伊地知 季随(いぢち すえみち、生年不詳 - 観応2年(1351年))は、南北朝時代の武将。子に伊地知季弘。 越前国伊知地(現在の福井県勝山市伊知地)を領しており、北朝方に与していたが、讒言のために足利尊氏によって罪人とされ領地を没収された。島津氏久及びその父貞久のとりなしによってこれを救われたことから、以後は島津氏に従い転戦した。 南朝方の菊池氏との戦いで島津氏が敗れた際に、恩ある氏久の身代わりとなって討死した。 以後伊地知氏は薩摩国や大隅国等に土着した。 応永19年(1412)、伊地知季豊が島津豊久から垂水本城村を与えられ、この地に築城し、代々本拠とした。伊地知氏は秩父の豪族畠山重忠の後裔と言われ、鎌倉時代、越前国吉田郡伊地知郷を領して伊地知姓を称した。延元年間(1336-40)伊地知季随は所領を足利尊氏に没収され流浪中、島津貞久の客将として迎えられた。観応2年(正平6、1351)島津氏久は南朝方の菊池武光と戦って大敗し、伊地知氏は島津氏の恩顧に報いるため氏久の代わりに戦死した。季豊はこの季随の孫である。9代重興は肝付氏と姻戚関係を結び、肝付・伊地知・禰寝連合軍として島津貴久と戦ったが敗れた。その後も島津氏と戦いを続けたが、文禄4年(1593)降伏し、所領を失った。 伊地知氏の初期系譜伝承  薩摩・大隅の伊地知氏の初期の系譜にも不明な点が多いので、併せて附記しておく。  伊地知氏の系譜について、重忠後裔説(『地理纂考』。「宮之原系図」は重忠の子の重季後裔説)もあるが、重忠の兄・太郎重光の後とする所伝もある。こちらもその歴代が明確に伝わらず、その裏付史料がないので、「太郎重光」なる者がかりに実在していたとしても、その系譜の確認ができない。おそらく畠山氏など秩父氏一族か丹党から出たくらいであろうし、島津氏の先祖・一族に従ってその南九州遷住があったことは肯けても、その来住が南北朝期のようであり、その経緯も明確ではない。日向の宮之原氏も畠山重忠の子孫と称し、その三男重俊の後裔と『諸家大概』に見えており、この系譜自体には疑問であるが、伊地知氏と近い一族なのであろう。同書では、伊地知氏で慶長時に秩父氏に改めた者があったことも記される。  伊地知氏の薩隅での直接の先祖は、南北朝期に島津家五代太守の島津貞久(生没が1269〜1363)に属した伊地知弾正「季随」とされており、「重光−季光−季親−季時−時季−兼季−季清−季随」という系譜もあるようだが、季随までが単系で伝えて史料裏付けがなく、かつ、世代が若干多すぎるきらいもある。伊地知一族には、その後でも「季」を通字とする者がむしろ多く見えており、丹党にも「季」を通字とする氏(中村一族の坂田氏で、その祖を「季時」とする)があるので、伊地知氏が畠山一族から出たという所伝には疑問も感じられないわけでもない。  信頼できそうな史料では、鎌倉後期、十三世紀末の永仁六年(1298)に伊地知三郎入道が「山城長福寺蔵文書」に見えており、以降も伊地知右近将監長清が「東大寺文書」(応長二年三月)、伊地知孫弥三郎季昌が正和二年(1313)三月の「九条家文書」、伊地知右近将監親清が嘉暦二年(1327)十二月の「和泉田代文書」に見える(以上の文書は『鎌倉遺文』に収録)。これらは、中央にあった伊地知氏一族とみられるが、伊地知孫三郎季昌が薩隅の伊地知氏と関係があるかもしれない。「長清・親清」もほぼ同年代にあたるとみられる「季清」(季随の父と系図に見える)と近親であったものか。この頃の一族の名前に「重」が見えないことにも留意される。  「伊地知」というのが地名に起こった苗字として、それが越前の「伊知地」に通じることはありえよう。「白河本東寺文書」の正和三年(1314)七月には伊知地右近将監が見え、嘉暦二年(1327)八月の「海老名文書」にも伊知地弥三郎が見える(以上の文書も『鎌倉遺文』収録)。南九州でも、『日向記』には「伊知地殿、高城御婿子縫殿助」と見えるといい、「縫殿助」は伊地知季随の孫の縫殿季豊かその子孫(重周、重興など同じ号の者が多い)に当たるか。薩隅では、永和元年(1375)八月頃から伊地知民部が史料(「山田聖榮自記」など)に見えており、この「民部」は年代的に伊地知季随の子の季弘に当たるとみられる。なお、島津一族の支流に越前島津氏があり足羽郡足羽山に居たといわれるものの、伊地知とそれとの関係も不明である。  ところで、伊知地山(鷲ヶ岳)と浄法寺山とは福井市街地の東側に立てた屏風のような存在で、福井の景観を決定する重要な山だという指摘がある。畠山一族から出たものに陸奥国二戸郡浄法寺に起る浄法寺氏があり、重忠の子の滋光院別当重慶の子孫という系譜を称するが、実際には重忠の弟・重宗の後裔にあたりそうでもある(『姓氏家系大辞典』所引の『郷村記』)。長野三郎重清の後裔は武蔵に残り、弘安八年(1285)の「豊後国図田帳」に見える大分郡阿南庄吉藤名の畠山十郎重末は畠山六郎重宗の流なるべしと後藤碩田は指摘する(ただし確証がない)ように、重忠親子は滅ぼされても畠山一族は鎌倉期に存続した事情があるから、それが陸奥や越前などに分岐した可能性もあろう。「重末」は「重季」にも通じそうでもある。  浄法寺の氏・地名の起源が緑野郡浄法寺ばかりではなく、越前の浄法寺にもあったとしたら、浄法寺氏と伊地知氏とが同根であったことも考えられる。まったくの偶然なのかもしれないが、福井県の伊知地山と浄法寺山の地理配置は面白いと感じるものでもある。 諸田池  徳之島諸田 薩摩藩の新田開発奨励策にのっとって, 寛文10年(1670)代官伊地知筑右衛門の時に竣工した。 道の島(大島郡)では最初に施行された大事業であった。 水面面積3町8反余の広さもあり,この貯水によって40町歩の田地が開発された。  この筑右衛門さんは重徳さんか? 文化朋党実録の注記では 「横目伊地知筑右衛門 曽祖父筑右衛門事隈元軍六先祖串良郷士隈元吉兵衛二男ニテ伊地知筑右衛門養子トナル」 文化五年(1808) 季平 初名 正蔵  筑右衛門季平 正徳5年10/14誕生 享保16年 継豊公拝謁仕官 享保18年 伊地知筑右衛門季記 跡目 季記者隈元太左衛門之孫也 即当輿一右衛門宗弘之弟出為 伊地知筑右衛門重徳之嗣 隈元次郎左衛門弟正兵衛      Τ 大重五郎左衛門兼寛−−−−仲兵衛−−−−大重五郎左衛門(初彌三太) | 女性 次郎左衛門     ‖ −−−− 玄積 −−−− 隈元軍六 喜兵衛−吉兵衛−−−− Τ 與一右衛門宗弘 隈元太左衛門      |    |− 伊地知筑右衛門季記 = 春山正蔵(伊地知筑右衛門季平)             | (伊地知筑右衛門重徳の養子)    |     與三右衛門−−−−隈元平太 隈元軍六先祖 串良郷士隈元吉兵衛二男ニテ伊地知筑右衛門養子トナル 伊地知筑右衛門屋敷百五十坪 高麗町下馬場 御買入ニテ隈元平太ヘ拝領被仰付 軍六は先祖世々串良郷士たり。 五世の祖である喜兵衛の時に、始て徴されて御小姓となる。 祖父与一右衛門は嘗て狂を病み父玄積生れてから目なし。 軍六不肖の父祖に生れ頴悟を以て称せらる。 甫め十一歳にして講堂童子となり米俵十八苞を給せらる 天明八年 。 成童に及て造士館書役となる 寛政四年 。 事に従ふこと七年、嘗て告ふして市来温泉に往き、無頼子に与して国老伊勢貞矩(播磨と称す)を浴舎に犯侮す 頭に髪を三所に結ひ身に毛氈を纏ふと云 。 故を以て役を奪はれ家に閉塞せらる 寛政十年 。居ること三百日にして免す。 未幾くならす御記録所書役助となる。 事に従ふこと僅に十余日、又故なふして大磯に遊ひ、少年輩を助けて学生圖師長蔵を路傍に陵暴す 背に乗り肩に上ると云。 故を以て又役を奪はれ閉塞せらること初の如し。又七十日にして免す。 文化元年 甲子 書役を以長崎御付人上野善兵衛に従て長崎に如く。 長上すること四年。 為人膽気不覇を負ひ世務を蔑視し俗吏を嘲弄す。 其長崎に在る常に花柳街に遊ひ放蕩淫佚至らさるなし。 時に或は女娼を召て官舎に在り。 然とも性巧機 物を上手に仕合せ機転の廻ること にして能く事を営弁す。 其御付人を助る亦少からす。 平生、秩父季保・清水盛之等と友たり。交水魚の如し。常に往来会集して已ず。 又樺山久言と善し。久言志を得るに及て是公に薦て英才比ひ罕なりとす。故を以て長崎より召還されて御近習番となる。 累に御納戸奉行に遷され御側役に至る 其事皆下に見ゆ 。 軍六高麗町の里に家す。禄十四石。是歳三十歳。 大重五郎左衛門 故えの寺社奉行だった五郎左衛門兼寛の孫である。 父を仲兵衛と云う。仕えて御共目附だった。早く死す。 故に五郎左衛門は嫡孫を以て祖に承く。初彌三太と称し後今の称・五郎左衛門に改む。祖蔭を以て無役より起て御目附となる。 既にして又御供目附に改らる 文化元年 。初、五郎左衛門が祖姑、隈元軍六の祖父与一右衛門に嫁して、其の父である玄積を生む。既にして昏を絶て大重に帰す。 与一右衛門は既に死んでおり、玄積後を承るに及て家貧ふして自ら給すること能はず。五郎左衛門は祖父外姪の故を以て是を棄るに忍びす、時に粟を与へて養を資く。 是に由て隈元氏は大重氏の恩を感すること久し。 五郎左衛門か御小納戸に遷る。 隈元二子蓋是を与り知れり。五郎左衛門の加治屋町里に家す。 爵世々小番たり。禄二百三十石。 平太事臥蛇島ヘ、軍六事悪石島ヘ、休右衛門事寶島ヘ、軍記事諏訪ノ瀬島ヘ、五郎太事沖ノ永良部島ヘ、千右衛門事喜界島ヘ、市右衛門・五郎左衛門事徳島ヘ、甚左衛門・甚兵衛事大島ヘ遠島可被仰付ニ罪科相究。 平太・軍六・休右衛門・軍記儀は前以親類御裁許方へ被召出、猶又被 聞召通趣有之評定所御用被仰渡の間、今晩中致切腹御届可申出旨被仰渡。御裁許掛樺山休太夫・御裁許方見習榎本新九郎申渡之。平太・軍六親類伊地知筑右衛門・折田清之進、休右衛門親類堀次郎左衛門・森山正右衛門、軍記親類能勢清右衛門・日高新左衛門承知之。依て今夜酉刻より亥刻迄の間休右衛門事致自殺不及介錯。平太事伊地知正九郎 実は正九郎兄古川権蔵、軍六事田代助之進 実は宮下市助、軍記事池田龍助 実は龍介弟塚田金平、介錯にて切腹相遂御届申出る。御裁許方へは休太夫・新九郎不致退出相待居の間、四人の切腹承届、子刻比主水殿宅へ差越申上之。主水殿宅へは前以横目八人被召寄置の間、早速平太へは種子島小十郎・岩元半助、軍六方へは藤野六郎右衛門・肥後與左衛門、休右衛門方へは大橋八十郎・西田八郎右衛門、軍記方へは鎌田藤之進・志和屋左太郎為見届被差越。廻前横目方へは如例別段致披露の間、今日下方廻前山田増右衛門・本城仲治・柳元十蔵共に四け所へ差越死体見分すと云云。 大重五郎左衛門事榎本助左衛門 実ハ福島直之丞、日置五郎太事日置友右衛門、岡元千右衛門事児玉嘉林 実ハ谷元庄之進、堀甚左衛門事堀八右衛門、小島甚兵衛事高崎佐藤次介錯ニテ夜前致切腹ノ由ニテ、今朝従親類評定所ヘ御届申出ル。 ○ 隈元平太・隈元軍六・森山休右衛門・勝部軍記親類御用ニテ家格御小姓与ニ被相下、死体御構無之旨被仰渡。                隈元平太 右猶又被 聞召通趣有之、家格御小姓与被相下遠嶋申渡筈を以、評定所御用申渡候処致切腹候段親類より申出、右科相当ヲ以家格御小姓与江被相下、死体御構無之ト云云。 . ○ 日置五郎太・岡本千右衛門・堀甚左衛門・小島甚兵衛・大重五郎左衛門儀ハ、家格不及被相下死体御構無之旨被仰渡。今夜酉ノ刻ヨリ亥ノ刻迄ノ間平太・軍六・休右衛門・千右衛門・甚左衛門・五郎左衛門出棺ニテ南林寺其外ヘ送葬ト云云。 平太は隈元軍六か従祖父なり。父を與三右衛門と云。兄與一右衛門 即軍六か祖父なり。と居を同ふして族を分たず。南林寺に吏として死す。故を以て平太・軍六か父玄積か家属となり其家に畜る。為人諒実にして頗る学識あり。敦く澹泊 俗に廉直と云。を尚ぶ。玄積盲目にして家貧し。平太常に仕官して俸禄を得以て養に奉ず。玄積死す。軍六幼し。平太助けて家事を幹す。得る所あれは悉く是に供し一銭尺帛も私房に入ず。親旧或は妻を娶んことを勧むる者あり。肯せずして、曰く「我吾宗子を養ふ豈敢て妻を畜んや。」と。終に娶らず。郷里称して独行の善士とす。(橋口杏庵・徳田善蔵、平太と交ること久し。曽て其行を許すことなし。曰く「性を忍び情を矯るの徒なり。」と。三子皆質直を以て称せらる。) 中年に及て御腰物方役人となり、兼て御腰物切 俗に冷物切と云。の事を掌る。善く其職に称ふ。事に従ふこと数年、会磯御茶屋番贓罪 官物を私するとが。に座して罷らる。  命して家累なく廉恥ある物を選て是に代らしむ。時に懇願する物八十人ばかり。有司得に平太を以て是に応す。是に由つて御茶屋番となり、遷て磯宮の内に居る。園を監視し庭を灑掃し旦た懈らず。 公屡磯宮に来遊し玉ひ、其能く事を勤るを賞し嘗て召見て酒を賜ふ。左右近侍の臣も亦其為人を慕ひ従ひ遊ふ者多し。是に至て遂に御茶屋番より挙られて御広敷番の頭となる。 隈元軍六先祖 串良郷士隈元吉兵衛二男ニテ伊地知筑右衛門養子トナル 平太・軍六親類伊地知筑右衛門・折田清之進 伊地知 季安(いじち すえよし、天明2年(1782年) - 慶応3年(1867年)8月)は鹿児島藩(薩摩藩)の記録奉行で、『薩藩旧記雑録』の編纂者。通称「安之丞」「小十郎」。実名は「貞行」「季彬」、文政7年(1818年)に「季安」に改名。名前については「すえなが」とルビが振ってある物が多いが、当人の日記では「すえよし」とあるという。 伊地知季安(1782-1867)は幕末期、薩摩藩の記録奉行だった関係から、藩当局が所蔵する膨大な各種文書を丹念に筆写・編纂した。それが有名な『薩藩旧記雑録』である(のち『鹿児島県史料』に収録)。その過程での副産物として、薩摩藩の事柄を詳しく考証した記録を数多く遺している。それが『鹿児島県史料 旧記雑録』の拾遺という形で収録されたものである。 季安の実父は鹿児島藩士の伊勢貞休。後に同じ鹿児島藩士の伊地知季伴の末期養子となる。実父はかつて島津家久の筆頭家老であった伊勢貞昌の末裔家に婿養子となった人物で、父の実家・本田家は鹿児島藩の記録奉行を輩出していた家系であった。 享和元年(1801年)、20歳の時に伊地知季伴が死去した後の養子に入り「季彬」と改名。同2年(1802年)に御作事下目付、翌年に横目助となる。ところが文化5年の近思録崩れに連座し、免職の上、喜界島に流刑されてしまう。近思録派のリーダーであった秩父季保が伊地知家の本家筋に当たっていたのが理由であった。文化8年(1811年)には鹿児島に帰還したものの、文化13年(1816年)まで自宅謹慎を命じられた。この間、独力で藩内の史料をまとめ『旧記大苑』という目録を作成している。 文化13年に謹慎処分は解除されたが、なお仕官することは認められず、従兄弟・本田親孚の遺作である『称名墓誌』を修訂増補するなどの作業を行っていた。これらの著作が垂水家分家で藩の要職を歴任していた末川周山の目に留まり、その後は藩内の多くの人の援助により書籍史料を博捜し、在野の史学者として名声を高め、昌平坂学問所の佐藤一斎とも交流するようになった。しかし、このことが藩の記録所(いわゆる公文書館にあたる)に嫉視される所となり、天保14年(1843年)には藩命によりそれまでの著作すべてを上納させられると言う処分にあってしまう。筆写しか文書複写ができない時代に論考をすべて手元から取り上げられたのは、学者として致命的であった。 が、このことによって季安の博識ぶりが当時の藩主・島津斉興の目に留まることとなり、弘化4年(1847年)10月に御徒目付・軍役方掛として再仕官がかなう。季安は既に66歳となっていた。その後はお由羅騒動などの混乱に巻き込まれることなく順調に出世し、嘉永5年(1852年)、島津斉彬によって記録奉行に任命される。慶応3年8月、御用人の役方を持って死去。享年85。墓所は鹿児島市の興国寺墓地にある なお、『薩藩旧記雑録』は季安の代では未完で、息子の季通(1818-1901)に引き継がれ、明治18年(1885)、『薩藩旧記雑録』全68巻を完成させて内閣修史局に提出し、今日に至っている。 伊地知季安(1782〜1867) 伊地知季安は、初名を貞行、または季彬と言い、字は子静、通称は安之丞で後に小十郎と改め、号は潜隠、または克欽と言う。天明2年(1782)4月11日に鹿児島で生まれた。伊勢八之進貞休の次子で、享和元年(1801)20歳の時、伊勢家を出て、伊地知季伴の養子となり、伊地知家を相続する。文化5年(1808)27歳の時、ぶんかほうとうじけん文化朋党事件(俗にきんしろくくず近思録崩れ、あるいはちちぶくず秩父崩れ)と言われる政変に連座して、翌文化6年(1809)正月に喜界島へ流謫される。  喜界島の島民は、季安に学問のあることを知り、小庵を結んで、そこに住まわせ童蒙教育の師とした。この小庵に潜隠と名付けたのが彼の号・潜隠の由来でもある。この島での生活について西村天囚『日本宋学史』の伊地知潜隠伝には、      時に秩父太郎の近思録崩には、潜隠も亦其の党與に坐して禁錮せられ、文化六年正月  喜界島に謫せらる、時に年二十八なり、島民潜隠の学問あるを知り、為に小菴を結び  て之に居らしめ、以て童蒙の師と為しければ、其の菴に名けて潜隠と曰へり、是れ其  の別号の来由なり、薩摩の学者に流人多く、謫居中に学問して学力長進せし人なきに  あらず、蓋し薩摩の群島は琉球との交通に因て蔵書の家なきに非ずとぞ、潜隠も亦童  蒙に教授すると共に、自ら学ぶ所の者ありしなるべし。 と記述し、薩摩の群島は琉球との交流により種々の資料がもたらされていたこともあって、季安の喜界島での生活は彼の学問に益するところがあったようである。謫居3年後の文化8年に赦書が下り、翌9年には鹿児島に帰ったが、その後5年間は禁錮を命ぜられ、文化13年(1816)9月29日にやっと禁錮を解かれる。しかし、その後66歳までの約40年間無役で蟄居していた。その間、彼は資料の収集、文献の精読・考証という地道な研鑽を積み、その過程で桂庵に関心を持ったと思われる。季安は当時既に入手困難であった『延徳版大学』を探し出し、更に我が国で初めての朱子学書籍が他ならぬ薩摩で刊行されたことや刊行者である桂庵が全く世の中で注目されず、埋没していることに気づいた。そこで、桂庵を世の中に知らしめ、正当な評価を受けさせねばならないという使命感を抱き、桂庵の墓を修復し佐藤一齋に碑銘作成を働きかけたと思われる。既に見てきたように、一齋は幕府の儒官に抜擢され、昌平黌で講義をした学術・徳望ともに優れた大儒であり、季安にとっては雲の上のような存在であった。もし一齋が桂庵の碑銘を作成してくれれば、それは季安にとってこの上のない喜びであろう。果たして季安の熱意が通じ一齋は桂庵の碑銘を作成した。一齋の碑銘を刻んだ石碑は、現在桂庵墓の横に建立されている。 伊地知 季安(いじち すえよし、天明2年(1782年) - 慶応3年(1867年)8月) 20歳の時に伊地知季伴が死去した後の養子に入り「季彬」と改名 通称「安之丞」「小十郎」。実名は「貞行」「季彬」、文政7年(1818年)に「季安」に改名。 ・天明2年(1782年)伊地知季安生まれる。   ・享和元年(1801年)、伊地知季伴の養子となる。(季安:19歳)   ・文化5年(1808年)、近思録崩れに連座し、喜界島に流刑。(季安:26歳)   ・文化6年(1809年)、島津斉彬生まれる。(季安:27歳)   ・文化8年(1811年)に鹿児島に帰る。(季安:29歳)   ・文化13年(1816年)まで自宅謹慎。(季安:34歳)   ・文政10年(1828年)、西郷隆盛生まれる。(季安:46歳)   ・天保12年(1841年)、西郷隆盛、元服。(隆盛:13歳)   ・天保14年(1843年)、著作上納処分に会う。(季安:61歳)   ・弘化元年(1844年)、西郷隆盛、郡方書役助、御小姓与となる。(隆盛:16歳)   ・弘化4年(1847年)、御徒目付・軍役方掛として再仕官。(季安:65歳)   ・嘉永2年(1849年)、お由羅騒動。(季安:67歳)   ・嘉永4年(1851年)、島津斉彬、42歳で藩主となる。(隆盛:23歳)(季安:69歳)   ・嘉永5年(1852年)、記録奉行となる。(季安:70歳)   ・安政元年(1854年)、西郷、江戸詰となり、庭方役となる。(隆盛:26歳)   ・安政5年(1858年)、島津斉彬公、逝去。享年49歳。(隆盛:30歳)(季安:76歳)                西郷入水。                奄美大島龍郷村阿丹崎で蟄居。   ・文久2年(1862年)、西郷、鹿児島に帰る。(隆盛:34歳)                寺田屋騒動。徳之島へ遠島。更に沖永良部島遠流。   ・元治元年(1864年)、西郷、鹿児島に帰る。(隆盛:36歳)                禁門の変。                第一次長州征伐。西郷は征長軍参謀となる。   ・慶応2年(1866年)、薩長同盟なる。西郷、陸軍掛・家老座出席となる。(隆盛:38歳)                第二次長州征伐。   ・慶応3年(1867年)、8月3日、御用人の役方を持って死去。(季安:85歳)                10月14日、大政奉還。                12月9日、王政復古の大号令。   ・明治元年(1868年)、明治維新。 先考伊地知府君之墓   先考諱季安。字子静。號潜隠。通稱小十郎。世本府人。本姓伊勢氏。八之進諱貞休次子。   妣亦伊勢氏。年廿出嗣伊地知氏。實為小十郎諱季伴後。而娶其女。乃先妣也。四男二女。   男長夭。次季通。次嗣黒田氏。次季敦分族。女長適本田親賢。次夭。先考為人。淳朴寡慾。   自少嗜學。既長好為文章。最精古先事。仕為横目。年廿七。連座黨籍。禁固凡四十年。   常覃思古事。博捜群籍。遍質舊典。貴門士族請撰譜牒者多。或記述答質問。或纂家籍。   著書若詩若文。凡數十百篇。其方編撰也。惟患事實不精。徴據不明。深稽博証。日夜孔々。   無倦無息。至忘寝食。齢踰六旬。特恩遭赦。擧御徒目付。歴御記録方添役。御軍賦役等。   遷御記録奉行。時年七十一。順聖公私命撰太祖得佛公譜圖。又命先考及同僚。   査検公室所世傳古文帖。以新加装O。分軸凡數百巻。先考為之総裁。其拝呈譜圖也。   進官為御使番。以賞其功。其文帖之成也。今公賜物件。以嘉賞之。   後歴物頭町奉行格至御用人。皆奉史事故。更増職田。賞其老而益勵職務。   實可謂強而不已竭其職矣。今茲六月羅病。竟以八月三日没。享年八十六。葬太平山塋。   法諱高顯庵殿子靜樂道居士。今建石記行事。事猶多文不逮意。擧其概略以傳不朽。銘曰。     恬淡好古  不慕浮榮  勉勵晨夕  史筆研精     遺編在笥  永傳芳聲  仰止罔極  鬱乎佳城   慶應三年丁卯仲冬不肖男平季通泣血謹誌                            本府  山田廣受書之 ○書き下し文は以下の通り。      先考伊地知府君の墓  先考の諱は季安、字は子静、號は潜隠、小十郎と通稱す。世々、本府の人なり。本姓は伊勢氏、八之進、諱は貞休の次子なり。妣も亦伊勢氏。(先考)年廿にして、出て伊地知氏を嗣ぐ。實に小十郎、諱は季伴の後と為る。而して其の女を娶る。乃ち先妣なり。四男二女あり。男の長なるは夭し、次は季通、次は黒田氏を嗣ぐ。次の季敦は分族す。女の長たるは本田親賢に適ぐ。次は夭す。  先考の人と為り、淳朴にして慾寡なく、少きより學を嗜む。既に長じて好く文章を為る。最も古先の事に精し。仕へて横目と為る。年廿七にして、黨籍に連座して、禁固さるること、凡そ四十年、常に古事を覃思して、群籍を博捜す。遍く舊典を質し、貴門士族、譜牒を撰ずるを請ふ者多し。或いは答質問を記述し、或いは家籍を纂す。  著書に詩の若きものと文の若きもの、凡そ數十百篇あり。其の編撰に方り、惟だ、事實の精ならず、徴據の明らかならざるのみを患ふ。深く稽へ博く証し、日夜孔々として、倦むこと無く息ふこと無くして、寝食を忘るるに至る。  齢六旬を踰えて、特恩赦に遭ひ、御徒目付に擧げられ、御記録方添役、御軍賦役等を歴す。御記録奉行に遷る。時に年七十一なり。順聖公、私かに命じて太祖得佛公譜圖を撰じしむ。又、先考及び同僚に命じて、公室の世傳する所の古文帖を査検し、以て新たに装Oを加へて、凡そ數百巻に分軸せしむ。先考之に総裁と為り、其れ、譜圖を拝呈す。進官して御使番と為り、以て其の功を賞せらる。其れ、文帖の成るや、今公、物件を賜ひ、以て之を嘉賞せらる。  後、物頭町奉行格を歴し御用人に至る。皆、史事を奉りし故なり。更に職田を増し、其の老を賞せられ、益々職務に勵む。實に強にして、其の職竭くること已まずと謂ふべし。  今茲の六月、病に羅り、竟に八月三日以て没しぬ。享年八十六なり。太平山の塋に葬る。法諱は、高顯庵殿子靜樂道居士なり。今、石を建て、行事を記さんとするに、事猶ほ多くして、文意に逮ばず。其の概略を擧げて以て不朽に傳ふ。銘に曰はく、   恬淡にして古を好み  浮榮を慕はず   晨夕に勉勵し     史筆研精す   遺編は笥に在り    永く芳聲を傳ふ   罔極を仰止して    鬱乎なるかな佳城 ○本当はルビを振りたいのだが、ブログでは付かないので諦めるしかない。代わりに語釈を付す。 先考=死んだ父。亡父。(同義語)先子・先人・先父。(対義語)先妣。 府君=太守の尊称。長者・尊者の呼び名。亡祖・父亡父の尊称。 横目=横目付の略。室町以降の武家の職名。行事・事務や武士の行動を監督し、不正を摘発する役。 黨籍=党員として登録されている籍。党員名簿。 覃思=深く思う。深思。 譜牒=譜系・譜図・譜紀。祖先からのつながりを図表式に書いたもの。系譜。系図。 徴據=よりどころ。証拠。 特恩=特別なめぐみ。 拝呈=つつしんでさしあげる。謹んで進呈する。 今茲=今年。茲は年の意。 恬淡=心が静かで無欲である。心がさっぱりしている。 浮榮=うき世の栄え。世俗的な栄華。 晨夕=朝から晩まで。 罔極=きわまりがない。限りがない。無極。 鬱乎=草木のしげるさま。物事のさかんなさま。 佳城=りっぱな城。はかば。墓地。 ○墓碑は、その記事によると、伊地知季安の次男季通によって、慶應三年(1867年)の11月に建立されたものだと分かる。季安が亡くなって三ヶ月後のことになる。碑文はよく季安のことを伝えているし、何より息季通の亡父季安に対する愛情と尊敬がよく伝わってきて、読む者を感動させずにはいない。季通は孝行息子であることは間違いない。 ○実物は鹿児島市冷水町興国寺墓地に存在すると言う。先日、思い立って急に出掛けてみたが、興国寺墓地近辺は、山に家並みが切迫し、隘路となっていて、車を駐車するところもなく、折角出掛けたのにお参りすることが出来なかった。近くに南洲墓所があるので、そこから歩こうかとも思ったが、猛暑の折でもあるので、断念せざるを得なかった。再度お参りしたい。 伊地知 正治(いぢち まさはる、文政11年6月10日(1828年7月21日) − 明治19年(1886年)5月23日)は、薩摩藩士。伯爵。幼名竜駒、諱は初め季靖、後年はショウジと名乗る。通称竜右衛門、号は一柳。 薩摩藩士伊地知季平の二男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる。3歳の時に文字を読んで「千石の神童」と呼ばれるが、幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由となる。 隈本 政次 鹿児島県出身 兵科・砲兵 功三級 明治27年8月27日 近衛野砲兵連隊長 明治32年1月24日 陸軍砲兵大佐昇進 明治37年9月12日 陸軍少将昇進   舞鶴要塞司令官 明治40年11月13日 野砲兵第2旅団長 明治43年11月30日 東京要塞司令官 明治44年9月6日 陸軍中将昇進 大正2年7月3日 待命 大正3年5月11日 予備役 伊地知 季清 鹿児島県出身 兵科・砲兵 功四級 明治27年2月23日 駐仏公使館附 明治28年10月20日 陸軍砲兵大佐昇進 明治30年12月10日 帰朝 明治31年3月3日 第1師団参謀長 明治33年4月25日 陸軍少将昇進 明治33年6月11日 呉要塞司令官 明治35年5月5日 由良要塞司令官 明治38年10月15日 死去 伊地知 季珍(いじち すえたか、1857年4月20日(安政4年3月26日) - 1935年4月7日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 鹿児島県出身。伊地知徳四郎の息子として生まれる。1874年(明治7年)10月、海軍兵学寮(7期)に入学。1883年(明治16年)11月、海軍少尉に任官。1886年(明治19年)12月、「金剛」分隊長となり、「愛宕」「武蔵」「筑波」の各分隊長、「龍驤」「橋立」の各砲術長などを経て、1894年(明治27年)6月、「扶桑」砲術長に就任し日清戦争に出征し、1895年(明治28年)2月、常備艦隊参謀に転じた。 1895年8月、「大和」副長となり、翌年4月、海軍少佐に昇進し佐世保鎮守府参謀に着任。「扶桑」副長に異動し、1897年(明治30年)12月、海軍中佐に進級した。1898年(明治31年)3月、呉造兵廠検査科長に就任し、造兵監督官(イギリス出張)を経て「武蔵」艦長に就任し、1901年(明治34年)7月、海軍大佐に昇進。「金剛」「浪速」の各艦長を経て、1903年(明治36年)9月、「出雲」艦長に着任し日露戦争に出征。蔚山沖海戦、日本海海戦に参加した。1905年(明治38年)12月、「鹿島」回航委員長として渡英、その後、同艦長を経て舞鶴鎮守府参謀長に就任し、1907年(明治40年)3月、海軍少将に進級した。 1908年(明治41年)5月、呉工廠長となり、1911年(明治44年)6月、海軍中将に進んだ。以後、第2艦隊司令長官、艦政本部長、横須賀鎮守府司令長官、呉鎮守府司令長官、海軍将官会議議員を歴任。1917年(大正6年)3月、後備役に編入となった。 伊地知 彦次郎(いじち ひこじろう、1860年1月6日(安政6年12月14日) - 1912年1月4日)は、 日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。 薩摩藩士・伊地知季太の二男として生まれる。1874年10月、海軍兵学寮(7期)に入学。1883年に海軍少尉任官。「畝傍」分隊長、「鳳翔」分隊長、参謀本部海軍部第2局員、横須賀鎮守府長官伝令使、フランス出張、イタリア公使館付、海軍大学校教官などを経て、日清戦争では「橋立」分隊長として出征した。 その後、「大島」分隊長、「武蔵」副長、呉水雷団水雷艇隊司令、軍令部第1局員、「富士」副長、「龍田」艦長、海軍省軍務局第2課長、第1駆逐隊司令、常備艦隊参謀長、「松島」艦長などを歴任。日露戦争では、連合艦隊旗艦「三笠」艦長として従軍し、東城鉦太郎作の「三笠艦橋の図」にも描かれている 海軍教育本部第1部長などを経て、1906年11月、海軍少将に進級。兼教育本部第2部長、練習艦隊司令官、将官会議議員などを歴任し、1910年12月、海軍中将となった。馬公要港部司令官、将官会議議員を務め、現職で死去した。 2. 親族 現在、軍事雑誌『Jウィング』『J-SHIPS』等を発行しているイカロス出版の創業者であり同社の現会長である伊地知猛は、彦次郎の曾孫である。 三笠艦橋の図 日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊と接触した直後の情景を描いたもので、Z旗が左上に上がっている。 書かれている人物(小さくすると左の二人など見づらい人物もいるため、あえて大きく貼っております)は、右から伝令の玉木信介候補生(三笠が佐世保での爆発事故の際に殉職)、同じく伝令の三浦忠一水(その後不明)、参謀の秋山真之中佐(後の海軍中将)、長官の東郷平八郎大将(後に元帥海軍大将)、測的係(測距儀を覗き軍帽だけ映っている人物)の長谷川清少尉候補生(後に海軍大将)、参謀長の加藤友三郎少将(後に元帥海軍大将、首相となる)、伝令の野口新蔵四水(その後不明)、砲術長の安保清種少佐(後に海軍大将、海軍大臣)、艦長の伊地知彦次郎大佐(後の海軍中将・練習艦隊司令官)、砲術長付(双眼鏡で敵艦隊を覗いている人物)の今村信次郎中尉(後に海軍中将、第三艦隊司令長官)、航海長布目満造中佐(後の海軍中将)、参謀(階段を登っている人物)の飯田久恒少佐(後の海軍中将)、航海士の枝原百合一少尉(後の海軍中将)、伝令の山崎嚴亀(その後不明)となっている。 現在知られているこの絵は関東大震災で一度焼失した後に描き直されたもの。煙突の煙やハンモックの縛り方などいくつか違いがあるが、描かれている人物は変わっていない[3]。近年、旧作では秋山真之は描かれていなかったとする著作がいくつかあるが、菊田愼典『坂の上の雲の真実』の間違った記述を確認せず採用したものである。