【君と歩いた道】


   電車を乗り継ぎ、初めてその駅に降り立ったときに、小さく「よしっ」と気合いを入れたのが聞こえたようで、隣で千早(ちさ)がくすりと笑った。
 この小さな駅で降りたのは僕と千早しかなく、もの珍しそうにのんびりと去っていく一両だけの電車を、僕はぼんやりと眺めていた。
 つないだ手を軽くひかれ、我にかえった僕は、彼女とともに無人の改札を出た。
 駅前にはタクシーが一台停まってはいたが、運転手の姿が見あたらなかった。僕たちが住んでいる街では絶対に見られない光景だ。
 もし、こんなことがあれば、クラクションは鳴らされるだろうし、仕事をさぼっていると、誰かが本社に連絡をし、その結果、彼はクビになり、誰も知らないどこかへと追いやられてしまうだろう。なんとかして人を出し抜き、少しでも優位に立ってやろう、そんなギラギラ感がここにはなかった。
 きっとあのタクシーの運転手は、どこかの喫茶店でアイスコーヒーでも飲みながら、誰かと話し込んでいるのだろう。
「どうする?」と千早は僕に問いかける。
 背の小さな彼女と僕とは、十五センチの身長差がある。彼女は僕を見上げ、僕は彼女を見下ろす。
 彼女の訊きたいことが僕には判る。運転手を呼びに行くか、歩いていくか、どうする? と訊いているのだ。
「いいんじゃない」
 僕はそう答えた。それで彼女は僕の言いたいことが判る。
「うん、時間も早いし、ゆっくり行けばいいね」
「そうだね。それに途中で千早の過ごしてきた町並みが見られるし」
「なんにもないとこよ」
「そうだろうと思った」
 あはは、と僕らは笑ってゆっくりと歩き出した。喫茶店のドアがカランコロンと音を立てて開き、案の定タクシーの運転手が顔を出したが、すでに僕らは歩き始めていた。彼は商売っけがないのか、タバコを取り出しながら僕たちをぼんやりと眺めていた。
 駅は少し高いところにあるので、僕らの目の前には青い海が広がっているのが見えている。少し暑さを感じるが、まだ夏のそれではない。
僕らは駅から伸びる一本道を、まるで海へ向かうかのように歩いている。

 僕がこの町にやってきたのは千早の両親に会うためだった。

 僕が働いている会社が彼女がいる会社と取引があり、彼女は月に二回、十五日と末日に僕が所属する経理課に請求書を持ってきていた。
僕は出される請求書をただもらうだけだったのだが、あるとき彼女が持ってきた請求書の内容が間違っていて、それで問い合わせをして、話し始めたのがきっかけだったように思う。普通なら仕事のことについて話をして終わるはずだが、なぜだかそのときは違ったのだ。
 少しずつ自分のことを話し出すようになり、ネットで当たった映画の試写会に、なんとなく声をかけたのがはじまりで、そこから二人で逢うようになった。だから僕は縁というものを信じる。たくさんの人と数多く接し、話をしていてもこんなに惹かれあうことなんてない。
 そこには何か不思議なものが横たわっていて、僕らはお互いの糸をたぐり寄せられるようにして出会ったのだと、そう思っている。

「右に曲がるんじゃない?」
 少しびっくりしたような顔をして千早が僕を見た。彼女の短い黒髪が揺れ、よい香りが一瞬漂った。
 僕たちの前の前にはT字路があり、どちらに進むか僕は知らなかった。
「どうしてわかったの? ここに来るの、初めてなのに」
「なんとなく、そんな感じがしたんだ。そんなにびっくりするところをみると当たったんだね」
 なんの根拠もないのだけれど、千早は右に曲がるような気がした。それだけだった。こんなことが僕たち二人のあいだにはよくあった。
 右に折れると、急に道は暗くなった。両脇にたくさんの木があるからだ。ひんやりとして、とても気持ちいい。右手に小さな神社が見える。
「子どものころね、おみくじが好きで、毎日のようにここに来てはおみくじをひいてたの」
「そのときのようにひいてみる?」
「えー、凶が出たらどうするの? 気が重くなっちゃうよ」
「大丈夫。凶は出ないよ」
「根拠ないくせに」
 そう言って、また僕らは顔を見合わせて笑った。彼女と会うまでは、こんなふうに笑うことなんてなかった。そしてこんなふうに、未確定な未来が悪いものでないと思うこともなかった。かつての僕にとって未来とは、今にも雨が降りそうな空のようなものだった。それが今では、明日もきっと晴れると思えるようになった。
 神社に入る。財布から小銭を取り出し、手を合わせた。今日という日がうまくいくように、とそれだけを祈った。
 彼女が何を祈ったかは聞かなかった。おそらく僕と同じだろうと思ったからだ。
 そのあと、六角形の木の筒を手に取った。朱の文字で『おみくじ』と書かれたそれを、僕は思い切りシャッフルした。中で木の棒がガシャガシャと混ざる音が境内に響き渡る。
「おおげさよ」
 そう言って千早は笑った。
「念を込めてるんだ」
 そして筒から出てきた木の棒には『末吉』と書かれてあった。
「うーん、なんだか中途半端な感じ」
「いいんじゃない、凶が出なかったんだし。じゃ、次」
 末吉を筒に戻し、今度は千早が筒をやっぱりガシャガシャと振った。
「ほら、やっぱりそうするー」
「うるさい。念が乱れる」
 彼女は一瞬笑って、すぐさま真剣な顔に戻る。
 えい、と叫んで出てきたのは『中吉』だった。
「あー、なんだかわたしも中途半端な感じ」
「いいんじゃない、結局二人ともよく似てるってことで」
「そうだね。さすが神様、よく判ってらっしゃる」
「そりゃそうだよ、神様だもの」
 顔を見合わせて、二秒経って吹き出した。笑いながら、手をつないで僕らは神社を出た。
 腕時計を見た。大丈夫、約束の時間までは、まだ間がある。
 僕たちはゆっくりと急がずに歩く。ときおり、つないだ手を子どものように大きく振ってみる。そして彼女が僕を見て笑う。その笑顔を見て、僕も笑う。そんな何気ない瞬間が僕は好きだ。
 道を右や左に曲がったりしているうちに、小学校が見えてきた。
「学校が見えてきたら、うちはもうすぐよ。ほら、向こうに見える、あの青い屋根がそうよ」


 歩き疲れて、ベンチで休んでいるうちに、いつのまにかわたしは目を閉じていたようだ。
その短いあいだに、はじめてあの駅を降り、この道を通ったときの一コマ一コマが昨日のことのように、まぶたの裏に浮かんでは消えた。
 わたしは五十年前の今日、この道を二人で歩いて、彼女をくださいと、千早の両親に挨拶をした。
 あのとき、わたしはリラックスしているつもりだったのに、彼女の実家の前に立った途端、まるで棒を飲み込んだように固まったのを思い出し、わたしは苦笑した。

 いま、わたしの右手には、あの日と変わらない小学校が静かに建っている。
 違っているのは、わたしの隣に千早がもういないことだった。
 去年、千早は亡くなった。眠るように微笑みながら逝った。
 最期のとき、わたしは千早の手を両手で包みながら、何度も何度も心の中で子どものように『行かないで、行かないで』と叫んでいた。
 彼女はわたしの二分の一だった。あるいは片翼だった。
「今日、駅からの帰り道に枇杷がなっているお宅があったよ、千早」と、つい声をかけ、永遠に返ってこない返事に、もう千早がいない事実を改めて感じる日が多くなった。
 それが辛くて、わたしは次第に外出しないようになり、誰とも話さないようになった。
 そんな毎日が一年続いた。

 わたしは顔をあげ、再び歩き出した。木陰を時折駆け抜ける風が肌に心地ちよい。
 彼女の墓はここにはない。
 この道をまっすぐに歩けばあった彼女の生家も、今はもうない。
 なのに、なぜわたしはここを五十年ぶりに訪れ、あの日と同じように歩いているのだろうか。

 わたしの足は、かつて彼女の生家があった場所の前で止まった。そこは更地になっていて、言われなければ、ここに家が建っていたのだとはもう判らない。
 だがわたしには彼女の家が見えた。あのとき声を張りあげ、挨拶をし、靴を脱いで通された部屋には、彼女の父親が腕組みをして、黙って座っていた。隙がない人だ、そう思った。そして横で静かに座っていた母親は、今から思えば千早にそっくりだ。
 そんなことまでが、わきたつようによみがえった。

 その瞬間、わたしは胸の中に千早を感じた。

 わたしは彼女を失ったのではない。確かに千早はここにいる。胸に手をあて、そう確信した。
 ぽっかりと穴があいたように思っていた胸は、いましっかりと埋まっていた。
 ふいにわたしは悟った。なぜ、ここを再び訪れようとしたのか。なぜあの日と同じ日に、同じように歩いているのか。
 五十年前の今日、座っていたであろう場所で、もう少し彼女と一緒にいさせてくださいと、わたしは空を見上げて、そっとつぶやいた。