「石 州 麺」
現在、全国各地に素麺の名産地があるが、そのルーツと言われるのが奈良県の三輪素麺で、三輪から各地へ広がって行く中で、それぞれの気候風土や産物などによって、違った製法や形に変化して
いった物もあったと思われる。
京都金閣寺の江戸時代初期の住職であった鳳林承章が書き残した日記「隔冥記」には、『小泉名物油不入索麺』という記述が出てくる。 「石州麺」は伝承料理研究家の奥村彪生先生ご指導の下に、この「油不入索麺」もしくは「「不油入平素麺」を再現した物で、製造技術や材料品質が江戸時代より向上している分だけは違ってはいるものの、当時の人達に評価された味や食感を充分に感じて頂けるのではないだろうか。
「・・・
この索麺を作るのに油を塗ったり、加えないものが江戸初期にありました。これは旧来の奈良時代からあった麦縄の系列で、デンプン(クズ粉やカタクリ粉
<本物のカタクリの根茎からとるデンプン>
)を打ち粉に使い、そうめんのように二本の管にかけますが、乾燥させる途中で麺棒で押して平たく、長くして機にかけて引き延ばす油不入そうめんです。その油不入そうめんは大和小泉の特産で相国寺の鳳林和尚は茶道石州流を開いた片桐貞昌を訪れ、大量に仕入れ、京へ運んでいます。慈光院か高林庵の茶室で石州自らが仕立てた油不入そうめんを馳走になっています。石州は懐石料理がとても上手な方でした。油を麺条に塗らないこの索麺を当時は別名小泉の平そうめんと呼んでいました。油不入そうめんの名がはじめて書かれるのは相国寺の日記である『隔冥記』寛文元(一六六一)年七月三十日の条であります。
・・・」
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