三次元漂流記 2003
鹿の子一家と [11月のモデル; いてててて!]
鹿の子ちゃん一家との2年近く前のショット。後ろが、この子たちのヒノキの家。
ちび達がみんな揃っているので「撮って〜」と言うと、
フォトジェニック鹿の子ママがスーッと入って来ました。
私の右手を咬んでいるのがよくできた長男ボン、
左手首を咬んでいるのが、ボス格のお姉ちゃんキャンディ、
左手指を咬んでいるのが、やんちゃっ子のクロスケ。
ほんとはアホ面写真なのですが、このサイズだと、結構イケテルかも?
ママを含めみんな、よその子になって楽しく暮らしています。

□■■ Nov  29th

高性能なものが安価で簡単に手に入る時代。
覚悟の無い者を励まし、
力の無い者にチャンスを与え、
ピラミッドの底辺ばかりを肥大させる。
頂点は、相変わらず低いまま。
本物は、もうその台形からは脱出しているのだろうか。
ほうれんそうの種しか植えないのに「メロンがなっているかも!」なんて、
夢じゃなくて、平和ボケた馬鹿だ。
そう、今は「日本の平和」の時代。
歴史は繰り返す。
反省、忘却、奢り、失敗、そしてまた反省.....
ヒトは、一代にしては学べない、愚かな生き物であるが故に。

上手くなるかどうかは、実際に教えなくとも、20分も話をすれば判る。
頭のいい人かどうかは、その人の書いたメールを2、3行読めば判る。
自分が如何に有益な人間となり得るかを必死で語る人は、友にしてすら害となる。

「貰うならお金がいいか、家がいいか」という他愛の無い問答企画で、
ある芸能人が「金」という意見に顔をしかめた。
「夢が欲しいから家がいい」らしい。
家を貰うのは罪悪感が無いばかりか、「夢」を感じるらしい。
正に、現代日本人を表している。
嫌悪感を露にするのは、よほどやましいことがあるのだろう。
離婚相手から慰謝料を貰い続けているのが恥ずかしいのだろうか。
じゃあ、要らないと言えばいいのに。
「金」はただの交換の仲介。
汚物を見る目をするのは、その人にとって、汚れたものだからだろう。
仕事して、相応の報酬を得るのは当たり前。
お父さん達が働くのは、ボランティアかい、満足の為かい。
それとも、アンタ悪徳地主か。
上辺だけ綺麗事で飾り、己をも欺きながら、欲望を美化する。
街で配っているティッシュを、見栄を張って受け取らないのと同じ。
「金」は「欲しがる」ものではない。
そうでない人、即ち、心の中では喉から手が十本くらい出ている人には、
この上なく醜い、己を思い起こさせる鏡なのだろう。
醜いものを覆い隠し、美しく見せようとする姿こそが、最も醜い。

美しくあろうとすることと、美しく見せようとすることは、全く違う。
正反対のものである。

母親達が子に望むこと。
それは、いつの時代も同じ。
有名になって貰うことでも、金持ちになって貰うことでもない。
「偉い人になど、ならなくていい。
 他人様に迷惑をかけず、元気でいてくれたら、それでいい。」
他人に迷惑をかけること、それは最大の親不孝である。
誰かの為? 親に楽をさせる為?
そんな甘ったれた言い訳など通用しない。
最大の恩人を裏切っておいて、どんな「善」が行えるというのか?!


□■■ Nov  28th

号外、号外とうるさいオオカミ少年達、いや、おやじたち。
普段のいい加減さを自分で言いふらしているようなもんだよ。
真剣に生きようとしないで、やたらと「感動」する若者たちにそっくりだね。

東洋の格闘技は「スポーツ」というよりも「哲学」である。
ましてや、喧嘩などではない。
その辺りを学ぶのは、なかなか外からでは難しいようである。


□■■ Nov  23rd

識者ぶって他人の受け売りばかりしている人間は、
新しいウンチクに出会うと、過去の発言を恥じる傾向にある。
もともと、自分の考えではない訳だから、簡単に否定できるのだろう。
「現在」ですら、真の自分の認識ではないのだ。
そもそも、本当に物事を観察する力のある人にとって、
「見解の違い」などという言葉は無縁である。

「リスペクト」という言葉が意味もなく流行ったりした。
有名な作品の一部を失敬する場合、子供のように真似がしたい場合。
本人が認めているなら、どうでもいいと思う。
「本歌取り」という用語まで引っぱり出して偉そうに説教したかと思えば、
友達の引き出しをこっそり開けて、大事にしまってあるものを盗んで、
自分の名前で出してしまう、そんな輩が存在する以上は、
結局は創造する力が無いだけだと結論付けられても仕方がない。
そうでないところを、インチキでなく証明できて、敢えて「リスペクト」できるのなら、
それはそれで、その個人は「リスペクト」できているのだろう。
何でも同じだが、「リスペクト」を語る人全てが「リスペクト」な訳でもなければ、
逆に全てが「盗人」な訳でもない。
「涙でごまかす女」と「平等を求める女」が別々に存在しているように。

他人にやって貰ったものを自分の手柄にするという心理が、昔から理解できない。
能力のある人間なら、嫌がる筈なのだ。
盗むという行為に対する罪悪感以前に、プライドの問題なのだと思う。
人としての良心も、才能も、本当の意味での自尊心も、どれも持たない人間というのは、
見ていて哀れである。
本当は誰も信じてはくれていないであろう嘘を、死ぬ迄、作り続けねばならない。
他人を騙しおおせるほどに賢いと思っているのなら、まだ救われるのだろうが。
自業自得であるから、愛されない苦しみは当然である。
同情には値しないが。


□■■ Nov  21st

舞台は大盛況のうちに終わった。
幾つかの新聞にも「感動の舞台」などと、
大きな写真入りで、スペースもかなり裂いてくれた。
「当日券あり」の宣伝文句入りで。
こういう記事ならいいんだよな〜、なんてエラソ〜に思ったり。
ほんとは、ここで来年の公募を告知しなくちゃならないのだが。
初日と楽日は学校公演で1回。
中2日は一般公演で1日2回の計6回。
本番前は遅くまでの稽古が続き、初日は7時過ぎという早い帰宅。
ゆっくりと風呂に入って早く寝よう。
やめようと思ったが、念の為、メールをチェック.....え?!
ナレーションの仕事が入っている。
いつもより原稿が随分、長いぞ。
納期は楽日の日中。
.....今日しかでけへんやんけ。
何で、忙しい時に仕事が重なるのだろう。
まぁ、ありがたいことではある。
早速取りかかり、終わったのは3時前後だろうか。
布団に入れたのは4時。
翌日は7時半起き。
そんなこんなで疲れが溜まったのと、寒かったのとで、風邪をひいた。
2日目以降の陰アナは、時折、ガラリという音が入ってしまった。
楽日までは何とか持ちこたえ、翌日からはハナじゅる状態が続いているのである。
集中できない。

「カシオペイアの声って先生なの?」
「喋って!」
は公演の舞台裏でも続き、メイクの鈴木先生までが、
「カシオペイアの声はあなたなの?」
その翌日にはメイクスタッフの生徒さん達が、
「カシオペイアの声やってはるんですか?」
う〜ん、セシボン。
隠し事ほどよく伝わる、の原理。

初日は、前日に残った部分のゲネプロをやった。
結局、全部はできなかったが、現地リハをあれだけできていれば充分だろう。
公演中も毎朝、簡単なリハがあった。
毎回、怒鳴られ、怒られていた出演者達。
私もいつの間にか、歌唱指導というよりは、ダメ出し、小言係になっていた。
修行中の人間に「上手い」というのは禁物だから、感心しても我慢する。
「あそこよかったよ」位しか言えない。
あんなに上手いのに、毎日、怒られまくって、
いや、毎回毎回、怒る方も勇気あるよな〜、なんて思いながら、横で見守る。
おかげで、舞台が終わる度に、みんなボロボロ泣く。
特に、ラストが全員で喜びを噛みしめるシーンだから、余計なのだろう。
まるで最終公演が終わったかのように感動していた。
そこに辿り着くまでの苦労あって故の涙なのである。
楽しい、終わった、やったぞ、だけでは、客席までは伝わらない。
他人様にものを見せるのに、プロもアマチュアもない。
本当の緊張を知らねば、良いものは見せられない。
これまで厳しくされた意味が、最後に理解されたのではないかと思う。

楽日に、出演者の皆さんよりプレゼントを貰った。
途中から芝居が忙しくなって、歌は合間にしか出来なかった。
特に子供達は、もっと教えてあげられれば良かったと思う。
その子供達からは、寄せ書きをしたTシャツを貰った。
歌の難しさが判った、とか、声がよく出るようになった、声域が広がった、
そして、みんな「歌が好きになった」と書いてくれていた。
指導者に必要なことは、下手クソなのに褒めてやる気を出させる事ではなく、
隠されている力を引き出してやり、自分がどれだけできるのか見せてやる、
頑張ればもっと出来ることを教えてやることではないかと思う。
勿論、能力の無いニセ先生には出来ないが。

教える力があって、上達されられないことはあり得ない。
生徒のせいでは決して無い。
何故なら、全く上手くならない生徒は稀ではあるが、それなら最初の10分で判る。
見抜けないとなれば、既にそこで論外なのである。


□■■ Nov  14th

「MOMO」の初日が終わった。
えっ、まだ初日か。
昨日、一昨日と大変だったからな.....
今回はオーディション審査から関わっていたものの、
指導だけだから、完全にスタッフだな、なんて思っていたら、
陰コーラスに陰アナウンス、陰英語セリフ、おまけに最後に舞台に顔を出す、と、
直前になってキャスト並に本番に参加することになってしまった。
内緒だったのか何だか知らないけれど、
カシオペイアの声優が私だということも広まっていて、
顔を合わせる度に「喋って!」と言われ、
今日も本番中にトイレで「ツイテオイデ♪」。
大爆弾ジジがソロを大幅に外すこともなく、何とか、無事終了。
新聞や雑誌には幾度となく載ったようだけれど、今日はようやく、テレビ。
NHKニュースで流れるという話だった。
どんな流し方をするのか知らないが、ミーハーな流し方をして欲しいな。
テーマや団体の主旨なんて、作品そのものを見せて知らせるもの。
取材でそれを取り上げ、書いて貰うことは、
見た目に「いい記事」ではあっても、集客にはつながらない。
文字で伝えられるものは、取材をした記者の感想でしかない。
やっている側は、その落とし穴に気付き難いようだ。
私が見た新聞記事では、「アマチュアのボランティア団体」程度の書き方だった。
プロもオーディションで選んだ事、
メディアに馴染みのある方々を招いたことなど、一言も触れられていない。
「感想文」は「感想文」、「宣伝」は「宣伝」、
作者の主張を伝えるものは、作品そのものでしかない。
「感心」だけでは、わざわざ劇場まで足を運ばせられない。
「いい文章」は、観察力と良心があれば、実は誰にでも書けるのである。
そして、記者の使命は「宣伝」ではなく、
正に「いい文章」を書くことにあるのだから、
本能的に、或いは良心から、「いい文章」を書いてしまうのだろう。
本当にいいものを書いた、こちらの欲しいものを書いたと錯覚している節もあった。
明日、明後日と一般公演。
果たして、どうなっていることやら。
ま、演じる側にとって、客の数は関係ないが。
今日は1回公演だから、遠出の私も普通に眠れるぞ。
.....ガクッ。


□■■ Nov  3rd

どう生きたいとか
真剣に生きようとか
「選択」しようとしている時点で、既に「真剣」ではない
生
それは与えられるもの
必死に生きる
それは当然の課題
生きる
それは生命の良心
ただ生きる
それは無心の行為
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