■松江名俊『戦え梁山泊! 史上最強の弟子』『史上最強の弟子 ケンイチ』
作者の松江名俊は、間違いなく『拳児』の影響を強烈に受けた世代の漫画家である。サンデー本誌の増刊号、『少年サンデー超』に『戦え!梁山泊 史上最強の弟子』を99年10月〜02年2月の間連載し、終了後間もなく、リメイク的な続編『史上最強の弟子
ケンイチ』をサンデー本誌において連載を始める(05年2月現在未完)。便宜的にこれらを「史上最強の弟子」シリーズとし、増刊期のものを「戦え梁山泊」、本誌期のものを「ケンイチ」と呼ぶことにしよう。
どちらも主人公、白浜兼一がいじめられっ子生活から脱出するために「梁山泊」という格闘技の超達人が集う道場に弟子入りし、寝泊まりしながら過酷な修業に励み、劇的に強くなっていくというストーリーの格闘アクション漫画である。
随所に『拳児』に対するオマージュが散見され、「八極拳」や「八卦掌」という単語も当然のように出てくる。しかし中国拳法のみが登場するのではない。「梁山泊」に集う超絶的な達人達──彼らが主人公の師匠なのだが──その中で中国拳法を教えるのは馬剣星だけであり、他には柔術の岬越寺秋雨、空手の逆鬼至緒、ムエタイのアパチャイ・ホパチャイ、我流の長老と風林寺美羽(更に「ケンイチ」版では武器術の香坂しぐれが加わる)と、バリエーションを豊かにすることでオリジナリティを打ち出している。
勘のいい人ならもう気付かれているかもしれないが、この「史上最強の弟子」は、格闘アクション漫画に『めぞん一刻』的な「雑居モノ」の要素を付け足しただけの漫画ではない。主人公と雑居するキャラクター達の全てが、主人公と師弟関係を築く「師匠」で揃えられているのだから──そう、むしろギャルゲー的な、「女の子いっぱいHラブコメの格闘漫画バージョン」として、この作品は読めてしまうのだ。
これは決して突飛な喩えではない。作者がハーレム漫画以降のラブコメ形式、というより、露骨に『ラブひな』を参考にしているように見受けられる箇所はいくつもある。例えば「戦え梁山泊」の第1話は全42ページなのだが、その中で6人(『ラブひな』も6人だ)のレギュラー紹介を一気に済ませているし、その後、主人公はそれぞれから順番に好かれていき、師弟関係を結んでいくのである。また現在連載中の「ケンイチ」では、ラスボス級のライバルキャラである「オーディーン」が登場しているのだが、彼の過去設定は『ラブひな』における「約束の女の子」と共通点が多いという指摘もできるだろう。
松江名俊は、バトル漫画における「師匠」や「ライバル」が、ラブコメ漫画の「ヒロイン」と同じ文法で表現可能な存在であることにいち早く気付き、それを効果的に実行した少年漫画家なのだ。
つまり、『拳児』の拳児が代わる代わる師匠をつまみ食いする回転寿司方式を取っていたのに対して、「史上最強の弟子」の兼一は同時に何人もの師匠からモテ続ける、というように。それに、師匠同士で嫉妬しあって複雑な三角関係に発展することが無い所や、兼一本人は非常に辛い体験をしていても「読者の視点から見れば、結構おいしい思いをしている」ように映るという、快楽原則のバランス感覚も『ラブひな』と良く似ている。
しかし格闘アクション漫画として、現在進行形の「ケンイチ」が面白いのはここから先の部分である。ラブコメやギャルゲーならば最終的に結ばれる「正ヒロイン」が必要だろうが、「ケンイチ」には正師匠(『拳児』でいう所の拳児の祖父のような存在)となる師匠が存在しないのである。
いや、物語上、「特定の師匠とのハッピーエンド」を迎える終わらせ方は確かに可能だろう。兼一が柔術の道を極めたり、空手やムエタイの達人に成長すれば良い。その道の師匠が正師匠となり、ハッピーエンド、ということになるのだろう。しかし実際に読んで頂ければ伝わることなのだが、「ケンイチ」はそういう終わり方を決して志向していない。
『史上最強の弟子
ケンイチ』のハッピーエンドは、師匠達よりも強くなった時でもなく、師匠達と同じ境地に達した時でもない。そうではなく、主人公の兼一がそれぞれの師匠から譲り受けた強さを自分の中でミックスさせ、「白浜兼一流格闘技」を完成させた時こそがこの作品のゴールだと思われるのだ。勿論、ただ完成させるだけでなく、ちゃんと強さを証明できるものでなければならない。その時の基準となるのが、おそらくライバルのオーディーンに勝利することであり、ヒロイン(忘れられがちだが、本来の意味でのヒロイン)である美羽を守れる程の強さを手に入れることなのだろう。
その一点に物語を収束させている点で、『史上最強の弟子
ケンイチ』は『拳児』の至った結末とは異なる答えを示さんとする作品として、高く評価したいのである。
■ネギまにおける師匠と主人公の関係
『拳児』、『史上最強の弟子
ケンイチ』と来て、次に『ラブひな』と『魔法先生ネギま!』を比較してみよう。
『ラブひな』の師匠が瀬田一人しか居なかったのに対して、ネギまには多種多様なキャラクターが主人公、ネギ・スプリングフィールドの師匠的な位置に納まっている。余談だが、それらの内半分はクラスメイトのサブヒロイン達だ。彼女達がラブコメ的に絡んでくるだけでなく、師匠としても主人公に接してくれるあたりが、ネギま独特の面白さを生んでもいる。
さて、まずネギの祖父である魔法学校の校長がおり、戦い方の基本を教えた高畑・T・タカミチ、魔法の正式な師匠(マスター)であるエヴァンジェリン、中国拳法を教える古菲などがネギの師匠達だ。精神的な師匠という意味では忍者の長瀬楓も加えられるだろう。そして、エヴァンジェリンを通して父親のスタイルや得意技を受け継ぐということもあり、やはり父親も師匠的な存在なのかもしれない。
だが赤松健は、彼らから受け継がせたものをネギの中でミックスさせることはあっても、決してそのものを目指させるようなことをしない。エヴァンジェリンは得意とする魔法系統も思想もネギと異なるし、古菲は形意拳と八卦掌の使い手なのだが、ネギには八卦掌と八極拳だけを教えている。そしてネギは、父親の得意技と中国拳法をミックスさせた必殺技を編み出すのだ(これは、「ケンイチ」の兼一が師匠達の技を組み合わせて最強コンボを繰り出す構図と符合する)。
しかしその上で、第71話(KC8巻収録)のネギは父親と同じ戦闘スタイルを選ぶ決心をしているし、口癖のように「あの人のような魔法使いになりたい」という意思表示を繰り返している。
ここで『ラブひな』からの読者は、「赤松健のことだから、またネギを父親と同一化させるんじゃないだろうか?」という危惧感を一度は覚えるのではないかと思う。
それに関して、特に象徴的な描写だと思えるのが第77話(KC9巻収録)で見られたひとコマである。ネギは魔法の薬によって15歳の外見に変身するのだが、それは外見だけで言えば、彼の父親が若かった頃とそっくりに作画されている(エヴァンジェリンが見間違えもしている)。しかし、読者から見れば「明らかに違う」ことが一目で解る描かれ方をしているのだ。それは表情や雰囲気といったレベルでしかない。しかし、ネギが絶対に「父親のレプリカ」には成長しないであろうことを、作者がはっきりと主張した一瞬でもあったのだ。
まさに、主人公のネギは「父親のようになりたい」と憧れているが、しかし「父親のようになりはしない」ことが保証される描写だったのである。
また、15歳のネギがタカミチの物真似をしてみたものの、全く似付きもしない、という描写もある。タカミチは『ラブひな』の瀬田と共通点の多い位置に居るキャラクターなのだが、このような描写の中にも「ラブひなの景太郎」とネギの違いが現れていると言えるだろう。
そういえばラブひなのヒロインである成瀬川なるは、当初こそ瀬田に淡い想いを寄せていたものの、自然と主人公にベタ惚れしていくという変化が描かれていた。だからこそ景太郎は瀬田を乗り越えるドラマを必要としなかったのだし、そもそも成瀬川の瀬田への想いは「恋愛未満」であったかのような、三角関係未満の演出になってもいる。
対してネギまのヒロインである神楽坂明日菜は一貫してタカミチのことを強く慕っており、それは明らかな恋愛感情として描写されている。もし、今後の物語展開でネギが明日菜を振り向かせなければならないようになった時、ネギは必ずタカミチの存在を(明日菜の心理内において)超えていなければならない筈だ。
それはまた、従来の赤松健が意識的に描くことを避けてきたテーマでもある。AI止まの主人公には恋愛のライバルが一人も登場しなかったし、先程述べたようにラブひなにも「乗り越えるべきライバル」が存在しなかったのだ。
しかし、ネギまには乗り越えるべき対象がいくつも存在する。
こういった『ラブひな』との違いを、『魔法先生ネギま!』の中でどう描いていくのかという点に、赤松健の少年漫画家としての手腕が問われてくるのである。現時点では、着実にゴールへと向かっているように思えるのだが。
≪補論2:『拳児』、『史上最強の弟子 ケンイチ』との比較≫・了
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