updated 2006.09.05
平野啓一郎『本の読み方 スロー・リーディングの実践』PHP新書
副題にあるように速読に対する遅読(?)の実践を勧めるもので、ゆっくり読む読書の効果を中心に概説している。これを私はイッキに読んだ。
基礎編、テクニック編、実践編に分けて書き進んでいるが、ほとんどがスロー・リーディングの勧めの繰り返しで、そこからはみ出したものはわずかしかない。実践編にいたってはスロー・リーディングというスピードの問題ではなく作品解釈の問題へと移っていく。それはいわゆる「読み」の問題でそこではスピードの問題ではないと言っている。少し考えれば分かるように、多くの人は、「読む」ということがスピードの問題ではなく、いかに深く味わえるか、または理解できるかにかかっていると反論するのは目に見えているのであるが、平野も結論で、本というのは各自が「何をどんなふうに読んでも構わない」と結論付けている。要はそういうことなのだがそれではやはりミもフタもないので積極的に遅読のメリットは何かについて書いてある部分をさがしてみる。
実践編はいかにも現代文解釈の国語の参考書のようで、それは微にいり細に入る文の構造分析になっている。基礎編で提出した受験における設問のありようが、原作者の文章の解釈ではなく、設問を作った出題者の読解による質問だというのは明晰だった。例え小林秀雄の「様々なる意匠」の引用よりの設問があったとすると、ここでの小林秀雄の文章の解釈ではなく、この設問をつくった出題者がどう解釈したかを推理して設問に答えなければならないという。勝手な小林秀雄の解釈はバツで、その設問をつくった出題者の解釈で答えなければならないということだと著者は言う。これはこれで明解であるが、なぜ設問者の解釈がまちがっていると思うのにじっと我慢しなきゃならないのかというと「相手の発言をスロー・リーディングする」として、相手の発言を要約してみせるためにも、スロー・リーディングは必要なのだという。スロー・リーディングでは相手の真意を読むということなのだろうか。(速読では相手の真意を読めないと?)まだここではスロー・リーディングの意味ははっきりしない。
そこで古今のテキストをあげて、実践編としている中でカフカの『橋』をあつかった項を見てみよう。『橋』は本当に短い掌編で、一頁にもみたないものだ。(フランツ・カフカ「橋」岩波文庫『カフカ短編集』池内紀訳所収)まずはこんな短い短編を速読しても何の意味もないので、おっつけ解釈の問題になってくるという。その解釈を平野啓一郎は次のように解釈した。
また平野啓一郎はカフカの『変身』と比較してみせる。そしてこの『変身』を誤読して(自分流に解釈する事)自らも引きこもり青年に重ね合わせて「最後の変身」(『滴り落ちる時計たちの波紋』収録)を書いたという。この評価は付録に書評を載せているのでそちらを参照してもらう事にして、元に戻ってここで展開される作品の解釈もふくめて正解は一つではないということだ。そして正解が一つではないということが、速読との違いであるという。速読はひたすら正解の解釈をもとめて突っ走っていくのである。むしろその正解をもとめるために速読しているということになる。要するにこうなんだという結論を求めるのが速読だという。しかしここでみたように正解なんてものは何処にもない。平野の解釈が正解でもなければ私の解釈が正解というわけでもないのである。ただ作品がそこにあるだけなのである。
これが速読と遅読のおおきな違いだというのは大変説得力があるように見えるが、これとて相手が小説であるというだけのことで、もっとも説得力のあるものとは言いがたい。そこでは平野も勧めているように「本の読み方」は自分にあった読み方をする以外にはないのだという結論はゆるがないだろうことは明白である。
付録
平野啓一郎『滴り落ちる時計たちの波紋』
私も書いたパロディーはここ○
「parody+adaptation原作は何(1)参照」
平野啓一郎 滴り落ちる時計たちの波紋、文芸春秋社、2004年
9篇の小説、9種の企み、と称する短編集がでた。同じような長さのものではなく、ごく、ごく短いものから、中篇程度のものまである。帯に「おそるべき作品集」とあり「文学の可能性のすべてがここに」ともある。すごく誇大表示だけれど、さまざまな意匠があることはまちがいがない。意匠だけだといってもいい。
いつも、いつも腐してばかりでは能がないので、評価できるところを探してみよう。意匠のなかでもっとも面白いのは「最後の変身」と題する作品で、カフカの「変身」をベースに組み立てていく。主人公はサラリーマン。ある日、仕事がいやになって引き籠りに入るそしてその過程でカフカの「変身」を何度も読み返しながら独白する。引き籠りまでは、グレゴール・ザムザが虫に変身するのと同じシュチエーションになっている。その独白を手記としてキーボードで打ち続けているという設定になっている。それも横書き三十字、二十七段のページ組で、そのページは横書きにもかかわらず、右ページから左ページへと読み進んでいく構成になっている。すわ、横書きの小説だと飛びついたのはあてはずれで、実はこの独白の手記を、主人公が自分のホームページにアップしようと考えているという物語構成になっているからで本格横書き小説ということではなかった。それゆえメールマガジンで横文字三十字から三十五字ぐらいという読みやすい字数の基準に準拠している。
ただ、あまりに饒舌な文体に、なにが言いたいのかの内容が伝わってこない。文学の可能性はあっても、文学そのものがない。
そうではなくて、引き込まれたてんはないのかというと、そうでもなく、おざなりで陳腐な表現のあとで、ネットでサイトに「アラシ」をかける主人公が登場する。このサイト攻撃のはてに、自らもサイトをたちあげ、この管理者になっての独白はおもしろい。たとえば「しかし、俺がその作家の『ファン』と思われることは面白くなかった。俺は誰かの『ファン』であるためには、あんまり自尊心が強過ぎるのだ。」とか「実際に、俺はそいつの『ファン』でもなんでもない。ただそいつのことを書くと、人がたくさん寄ってくるので書いてやっただけだ。」というのは、自分のサイトの掲示板で毒舌書評していたときの独白で、これだけ自尊心の強いサラリーマンがなぜ引き籠もりをするのか解せない。また赤裸々に書いた次のような独白も共感をおぼえながらも少し違うような気がする。強烈な自尊心と気弱さが並存しているのだろうか。
次のように述べる。「俺は何時だって、生きている作家に嫉妬していた。特に歳が近ければ近いほど、若ければ若いほどそうだった。」
ネットに関する部分は、確かに真新しい。新しい現象だから、そこでは年齢差はない。若くても年をとっても出会っているのは同じ現実なのだ。作家にとってネットの世界は等価なものとして現れてくるテーマになりうるだろう。この「最後の変身」は意匠は面白いが、その文学性はもうひとつだ。