生物とは、何かを考えた時、永久に生き続ける者と考えることが出来るかも知れない。しかし、生物が発生し単細胞生物であった時には寿命はなかった。それがいつしか寿命を持つようになった。なぜなのか。生物の寿命を規定していると言われるテロメア遺伝子は、細胞分裂とともに縮小化される。しかし、癌化細胞は、テロメアーゼ活性を得てこのテロメア遺伝子の短縮を防ぎ不死細胞として永久に増え続けるという。最も卵子や精子などもテロメア遺伝子の長さが短くならないように保たれる。テロメア遺伝子自体はまだ十分理解されていないようで実は時計の役割をしているとの見方もあるようではあるが。 いずれにしろ生物は何のために寿命という自殺をするようになったのか。生物種としての個体数を維持するためだという人がいる。しかし寿命のない生物でも外的や食物の限界など様々な要因から通常一定の数を保っている。多細胞生物になりシステムが複雑になったが故に定期的にゼロから作り出したという考え方もある。定期的に作り直す目的のために寿命は必要なのだろうか。ほ乳類を例に考えると体の大きさなどと寿命には相関関係があるそうだ。像のような体の大きなほ乳類がネズミのような体の小さなほ乳類より寿命が長いのはなぜか。子育てに時間がかかるからか。必ずしもそうとは限らないように思える。ネズミはなぜ少しずつ子供を産み育てて長生きしないのか。自分を作り直す目的であってもわざわざ寿命を決める必要性などどこにあるのだろうか。他の生命に食べられたり餓死したり事故死するまで、もしくは、多細胞生物としてのシステムの異常などから病気になり死ぬまで生き続けても良いのではないか。
人間が猿と同じだった頃、樹上生活をするようになり木の葉っぱを食べて居たようだ。この時に樹上生活故、実質的に天敵がいなくなることで人口問題が発生した。その結果、1個体が産む子供の数が減ったという。しかし、これでは問題解決と成らず他の生物と比べ物にならないほど多くの病気を持つようになりそれでも人口問題が解決しないため戦争をするようになったという見方もある。 生物は基本的に子供を確実に残すのに必要な時間とある程度の予備の時間で寿命となるようになっていると思える。より複雑な生物になるとこの傾向は強いのではないだろうか。しかも子育てをする多くの動物は、寿命まで生きることはない。ほ乳類では、子育てが終わった頃には、歯がぼろぼろになりまともに食べられず徐々に衰弱し餓死するか他の生物に襲われて命を失うそうだ。個体の維持管理に労力が必要となる体の機能の保持時間が子育てに必要な時間に合わせられているのではないだろうか。
生物の本質として生き続ける者であると共に可能な限り多様化する者であると考えてみるとどうだろう。様々な環境に対応していくためには、多細胞化も必要だったのではないだろうか。脳が発展することも必要なことだったのではないだろうか。人が宇宙を目指すのも必然かも知れない。あらゆる環境あらゆる形態に対応する為には、必然又は必要だったのかも知れない。特殊な環境にも対応していくためには、競争も必要だった。同時に譲り合うような精神も必然だった。生物が寿命を持つのは、後に続く者のために譲るためかも知れない。様々な形態の生命が極力維持されるためには、欲望のまま増え続けようとしては不都合だった。バランスを保ち後続が安定的に存続するために寿命が設定されたのではないだろうか。
生物は、単なる競争原理で動いているとは思えない。自己の種を維持するために生き増えるために競争するが多くの生物の多様性を維持するために寿命を持ったり子供の数を制限したりして他の生物種を滅ぼさないように自己抑制もしているのではないだろうか。
今の人類は、どうだろう。欲望のまま増大するばかり。近年の医学は、人類が持った多くの病気を克服し寿命さえなくそうと努力する。個人の欲望は、膨大な浪費を呼んでいる。自分の願望のままやりたい放題をやり他の多くの生物種を滅ぼす。日本などでも自分の老後や経済を維持するためには、子供の数を増やす必要があるという。先進国のどこでも、少子化を止め子供を増やそうとする。自分の欲望をかなえることしか考えていない。私にはそうとしか思えない。
生物が本能と呼ばれる物に従っていた時には、寿命を設定したり子供の数を減らすと言うような生物個体の機能的な制約をつけることで対処してきたのだろう。しかし、脳が発達し多くのことをコントロールし欲望をどんどん伸ばせるようになり たががはずれた人類は、どのようにしてコントロールすればよいのか。このまま野放しにして良いとは思えない。人が理性と呼ぶ物は、存在さえ疑わしく思える。欲望にどん欲で醜くしか見えない。生物は、自分の意志で自己の欲望を押さえることも必要であり時には自殺くらいのことは必要にも思える。人類だけがやっていないように思える。少なくともとことん不必要な消費はなくす。どうしても必要な消費物は、とことんまで使い続ける程度のことはやって当たり前だと考える。例えば、当然車社会から抜け出す努力をし、少しでも多くの土地・空間を他の生物に返し不必要な浪費を減らす事は最大優先課題とすべきだ。屋上緑化や森林の原始林に戻して返しより多くの生物が住める環境を作る事などもやって当たり前の行為だと考える。このようなことは、自分の生活をとことん切りつめてでも取り組むべき当然で最低限の行為だと感じる。
人は、一つの生命体なのか、生命体の集合なのか。生命は、小さな単位の
集合体なのかあらゆる生物全体で一つなのか。
生き続けることが生命の一つの形だと感じる。しかし、今自覚している
自己がその単位とは思えない。生物全体が多様性を拡大しながら存在し
続けることが生きると言うことに思える。
多細胞生物に於いて言えそうな事がある。各個体が
活動維持するためにこの構成要素となる細胞は、それぞれの立場に応じて
寿命や生死の選択を決定している。各細胞は、個体と言う全体が生き
続けるためにそれぞれの立場や状態に応じて生死を選択していると思える。
より多様化しあらゆる環境に対応して生息するためには、寿命という自殺が
必要だったと思える。より多様な環境に対応する為の適応する能力を付ける。
その為に一定の間隔で死に自己を再構築することでのが目的の一つではないだろうか。
また、役割のない者や終えた者は、他の個体が多様化に対応するために
なるべく早く舞台から退場する為に死を選択しているとも思える。
大切なことは、バランスだと思う。生物全体の為には時として
自らの命を絶つ必要性もあると思う。同時に自己の価値観や生き方を追求し
生きる努力も必要だと考える。かつての戦争で日本のためにと
死を覚悟し死を受け入れた人たちが居たという。よく当時有った「全体のために
死を選択する」と言う考え方を問題視する人が居る。しかし、間違っていたのは、
対象となる集合体が日本という一部分であったと言う事だと考える。人は、
生物全体のためには、どう有るべきか、どう生きるべきかを考えるべきだと思う。
脳の急速な発達が有ったが故に考えなければならない状態に成っていると思う。
人は、脳の発達で他の生命に比べ格段に自己の願望を短期間に
伸ばす方法を身につけた。それに比べて寿命や病気なども含めて
生きるための制約は相変わらず何も変わらない。人の欲望の達成が
年単位に対して身体的制約の対応は、何十万年以上の単位になる。
著しくバランスが悪いのが問題点ではなかろうか。
ならば頭で考えて自己で自己抑制するようになるべきだと考える。
自らを律し他の生物に過大な負担をかけないようにすべきであると
考える。人口は、何百分の一に大幅削減を目指すべきだと考える。
それ為に社会保障が崩壊しようとも人口削減は、絶対に外しては
成らない。飢餓に襲われても極力不要な消費削減に取り組むべきだと
考える。なぜならそこまでやらなければならないほど人は過大に
他の生命を犠牲にしていると考えるからだ。その程度の覚悟で
取り組んむべき状態に来ていると考える。
人に理性があるというならこの程度の努力はすべきだと考える。
この程度の事も目指す事が出来ずに理性が有るなどというのは
思い上がりだと考える。理性という考え方が出てきたのも
他の生命に多大な迷惑をかけないように成ろうという現れで
有って欲しいと思う。
もともと生物に寿命はなかった。なのに進化と言われる過程で何故か寿命と言う物を持つようになった。
子育てをしない動物の多くは、よく知られる鮭の様に人で言えば、20歳代の最も活力のある状態で
命を落とす。子育てをする生物も基本的に子育てをして一定の余裕と思われる期間が過ぎると
命を落とすようになっている。ほ乳類なら多くの場合、歯の機能が損なわれた時点で体力を落とし
命を落とす。人で言えば、50歳前後だという事だ。よく昔の人が、人生50年と言ったのも
この辺りの事情による物のようだ。しかし人は食べ物を加熱し柔らかく食べやすくする方法を
取るようになった。更に歯をより長い間使えるように維持管理し医療を発達させる事によりより
長生きするようになってしまった。しかし遺伝子の制限でどれほどがんばっても百数十歳で死を
迎えるようになっている。
ある解剖学者は、複雑になったシステムを再構築するためには、子供を残し最初から体を再構築する
必要があるのだろうと言っていた。何か深い考えがあるのかも知れないがこれでは、説明できない
事が多い。再構築するにしても子供を残した後、体に障害が発生し死を迎えるまで生きても
構わないはずである。にもかかわらず寿命は、子育てが終わった後に多少の余裕が残されている
だけでしかない。しかも遺伝子レベルで命の終わりを決めている。また、子供を産む年代を境にして
子育てが終わった時点で寿命が来るように衰えていくように作られていると思える。
複雑に成ったシステムを再構築する事が目的であれば、ほ乳類の体の大きさと寿命の間に正の
相関関係があるのもおかしい。体の小さな生き物が体の大きな生き物より長生きをしても
良さそうである。また、より単純なシステムの生物の方が長生きしても良さそうである。
しかし、一般的にそのような相関関係は認められないようだ。
ガンを宣告され死に行く姿を子供に見せた教育者は、言っていた。命は大切だ。なぜなら
短くする事は出来ても伸ばす事は出来ない。ならば、何故生物は、寿命という能力をつけたの
だろうか。自分が生きる事で他の生命の命を奪い他の生命の未来を奪う事になっても良いのだろうか。
本質的には、公平性やバランスの関係。また、より多様な形態、より多様な空間や場に
適応した形に適応していくための物のように思える。生物は、より早くより様々な環境に
適応し多様化するために子供を残し寿命という自殺を設定したのではないか。
生命の本質の一つは、全ての生命が等しく生き死にし等しく多様化できる可能性を維持する
ことではないか。全ての生命は、この公平性の範囲内で生き続けようとしていると思える。
だとすると他の生物種を多量に絶滅させてしまったり著しくバランスを崩し増殖したり
することは、一生物としては、最大の犯罪行為ではないかと考える。
人は、必要以上に長生きし必要以上に他者を滅ぼし著しくバランスを崩して増殖できる
技術を身につけてしまった。私には、そのようにしか見えない。人はもっと生きる事、死ぬ事の
意味を真剣に考え自殺する事も含めて人の社会のあり方を根底から検討し直すべきだと
考える。際限なく長生きをしようとしたり寿命まで一切の死なないようにする事を
追求する事には疑問を感じる。人口が今の数万分の一に減ったり宇宙にでも移住すれば、
当面に於いては話は別なのだとは思うが。
生物全体の秩序を破壊しない範囲で有れば、少しでも長生きしようとする事には
問題はないと考える。当然の基本だろう。生物全体のバランス有ってこその一個別の生命では
ないだろうか。
人の社会に於いては、すでに同じようなルールが適応されているのではないだろうか。
1個人が如何に生きるためで有っても殺人を犯せば犯罪者として社会から排除される。
人の社会を維持するために他の生命種を滅ぼし続けているのは、犯罪者とどこが違うの
だろうか。自分たち人間だけは、特別だと本気で考えているのだろうか。自分が良ければ、
他者などどうでも良いという事だろうか。人の社会は、いったい何時まで自分だけは絶対の
安全圏に置いて他の生命と共生などと言うレベルで居るつもりだろうか。生命全体のバランスを
大きく崩している事は、はっきりしている。自分達の命の危険性も受け入れて当然と私は考える。