芥川龍之介「蜜柑」
たまには古い作品も読んでみようかと、芥川龍之介の「蜜柑」という作品を読んだ。短いので数分間で読めてしまう。
そしてそのハイライトシーンで、私は「あれれ?」
と思った。私の読み違えか?
うーんでもやっぱり変だ。
そこの部分だけを引用。
―― 窓から半身を乗り出していた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢いよく左右に振ったと思うと、たちまち心を躍らすばかり暖かな日の色に染まっている蜜柑がおよそ五つ六つ、汽車を見送った子供たちの上へばらばらと空から降ってきた。私は思わず息をのんだ。――
この主人公の<私>は汽車の中で娘の隣に座っているのだ。<空から降ってきた>というのはあきらかに視点がゆらいでいて変だ。
<ばらばらと降っていった>とか<落ちていった>というのが普通だろう。
間違いだろうか? 芥川だから許されるのだろうか?
私は技術系で文学をちゃんと勉強したことがないので理解出来ないだけなのか。この場面は、この小説のもっとも重要な部分だ。
ここまで、主人公の<私>は車内の様子や手にした新聞をくだらない退屈な日常だと倦怠に包まれ、横にいる見知らぬ小娘を下品な顔、薄汚い服装、三等車と二等車を間違う愚鈍さ、と蔑んでいたのだ。それがその娘が投げた蜜柑が鮮やかに心を躍らせたのだ。
この日は曇天で、すでに外は暮色に包まれていた。客車内は電灯もつけられていた。陽も差さない薄暗い暮れ時に
<心を躍らすばかり暖かな日の色に染まっている蜜柑>なのだ。くっきりと印象的に主人公には見えたのだ。
これでさっきの視点のゆれが意図して書かれたものだと思い当たった。<ばらばらと降っていった>とか<落ちていった>というような傍観者的な薄い気持ちじゃなく、主観的に<降ってきた>と表現したのだろう。
主人公の<私>は瞬時に線路脇にいる子供たち<娘を見送りに来た弟たち>の視点になったのかもしれない。
でも、素人がこう書くと失敗としか見てもらえないのかもしれない。 さらっと読むと間違いと思ってしまってもしかたがない。難しい!
これは芥川龍之介二十七歳の時の作品。
2004年10月9日