村山実
子供の頃、甲子園球場へ父とは何度か出かけたが、何故か母も含めて三人で行ったことはない。
しかしどういう事情かは分らないが小学生の頃、母と二人で一度行った事がある。
この時は、かなり早く球場に到着し一塁側ベンチのすぐ後の席に座った。まだ他の観客は殆ど入っていない上に、試合前の練習も始まっていなかった。
しばらく待っていると、一塁側ベンチから選手が一人出てきた。背番号11番。阪神タイガースのエース、村山実である。グランドに入った村山実はベンチの方を振りかえった。多分、キャッチボールをする相手が出てくるのを見たのだろう。ベンチの上のスタンドには私達親子が座っているだけである。村山実は私達と目を合わせると、にやりと微笑んで片手を上げた。
立教大学からジャイアンツに入団したスタープレーヤー長嶋茂雄に対する、関西大学出身のエース村山実は、関西人にとっては東京との対抗意識の象徴的存在でもあった。
背が低いのと、高校時代に実績がないと言う事で立教大学に入れなかったということが、村山実の闘争心に火をつけ、東京六大学やジャイアンツに対する対抗意識の原点になっているのだろう。
大学野球で日本一になり、ジャイアンツから提示された契約金二千万円を蹴って、五百万のタイガースと契約した。
巨人―阪神天覧試合で、村山実から長嶋茂雄がサヨナラホームランを打ったのはあまりにも有名な場面であるが、大阪人(特に阪神ファン)にとっては屈辱的なシーンである。
しかし、私の記憶にあるのは村山の直球で空振りしたり、フォークボールにバットを合わせられずに大きくバランスを崩していた長嶋茂雄の姿である。
左足をすばやく引き上げ、その脚を前方に大きく踏み込んで体を沈み込ませる全力投球フォームは、『人間機関車』と言われた長距離ランナー、エミル・ザトペックにちなんで『ザトペック投法』と言われた。
村山は甲子園球場のグランドに一番乗りして、軽く肩慣らしのキャッチボールを始めた。
しばらくすると、キャッチャーを座らせて本格的な投球練習に入る。直球を受けるキャッチャーミットが乾いた音を上げる。私は村山をずっと目で追っていたので、何度も目を合わせた(気がした)
当時の私は親友のS君と放課後は毎日野球をして遊んだ。野球といっても空き地で二人きりでするのだ。私が村山実の投法を真似して投げると、ジャイアンツファンのS君は長嶋茂雄の癖を真似して打つ。守備をする者がいないので、打たれたら自分で追いかけていかなければならない。うまく三振を取ると攻守交代である。S君は藤田元司投手になり、私が藤本になる。
70年監督兼任の投手として14勝3敗、防御率0.91、勝率一位となる。72年はチームが下位に低迷していたので、半年の約束で金田ヘッドコーチを監督代行とし、自分は投手に専念。チームは一時一位まで盛り返した。
翌年、「今、うまくいっているのだからそのままで良いじゃないか」というフロントの約束を反故にするような考えで指揮権を取り戻せず、金田監督代行との確執で栄光の背番号11は引退。
私のヒーローは甲子園を去った。
監督として再登場した88年には、主砲・バースの子供が水頭症になり、治療のために一時帰国したが、そのまま解雇され、それが引き金となって球団代表が自殺。(このエピソードはまたバース編で書こうと思います)
翌年も下位に低迷し、オーナーから事実上の解任通告をされた。
阪神大震災時は自身も被災して車上生活をしていたが、近隣住民の救出や電話でラジオ出演し、全国に救援要請をするなどの活動をした。
試合前に先発メンバーが順次アナウンスされ、一人ずつ守備に散っていく。その日の先発投手は村山実。ずんぐりとした体の村山はゆっくりとマウンドに歩いて行き、マウンドの土を足でならして仕上げのウオーミングアップをする。私はワクワクしながら見つめていたことだろう。
98年、61歳でミスタータイガース、燃える男は癌で燃え尽きた。
2003年11月15日