菱谷が立ち去った学食所では、生徒達はまだ、起こった事が信じられずに呆然としていた。…突然に静かだったその場所に不似合いな声が響いた。
「くっ…ははっ…」
宮田は、一人、手の甲を口元に当てて、笑っている。周りは、その様子に一体どうしたらいいのかわからず、ただ、戸惑うだけ。
「……はぁっ…」
やっと、笑い終えたように一息つくと鵜川を、次には回りを見渡した。
「俺の勝ちだ」
そう、たった一言。口元を緩く上げて彼は笑った。……反論など聞く気もない宮田は、席から立ちあがった。…そして、悠然と…菱谷を追うために歩き出した。
「………」
真っ赤な顔と早鐘の心臓を直すために、床に座り、膝を抱える。……自分のしたことを後悔や恥とは思わないけれど、それはどうやっても直らない。
「…はぁ……」
これからどうしよう…なんて、この後のことを全く考えていなかった私は、今更ながらに頭を抱える。……きっと、鵜川や…宮田先輩は怒っているんだろうし。もしかしたら、二人でこれからどうやって私を諦めさせるか考えてるかもしれない。
「………」
諦めないという気持ちは本当だけれど、きっと、邪険にされているだろうという想いが突き刺さらないわけじゃない。…でも…大丈夫。自分で出した答えを今の私はちゃんと知っているから。
「…ちゃんと、頑張るから…」
自分に聞かせた。そして、顔を綻ばせて、自分の心の中で答えた。
「……何を頑張るんだ?」
「――っ?!」
廊下側の入り口を振り返れば、そこに立つ人は…
「な…んで…」
「やっぱり…ここ…か。他探さずにここに来て正解だったな。」
ニヤっと笑う先輩。段々と近づいてくる姿にどうする事も出来ずにただ、顔を見上げていた。そして、先輩は私の前にしゃがみこみ…抱しめた。私を。
「…ここにいてくれてよかった」
と溜息混じりに、私の耳元で囁いた。吐息がかかって、過剰に自分の体が反応してしまったけれど、気持ちの整理が全然出来てなくて、何も言えない。
「…少しの間だけ…このままでいさせてくれ…」
腕の力を強くしてそう言った先輩に…涙が出てしまった。……だって、先輩に告白した時のように抱きしめてもらえた。なぜ、先輩がここに来て。なぜ、私を抱いているのか…なんてどうでもよく思えるほど、それだけ、嬉しかった。
しばらく経って、二人で移動した。腕を引かれて行った場所はその教室の壁際。…寄りかかるように先輩が座り、私を強引に自分の足の間に座らせた。また、さっきのように抱しめられ…甘える猫のように私の首筋に頬を擦り合わせた。…しばらく、そうしたまま先輩は動こうとはしなかった。
「……俺は、ずっと一人だ」
不意に先輩は言った。顔を私の首に沈めたままで。
「…うちの親は、いわゆる政略結婚…ってやつで…。…親は喧嘩をするわけじゃない。でも、必要な時以外、家で会う事も…ない。…あそこは、”家”なんかじゃなかった。」
そう言って、先輩は一度、話すのを止めた。…少し、息を吸いこんだのが耳に聞こえた。
「…けど、そんな二人でも子供の前では笑う。…笑いたいわけでもないのに…俺のために。…子供に作り笑顔が通用するわけじゃないのにな。」
ククっと低く笑った。…けれど、先輩が震えているのは気のせい?…私は、先輩の背中に腕を廻して出来る限り強く引寄せた。先輩は、顔を上げて、私の目を見ると
「俺も二人と一緒だ。笑いたいわけじゃないのに笑ってる。…本当の顔を隠して他人に…誰にでも合わせてきた。……自分でいられる場所がないんだ…」
先輩は笑っている。誰もが憧れているその顔で。…けど…私には、泣いているようにしか見えなかった。
「…先輩…」
私は、思わず先輩をきつく抱き、その広い肩に顔を埋めた。…ふと、涙が自分の頬に伝ったのがわかった。…それから、どれだけ時間が経ったのかわからない。長かったのか短かったのか…何も交わしていないのに先輩と私の視線が絡んだ。先輩は、濡れていた私の目元を長い指で拭い
「有希…」
先輩は唇を重ねる瞬間にただ、そう一言、呟いた…。…私にはそれだけで…その言葉だけで充分だった。
これは、二人がまだ、幼い時の話し。子供ではなかったけれど大人にはなれなかった二人。…ただ、二人だけが知っている過去のお話…。