「30年のあゆみ」(昭和476月刊行)より
沿革概要(T)昭和17(創立)〜昭和20年代
創立のこ(初代主事 秋田 金治郎)
戦時下の学校(現職員 南本 源三郎)
学制改革前後のこと (現職員 舟川 一男)
修学旅行と遠足(現職員 桑原 常隆)
沿革概要(U)昭和30年代
文科系クラブの活躍(昭和30年代 一部略)(現職員 津村 竹一郎)
陸上部の足跡(昭和30年代 一部略)(現職員 谷村 馨)
参考資料 「陸上部の駿馬」(高校9期 上村 圭一)
一隅を照らした女子生徒(昭和32年頃 一部略)(前職員 現高津高校定時制主事 氷室 暢夫)
生活体験発表大会 全国大会に出場(昭和35年37年)(前職員 現高津高校定時制主事 氷室 暢夫)
野球部近畿大会出場(白球を追って二十年)(現職員 先川 充)
琴の音 邦楽部の活動(現職員 山住 恒子)
創立20周年記念式典・記念事業
昭和38年度定員増と新教育課程(現職員 岡嶋 彦一)
沿革概要 V 昭和40年代


沿革概要(T)昭和17(創立)〜昭和20年代

昭和17年 3月 日 文部省告示第136号をもって開校認可さる
(1942)       月20日  大阪府告示第392号をもって開校告示さる
        月  日  大阪府立今宮夜間中学と称し、今宮中学校(旧制)内に設置。校長 岩橋 繁雄 学長兼務。生徒定員100名。開校時 秋田金冶郎選任教諭として準備にあたる。参考 府立夜間中学=市岡(昭和8)、高津(昭和9)、北野(昭和12)

昭和18年 120日  勅令第36号をもって中学校令公布(昭和1841日施行
          4月 日   大阪府立今宮第二中学校となる。生徒定員300名。太平洋戦争熾烈となり教員中応召者多し、在籍生徒半減。運動場は菜園化する。

昭和20年3月    修業年限三ヵ年となり、夜間中学第一期生卒業(52)
        3月13日  大阪空襲、武道場、工作室、倉庫等焼失。授業は当分中止。
      8月15日  戦争終わる。第2学期は、電灯線の故障あいつぐ。

昭和213月     第二中学校(旧制)第1期生卒業(52)
        4月24日  岩橋校長死去。校葬(5月4日)。山地教頭 校長事務取扱
        6月27日  進駐軍 プール接収(昭和26年8月16日返還)
        7月15日  第2代校長 米井 節次郎着任(旧 泉尾高等女学校長より)

昭和22年3月     修業年限もとに復し四ヵ年となり、この年卒業生なし。
         4月11日  米井校長退任、第3代校長 神津 省三郎 着任(旧 市岡高等女学校長より

昭和23年4月 1日  昭和22年法律第26号(学校教育法)及び大阪府告示第558号をもって今宮高等学校夜間課程となる。生徒定員8学級400名。普通科。男女共学。秋田教諭、夜間課程主事となる。

昭和24年3月    新制高校第1期生卒業(30名)

昭和25年4月1日  法律第103号をもって今宮高等学校定時制の課程と改称

昭和26年4月    ララ物資による牛乳給食。冬季、石炭ストーヴ入る。


昭和27年6月    四期生 南紀方面に修学旅行(修学旅行のはじまり)

創立のころ

 本校は、昭和17年3月認可、開校告示され、ここ旧制今宮中学校内に今宮夜間中学が設置されたのであるが、岩橋学長の指示を受け当時選任教諭としてただひとりその開校準備に当たられた秋田金治郎初代主事にその当時の様子を語ってもらい、本校30年の歴史の扉を開こう。(役職は、執筆当時のもの)

 昭和17年3月に、広島で教鞭をとっていました私が、突然、今宮中学校長の岩橋繁雄先生から、至急大阪へ帰るようにとの呼び出しを受け、急ぎ大阪へ帰りますと、今度夜間中学が、今宮中学校内に設置されるようになったので、私にその設立準備をしてもらいたい、との依頼を受けました。夜間中学というのは、初めてであり、その形態もその内容も何もわかりませんでしたが、当時、大阪には市岡、高津、北野といった三つの夜間中学が、既に開設されており、この三校を視察して、夜間中学のあり方が判りましたので、それを参考にして、設立の準備にとりかかりました。
 その目標として、第一に働きながら学ぶ生徒が、その主たる対象であること、第二に、中学卒業程度の実力と教養を身につけさせること、第三に、夜間であるため、十分健康に留意しながら、あくまで初志を貫徹させることとしました。夜間中学というのは、中等学校令による中学校ではなく、各種学校でありまして、校長は学長と呼ばれ、入学資格、国民学校高等科終了程度(旧高等小学校)修業年限、四ヵ年。
 先ず、職員室の設置から始めねばなりませんでした。職員室といっても、適当な場所もありませんでした。初めの内は、私一人でしたので、昼間の職員室の片隅をカーテンで囲んで、机二脚を置いて仕事を始める事にしました。先ず、生徒募集から始めました。府庁の方では、募集要領を各学校の方へ出してもらっていましたので、更に、学校の門のところに立看板を出して生徒募集を行い、また、目立つ場所に僅かばかりの張り紙をしたことを憶えています。受験心得や要項は、ガリ版で印刷しましたが、受付番号票は、昼間のを利用させてもらいました。募集はしたものの、果たして受験生が来てくれるかどうかが、心配でなりませんでした。いよいよ受付を始めたところ、驚いたことにこちらが予想していた数をはるかに越えたことでした。その数450何名かでした。受験場は、玄関を上がった二階の9教室をあて、日曜日に試験を行ったことを覚えています。日曜日にしました理由は、当時二階の教室には、電灯設備が無かったからでして、少し後になって二教室のみ電灯をつけてもらいました。試験問題は、昼間の先生方に手伝ってもらって、英語、数学、国語の三科目の問題を受付締切後に作成し、ガリ版で印刷しました。試験監督の先生も全部昼間の先生方に手伝ってもらったことは、いうまでもありません。あまり仕事が煩雑なためと、私一人ではどうにも処置できませんので、国語の小林先生と、事務所に書記一名をえて、仕事もやっと軌道にのるようになりました。
 試験の結果、優秀な100名の合格者には諸手続の注意事項を伝えて帰宅させ、開学の日を待ちました。その間、出席簿、名列表等多忙な数日の後、やっと開学を迎え、講堂で、父兄同伴の上、学長より訓示を受けた後、A、B二組にわかれて、教室で注意事項を話しました。その翌日五時半から、元気溌剌として、勉学に意欲をもやした生徒たちが、毎日登校し始めました。教科目も今日のような教育課程とは異なって、ある程度学校で取捨選択できましたので、主として、国語、数学、英語、歴史、生物といった科目を重点的に授業時間を編成しました。
英語、国語以外は、昼間の先生方にお願いしましたが、体操の時間のやりくりには、時間割の編成で困ったことがありました。何分、当時体育館の電灯設備が悪く、やっと生徒の顔が識別できる程度で、簡単な体操しかできませんでしたので、どうしても校庭で行わなければなりませんでした。そのため、秋、冬等の暗い季節には、校庭では授業ができませんので、しかたなく体育館を使用しなければなりませんが、その他の季節には校庭で行うという複雑な授業形態をとらざるをえませんでした。また、二教室はルックスにして、30にもならなかったぐらいで、教科書が読める程度でした。現在の高等学校定時制の照明と比較すると雲泥の差があったことは事実です。
 この二教室と薄暗い廊下の照明の外には、何ら電灯照明もなく、遊びに出る場所もなかったくらいでした。それでも生徒達は勉強にとりつかれたように、会社から解放されると、喜び勇んで登校して来ました。授業態度は、熱心そのもので、物音ひとつ立てない静けさが、今でも強く印象に残っています。このような設備の貧弱な所でも、やる気があれば、如何なる所でも勉強は出来る一つの見本を見せてくれた感がありました。岩橋学長も折りにふれ、各教室で訓話をされましたが、生徒には深い感銘を与えたようでした。
 当時、日本は、日華事変酷な時でありました、中国の広野を疾駆し、進撃につぐ進撃で、勝利に酔いしれていた時代でありました。夜間中学が創設されたというのも、その当時まだ国力に余裕があった現れでありました。戦いは毎日激しさを増していきましたが、授業には別に支障をきたす程ではありませんでしたので、一日として休んだことはありませんでした。
 第一学期末の試験も終わり、7月末になって、学長より校庭で夏休みの注意事項聞いて、初めての一学期の休暇を迎えたのでした。生徒達の成績の結果も良好だったように記憶しております。この一ヶ月余の夏休みの間に、戦争は益々進展していよいよ、深みにはまりこみ、抜き差しならぬ羽目に陥っていたように思われます。毎日のように、出征軍人の数が目立って増え、各学校にも先生方が戦争に駆り出された噂を聞くにつれて、学校の方は閉鎖されるのではないだろうかと心配したりしました。このような険悪な状態の下で、九月に始業式をはじめました。生徒達の明るいはずの顔も、中には曇った顔で登校する者もありました。父親の出征という思いもよらない狼狽と驚愕とに打ちのめされたためなのです。平和であるべき各家庭では、相矛盾した心の葛藤を、戦争という想像もつかない怪物に振り回され、悩まされながら、その渦中に押し流されていたのであります。
 戦争当時でありましたので、遠足や運動会等はできませんでした。ただ、黙々と勉強にいそしむだけでした。ただ、一番痛ましいと感じたことは、一、二月の寒風吹きすさぶ夜の火の気のない教室で、手をこすって温めながら講義を聴いている生徒達の姿が、今でも眼に浮かびます。また、ある時は、数人の寒さに弱い生徒達が、小使室にある炭火に暖まって談笑している姿も微笑ましいものでした。
 昭和18年になると、校名も大阪府立今宮第二中学校と改称され、中学校令による中学校としての資格が与えられたのでした。しかし、昭和17年に入学した生徒は、やはり今宮夜間中学であって、改称されなかったことは、どう考えても納得できないところがありました。
                                                           (初代主事 
秋田 金治郎 S.17.4 〜 30.8末)

戦時下の学校

 昭和18年、桜の花に先駆けて、岸本先生とともに3月31日付をもって、大阪府立今宮夜間中学(翌日の4月1日に今宮第二中学校と校名変更)に就職してから、足掛け三十年の歳月が夢のように流れすぎました。
 思えば就職当時は戦時中で、わが軍の戦果は赫赫として輝き、中国全土、南方、北満へと戦域は益々拡大して、一億総動員、非常事態に直面しつつも、前途に希望を抱きつつ銃後の備えに万全を期し、鋭意職域に邁進しつつあるときで、まだ空襲はおろか、灯火管制の心配もなく、明るい電灯の下で勉学に励んでいました。故岩橋校長のもと職員生徒一体となって、大今宮建設を夢みつつあらゆる困難の中にも和気あいあいとして学業に励み、大学進学その他に生徒は大きく胸を膨らませていました。
 しかし、やがて物資は極度に欠乏してき、教科書といっても名ばかり、参考書はおろかノートもなく、廃紙同然の教科書、表と裏の字が同時に写り、どれが表の字で、どれが裏の字かわからず、苦心の末読み下すという状態であり、試験をするにしても答案用紙がなく、教師が板書しては生徒各自持参の大小さまざまな用紙で試験を受ける有様。現在の如き恵まれた状況とは雲泥の差がありました。それでも生徒は、真面目で真剣で、私語する者一人もなく、冬はストーブもなく窓ガラスの割れ目より寒風が容赦なく吹き込み、外套もつけず、暗い電灯の光をたよりに、熱心に勉強する態度を見ては、こちらが頭の下がる思いでした。試験態度も厳正で、机の中には一枚の紙屑もなく、教科書ノート類は教壇上に一列に整然と並べ、窃視する者一人もなく、監督教師の必要もない状態でした。秋になると今宮名物の観月会があり、その夜は校長臨席のもとで、剣道場で一同車座になって、一杯のうどんに舌鼓を打ち詩吟、剣舞、合唱と一時間にわたっての楽しい団欒に、昼間の疲れを癒し、明日の仕事や勉学の活力を養ったのでありました。
 戦況は日一日と悪化し、空襲回数も頻繁となり、先生たちの応召も重なり、勉学も落ち着かず、不安な毎日を送っているうちに、本校にも警備の兵隊が常駐し、現在の全日制生徒会室は、軍の将校控室となり、警報が出るたびに各教室の暗幕は光が漏れないように点検し、生徒に注意するも、ガラスの割れ目から風が吹き込み、少しでも光が洩れると将校より一喝される有様でした。そのたびごとに板切れや釘金槌を持って風窓を塞いでも、翌日には全日制の生徒に外され、それをまた打つということを毎日繰り返し、時によっては知らないうちに光が洩れていて憲兵にどなられ、始末書を取られたことが何回となくありました。
 運動場は菜園化し、校舎内外ともに軍に占有され、わずかに残った教室で細々と授業を続ける状態でした。それでも生徒の学習意欲は旺盛で、20年1月下旬の旧制高校・専門学校への合格者は、府下夜間中学校のトップを切るほどでした。
 空襲に次ぐ空襲、警備の兵隊も次々交代して外地に出発、校舎内外の破損も著しく、教材教具の紛失も日を追って増え、あれほどきれいだった校舎もたちまちのうちに荒廃してしまいました。
 忘れもしない昭和20年3月13日、あの恐ろしい大空襲、本校一帯は一夜のうちに焼け野が原となり、南、北館のみが警備の兵隊と職員生徒の必死の活動により、かろうじて焼失をまぬがれ、焼け跡に立つ校舎が当時は天王寺駅からも眺められるほどでした。両館は焼失を免れたといっても、屋上には焼夷弾によるいくつもの大きな穴、それがため雨の降るときは二階の教室まで雨が漏るほどでした。食堂(現 図書館)、倉庫(現 食堂)、剣道場(現 新体育館)、柔道場(現 音楽室)は焼失し、プール、運動場にも多数の焼夷弾が落ち、三畳敷、四畳半敷ほどの穴がいくつもあき、先生方苦心の麦畑も一瞬にして吹き飛ばされてしまいました。両校舎には、付近の罹災者が一杯避難し、教室は足の踏み場もない有様で、あたら戦場の観を呈していました。
 卒業式はもちろん中止、入学試験が目前に迫っていましたが、このような状態では書類の整理すらもおぼつかず苦慮しているとき、府庁より本年度の入試は中止、出願者全員合格の通知を受けたときは、ほっとしました。それでも新学期の準備にとりかからねばならず、秋田先生と二人で細々と書類の整理や帳簿の作成にとりかかりました。一方、教室では罹災者は依然として居座り、一向に移る気配も無く在校生や新入生はこれまた、どれくらい集まることかと、不安の念に駆られながらも新学期の準備に勤しみました。4月も中ごろになると生徒たちもぼつぼつ顔を見せましたので、思い切って授業を再開していると、そのうち多くの生徒も登校してきて、学校は再び賑やかになりました。戦いは我に利あらず、敵機の来襲も頻繁を極め、夜間の授業は危険を伴うので、週三日昼間授業に切り替え、さらに月に五日、三日と短縮して授業を続ける有様でした。そのうち私にも旅行中止の命が下り、二度目の召集令状がいつ来ることかと不安の中にも、全日制の先生方の援助のもとで授業を続けるうちに、広島、長崎に新型爆弾投下の報伝わり、さらに敵機より投降勧告のビラが多数撒かれるので、生徒たちにそれらの説明に苦慮する有様でした。
昭和20年8月15日ポツダム宣言受諾により、長く苦しかった戦争も終結しました。その夜から電灯も明るく、B29のわがもの顔の来襲もなく、久しぶりにのんびりした夜を送ることができました。学校は夏休みでしたが、毎日のように登校して、新学期の準備に励むも、力が入らず、占領下の教育は一体どうなることかと不安に駆られる毎日でした。それでも久しく待ち望んだ正規の授業は、9月より再開され、次々と出される進駐軍の指令に不安を覚えつつも、活気に満ちた毎日の授業でありました。空襲により痛めつけられた校舎や教室の復旧は、到底望まれず、荒廃した中にも職員生徒一体となって自力で復興に努力、中でも夜間生徒の生命である電灯線の修理には人一倍の努力をしました。しかし、応急処置のため長くは続かず、雨降る夜など停電のためローソクの灯で勉学を続けたことも、今では懐かしい思い出となってしまいました。
 こうして授業を続けるうちに応召せられた先生方も次々と復員せられ、学校は活気を帯びて前途に新たな希望を抱きつつあるとき、慈父の如く私たちの最も敬愛する岩橋校長先生が、戦中戦後のご無理のためか、突然のご逝去、大きな悲しみに突き落とされました。即日、山地峰太郎教頭が校長事務取扱となり、十日後の昭和21年5月4日、本校講堂で校葬が執り行われました。7月15日付をもって米井節次郎先生が新校長として着任せられ、その後8ヶ月の短期間でご勇退になり、昭和22年4月11日付で、第三代校長として神津省三郎先生が着任、ここにおいて本校はようやく落ち着き、軌道に乗って勉学に勤しむ態勢となりました。
 しかし、この間、校庭の一部に金網が張られ、プールは進駐軍に接収され、職員生徒もそばに近寄れない状態でした。神津校長先生は、生徒に及ぼす影響を考え、再三再四、進駐軍と交渉して、やっと返還までこぎつけるのに、かなりの日時と多大の心労を費やしました。次々出されるマッカーサー指令により、学校も大きく変革、とりわけ全日制は学校間交流、男女共学等々、神津校長先生は人知れず多くの心労を重ねたことと思われます。わが第二中学校は、幸いに学校間交流は無く男女共学だけとなり、校名は今宮高等学校夜間課程と変わりました。今まで男子ばかりの学校でしたが、その翌年からは女子一名入学して、当時まさに紅一点の存在でした。その翌年には二名入学。そして年代わるごとに女子の数も増加して、今日では女生徒の数が全校の半ばを占めるようになり、学校も三十年の歳月とともに、大きく変わりつつある現状です。    (現職員 
南本 源三郎)

学制改革前後のこと

昭和22年4月、神津校長が第三代目校長として、市岡高等女学校(旧制)から本校に着任された。
当時、本校は、大阪府立今宮第二中学校といい、生徒数は、一、二年生は二学級三、四年生は各一学級で、全校合わせても三百名にも満たなかった。
教員も事務職員と合わせて十二、三名という少人数で、教員室と事務室が一部屋に合い住まいで、今の北館一階東側の家庭科準備室がそれであった。
こんな少人数であったので、式は講堂でなく体育館で立ったまま行った。男性ばかりの殺風景の中で、ただ一人の女性として英語の乾先生がおられた。
 当時は、旧制度であったから修業年限が四年で、昼間より一年短かった。それは入学資格が違ったからで、昼間は小学校(当時国民学校)尋常科六年修了者が入学したのに対して、第二中学校は高等科二年修了者を入学させたので、結局、卒業時において通算すると、やはり一年余計にやったことになる点は、今日と同様である。
当時の生徒の中には、年齢的にも精神的にもかなり大人で練れた人が多かった。教師と生徒の間も和気あいあい、家族的とも言える温かい心のつながりがあった。そんななごやかさの中で、授業は真剣そのもので、欠席者は極めて少なかった。なによりも、生徒自身が、勉強しなければという気持ちに燃えていたからであろうが、当時は、雇用主の理解も少なく、生活も困難であった時代にもかかわらず、よく頑張ったものだと思う。
 昭和二十三年四月学制改革によって、今宮高等学校夜間課程と校名が変更されるとともに、男女共学となった。共学といっても、最初の年は一名、翌年は二名の入学があっただけで、この三名の女性は、実に貴重な花のような存在で、男生徒の憧れの的であった。今はそれぞれ家庭の立派な主婦となっておられる。昼間の方は学校間の交流があって混乱したが、幸い夜間の場合は交流ということは無く、平穏であった。
 新制度になったということは、少なくとも従来は別の学校であった今宮中学校と今宮第二中学校が同じ今宮高等学校となり、ただ課程が昼間と夜間に分かれているというだけで、少なくとも制度の上では一つの学校となったわけである。卒業証書も同じものが渡され、服装その他いろいろな点で昼夜和合協力が志向された。制帽も、それまで昼間は白線が四本、夜間は一本と決められていたものが、夜間も四本となった。小さなことだが、当時の生徒はこんなことにも素朴に喜んだものであった。
 創立以来の校訓「質実剛毅」の上に、「和親協同」の四文字が加えられたのもこの年であった。新制高等学校は、新制中学校三年卒業を入学資格としたので、従来の高等科二年卒業者年数が不足するので、臨時的な措置として一年制の準備課程が校内におかれた。この制度は、一、二年で廃止になった。
 教員室は、現在のところに移転(広さは今の半分)、が校舎の荒廃はひどいもので、今の作法室は、まだ靴の統制会社が倉庫として使用していた。ガラス窓も、板張りのところが多く、照明といっても赤いようなタングステン球が裸で三つ四つぶら下がっていた。それさえも、しばしばの停電で、満足な授業もできかねることが多かった。停電になると職員室からろうそくを持ってきて一本のろうそくに二、三人が固まって勉強したものである。生徒は依然として苦しく、空腹のために倒れる者も出た。靴が買えないために寒中でも玄関のところで下駄を脱ぎ、校舎内をはだしで通した生徒もいた。学校行事もほとんど無く、年に一度の観月会は、最も楽しい思い出である。以前は本当に屋上で、月を見ながらやったものらしいが、このころはもう講堂で行なった。まあ、今の文化祭の小規模のものである。  (現職員 舟川 一男)

修学旅行と遠足
昭和20年代に行われた最初の修学旅行と遠足の思い出を少し書いてみよう。終戦後の窮乏と混乱の影響で、初めのうちは遠足だけであった。このころは写真も不自由で、残っているものも少ない。昭和27年6月、南紀、潮の岬、勝浦、青岩渡寺、那智の滝、鬼ヶ城方面の旅行が遠距離修学旅行の最初であった。当時、旅行斡旋業も、今日のように発達していなかった。幸いに、四年生に天王寺駅助役の集君がいた。彼の郷里は、南紀で、その地方の事情に精通していたので、団体切符の世話から、旅館の手配まですっかり彼の世話になったものだ。今から考えると実にのんびりした話で、隔世の感がある。最初の旅行だったので、主事の秋田先生と担任の岸本先生と、私が同行した。当時、四年生は二クラスであった。岸本先生撮影の写真が残っている。橋杭岩奇勝の風景や、潮の岬灯台、那智の滝をバックにして撮った記念写真等で当時が思い出される。潮の岬では、灯台や測候所を見学させてもらった。その夜は、勝浦の旅館で一泊した。翌朝は緑滴る青岩渡寺那智の大滝を訪れ、当時終着駅であった熊野まで行き、鬼ヶ城の奇勝を観賞し、一路帰阪した。一泊二日の小旅行であったが、本校初めての修学旅行で、これより毎年欠かさず修学旅行が行われた。その翌年は、南本・長島両先生の引率で、東京・鎌倉方面に行かれた。次の年になると九州旅行が始まった。
 遠足は古くからあったようだが、戦後で、写真があまり残っていない。昭和29年10月3日薬師寺遠足に行った。氷室、川口、稲葉、井之元、綾仁、南本先生が同行した。今は皆転出され、現職では南本先生と私だけになった。続いて、明石、姫路城、彦根城、赤目、宇治寺に行ったことを覚えている。(現職員 桑原 常隆)

沿革概要(U)昭和30年代

昭和30年 3月16日 神津校長退任、第四代校長 武田三夫着任(四条畷高校長より)
                 4月 1日 生徒定員16学級800
               9月 1日  秋田主事転任(三国ヶ丘高校定時制主事へ)、第二代主事、北井龍夫着任(鳳高校定時制主事より)
              1010日 観月会
昭和31年 4月   新教育課程実施
昭和32721日 富士登山
            1011日 創立15周年記念文化祭

    1027日 府下定時制生活体験発表会を本校で行う。

    1110日 定通教育10周年記念式典(於 中之島公会堂)
昭和33年4月   図書館 全定共用となる。

昭和35年4月1日 大阪府告示第104号を以って所在地町名 戎本町二丁目となる。

昭和36年4月1日 北井主事転任(泉大津高校長へ)
              4月1日 学則制定(昭和40.4. 1改正)
             4月16日 第三代主事 三国谷 宏着任(鳳高校定時制主事より)
昭和37年4月1日 武田校長退任、第五代校長 浅田光男着任(河南高校長より)
              11月2日 創立20周年記念式典。記念体育大会(1021)、文化祭(11月3日)
昭和38年3月   生徒指導室(20)竣工
    4月   新教育課程実施
昭和39年4月1日 三国谷主事転任(貝塚高校長へ)、第四代主事 竹内 徹着任(府教育委員会指導課より)
          11月  牛乳加温器設置
創立期の苦難に続いて、戦争の被害、戦後の復旧、学制改革という風にめまぐるしく移り変わったが昭和30年代に入ると安定期になり、充実した学校生活が生まれる。この年代では単なる通史的なものでなく、生徒の活躍を中心にとりあげて記述する。

昭和30年代の施設・設備の拡充整備状況()

  昭和30年 北館一階に作法室竣工(茶道部・邦楽部使用)

      昭和31年 全日制50周年記念事業による記念館竣工(一階食堂・二階図書館)

      昭和33年 図書館全定共用となる。

    昭和34年 26号線拡張工事に伴う校門・塀の移動。

  昭和38年 生徒会室の新設。

  昭和38年 音楽室が新設される。

文科系クラブの活躍(昭和30年代 略)

初期の活動で主なものは、弁論、音楽、演劇部であった。当時の弁論部の花形として、6期の岩崎君(NHK放送局)や9期の上村君(現大和ハウス取締役)がいた。大阪大会に優勝して全国大会に出場したのは、15期の松岡さんだった。音楽部は、7期の岡君(音楽大学)、9期の赤土君(関大オーケストラOB) 11期の宮崎君、13期の谷山君(旧姓 西、京都外大グリークラブOB)、その他女性リーダーとして、藪元さん(14)、中田さん(旧姓谷野、17)、天野さん(19)らがおり、府下定時制高校音楽親交会(OTOS)にて、優勝等好記録を残し黄金時代を現出した。吹奏楽部は、二中一期卒の村岡君(エースコック社長)の多額の寄付により、購入された楽器の完備により、15期寺田君、17期土橋君、18期安藤君等の名リーダーのもとにはなばなしい足跡を残した。茶道部の活躍は地味ではあるが、11期の三浦さん(旧姓小林)13期後藤さん等の熱心な部長のもとに発展した。
(現職員 津村 竹一郎)

 

陸上部の足跡(昭和30年代 一部略)

本校に陸上部の生まれたのは、昭和30年代で、当時生徒会会長であった上村圭一君(9)が、私と同卿で入学時より親しく、秋の体育文化祭が終わってから、陸上部をつくりたいと相談を受けたのがそもそもの始まりである。さしあたって1月下旬に実施される池田市役所から毎日新聞社までの駅伝に参加することにし、放課後はもちろん、冬休みも返上して練習したが、練習の日が浅いので、参加36校のうち34位であった。

その翌年、井上信義君が天王寺商業(全日制)から転校してきた。彼は小柄だが、強いスプリンターで、早春の陸上競技大会では、100200とも高校新記録で優勝し、一躍今定陸上部の格があがり、文句なく同好会から、クラブへ昇格した。昭和33年井内幸子さんが入部してからは、女子短距離では彼女の右に出るものは、府下ではいなかった。

 上村君の掛け声で生まれてまもなく、井上君、井内さんの両巨星を得て磐石のものとなり、両人とも卒業のとき体育功労賞を受けている。34年バトンを受けた加原雄揮君は、真面目と努力で陸上部を揺るぎないものとした。どんなに寒い冬の夜でもランニングシャツ一枚になって練習に励む彼の姿は公舎にいる校長の目に焼きついてしまったらしく、卒業にあたって特別にお褒めの言葉を頂いたほどである。当時、私の記憶に残る部員には、安達、瀬島、初村の諸君がいて、加原君を助けて努力した。その後は36年森光和生君、37年西沢武則君、新田谷貞治君へとバトンタッチがなされていくのである。

(現職員 谷村 馨)

参考資料 1993年(平成5年)7月20日(火曜日) 日本経済新聞 交遊抄より


一隅を照らした女子生徒(昭和32年頃 一部略)

昭和3211月、「定時制の先生に感謝する一女子夜学生」と記した封筒に二百円を同封した匿名の郵便物が、武田校長先生のもとに届けられました。その文面の概要は、「蒸し暑い夏の夜も、凍りつくような厳寒の夜も、私たち定時制の生徒を1人残らず立派な人間に育てたいとの一念で、教育に専念してくださる先生方に対し、私たちは心から感謝すべきではないでしょうか。(中略) 先生方のご恩の万分の一にもと気持ちだけでも表したいとその方法を考えました。」それは、わずかな給料から一ヶ月二百円をお送りすることであるとして、それから、翌年の3月までの第四信まで送られてきた。時移り春寒とはいえ、梅花一輪の今、ここに、諄諄として筆者の迷夢を覚ますのは、この血の滲む送金を続けた奇特な一女子生徒の心のともしびの真心である。教育の任にあるわれわれは、重荷を背負って険しい道を歩みつつある定時制生徒に絶えず親愛と信頼感を増すよう努力精進しているものの、このような、一隅を照らす立派な女子生徒があることに誇りを感ずるとともに、これら生徒の信頼に応えるに足る見識と熱意を持たねばならぬと痛感する。(前職員 現高津高校定時制主事 氷室 暢夫)

 

生活体験発表大会 全国大会に出場(昭和3537)

大阪府高等学校定時制通信制生活体験発表大会は、昭和29125日大阪府定通教育研究会主催のもとに、本府定通教育振興会の後援を得て盛会のうちに開催された。昭和46年で第18回を数えるが、各校から選出された発表者たちの熱弁は苦難に打ち勝ち,茨の道を切り開いてきた切実な、しかも建設的な体験と真剣さを織り交ぜ,定通教育に対する社会の認識を高めるとともに、聴衆に感銘を与えてきたのである。本校の松岡洋子さんは、昭和35(二年生)、昭和37(四年生)の二回にわたり、この大会において堂々と優勝し、東京で開かれた全国大会に、大阪代表として推され出場した。(大阪大会 3511月 全国大会36年2月 表題は、「苦難を越えて」 大阪大会 3711月 全国大会           382月 表題は「二人三脚」)

 全国大会に同行した感想を述べる。発表した生徒は各都道府県代表、米国行政下にある沖縄からの参加は会場に感動の波を広げた。発表者は、会社員、学校の教職員,店員、主婦、看護婦、バス車掌、自衛隊員、電話交換手、農業従事者など様様の職場で働いている生徒達であるが、その自己凝視の眼の真摯さ、周囲への洞察の鋭さ、その中から生活の知恵を見つけ出そうとする構えの見事さ、自己を練り学習し、成長していこうとする意欲の逞しさ、どれを聞いても胸を打たれたのである。本校の松岡洋子さんの発表も、多大の感銘を与え、全国からの友情のこもった激励の手紙などは、いまだに忘れがたい記憶の一こまである。
(前職員 現高津高校定時制主事 氷室 暢夫)

 

野球部近畿大会出場(白球を追って二十年)

私が赴任した昭和26年には、野球部は既に創設されていましたが、本校参加の野球大会は、四校大会(学制改革前の四つの夜間中学すなわち、市岡、北野、高津、今宮の四校で毎年持ち回りで開催)でした。28年5月17日、市岡高校で行なったとき、本校が優勝し全員が感激喜悦したことを覚えています。当時の選手の中ではなかなか良いプレーヤーが居り、福本、古川、柳井、松本、内貴、田中、大川の諸君が思い出されます。そのうちに府下定時制体育大会に参加するようになり、32年ころ、府下大会は、地域別に四ブロックに分けられ、そのブロック代表によって最後の優勝が争われていました。忘れもしない35年5月には、前記の四校大会で優勝し、秋には中央ブロック代表校となり、中百舌鳥球場で四ブロックの争覇戦に入り準決では春日丘高校を破り、決勝戦では、堺工校と相見え、5回までは2対0で勝ちながら、67回の連続エラーで惜しくも3対2で敗れ、準優勝となりました。36年になって、非公式の近畿大会大阪府予選を正式のものにしなければならないとの声が出て、各校の顧問が相寄り,当時の八尾高校長田中先生、城東工高校長宮原先生、本校主事三国谷先生らの肝入りで、定時制の野球全体の改組に取り組みました。その後38年には、これは全日制同様、高等学校野球連盟の傘下に入り、その発会式が本校の会議室で行なわれ、当時の本校校長浅田先生のときに実現し、これで名実ともに春秋二回の高野連傘下の野球大会を持つようになりました。すなわち春の近畿大会大阪府予選から、夏の近畿大会(近畿六府県の代表戦)と秋の府下定時制大会です。話は36年の野球大会にもどりますが、この年は、竹村、吉浪、榎本君らが四年で、二年生から苦労してきていますので、この年こそ、近畿大会予選,秋季府下大会の両方とも優勝を期して臨みましたが、近畿大会はブロック代表戦で惜しいところで敗れました。しかし秋の府下大会では城東工高を降ろし堂々と優勝しました。そのときの監督コーチは、末広君、主将は、竹村君で、特に吉浪君の名投手ぶりは印象的でした。なおこの年の府下大会では、野球、柔道、卓球ともに優勝し、三本の優勝旗を学校に持ち帰ったことは、空前の壮挙でした。

 さらに、39年になり、監督コーチ榎本君、四年に有井,幸田、栗林、南、高田、三年に松生、西岡、山下、磯谷、高島、鈴木、二年に大河内、中尾、一年に中条、森坂の諸君がおり、層は厚く練習は熱心で、遂に82日近畿大会の大阪府予選で輝く優勝を遂げました。

この大会では、生徒会が先頭に立ち、応援団を組織し、バス1台貸切で藤井寺球場へ向かいました。それに嬉しいことには、全日制野球部応援団は、ブラスバンドで合流応援してくれました。定時制が始まって以来のことです。8月23,24日いよいよ近畿大会です。奈良市営球場において、和歌山県代表の箕島高と対戦し、内容的には押していましたが、凡プレーで惜しくも2対0で敗れ長蛇を逸しました(この大会で簑島高は優勝)。惜敗したものの、このときの全定生徒、卒業生の暖かい物心両面にわたる支援は忘れられません。同年秋の府下大会は、準優勝で、大阪における春秋連続優勝ならずでした。
(:現職員 先川 充)


琴の音 邦楽部の活動

たしか、昭和24年でしたが、(当時は本校の全日制に勤務)女生徒から筝曲部を作ってほしいという申し出を再三受けました。そこで当時の神津校長先生に、その旨を伝え相談いたしました。幸い新制高校発足のときの交流校であった泉尾高校に楽器がありましたので、交渉して琴6面だけ譲っていただきました。
しかし何分にも今宮は男子校であったので練習する場所は皆無です。そこで会議室の床に莚を敷いて、足の痛さをがまんしながら、張切ってけいこしたものです。そうするうちに現在の作法室かつくられ、はしめて畳の上でけいこカゞできるようになった時は天にも昇る心地でした。
 昭和33年定時制勤務にかわりました。 こちらでも女生徒から筝曲を教えてほしい、部をつくりたいと申し出がありました。当時の武田校長先生に楽器を定時制の方でも使わしてほしいと相談しましたところ、先生は同一学校内のことであるから差支えないとのことで、生徒達は邦楽部同好会をつくりました。それが2年ほどたち部となりました。
 以後ずっと、新入生歓迎会・文化祭・送別会には欠くことなく、全員出演いたしました。
部員数も増して20名近くもあり、休暇中も登校、放課後も練習、何もかも忘れて一同は懸命にはげみました。何も経験のない生徒たちが、とにかく一応は弾けるようになり、中には大変上達して難曲に取り組むむきも多く出てまいりました。43年卒業の方が、部長の時代、新たに定時制へ琴1面を買い入れてくれました。現在、7面を全・定で使用しております。
 特別教室(全員必修クラブ活動)の邦楽教室は、毎年20名ぐらいで進度に応じて、三曲ぐらい分けて全員けいこをつけています。部員を兼ねている生徒もかなりいます。女生徒のみならず男子で特活教室とクラブヘも入部して、熱心に活動をつづけている生徒もあります。かれらは卒業後、何年かたってこの学生時代のことを、なつかしく思い出す時もあるでしょう。
         (現職員 山住 恒子


昭和30年代後半

□ 創立20周年記念式典・記念事業

本校創立20周年記念式典は、昭和37年11月2日午後6時より佐藤大阪府知事、府教育委員から加藤教育委員、武田前校長並びに北井前主事など来賓の方々約100名御臨席、講堂で開かれた。壇上の花ビンの花が芳しく香る中で、浅田校長の式辞にはじまって式は進められた。
 学校長は昭和17年大阪府立今宮夜間中学として発足し、翌18年には今宮第二中学校となり、そして23年学制改革に伴って高等学校夜間課程として生まれかわる等、創立以来、今日までの20年間経過を述べられ、また、20周年の道標を前にして、毎日毎日の現在の仕事と勉学等その現在を充実したものにするよう顧ってやまないと言葉を結ばれた。
 続いて左藤知事より何事にも挫げず信念をもって励んでいただきたいとの祝辞、そして加藤教育委員、府会議長の祝辞が述べられた。
同窓会長北川氏からも、体験からにじみ出る心に深く刻まれる祝辞であった。また、お変りなく元気な姿で武田前校長並びに北井前主事よりお祝の言葉が述べられた。
 各界代表からの献花の後、永年勤続20年の教員として岸本、長島、南本各先生方、10年以上勤続教員として綾仁、飯田、桑原、先川、谷村、津村、氷室、舟川各先生方、事務職員として片村、藤川、花井さんが表彰された。
 校歌斉唱があり閉式の辞をもって8時すぎ式典は終了した。式典は実に質素で厳粛であった。
   (昭和37年12月24日付 今高新聞より)

  式次第

  一、開式の辞
  一、学校長式辞
  一、来賓祝辞
    大阪府知事
    大阪府教育委員会
    大阪府議会議長
  一、来賓献花
     大阪府高等学校長協会会長
     大阪府高等学校定時制教育研究会会長
     大阪府高等学校定時制主事協会理事長
     地元中学校代表
     雇用主代表
  一、武田前校長お祝のことば
  一、北井前主事お祝のことば
  一、同窓会々長あいさつ
  一、生徒代表よろこびのことば
  一、感謝状贈呈
  一、校歌斉唱
  一、閉式の辞

 事業としては10月21日記念体育祭、28日記念同窓会総会、11月2日記念式典、3日文化祭等の行事を行い、また下記の施設設備の充実、印刷物の刊行等を実施し、また実施せんとしつゝある。
(1)プール照明……北井前主事が既に計画されていた所で、最初に完成し、400W蛍光高圧水銀灯4基は昨夏より始動し、未だ春の肌寒さを覚える候から、秋風に粟肌ふるえる頃ふるえる頃まで、連夜河童連の利用する所となって居り、海国日本の将来を期待せしめるものがある。
(2)門灯………校舎西南角の高い所から照らすアイランプのあかりでは、校門の辺は薄暗く、校長会主事会その他の関係者の御尽力によって配置された折角の非常勤監視員の方も出入する人影を判別し難かった。そこでそのアイランプを守衛室の屋根に移して校門に近づけたが未だ定かには人影の誰かを見定め難かった。前校長武田先生は当時のPTA会長名塩氏に話され、名塩氏は直ちに400W水銀灯1基を校門の内側に設置された。そのロマンチックな光は植込みの樹々に映えて、勤労に疲れて校門を入る生徒達の気持をしらずしらずの間に和らげるという偉大なる副作用をも果している。御名前を記入したいとの願いも御二人ともゆかしくも拒まれたが、前校長、前会長の全定一如の精神定時制生徒への深い配慮はこの光と共に輝いているのである。
(3)クラブ室ロッカー……現在、槌音高くではなくコンクリート流しの音高くクラブ室建設が進められている。この建物は府当局の配慮によるが、その中に納めるべきロッカー30数個のうち、15個を記念事業費から購入する。そのうちの3個は第14回卒業生の母校に残す記念品である。
  クラブ活動は高校生活の中の学年を超えた結び付きであり、その結び付きは将来も必らず役立つであろうし最もよき思い出の一つとなるに違いない。そのための一役を果すために。
(4)運動場照明……最大の問題である。最低30LXの案をつくってみたら必要力量の尨大さに驚いた。そこまでは種々の困難点があり、仲々早急にはできない。差当り400W水銀灯3基新築中の音楽室の屋根の上に西向きに取付けその後逐次様強することになっている。
(5)記念誌刊行……この稿もその一つで、本校20年の歩みの点描にすぎないかも知れないが、今にしてある程度はまとめておかねば、しだいに姿を変えるであろう。
  この記念誌を今後も増補修正して今日までの姿を明らかにし、そして過去を省みて将来への耀進をはかるために。
(30同窓会名簿刊行……第9期までの会員名簿はあるが、その後は各期の卒業生名簿のみで、変更も多い。大西前会長、北川現会長がカードをつくって鋭意整備をはかり、片村書記が原稿を作成整理された。
 なお逐絡のつかぬ向きもあるが、これを土台に将来も訂正増補をつづける予定である。この名簿作製発行については実行委員の方々の極めて多忙な日々の御仕事をムリにやりくりして協力して頂いた御尽力、また多額の資金面の御援助に対し深甚の敬意と謝意を表するものである。
 なお付加えて現状の一端を記せば、旧体育館の照明が根本的に改善されて最高200 L Xをこえ、新体育館もアイランプが増設されて明るさを増した。クラブ室、音楽及び視聴覚教室、宿直室等の新築が進行中である。
          (20周年記念誌より)

昭和38年度定員増と新教育課程
  
37年出願数 293 入学数 217(定属200)
38年 出願数360 入学数 269(定員250)
39年 出願数333 入学数 267(定員250)
 昭和31年度は高校にとって変換期にあたり、特に本校はその影響大きく、所謂ベビーブームの到来は予想以上のものがあった.都会におけるそれは全定とも可成りの膨張で、単に1学級の増加にとどまらなかった。新入生は270名の5学級、この中には有名校全日制を志した者がおったり、これまで以上に学力差を認めた.
 新教育課程で全定の差が縮められ、数UB、英語B、世界史B、地理Bと前記の生徒の将来も考え、大学受験を骨子としたB内容の履修に努力した。しかし指導面で種々の問題点を生じたのである。例えば数学を例にとると、以前は数Uは選択であったのに、一躍、数UBを必須としたことで、優秀生徒は満足するも、過年度の卒業生、地方出身者の中には、中学校で幾何を全く履習していない者が相等数あったりした.従って彼等のために、1年数学教室として課外授業したところ、教室は満席になり苦慮した時もあった。生徒の多くは補習を望み、多くの教科について、休噸中などに実施した。
 教員に対する配置転換も多くそれまで比較的移動の少なかった本校だけに、学校当局は相当苦心をされたようで、地学とい-った新しい必須科目に対する教員確保は全国的にも苦慮した。
 新入生に対する5人の担任のうち4人までが新任であり、あるいは全定とも授業担当時間が増加し過半数は週17時間で、非常勤講師の確保がむつかしい上に、指導面で苦心した。
以後奇数の組編成は科目別選択授業の面でかなりの不便があって、時間割作成の上でも苦心した。
 教員の増加に伴って、職員室は相当狭くなり非常勤講師の席は皆無に等しいほどで、これらは施設の拡充は生徒に重点を置いたこと、工事の延滞などにも原因した。会議室は全日制の普通教室に転用されたため、会議は新設の音楽教室で行ったりした。
 新入生については、世問では、誕生から墓場まで満員。と皮肉られ、小中学校における教育の不徹底が、種々な面で現出し、落付きをみるのに可成りの歳月を費した。しかし、彼等の行動は全く意欲的であったので、あらゆる面で好成績を挙げた.入学まもないころ神戸布引滝へ遠足したところ、行進すら見劣りしたが、修学旅行では南九州へでかけ、実によく、まとまり、終始楽しい想い出をつくった。
 38年以降年ごとに設備施設の拡充されたこと、あるいは給食の実施などを通し、学習以外の面で、なごやかな環境を生んだことが、向上につながったものといえよう。なお、大学進学の点でも好調であったことはいうまでもない。
            (現職員 岡嶋 彦一)
沿革概要 V 
  昭和40年代


昭40年3月18日 元校長米井節次郎死去
      4月   クラブ活動を全員必修とする(特活教室とよぶ)
  41年4月   生徒定員20学級10QO名となる
     9月24日 生徒会会制定
  42年4月   この年度より漸次生徒減となる。野外活動行事創設
      5月   保護者会設立(会長岩鶴定夫氏)
     6月4日 夜間中学第1期生会合
    11月9日 定通教育20周年記念式典(於御堂会館)
  43年4月   新入生より1学級の生徒定員を漸次減員(従来の50名から毎年2名ずつ、41年度は46名、46年度で40名)
     4月20日 運動場照明点灯式
  44年3月13日 信州方面への修学旅行の研究発表を行う
     4月1日  浅田校長退任、第6代校長藤井通雄着任(北淀高校長より)
           竹内主事転任(守□高校長へ)、第5代主事宝博着任(市岡高校定時制より)

  45年4月   新設の定時制分室使用(80平米、体研、給食、応接室に使用)
  46年1月   ガスストーブ各教室に入る
     6月18日 プール改築竣工式
  47年4月1日 藤井校長転任(北野高校長へ)
           第7代校長佐納勝義着任(岸和田高校より)

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