかかる、恐怖と孤独。


□■■ Apr  22nd

あの低い山々の向こうに、どんな神々が住んでいるのだろう。
空の際が真珠の粉で飾られる。
色彩でなく、まばゆさでなく。
音でもなく、静寂でもない。
一時を閉じ込めた絵のように、動かない景色。
惹き付けて放さない、しかし、恍惚とさせる訳でもない。


□■■ Apr  21st

読売・日本テレビ文化センターの「東京テクノ・フォーラム21」により新進研究者に送られる
「ゴールド・メダル賞」受賞者を紹介する、昨日の読売新聞の見開きの中に、この記述はあった。
「中絶胎児の神経幹細胞を増やしてサルの損傷した脊髄に移植し、治療結果を出すことに成功」
2つの生命を「モノ」扱いすることに対して何のためらいも感じられないこの記事は、
普段は流行りの「いのちを大切に」を叫んでいる記者が書いたのだろうか?
人間達は、自らを特権階級と誤認している。
少なくとも、人間社会に於いてはそうであるとの、大きな勘違いをしている。
研究者達の発言からも、この記事からも明らかなように、
「ヒト」もまた、法が人格を与えなければ「モノ」なのである。
「家畜」や「実験動物」と全く同じ。
理屈ではない。
法が守っているかどうか、それが全てなのである。
「全ての人」に、親が放棄した子供は含まれない。
クローン人間の是非など、議論されている筈もない。
本当に議論されているとすれば、それこそが矛盾である。
「人間の知恵の先端」にいると自称する人間達の意識がこれで、
人という「生命」を救う医療がどうして実現できるというのだろう?
それを説明できる人間は、1人もいない。
誰がもっともらしく、偉そうに、或いは物判りよさそうに語っても、
小泉首相の幼稚な屁理屈以上のものにはなり得ない。

動物実験の必要性を唱える研究者の主張には、説得力が無い。
動物実験のデータを過信することの危険性、安価で信用度の高い代替法の提案他への返答は皆無で、
ひたすら愛護団体を見下し、「家畜と同じ」と繰り返す。
果てには「家畜を育てて、殺して食べるという授業も必要」などと言う輩も現れる。
驚くばかりか、呆れる。
教科書の中で暮らし、脳が退化したのか、物心ついていないのか。
そんなレベルの、そんな心構えの連中がトップでいいのか?
彼等の言葉からは、生命への敬意が全く感じられないばかりか、
優越感に満ちた彼等からは、他の人間に対する侮蔑すらにじむ。
人類の為にどうしても必要で、やむを得ずやらねばならない、という口調では決して無い。
犠牲となる生き物の数を減らそうという当然の努力は、どこからものぞかない。
他の方法があると聞いても、耳を貸さず、言い負かすのに必死だ。
「道具として必要だからどんどん供給しろ」
「我々には使う権利がある」と
いう主張ばかりで、そこにはもはや「世の為」という精神すら無い。
「自由にしても良い」と言わせることで己の地位を確認し、
世に示そうとしているとしか思えない。
実験動物達の出所を知っていても、その倫理的責任は業者に押し付けるのだろう。
悪びれもせず、1週間前まではちょっとシャレた名前が付いていたかも知れない動物を切り刻み、
割り切ることができるのが高等動物であると、己に言い聞かせようとしているかのようだ。
下等動物であるが故の脅迫観念からとしか、私には思えない。
あなた達は救世主ではない。
その言葉から察するに、天才でもなく、当然ながら神でもない。
多分、誰かの恩人ですらないだろう。
新しい電気製品を開発した技術者と同じ。
いや、それ以下である。
そんな心で臨んでいるのなら。

「ヒト」は、愚かさ故、傲慢になる。
実際、生き物のなかでは能力に乏し過ぎるあまり、
動物全体から見れば、エリートでも物乞いでも、その差は無いに等しい。


□■■ Apr  19th

ウソツキ姫 ウソツキ姫
君は嘘を言わないね
都合の悪い話には
思わせぶりに微笑んで
幻の鱗粉をふりまく
嘘をついた訳じゃない
旅人達の錯覚さ
ウソツキ姫 ウソツキ姫
仮面の宴に舞う姫よ
愛も情も無いくせに
互いをキープしてるのさ
ウソツキ姫 ウソツキ姫
ナイショで本音を語ったね
他人の庭を荒らしても
城の窓辺を飾りたいと
ウソツキ姫 ウソツキ姫
君の鏡は嘘つきだね
だって美しいつもりなんだろ
ウソツキ姫 ウソツキ姫
正直な ウソツキ姫

都合のいい時だけ「純真な子供」になる大人は、責任能力を逃れようとあがく犯罪者に似ている。
2人以上寄ると、ちょっとしたカルト集団だ。
想像してごらん。
「ベビー服を着てマミラーをくわえたおじさん」を。
それが、君の憧れだ。
えっ、美男限定なの?!


□■■ Apr  18th

E.T.のDVDを観た。
最初は、リメイクだとは知らなかったが、何か動きがわざとらしく、興が覚める。
あからさまに取って付けた、話の流れにそぐわない、不必要なシーンが挿入されたりしている。
流行のジャパニメ風カットに再編集されている箇所も幾つかあり、
「ちゃんと見ていない人間にも理解できる(感動できる)工夫」がされている。
E.T.の表情までもが不自然だと思ったら、口の動きなどもCGでいじってあるそうだ。
最悪である。
そこら辺の「ちょっと金をかけた映画」になり下がっている。
天才バカボンが「平成バージョン」になって、作品としての命を失ったのに似ている。
「当時の技術で表現しきれなかった事が実現できた。」
と満足気に語る監督、それが本心なら、もう引退した方がいい。
手間と時間と金があればできるものは、「夢」でも何でもない。
困難だからこそ、スタッフ一同、職人達が知恵を出し合い、そこにとてつもないアイデアが生まれ、
「どうやってやったのだろう?」と思わせるファンタジーが芽生える。
それこそが作品のパワーの源となっていたことに気付かないのなら、
もう、流行と話題だけのつまらない映画しか撮れないだろう。
鈍感なセンサーに感知できるものしか発しないなら、
観客の感性を目醒めさせることなど、決してできない。
本当の意味での「発信」は、もはやできない。

アートを追求する過程もまたアートであり、
それはまさしく、アーティストにしか出来ないことである。
その意義は決して「不完全性」にある訳ではない。
そもそも、アートに完全など無いのである。
計算外を計算する力の無い者の「計算」ほど、お粗末なものは無い。
低い「計算力」で計画をたて、
更に人間や機械を、その「計算」通りにコントロールした先にあるもの。
それは、とびきり優秀でも、低い計算結果の80-90%である。

100%が見えている人などいない。
自称職人含め、普通の人は10%程度のレベルを100%だと思っている。
100点満点の10点を目指すのだから、結果は良くて9点、平均で4-5点、
一般的に「優秀」とされるレベルで6点、全くダメなら0-2点である。
計算によって生み出されるのは、10点以上ではあり得ないのである。
問題は、計算の不完全さではなく、計算する人間の能力にある。
計算ができないのに、敢えて計算という逃げ道のない方法を選択してしまっていることにあるのだ。

物事の可能性は、99%が潜在的なものである。
「目に見えないものが見える」というのは、霊感の話ではない。
ごく理論的かつ現実的なものなのである。
見ようとしない者には見えなくて当然、聞こうとしない者には聞こえなくて当然、
逆に、見ようとすれば、すぐにでも見える。
「超能力」は、持っている者にとっては普通の能力。
当たり前のことを、得意気に言ふらす筈は無いのである。
故に、偽者を見分けるのは、実に簡単である。

E.T.は、2度とない傑作だったと思う。
「あの時代にしては凄かった」の類いではなかった。
今世紀になって生まれ変わったこの映画は、
優れた音楽や俳優達のおかげで、超大娯楽駄作とならずに済み、
その価値が10分の1になってしまった今も、名作であることに変わりはないであろう。
「Ghost」や「Matrix」程度の.....


□■■ Apr  12nd

さっき、隣のチェリーが死んだ。
呼吸困難に陥って、病院の5メートル手前、車の中でキャンと声を上げて息絶えたそうだ。
お腹が腫れていたもんね。
「もっと近くの病院に行けば良かったのだろうか」
診察台で最期を迎えるのに間に合って、何になると言うのだろう。
誰もいないところでなくて良かった。
寒くて、暗いところでなくて良かった。
大好きな人の横で、良かった。
ね、チェリー?
「16歳だったから、何があってもおかしくなかった。」
そう思うのは、感じる心を失った人間の愚かさ。
大事なのは、時間の長さじゃない。
あの子は、病気だったよ。
淋しかったよ。
一緒にお散歩に行きたいって言っていた。
放し飼いじゃなくて、かまって欲しかったんだよ。

私の顔を見るとピョンピョン跳ねて、お散歩に行こうと誘った。
歩きにくいサンダルでついて行ったのに、帰りはいつも寄り道。
「先に帰るね」と言っても、追いかけて来てくれないんだもの。
変な格好で、独りで帰るはめになる。
スキップして、道路にはみ出してしまったりするから、心配だったよ。
つい3日程前も、うちに来たよね。
おやつをおいしそうに食べていたね。
少しでも、楽しい時間をあげたくて。
君のお腹に気付いていたから、それだけじゃない。
おともだちだから。

人の心を変えるのは難しい。
病院につれて行ってあげて下さい、そう、何度もお願いした。
血尿が出ていたのは、何年も前だもの。
勝手につれて行けば良かったのだろうか。
多分、それが正しい選択だったろう。
人間の社会は、多くの正しいことを禁じている。

人間は、善か悪か。
その議論は全くのナンセンスであるが、ここに興味深い実話がある。
田舎の山奥に、捨てられた犬猫を沢山、世話しているお寺があった。
非常に苦しい経済状態で、お年を召したご住職は目が不自由。
ある日、それを取り上げたテレビ局があった。
愚かなことに、そのお寺の所在まで紹介してしまった。
それから、そのお寺へ犬猫を捨てに来る人間が激増したという。
その番組を、力になってやりたいと思いながら見ている人は大勢いたと思う。
可哀想にと思っても、同情するだけで何もしない。
大半は、そのレベルの「善人」であろう。
ほんの一握りの人は、立ち上がって支援した。
だが、それよりも更に多くの人間は、許されざる身勝手な行動に出た。
良いことと悪いことでは、
人を実際の行動に駆り立てるエネルギーの強さが圧倒的に違うようだ。


□■■ Apr  11st

田崎さんが亡くなったのが3月6日。
私が「毛むくじゃらの天使」の録音を終え、音を納品したのが同じ日。
しかし、アップロードする場所を変えてくれと言われてやり直し、
ダウンロード完了の報告を受けたのが翌日。
更に、写真を送ったのが更に次の日の8日だから、
番組更新は、8日か9日だった筈。
おかしいな。
バックナンバーを見ると、あの回の更新は「3月6日」になっている。
実は、向こうの方がつけて下さったタイトルが「my pet」になっていたのが気になって、
「my friends」に変えて下さい、とお願いして、つい数日前、訂正して貰った。
バックナンバーページを作る時に間違えたのか、
それとも、タイトル訂正の際に書き換えてしまったのか?????
だって、本当の更新が3月6日だった筈はないもの。
この不思議な間違いが過去まで書き換えて、田崎さんの耳に届いていたら.....
ある訳ないそんなことも、生命のパワーで起こりそうな気がする。

私の存在は、何か役に立ったろうか?
同じ心を持った者が、どこかに生きていること、
その思いを、少しでも遠くに伝えることができること、
それは、心の平穏につながったろうか?
それとも、そんな悩みも抱かないほど、悟っていたのだろうか。

私はアホだと思う。
普段は思わないが、時々、思う。
そんな事は、賢い人にもあると思う。
専門知識やマニアックな「常識」などに、己の無知を思い知らされるのである。
このような場合の「知識」は、むしろ「情報」である場合が多い。
流行の歌をカラオケで歌う、或いは、誰かが作ったパズルを解くようなもの.....なのである。

ひとりで生きることは「単独」という。
本当の孤独は、誰かの傍にいて感じるものである。
近くにいる筈の者に理解されないことほど、辛いことは無い。

最近、まともな大人が減ったというのは、きっと、
真面目というかまともな人は変わらないけれど、
そうでない人のレベルがガク〜〜〜ンと下がった、ということかも知れない。
それで仕事していて、怒られないんだもんな。
そんなことをしてたら、お客さんに怒られるんだろうけど、
お客さんの怒り方は無茶だから、
実際、「まともに叱られる」というまともな現象が、
この国から無くなりつつあるのではないかと危惧される。
叱るということは、真剣に人と向き合っているということじゃないか?
褒めちぎられなくてはやる気が出ない、なんてのは、小学生までにしておくれ。


   田崎さん、
   聞いて下さい。
   出版社からすぐに返事がありましたよ。
   何言ってんだ、ダメに決まってるだろボケ、
   なんてことがやんわり書かれているのだろうと思って、
   開ける前から落ち込んでいたら、びっくり!
   「少なくとも5年は売り続けるつもりですが?」
   ですって。
   何で?????
   田崎さん御自身がそう書かれていますよと言ったら、その後、説明下さいました。
   契約自体は今度の8月で終わりだけれど、1年毎の自動更新なんですって。
   たとえ契約解消ということになっても、本がある限りは、売り続けるそうです。
   太郎さんの本は、切り刻まれたりしませんよ。
   もっと早く、こうすれば良かったですね。
   人間は、火事でない時は馬鹿力の出せない、ひ弱な生き物です。
   同時に、それ故に、己の本当の力を知ることも、コントロールすることもできない。
   
   皆さんは突然のことと驚き、嘆いていらっしゃいますが、
   田崎さん御自身には、見えていたのでしょう?
   私には、田崎さんの文面を通してそれが見えました。
   間違いがなければ、怖れてはいなかった。
   むしろ、変な言い方ですが、前向きであった。
   何の恐怖も心残りも無かったとは思いませんが、
   安らかな気持ちであったろうと、想像するのです。


□■■ Apr  9th

   田崎さん、
   出版社にメールしちゃいました。
   鹿の子ちゃんへのプレゼントを買った次の年だったから、2003年の春でしたね、出版は。
   売れなかったら裁断、と仰っていました。
   1年以上も売っていたんですね、結構すごいじゃないですか。
   でも、今年の8月に廃刊になるんですね。
   「彩図社」で検索しました。
   検索しなくとも、どこかに載っていたのでしょうが。
   で、フォーム投稿しましたよ。
   もう1度、宣伝して下さい、きっと売れますから、って。
   ダメなら、せめて図書館に寄付して下さい、って。
   笑うでしょ?
   でも、田崎さんなら、そうしなかった?


□■■ Apr  8th

   これは、涙じゃない筈。
   私達にとって、互いの死は「悲しみ」ではない筈だ。
   私達の世界観は、とてもよく似ていた。
   だから、悲しむものではないと判っていたのだ。
   これはきっと、田崎さんからのさよならだ。
   置き手紙だ。
   ニャンが旅立った時に、間に合わなかった私にあの歌を置いて行ったように。
   1ヶ月も経ってから封を開けたら、「先に行ってるね」と書いてあった。
   そんな様なことだと思うんだ。
   
   手術の日が決まりました。
   そう深刻な病ではなさそうです。
   そう、報告しようと思っていた。
   メールを書き始める前に、何故かとても気になって、
   田崎さんのお店のホームページを見た。
   トップページは3月4日に更新されている。
   「毛むくじゃらの天使」のページと「DogGed」のページ、両方を何度も見た。
   今日は何月何日だっけ?
   
   「御悔やみ申し上げます」
   掲示板に入ると、連なった幾つものタイトルに胸騒ぎがした。
   愛情たっぷりの犬グッズを販売するお店で、
   御自身も太郎さんという犬を介護して来た田崎さんのページだから、
   大事な友を失って悲しみに暮れる人もよく訪れるのだろう。
   誰かのパートナーが、人の時を追い越してしまったんだろうか、と思った。
   だが、気になって、下まで読んだ。
   亡くなったのは、田崎さんだった。
   3月6日に急逝されたそうだ。
   そう報告していた人も、今月の5日に知ったようだった。
   私は、知っていたような気がした。
   というよりも、感じていた。
   
   最後に貰ったメールは、3月3日。
   3月から始まるラジオDJのことで、前月からやり取りをしていた。
   2回目の録音の途中で私の病が発覚したので、
   もっと後、落ち着いた頃にやろうと考えていた、
   田崎さんの本「毛むくじゃらの天使」と太郎さんの特集を繰り上げ、2回目で取り上げた。
   10日更新の予定と聞いていたが、
   音と写真を納品し終えてすぐの、8日か9日には更新されていた。
   10日、田崎さんに、太郎さん特集公開の報告メールを送った。
   「太郎さんのことがみんなに知って貰える」
   1回目から楽しみにして下さっていて、とても喜んでくれる筈だったのに、返事が来ない。
   それは、あり得ない事だった。
   この回はステキチ君の話もしていて、特に思い入れがあるから、
   次回分を余裕を持って納品したからと言って、早めに更新して消されたくない。
   「3回目の更新はぎりぎりまで待って下さい」とお願いした。
   すると、バックナンバーを置いて貰えることになった。
   田崎さんは、ずっとお腹が痛くて、病院に行っても原因が判らないのだと言っていた。
   もしかすると、入院でもしているのかも、と思った。
   結局、返事が無いままに、3回目が公開された。
   バックナンバーでいつでも聴けますよ、と伝える筈だった。
   
   田崎さん、さっき、メールしました。
   旅立ってしまったのなら、きっと、届く筈と思って。
   今から、「いつものように」を歌おうと思います。
   1回目の放送を聴いて、「あの歌、好きなんです。3回聴きました。」
   と、言って下さったから。
   いい歌でしょう。
   私の大事な子がくれたものですから。
   それを私が歌う事で誰かを喜ばせられるなんて、素敵なことです。
   鹿の子ちゃんとの幸せな別れが御縁となり、知り合いました。
   「ソウルメイト」と呼んで下さいましたね。
   今、1人取り残されて私は、魂のつながりというものを、改めて知った気がします。


どうして、こうも首相という人達はレベルが低いのだろう?
憲法を知らない人やら、法治の意味を知らない人やら、昔からこうか?
プライバシーが欲しけりゃ、辞職しな。
「普通のおじさん」になったら、保証されるだろうよ。

憲法改正を叫ぶのはいいが、自分が戦場に行くつもりで言うのだろうな。
年を取り過ぎて無理だと抜かすなら、息子や娘を遣る覚悟はあるのだろうな。
政治家だけでなく、報道番組の影響で、あたかも己の意志であるかのように主張する大人達よ。
「自衛隊が行ってくれるじゃないですか。」
なんて思っているのなら、みんな揃って海に跳び込め。
そんな国、もう存在価値ないだろう。

徴兵制が必要とは決して思わないが。
その廃止が、日本人を他人事モードの癖にうんちくを語る国民にしてしまったのなら。
徴兵制よりも悪いものは、沢山あるのだろう。
実際、軍隊に絶対に入らなくてもいい、なんて国はそう無いよ。
戦争を語る口調が、ここだけ、独特だ。
「今年の紅白はどうでしたか?」
レベルだね。
熱い人も、冷めた人も。
どっちも。

「押し付けられた憲法」だと言うのなら、さっさとお変えよ。
長い間、植民地支配されて来たんだね。
その主張が本当なら、今もだね。
私達は、奴隷だね。
ね、あんたもだよ。
え、違うって言うの?
おかしな話だね。

「わくわく感」が足りない。
そうだ、昨日書いた、「CDとカセットテープの違い」だ。
先日の深夜のNHK。
「懐メロ」が延々と流れる。
音楽自体の質が、はっきり言って今より高い。
ちゃんと作ってあるし、当時はそうも思わなかったが、歌のレベルも今よりは高い。
今、もう1回売っても全く問題ない。
褪せた色で映し出されるのは、当時のニュースなどを編集したらしきもの。
風俗や社会情勢が濃縮されている。
今にない活気を感じるのは、ソフトな画像の醸し出すノスタルジーのせいだけではない。
お手軽でコピーも簡単、リプレイもお手のものの「デジタル文化」ではない。
ビデオなんて普及していなかった、巻き戻しのきかない世界。
刹那のはかなさと、それを目に焼きつけようとする情熱が、そこにある。
目新しいものに飛びついていたかも知れない。
娯楽を求めていたかも知れない。
しかし、もっと精一杯、喜んだのだろう。
口を開いて、流し込まれるのを待つのではなく、自分の足でさまよったのだろう。
懸命に探して、巡り会えたものを、もっと大事にしたと思う。
必要もないのに手に入れ、簡単に捨てる時代では無かったと思う。
ものの価値に対する敬意というものが、ちゃんとあった。
名前だけ同じなら、中身をよく見ないで安いものを選ぶ、
品質を評価しないで買い叩く、なんてことはなかった。
欲しいものは簡単に手に入る、だからお金で手に入らない「愛」や「夢」に憧れる、
そんな現代とは、何と勘違いな時代なのだろう。
自分や他人の持っていないものが欲しい、所有したいという、物欲に過ぎないのである。

ちょっと遅れているおじさんは、メールアドレスをあげると言って、盗み読みをする。
これからは、インターネット電話が便利だから使いなさい、
なんて勧めたり、タダで使わせたりして、
盗聴したり、覗き見したり、なんてことになるんだろうね。
馬鹿で騙されるのは仕方がない。
だが、覗かれているのが判って尚、
お得だからと言って使い続けるような、だらしないおなごにはなりなさんな、
可愛い我が娘なら、そう教育するよ。

覗かれる娘には、その意味が判っていない。
見られているだけじゃない。
君は、「所有」されている。


□■■ Apr  7th

E.T.のサントラを聴いている。
最近、記念とか何とかでよくリマスターされているCDの1つである。
元々出ていたサントラを持っているリスナー対象のものだと思う。
映画の通りに収録されている。
絵に合わせることが第一の目的で、効果音的なところまでカットされていないから、
映画を知らないと訳が判らない。
知っていても、ちょっとだるい。
サントラと言っても、レコード用に演奏されていて、
音楽もかなりコンパクトにアレンジし直してある所謂「サントラ」の場合は、
目を瞑って想像すると、疑似映画体験ができるようになっている。
本物のサントラは、想像し尽くし辛いものがある。
映画の宣伝に使われているのは、その「 」付きのサントラの方だろうから、
例えその映画を見ていたとしても、印象として残っているのは「 」の方の音楽なのである。
故に、本物のサントラであるにも関わらず、物足りなさを感じてしまう。
人間の記憶のいい加減さというか、都合の良さというか.....

CDは、いい音楽に聞こえ辛い。
アナログに比べ、隙間が多くて荒いからか、音が歪んで耳が痛いからか。
いや、それ以上に、扱いが簡単だからかも知れない。
ノイズが無いのが当たり前。
カセットテープのように汚れを気にしないし、レコードのように埃に神経質になったりしない。
無造作に、そこら辺に置いてしまう。
テープでそんなことしたら、もうそれは私にとってゴミ。
ゴミテープなんか回したら、ヘッドが汚れて、他のテープも痛んでしまう。
CDは平気。
粗末に扱っても、良くも悪くもならない。
大事にしないから、有り難みもない。
タダの光る皿。
信号の記録されたモノ。
物質。
幾らでも簡単にコピーできる。
こんな感覚では、そこに入っている音楽に対しての敬意も薄れるというものだ。
デジタル音楽が味気ないと言われるのは、こういうことだろうと、ふと思う。
© K. JUNO ALL RIGHTS RESERVED.
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