今週のカタルシス
○今週の読書
G・ドゥルーズ『差異と反復』河出文庫 
文庫本で出版されたの挑戦
詳しくはブログで


今週のカタルシス2007.10。20
○今週の販売実績は1冊

○今書いている本の最終章で苦しんでいる。どのようにしようかと考えていた。文脈のちがうものをどのように持ち込むのかということなのだが。さてさてうまくいくのやら。

○まだまだ登録件数が少ないので、登録すべく整理していた。インタネットの販売はたくさんの人に時と場所をこだわらず提供できるけれど、その登録労力はけっこう大変でわずらわしいものだ。
インタネットに限らずデジタル化するとそのデータベースの管理と手入れは時間を必要とする。現物をもちだして対面で販売する古典的な方法をアナログだとすると、こちらのほうが日常のメインテナンスとしては楽かもしれない。ただ重たいだろうな。腰がいたいだろうな。

○今週の読書
中条省平『反=近代文学史』中公文庫
朝日新聞の書評に掲載された文庫案内だけれども、反近代文学史という何か新しい内容をもりこんだものがあるかと思えばそうではない。著者もあとがきで述べるように作家たちの列伝になっている。それは反近代文学なの近代主義的に書かれている。いや、そのおかげでコンパクトに紹介されているともおもえるのだ。ただ、なぜ夏目漱石の『こころ』を近代文学の見本として、論考上の敵と見定めなければならないのかがいまいちよくわからない。『こころ』にあらわれた「人間のこころ(=内面)の貧しさを見すえてみようと思ったのである」というのだが、貧しいということが近代なのだからしかたがない。またそれを書くしかなかったというのが漱石の意味ではないのか。中条が反近代文学史を書きたいなら、列伝から一歩踏み出した概念を提出してほしい。あつかましいかな?

今週のトピック 2007.10.14
○先週は販売実績はありませんでした。
   
○土曜日に大阪天満宮の古書市に行ってきました。例年より出店数が少ないような気がしたのですが、私の錯覚でしょうか。
100円本を二冊買ってきました。仕入れに行くということはないので、基本的には自分の読みたい本しか買いません。買った本をすべて読んでいるかというと、そうではなく始めの20〜30ページぐらいを読むと、読み進めるかそうでないかはわかってきますので、断念することも多々あります。でも一気に読みきる本もあるのでその出会いを楽しみに読書しているようなものものです。
買っただけで積んである本もあるので、一概には言えませんが、いずれ関係しそうな気がする本は残してあります。

○つまみ食いのような読書ですが、続けていきたいのです。

今週のトピック2007.10.07
書評のようなもの

フランシス・ウィーン:マルクスの『資本論』ポプラ社名著誕生1

中山元さんの訳というので手にとってみたが、われわれの世代でマルクスは初期マルクスから出発して、すぐにポスト・モダンにいってしまった。経済学は結局『資本論』までいきつくことなく『経済学批判』までだったように思う。経済学よりも『経哲草稿』や『ドイツ・イデオロギー』を読んでいた。何にしてもあのやっかいな経済学には取り組む気にならないので参考書で知っている程度なのだ。

 だがしかし、この本をよめばそんなマルクスのイメージが変わる。青年マルクスに比べ晩年のマルクスは経済学に没頭していたかとおもいきや、そうではない、この『資本論』というなんともジャンル分けしにくい書物を書いていたのだ。

そして、それはおそらく経済学でも哲学でもなく文学書なのだろうと予想しながらよんでいたら、書いてある「それでは『資本論』は文学作品としてはどのような地位を占める書物だろうか」と。そうだ文学書だったのだ。それも引用たっぷりの書とくれば、あの文芸批評とおなじやり方なのだ。もちろんこちらが元祖なのだが。

『資本論』はダンテの『神曲』を模しているという。「この書物は最初から地獄降りの物語として構想されているのだ」と著者は記す。

これまで、マルクスの思想とマルクス主義はちがう、マルクスーレーニン主義はまったく別のものだということを訊かされていた。だがほんとうは『資本論』はよんでいないのだ。やはり読みかけて挫折してしまった本を読む必要があるだろう。フランシス・ウィーンの忠告に従って、文学書としてよんでみようと思う。


今週のトピック2007.9.30

今週のアップから
文庫31冊をアップしました。その中からの紹介です。
板坂元『アメリカを読む』旺文社
今はなき旺文社文庫。サイードはアメリカ研究の必要性を常に強調 していた。それは世界最強の軍事力と財政力を持つ国家だからで
注意を払いすぎることは決してないと。その動向に関心を寄せるべきだとした。本書は1982年のTBSブリタニカ刊の文庫化だがその意              義は減少していない。

佐高 信『タレント文化人100人斬り』社会思想社
「実名をあげて筆刀を振り下ろす」と帯にはあるがほとんどは悪口。
でも悪口も少しだけならおもしろい。但したくさん読むと鼻についてくる。「激突対談 ジャーナリストのスタンスをめぐって」付録付き。

ブコウスキー『町でいちばんの美女』新潮文庫
ブコウスキー『ありきたりの狂気の物語』新潮文庫

ブコウスキーは根強いフャンがいるが、その<ヤタケタ>ぶりはひとつ前の時代感覚か?今回はアツプできなかったがやはりいちばん              の秀作は『パルプ』だろう。

黒岩重吾『雨毒』講談社文庫
著者の分身のような主人公に、雨の日過去の女がやってくる。まんざらでもない態度が、その罠にはまっていく。「君子危うきに近寄ら               ず」と確信する。ひやりとする、感覚はさすが。

今週のトピック2007.09.23
今週よりホームページが更新されました。

ブログとは切り離していくつもりです。そうは言っても書きたい衝動は押さえ切れませんので時々
挿入して
いくことになります。
それもこの枠だけなのですが、ここに商品紹介とか、各種案内、そして近況を載せていこうと思います。



つぶやき
2008.2.6
年賀状で旧友のS君より時々ホームページを見ています、と書かれていたので
何とかホームページを更新しようと考えていて、何とかなったのでホットしている。
いつ見ても変わらないのはたしかにつまらない。
情報は更新されてこそ情報なので、更新されないというのは意味がない。
たしかに。

2008.2.10
不快の森

食事をするダイニングテーブルの横に、本とかペンたてとか郵便物を置いている。
それが積み重なって高くなり、また籠に入れた電気カミソリや爪キリといったものまでが
溢れかえっている。それを家人たちは〈不快の森〉と呼んでいる。
当人にとっては日常使用するものが近くにあって、ことのほか便利なのだが、家族全員が
不快だ、かたずけろを合唱する。
まだ、これくらいは優しいほうで、家中に溢れかえる本たちは、捨てろ捨てろの罵声にさらされている。
本は命だという叫びもむなしく響くのみなのだ。目の黒いうちは阻止しているが、もし倒れたら
いつの日か一掃されるかも知れない。 
危ない、危ない。

2008.2.18

木岡伸夫『風景の論理』を読んだ。
久々の知的興奮をおぼえた。
これは明らかに単に風景を素材としてあつかいましたという風景論ではない。
これまで風景というものが知覚に従属した認識論の問題であったのが、いやちがう、
知覚こそ風景に従属すべきものだとその認識論の変更をせまるものだ。
またその論理は、構造論的思考と弁証法的思考を組み合わせるという新しいもので、
ましてや、1930年代の日本の哲学者たち、西田幾多郎、田辺元、九鬼周造、三木清
といった実り多い哲学をふまえていこうとするものであることだ。
日本語で書かれた哲学をなんとかその論理を探ってみたというアイデアは
やはり心ひかれる。というよりは同じ考えの同志だといえるだろう。
また、木岡は自らも自認する、ベルクソニアだと言っているが、その理論構成は
ベルクソンに背負っているものが大きいのだろう。
しかし、ベルクソンと違い理論的認識にとどまることなく、実践的な関心へと踏み出していく覚悟が
語られているのは心強い。
もちろん風景論を書こうとして出会ったのだが、哲学専門家の評価は知らないが、
これは風景論というよりも表現論、創作論として受け取ったのである。

2008.2.19

チョコを貰った。
もちろん女性ではなく男性だった。15日だものね。
スペインのお土産ということでGIN TONIC入りだった。
ベルギーだけでなくてスペインにもおいしいチョコレートがあるのがわかった。
日本人はチョコが大好きだからすでに知っているかもしれない。
《カカオ サンパカ》と読める。

2008.2.24
また雪がふって車で出られない。
先日の雪では五日ぐらい雪だるまがのこっていたが今回はすぐに融けるだろう。
今年はけっこう寒いのかよく雪が降る。
例年は1回あればいいほうなのに。
温暖化しているのではなかったのか、と思う。
CO2ではなく太陽の黒点だと言う説もあるので、
それによると温暖化はおわっってまた寒くなると言っている。

2008.3.4
ある人のすすめで浅沼璞『西鶴という鬼才』(新潮新書)を読んだ。
はじめて読んだ西鶴の第一印象は桂米朝全集と似ているなというものだった。
その雰囲気そして語り口のリアリズムはやはり上方落語のルーツを思わせるもだ
ということだった。
西鶴モノを実際に読んだことは無くて、文学史テキストに紹介されているような知識
しかないのだが、浅沼の紹介によって、そのフレンドリーさが伝わってくる。
たとえばP68「への字なりに埒あけさせて・・・」という表現は、
気取ったリアリズムではなく、ベタベタの生のリアリズム、もっと上品に言えば
フレンドリーなリアリズムを感じさせる。
これはたしかに大阪のものだ。

2008.3.7
み群杏子クンから公演の案内状をもらった。
もちろん現地精算の有料です。
昨年は不義理をしたので今年は行かずば成るまい。
でも一人で行くのはなんなので(ナンナノダ?)Sクンを誘ってみた。
Yに泣きついたがわからないとのこと。
こんなことってよくあるよね。
無理やりSクンにOKを取り付けた。
「今回は、来てね!」なんてしおらしいことが書いてあったのでいかないわけにはいかない。
内心では「絶対に来いよ、オッサン」(笑)と思っているにちがいないのだから。
(仲間内ですので悪態をついていますが、一般の方は誤解なさらないで下さい。
み群さんは長年「み群ワールド」を着実に拡げておられる方です。このような下品な発言を
される方ではありません。)

公演案内はみ群杏子ホームページへ

著書はこちら⇒

2008.3.11
このところボールペンで書いていたためか、手首が痛い。
また万年筆にもどろうかと考えている。
いつまでも、手で書かないとうまく文章が出てこないのは仕方がないか。
三つ子の魂百までも、で若いころに習い憶えた習慣は抜けないもので
そのまま続けていく以外ないないのだろうか。

2008.3.16
昔、おもしろがって邪馬台国論を読んでいた。
それもできるだけ、荒唐無稽でひねったものを読んできた。
荒唐無稽でもひょっとしたらそうかもしれないと思わすものは知的興奮を覚えた。
これはフィクションとしての邪馬台国論で、比定地をめぐっての熱き論争とは違う。
いや、違うのだ。
何が正しいかではなくて、いかに想像したかというのが基準になる読み方なのだ。
正しいか正しくないかはどうでもいい。(それでも整合性は必要だよ)
おもしろいことが大切なのだ。
そこでその一部を特集した。
必ずしもおもしろいものばかりではないけれど、それなりに楽しめる。

2008.3.30
昨日、み群さんの公演に行ってきた。
今回は脚本家から女優への転身で、舞台に出てきてしまった。
ラジオドラマのような朗読なのだが、音声処理はされているので
生々しい。
内容的にはこれまでの女性主張の更なる自己肯定から一歩踏み出して
穏やかになってきている。
またこれまでと違い、新しい言葉も加わって作品を豊にしている。
反面、物語の設定はこれまでどうりのこともあって新鮮味がない。
とまあ、偉そうなことを書いているが,
長ーく続けている持続は大変なものです。



2008.4.5
つぶやきは過去のトピック兼つぶやきに収納しました。
2008.4.29
あっという間に4月が終わっていく。
何をやっていたのか思い出してみると、
そうそう、督促状を書こうとしていた。
まだ、支払ってくれない方への督促状を書こうとして
さて、どう書いたらいいのかわからないので
紫式部さんに相談してみた。
優しい(督促の内容が)文書見本を送ってもらったのであるが
書きかけてやめにした。
買った本の支払いをするのは資本主義の中では当然ではないか?
ボランティアでやっている訳ではないのだからと考えたからだ。
支払わないひとをどう考えたらいいのだろう。
贈与した事になるのだろうか。
そうだとすると、このインターネットのシステムにはなじまない事象になる

本を貸したのに返してくれなということになるのか?いやそうではないだろ。
交換がひとつのコミュニケーションだとすると、
明らかにこれはコミュニケーションを拒否された事になる。

ややこしいことをあれやこれやと考えていたら、
面倒になって辞めてしまった。
購入した人は当然支払っていない事を知っているだろうから、
永遠に心のしこりとして墓場まで持っていけ、という気になった。

野崎正幸さんの『駆け出しネット古書店日記』に不払い者と裁判で争う記事があったと
思い出した。
それによると「千円くらいの代金なら、支払わずにとぼけ続ければ諦めるだろうといった
品性下劣にして、犯意悪辣な仕業というしかないものであります」と陳実書にあるが、
そこまでいわなくてもいいのだが気持は良く分かる。

単に売り買いすると言うのなら安いほうがいいに決まっている。それも代金を踏み倒せば
もっと安くなるわけだ。それではつまらないではないか、というので古書店の意味がある訳で
読みたいときが欲しいときという書籍の性質からして、代金後払いシステムは捨てがたい魅力を持っている。

このシステムを活かしながら不払いを防ぐ方法を探さなければならない。
インターネット銀行処理を考えようか。

2008.5,12

ブログに「インターネット時代の本の展開について」ををアップした。
本について考えていて、橋口侯之介『続和本入門』を読んで影響をうけた。
和本の世界を現在の情況にアナロジーいたらどうなるのか
考えた。
その報告になる。
長くなるのを避けて、早く読めるように工夫した。

2008.5.30
ひょっとしたら本を出版できるかもしれない話が出てきた。
書き直して、書き直してこれで三稿目になるだろうか。
何とかここで決着をつけたいと思う。
生産から販売までかかわるのが読書イニシアチブの理想だから
出版できれば一歩前進ということになる。
この実験がどこまでいけるのか、行ける所まで行くぞ。


2008.6.2
夏目鏡子『漱石の思い出』を読んでいる。
漱石ってけっこうおちゃめなひとなんだなと思う。
もっと難しい人なんだと思っていたが、鏡子夫人の語りのせいなのかどうか
それはわからないが、おもしろい人だと感じている。
最近三浦雅士の『漱石 母に愛されなかった子』を読んで感心
したものだから、ぼつぼつと読み返しているのだが
鏡子夫人の思い出を読んでいるとこの現実と
文学上の現実とはどこでつながっているのかわからなくなる。
もちろん文学上のことなので、違っていて当然なのだが
この位相の違いがなんともおかしい。
いや、おかしいというよりは表現の秘密があるように感じた。

2008.6.6
次の予定を立てづに削除したものだから、工事中になってしまった。
これはいけない。
何か企画を考えて置くべきだったのだが。
工事中を埋める何かいい企画はないだろうか。

2008.6.8
歴史モノがよく売れたこともあって
今回も登録は歴史モノでいくことにした。
工事中だったエリアも日本古代史で行くことにした。
10年ほど前、日本古代史に関するほ本をたくさんあつめていて、
おもしろがっていたことがある。
神武東進に関する小説を書こうといろいろ読んでいた。
いつのまにか辞めてしまったのあるが、それがきっかけで邪馬台国本
などを読んでいた。
ともかくも、今回は歴史モノをアップした。
もちろんすべて読んでいるわけではなくて、集めたモノは
積読のモノもたくさんある。

2008.6.15
今週はなにを書こうか考えていたがいいアイディアがないのでアップした本の
紹介を書いてみる。
まず中山和敬『大神神社』は大神と書いて「おおみわ」と読む。
つまり三輪神社のことだ。大神神社の宮司による紹介。
三輪山文化研究会『神奈備 大神 三輪明神』は多数の著者による三輪の信仰、
歴史、文学芸能、と資料からなる。ポイントは蛇。
榮長増文『大和出雲の新発現』はこの三輪山の盆地がはではなく
その奥の山、地域に注目、そこをを「こもりく文化圏」証する説。
本当の出雲はこの地域の事で、有名な相撲の発祥と知られる
当麻邑の当麻蹶速と出雲の国の野見宿禰の出雲もこの地域の出雲
という事になる。
日本列島にまたがる話ではなく、ローカルな盆地内の話だったという事だ


〔つぶやき〕

8月16日京都下鴨神社の恒例の納涼古本まつりにいって来ました


もちろん、出店などではなくお客です。
今年も目標は昨年買い残した、西田幾多郎全集の5巻と6巻を探しに行ったのです。ここで書くのも変なのですが、仕入れではなくて単に自分が読みたいためで読書中毒は抑えられません。
ほんとうに読みたい本だけをおっかけているので、分野はバラバラなのですが、これもしかたがありません。

ほんとの出会いも人との出会いのようなもので、いつ出会うのかはわからないものです。そんな出会いを求めて古本市に出かけるのですが、今年は見つかりませんでした。
ネットでも同じ事だと思うのですが。

最終日ということもあって、朝早くから出かけて行ったのですがけっこうな人出で混雑していました。恒例のうちわをもらって満足、満足でした。




10月の月報より
essay

現象学的サラリーマン論

サラリーマン文学としてのカフカ』を上梓した後、これはいわゆる労働問題でもなく。また精神病理学でもないものとして扱いたかったと「あとがき」で書いておいたら、それではいったい何なのかと問われることがしばしばあった。咄嗟のことで、つい「これは現象学的サラリーマン論だよ」と答えてしまって、えっ!それって何のことと本人も戸惑ったのだが、けっこううまく答えているという気がしないでもない。(以下月報)

11月の月報より

丘沢静也訳カフカ『訴訟』光文社新訳古典文庫を推す 

 従来カフカの『訴訟』は『審判』の名で呼ばれてきた。しかし、丘沢氏によると原題は審判の意味は無く訴訟だという。先の新訳古典文庫に出された『変身/掟の前で』も刺激的だったが今回も目からうろこであった。いったい同じものを読んでいるのかと疑うばかりであった。『サラリーマン文学としてのカフカ』を書いていたときこの作品をどのようにあつかったらいいか思案していたことがウソのようで、まさにこれこそサラリーマン文学ではないかと思われる。それもフランツ・カフカのような高級職のサラリーマンであって、ほんとうにそうだとうなずいてしまう箇所がいくつもある。訳者の解説にも「平凡なサラリーマンが『そうだよ、そうなんだよな』と共感するような、日常的な心理が満載で、そこはかとなくユーモアがただよっている」と記している。ユーモアが漂っているかどうかは別にしてもそこには心理状態、心情はいかんなく書き付けられている。

 元来、この作品は組織と個人の関係をえぐる作品とされてきた。しかし後の世の全体主義に見られた個人の抑圧という解釈は早くして出世したサラリーマンの罪の意識と言い換えてもいいようなものになっている。早い話、終章でヨゼーフ・Kは殺されるエピソードがあるが、ここには恐怖が無く、おそらくこれはヨゼーフ・Kの夢か妄想ではないかと疑われる。その意味ではユーモアというより滑稽という方が近いのではないだろうか。とても面白い。現代的だ。『城』をぜひ訳してほしいとおもう。