「歴史・特色」

「慈光院」
寛文3年(1663) 大和小泉藩二代目藩主の片桐石見守貞昌(石州)が、初代藩主である父貞隆(慈光院殿雪庭宗立居士)の菩提寺として自分の領地内に、大徳寺185世玉舟和尚(大徹明應禅師)を開山に迎え建立した臨済宗大徳寺派の寺院。
寺としてよりも境内全体が一つの茶席として造られており、表の門や建物までの道・座敷や庭園、そして露地を通って小間の席という茶の湯で人を招く場合に必要な場所ひと揃え全部が、一人の演出そのまま三百年を越えて眼にすることができるということは、全国的に見ても貴重な場所となっている。

昭和9年 国の史跡及び名勝指定(庭園)
同19年 国宝保存法により『国宝』指定(茶室・書院・手水鉢)
同25年 文化財保護法により国指定の『重要文化財』に変更(茶室・書院・手水鉢)

「片桐石州」
慶長10年(1605)伯父片桐且元の城下、摂津茨木で片桐貞隆の子として生まれる。
寛永元年(1624)石見守に任命される。
同4年(1627)父貞隆の逝去により遺領を継ぎ、一万三千四百石の大名となる。
同10年(1633)京都知恩院修復作事奉行に任命される。(同18年迄)
同15年(1638)大徳寺山内に高林庵を建立。 慶安 4年(1651)当麻寺中之坊に茶室を造る。
寛文3年(1663)慈光院建立。 同5年(1665)徳川四代将軍家綱の茶湯指南となる。
同6年(1666)仙洞御所の庭園を完成させる。 延宝元年(1673)11月20日逝去

 

「石州の茶の湯」
石州の茶の湯は、千道安(千利休の長男)の流れを汲む桑山宗仙(左近)から学んだものである。
利休本来の茶の湯の精神を継承しつつ、時代の流れである武士中心の世の中に調和させた「分相応の茶」を説いたことが、将軍家をはじめとして諸大名達に受け入れられることとなった。
石州に茶の湯を学んだ人物としては、徳川四代将軍家綱・水戸光圀・堯然法親王・松浦鎮信・藤林宗源・清水動閑・大西閑斉・保科正之・怡溪宗悦・野村休盛などが挙げられる。
彼らがさらに全国各地へ石州の教えを広めたことから、後に茶道ができてからは「石州流」となり、怡溪派・清水派・鎮信派・伊佐派・宗源派・嘉順派・大西派・大口派・古石州・ 片桐宗猿派・不昧派・野村派・林泉寺派・古閑堂派など多くの派に分かれている。