「観音堂」

大和松山城織田家の家臣であった森次郎右衛門という人が、日頃信仰あつく祀っていた長谷寺本尊と同木同作の十一面観音を、片桐貞房(石州の息子)の家臣となった折に、ここ小泉の善隣寺(石州が母の菩提寺として建てた寺、山号は「新霊山 」)内に観音堂を建立して安置した。
しかし明治の廃仏毀釈により善隣寺が廃寺となり、ここ慈光院に移され現在に至っている。
十一面観音像自体は秘仏。

当十一面観音様のお札を授与いたします。
ご希望の方は御参拝の際、住職にお申し出下さい。

 

「観音堂背面に掲げられている縁起」

      長谷寺同木同作
    本尊十一面観世音菩薩

    抑此本尊乃由来を源れハ 往昔當國宇多郡
    松山城主 織田山城守殿家臣 森次郎右衛門と
    申者 日頃長谷寺乃観世音菩薩を伝仰する事
    通例ならす志て佛縁厚く 寛文四辰年五月彼寺乃
    本尊と同木同作乃十一面観世音菩薩及び伊勢
    春日の両脇士を求免 即知松山乃地に寶殿を建立し
    右の三尊を安置し朝夕怠なく香華を備え宝号を
    称ふ 其霊験日に掲焉て里 然るに元禄七戌年五月
    森次郎右衛門 當領大守貞房公之御家臣と成り右之
    三尊を此地に移し 新霊山境内に宝殿を造立し其
    三尊を安置し永く此地乃鎮護とす 尓よ里以来士庶共に
    擁護を蒙る者一二三に阿らず 経日南無観世音菩薩を称う
    者ハ福徳智恵乃願を満し災袂病難乃患を拂ひ當来作
    佛之因縁とな志玉ふ 又大悲神力を以て諸乃衆生乃為に
    三十三身を現し妙音聲を以て諸衆生を愍念志まふこと
    余乃一切之菩薩に勝れ当里 于時数十年之星霜を経て
    安永五年堂宇頽壊す 依之而御家臣等志乃誠を以て憶を
    大守貞芳公奉聞す 大守即ち應諾志まふと可る里
    夫より同志乃者を勧免て再造営已に成満し元乃如く
    尊像を此堂に安置し奉るなり 願ハ
    天下泰平 風雨順時 五穀成就 君聖臣賢 萬民
    豊饒 祈念す 後来参籠諸人専ら伝心を冀

 

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