斉藤光政『偽書 「東日流外三郡誌」事件』新人物往来社
古代史ファンへの一大騒動をまきおこした、東日流外三郡誌の顛末をしるした本書は、いかなる地点に行き着いたかを教えてくれる。
はじめて「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし)という名を知ったのは、確か谷川健一『白鳥伝説』を読んでいた時だと思う。そこにはすでに偽書と明記されていた。しかしその内容に憑かれたのは、本当は天皇制とは違う国があるというその内容につきるだろう。正史の中にあるのはすべて天皇制の歴史であってそれ以外のものはなかった。しかし、そのようなものがないというのは本当になかったのだ。正史だからあるはずはない。それをさもあるかのごとく探しまわり、ないのであれば作ればいいという論理で作られたのだろうか。
ことらは欲している、むこうは作りたいという関係の中で『市浦村史資料編』として提出されたものだから誰もが飛びついたのであった。現物の史料を分析研究して仮説を立てるということではなく、仮説から出発して、それを証明するためのエビデンスを探すという本末転倒した行為だったのでもある。
この偽書事件は、大方はすでに決着している。真贋ということになれば、まさしく贋作なのだ。
それではなぜ偽書を作るのかを問うて、斉藤は和田喜三郎について次の三点をあげている。
(1) 収入を得る道―和田は「古文書」製作のプロだった。「古文書」や「古文書」に裏ずけられた「古物」を売るという行為は、恒常的に収入を得るための職業となっていた。
(2) 反体制史観―「化外の地」「まつろわぬ民」と東北と東北に住む人々を一方的に蔑視する旧来の歴史観に対して、和田は常々、反感と怒りを抱いていたら
(3) 創作欲―『外三郡誌』をはじめとして和田文書は豪華な体裁で刊行され、売り上げ部数も多かった。一部専門家にも「古文書」として評価され、テレビや新聞、雑誌で盛んに取り上げられるようになった。これが和田の創作欲を刺激した。
この三点をあげているが、(2)についてはすでにふれたが、(1)と(3)が特におもしろいと思う。偽書というのは、単に嘘を書にしたというだけではなく、ある目的をもって、事実を曲げて書いたものであるという。つまりはだまそうという意識はあるのだということだ。詐欺の心理があるということだが、自分の作った創作がどこまで波紋を広げ、影響があるのか知りたいというのは人間の心理としてありうることだろう。和田は現物を明かすことなく亡くなったが、その一代記はどう評すればいいのだろうか。
「東日流外三郡誌」は偽だとしても、原―東日流外三郡誌はあるはずだと信じている、佐治芳彦『超真相東日流外三郡誌』はどうするのだろう。親鸞論で名をはせた古田武彦はまだまだ認めないのだろうか。読了して深く感じた。一歩間違えば同じ轍を踏んだかもしれない。