「笑顔」
母の葬儀から一週間過ぎた日に、ニュースで寝屋川の大阪教職員殺傷事件が大きく報じられた。またか。すぐに池田の教育大付属小学校の事件が頭に浮かんだ。こういう事件が起こるたびに、犯人の心の闇や社会の問題が問われ、犠牲者の無念さが報道され、再発防止が叫ばれる。だが現実には事件はまた繰り返された。今回は生徒に被害がなかったが先生が犠牲になった。
テレビ画面に被害にあった先生の名前と顔写真が映し出され、私は一瞬目が釘付けになった。しかしすぐに人違いと自分自身で決め付けた。
そんな筈はない…… 。確かに名前は一緒だが、映し出された写真は私の記憶している鴨ちゃんと結びつかない。
だから、ニュースを一緒に見ていた妻に「同じような名前の友達がいたなあ」ともらしたが、それ以上考えないことにした。いや、私は別人だと信じたかっただけなのだ。
昨年9月にはネットで知り合った友人を病気で亡くし、二ヵ月後に実父の死を新聞で知り葬儀に参列した。今年に入ってすぐに妻が入院手術。妻が退院してすぐに、今度は母を亡くした。短期間の間に三人もの大切な人を失った喪失感が、この事件の被害者である先生を、私の知っている鴨ちゃんとは認めたくなかった、受け入れられなかったのだろう。
事件のことは連日テレビや新聞で報じられ、そのたびに心の片隅にひっかかるものを残しながらも、その事件のことを詳しく知ろうとせず、そのまま忘れようとした。
翌週、出張中の私に会社のOBが亡くなられたと連絡が入った。二十代前半の三年間同じ部門で働き、その後も付き合いのあった先輩だ。またしても知人の死。あまりにも悲しみが続きすぎる。半年の間に四人。
私は依然、大阪教職員殺傷事件のことを心の中で無視し続けた。
だが次の日、会社のインターネットで調べごとをしているとき、頭の片隅に追いやっていた筈のその先生の名前を検索していた。やっぱりずっと気になっていた。検索せずにはいられなかったのだ。よくある姓名ではないことぐらい普通に考えれば分かることだ。
検索で出てきた、年齢、出身地、出身校、小柄、優しい笑顔、熱血先生…… もう私は自分自身を騙し続けることは出来ない。テレビ画面で見た写真を、三十七年前の記憶にある鴨ちゃんと結びつかないという理由だけで、別人と決め付けることはもう出来ない。
会社のデスクだったが、目が潤んできた。しばらく仕事が手につかなかた。
鴨ちゃんとは小学校五年のとき同じクラスになった。はにかんだような笑顔が印象的だった。家が近いということもありすぐに仲良くなった。小柄ながら運動神経が良く、スポーツでは彼に何一つ勝つことは出来なかった。鉄棒の蹴上がりや、側転、前転は彼に教えてもらった。いくら教えてもらってもバック転だけはどうしても出来なかった。
放課後はいつも鴨ちゃんがそばにいた。公園や、通学路にある駄菓子屋の軒先で毎日つきることなく話をしていた。お互いの家にもよく行き、将棋やゲームをした。今でもその当時の鴨ちゃんの笑顔が浮かぶ。
同じ中学に進学しクラスは別になったが、付き合いは続いた。丸坊主で大きめの学生服を着た小柄な鴨ちゃんは、少し表情が大人っぽくなったが、あの笑顔は変わらなかった。私はバスケットボール部に入り、鴨ちゃんはラグビー部に入った。体は小さいがファイトとスタミナがあり、ラグビー独特の腰を落とし気味にして走る鴨ちゃんはカッコ良かった。
中学二年になり、あるきっかけで私と鴨ちゃん、女の子四人でグループ交際が始まった。かわいい笑顔の鴨ちゃんは女の子にも人気があった。この六人で放課後にバレーボールをしたり、女の子の家でゲームをしたりして遊んだ。そんな他愛もないないグループ交際だったが、他の男子たちが仲間に入りたいとうらやましがったものだ。
やがて我が家は引越しをし、私は電車通学になった。学校からの帰り、鴨ちゃんは電車に乗った私を、道路を走って追いかけて、手を振ってくれることが日課となった。足の速い鴨ちゃんが、今日はどこまでついてこれるかと、夕暮れの町を笑顔で走る姿を電車の中から見ていた。
中学にもなると、良い友達も悪い友達も出来る。カッコをつけたり、牽制しあったり、悪ぶってみたり。そんな中でも鴨ちゃんは素直な自分でつきあえる、数少ない友人の一人だった。
しばらくして鴨ちゃんの家も引っ越して電車通学となった。その頃からかわいい顔の鴨ちゃんがしっかりとした顔になってきた。笑顔は変わらなかったが、長い睫毛の奥に真剣な光を放つようになった。
将来は教師になりたいとその頃から言っていたように思う。運動神経が良いので体育の先生に向いていると私も思った。
中学卒業後、彼は東京の高校へ進学した。それは教師の道を歩むための一歩だったのだろう。
私は地元の高校へ行き、それぞれの道を歩むようになった。
あれから三十七年。
多くの生徒に危険が及ぶことを防いで犠牲になった先生が、あの鴨ちゃんであることを受け入れざるを得ない。
新聞やネットで彼の記事を読んで、あの頃の笑顔がいまでも変わらず生徒たちに向けられていたのを知った。あの笑顔を向けられると、尖った気持ちも和らいでくる。
鴨ちゃんは天職と思われる教師になり、多くの教え子たちに慕われる先生となっていた。
お別れ会には千六百人もの人が集まったという。これだけ多くの人に見送られる一小学校教師というのは異例だろう。
彼とは五年間の交流だったが私にも大きな影響を与えた。思春期を彼と一緒に過ごせたということを誇りに思う。
別れは三十七年前にしている。だから今あらためて「さよなら」とは言わない。あの笑顔は私の心の中にこれからもある。
2005年3月8日