『桧原の椿』(ひばらのつばき)

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 山が抜ける・・・
 小さな粗末な椿の家。がたついた障子戸を
開けると、目の前にそびえる大きな山。
 あの山が抜けた。夢の中で。
 そう、あれは夢。だって山はちゃんと目の
前に立っている。でも恐い。
 大きな池・・・
 池になるの。とても大きな池に。
 家も村も、みんな沈むの。隣の村も。
 でも、神社の塚山は大丈夫。どうして?わ
からない。
 ほら、聞こえるでしょ。聞こえないの?そ
う、聞こえないの・・・
 土が唸っていたんだよ。苦しいって。
 木が震えていたんだよ。空気が臭いって。
 鳥がね、逃げなさいって。高い所に。でな
いと、みんな山に呑まれるから。
 聞こえないの?そう・・・
 お父さん、知っていた?
 あたし、山の中だと水を歩けるの。
 お母さん、知っていた?
 あたし、山の中だと空を歩けるの。
 山の中だと、あたし何でも出来るの。
 あたし、山に行ってくるね。
 大事な話があるんだって。

 鹿が死んでたの。熊も死んでたの。
 早く遠くに逃げないと、人間も死ぬって。
 お父さんもお母さんも、峠にいって。村の
みんなにも教えて。みんなで逃げて。
 信じないの?そう、信じないの・・・
 みんな、あたしを変な子だって思っている
から、言っても誰も信じないよね。
 死んじゃうよ、みんな。あたし、お父さん
とお母さんには死んでほしくない。
 あたし?あたしは逃げない。だって大事な
事があるから。
 やらなきゃいけない事があるから・・・
 ほら、今ちょっとだけ家が揺れたでしょ。
 明日土が泣いて、大きく揺れるの。そして
山が・・・

 大きな音。ほら、山が抜けた。半分なくなっ
ちゃった。
 急いで峠に逃げて。土と水がたくさん走っ
てくるから。
 あたしはここにいるの。土と水に待っても
らうために。みんなが逃げるまで。
 あたしは大丈夫。土と水が約束してくれた
から。椿は死なせないって。ずっと一緒に生
きていこうって。
 ほら、早く逃げて。土と水が走ってきた。
 お父さん、お母さん。あとで神社の塚山に
来てね。あたし、そこにずっといるから。

 桧原湖に浮かぶ小さな島。ほこらの前の一
本の椿。土と水の約束は永遠の時の中。

〜終わり〜


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