Online Essays

The Professional Duties of the Scientists---Faraday and Henry

科学者の職責──ファラデイとヘンリー

[これは、『科学の倫理学』(丸善、2002年4月)の一部原稿である。引用はウェッブ版ではなく前記の本よりされたい。]


5. 科学者の職責──ファラデイとヘンリー

これまでは、科学者が発見や業績の先取権をめぐって、同僚や先人との関係で守るべき規範について述べてきた。しかし、科学の成果が広く社会で応用され、その利益を享受し、またそれから生み出された害悪も経験している現代の人々にとっては、これまでの話は「科学者たち内部の倫理」であって科学ないし科学者が「外部の一般的な人々に対して負う倫理」ではない、と論じられるかもしれない。そこで、以下ではこの問題にも立ち入ってみよう。ただし、この問題を論じるために、いきなり「核兵器」の問題とか「優生学」の問題を論じるという極端なやり方はとらない。こういった例はもちろん重要で、しかも面白いのだが、極端な事例が科学一般に通用する結論の基盤として妥当かどうかは保証の限りではない。したがって、ある程度の手順を踏んだ上で、こういった事例に進みたいというのがわたしの方針である。

職業としての科学者

科学あるいは科学者に対して、社会との関係で要求される(あるいは好ましい)倫理を考えるためには、ある程度事実認識の準備が必要である。科学者と社会との関係は、実際どのようなものであったか。まずこれを少し見ておく必要があろう。すでに多くの人が指摘するように、「職業としての科学者」が成立するのは19世紀だということになっている。多くの科学研究者が養成され始めるためには、大学とか研究所ができ、そこにかなりの数のポストが用意され、みずからの職業として科学研究を行なうことを可能にする制度が必要である。また、学会や科学者の団体ができ、学術誌を発行して研究発表の場が整備されることも必要である。こういった動きが欧米で盛んになるのが19世紀だというわけである。そこで、19世紀の興味深い事例として、ファラデイとジョゼフ・ヘンリーを対比させてみよう。ヘンリーは、ファラデイほど有名ではないが、職人の修行を経て科学者になり、電磁気の現象を研究して名前を残したという点ではファラデイとよく似た経歴を歩んだ。しかし、後半生においては、アメリカのスミッソニアン研究所の初代所長となり、科学の行政官として大きな足跡を残した。この点では、学会での役職を含めて、行政のたぐいの仕事からは一貫して身を引いていたファラデイとは、ヘンリーは好対照をなす。同じような科学的業績をあげながら、二人の社会との関わり方は大きく異なるのである。それが、この二人をとくに取り上げる理由である。


ファラデイのケース

まず、ファラデイについて見よう。彼は「科学者として」社会とどのように関わったのだろうか。彼は、1813年にデイヴィーの助手として王立研究所(Royal Institution)に雇われた。この研究所は、科学的知識を広めて機械的な発明を促進すること、および講演と実験によって科学の応用を人々に教えること、という二つの目的をうたって創設された機関である。デイヴィーは、この研究所の地下に当時一流の実験設備をととのえ、優れた講演者としても名声を博していた(聴衆は、王立研究所にお金を払って彼の講演を聴きに来る)。しかし、デイヴィーが去った後、研究所は財政難に陥る。これを救い、財政立て直しに貢献したのは、ファラデイが実験家としての腕を発揮してこなした膨大な技術的業務と、優秀な講演者として聴衆を研究所の講演シリーズに呼び寄せた手腕とである。ファラデイは、自分の好きな研究のみに精力を注いでいたわけでは全然ないのである。研究所の職員として要求されるこのような業務をこなしたのち、自分の私的な時間を費やして科学的業績をあげたというのが実状に近いであろう。そこで、ファラデイは、「職業的な科学者」と呼ばれるための資格を立派に備えている。すなわち、彼は、科学的知識あるいは実験や講演の技術を生かして生計を立てていたわけである。この点で、彼は、時代的には少し後のダーウィンのような「ジェントルマン科学者」とは違う。ダーウィンは、科学研究によってではなく、地代や投資によって生計を立てていた。

さて、これまで「科学の倫理」と「科学者の倫理」を便宜的に区別して論じてきたが、ファラデイのように「職業的な科学者」の地位についていた人に対しては、言葉のもっともふさわしい意味で「科学者の倫理」が適用できる。一言でいえば、王立研究所での大半の業務をこなすことは、ファラデイの「科学者の倫理」として要求されるのである。不注意な人は、「これは当たり前のことだから倫理と呼べないのではないか」と抗議するかもしれない。しかし、公務員(警察官も含む)の不祥事が相次ぎ、綱紀粛正が言われているおりから、「職務」として規定されていることが自動的に果たされるわけではないことに注意されたい。職務を手際よく、良心的にこなす人は倫理的に優れており、逆に職務を果たさなかったり、職務を果たすついでに不正な利益を得ようとする(収賄)人は倫理的に非難されるべきである。これが倫理に入らないのなら、倫理の内容はきわめて乏しくなろう。わたしが「科学者の倫理」と呼ぶものは、いわば職業倫理の一種であると理解してもらってよい。ファラデイは、わたしの見るところ、科学者として見事な業績をあげただけでなく、科学者の倫理も誠実に実践した模範的な例である。そのサワリを少し紹介してみよう。

炭坑夫が使用する安全灯の発明は、デイヴィーの業績として知られるが、これはファラデイとの共同の仕事である。デイヴィーは、もし望めばこれで特許をとることもできたが、それは好ましくないと考えてそうしなかった(トーマス1994、95-6)。同じ態度は、ファラデイにも引き継がれている。ファラデイの業績のうち、例えば電気分解の法則は電気メッキの技術と直結するものであるし、電磁誘導の法則は発電機の技術のもとである。しかし、ファラデイは自分の「科学研究」から経済的利益を得ようとはしなかった。

ファラデイは、おそらく宗教的な理由(彼は「サンデマン派」と呼ばれる小さなセクトの熱心な信者だった)もあって、政府からの仕事や依頼には協力的であった。王立研究所に頻繁に持ち込まれた化学分析の業務だけでなく、海軍省の顧問も引き受け、また鋼合金や光学ガラスの改良という困難なプロジェクトも引き受けた。灯台のランプを改良するための研究にも、長年にわたって関わっていた(Cantor 1991, 154-160, Pearce Williams 1965, 488)。炭鉱爆発事故の調査委員会やテムズ川汚染の調査に関わったこともある。こういった仕事も、いわば職業的科学者の義務の一部と考えて、みずからの研究と同様に誠実にこなしたのである。

他方、これとは対照的に、ファラデイは科学の行政がらみの仕事を徹底して避けた。もっとも有名な話は、彼が王立協会の会長就任を要請されて断ったこと(1858年)と、彼の勤め先だった王立研究所の所長就任まで断った(1864年)ことであろう。ファラデイの宗教的信念を調べた科学史家のジョフリ・カントールは、ファラデイのこういった態度はサンデマン派の信仰および実践と一致するという解釈をとる(Cantor 1991, 134, 277-280)。しかし、この解釈の是非とは別に、科学の研究者としての態度と、例えば学部長、学長、あるいは学会の会長といった行政職に要求される能力とは、一般的になじみにくいことは常識的にも理解できる。行政や政治には駆け引きと妥協が不可欠であるのに対し、科学研究では妙な妥協は禁物である。それぞれの領域の行動規範は多くの点で対照的に異なる(これは、科学行政が科学研究を妨げるという意味ではない。個人の中で、二つの役割をこなすことが易しくはない、という意味である)。もちろん、有能で多才な人は二種の規範をそれぞれの領域で使い分けることもできよう。しかし、理由の如何を問わず、ファラデイは自分に行政職は不向きだと判断したことに間違いはない。科学をやる人間にはいろいろなタイプがありうるが、ファラデイは科学行政に向いたタイプではなかったというのが、余分な解釈を排した、中立的な記述であろう。

そこで、問題は、科学者の倫理を一種の職業倫理ととらえるわたしの視点から、ファラデイのこのような態度と行動がどのような倫理的問題を示唆するかということである。答えは、かなり明白であるように思われる。「科学者の倫理」として、彼には非難されるべきことは何もなかった。一般論としても、優れた業績をあげた科学者だからといって、科学行政にコミットする義務はない。研究、教育、啓蒙活動、あるいは技術的助言などは、「職業的科学者」としての役割と十分緊密なつながりがあるので、科学者の倫理の項目として(しかるべき形で求められれば)要求されるであろう。しかし、科学者がみな科学行政に関わるべきだとは言えない。もちろん、そういった仕事は現代社会では不可欠であろうから、それに向いた人を選出すればよいのだが、その選出の基準は「科学者の倫理」とは別の、もっと一般的な倫理(組織の運営、役職の配分など)を援用して出されるべきものである。例えば、わたしの所属する機関にも「規程」あるいは「内規」といったものがあり、諸種の役職の選出のルールが書いてある(わたしは文学部に所属しているが、このような規程ないし内規については、文理で大差はない)。しかし、こういったルールが「科学者の倫理」と不可分であると言い張る人は、おそらく誰もいないであろう。これらのルールは、大学職員の倫理、あるいは(国公立大学の科学者の場合は)公務員の倫理に関わるのである。


ヘンリーのケース

次に、ファラデイとは違ったタイプのキャリアを歩んだ、アメリカのジョゼフ・ヘンリーのケースを調べてみよう。ファラデイと同様、ヘンリーも若いときに徒弟奉公をして苦労するなか、実験科学の啓蒙書を読んで科学研究を目指し、ニューヨーク州オールバニ・アカデミーの夜学で勉強をした。そして、そこの校長に才能を認められ、やがて助手として雇われる。その後、1825年には、ニューヨーク州南部での道路建設のための測量という困難な仕事にたずさわり、一つのチームのリーダーを務めて立派な仕事をやり遂げた。翌年にはオールバニ・アカデミーの教授に任命され、1832年にはニュージャージー・カレッジ(現在のプリンストン大学)に迎えられる。電磁誘導の発見に関わる仕事はこの時期になされた。しかし、彼の研究成果の発表は、あまり有名ではないアメリカの雑誌でなされた上に、他人のよく似た成果が出た後で急いで出されることがしばしばであった(Moyer 1997, 280)。こういった事情が重なって、ヘンリーは「二番手」に甘んじることになった。現在と違って、19世紀にはアメリカ合衆国はまだ科学の発展途上国だったことに注意されたい。したがって、アメリカでは一級の科学者と見なされても、ヨーロッパでの評価は同等に高くはなかったのである。しかし、彼が電気モーターや電信、変圧器やリレーなどの発明に関わる多くの先駆的な研究をしたことは間違いがない。1837年には半年あまりにわたってヨーロッパの科学事情を視察し、ロンドンでファラデイとも会っている。ファラデイとホイートストーンは、後に(1839年)王立協会のコプリー・メダルの候補としてヘンリーを推したが、これは実現しなかった(Moyer 1997, 234-5)。

さて、ヘンリーに転機が訪れたのは1846年のことである。イギリス人の貴族科学者、ジェームズ・スミッソンの遺産(約50万ドル。プリンストンでのヘンリーの年俸は1500ドル)が遺言によりアメリカ合衆国に与えられた。遺産は甥に引き継がれたのだが、甥が子供を残さず死んだときには、「ワシントンにスミッソニアン研究所という名称で、人々のあいだに知識を増やし広めるための施設を作るためにアメリカ合衆国に与える」、という文言があったため、スミッソニアン研究所が実現する運びになったのである。ヘンリーの所長就任の経緯については、Moyer (1997) に詳しい記述があるので省略するが、ベンジャミン・フランクリンの血を引く同僚科学者(かつ行政職)、アリグザンダー・バッチの根回しが大きかったようである。このように言うと、ある種の「不正」を勘ぐる向きがあるかもしれないが、ヘンリーの対抗馬として残ったのは、少々の科学的素養はあったものの、政治家との広いコネをもった官僚であった(Rothenberg 1997b)ことを考えれば、バッチの働きはアメリカの科学にとって明らかによかったのである。ヘンリーはといえば、プリンストンでの待遇に不満があり、また電信システムの発明家、サミュエル・モースとの確執(電信技術の原理はヘンリーの発見なのに、それを単に応用しただけのモースがヘンリーに対するクレジットを十分に認めなかった──とヘンリーは憤った)なども絡んで、自分の科学的業績が過小評価され十分に報われていない、との思いも強かったらしい(スミッソニアンの仕事に移ることによって、給料は2倍を大きく上回ることになる)。裏話はともかくとして、こうして発足した国立の研究所(ホワイトハウスとも議会とも目と鼻の先にある)で以後30年余にわたって指揮をとったヘンリーの方針が、アメリカの科学行政(19世紀の中葉から後半にかけて)に大きな影響を及ぼしたことは疑いがない。念のために、ヘンリーの方針がよくわかる一節を、バッチ宛ての手紙(1846年9月5日)から引用しておこう。

研究所の目的は、知識の増加普及です。知識の増加の方がはるかにむずかしく、この研究所がわが国の性格や人類の福祉に対して持つ関係を考えると、知識の普及よりはるかに重要な目的です。現在でも、わが国には知識の普及に積極的に携わっている機関が何千とありますが、知識の増加に直接的な支持を与える機関はただの一つもありません。かの遺言者が考えていたような知識は、独創的な研究によってのみ増加させられるのであり、それには忍耐強い思考と、手間がかかり、しばしば高額な費用を要する実験が必要とされます。(The Papers of Joseph Henry, vol. 6, 494)

写真 ヘンリーの著作集、The Papers of Joseph Henry, 1972-(口絵にヘンリー、裏見返しにスミッソニアン研究所の建物が見える)

前置きが長くなったが、ヘンリーを例として考察してみたいのは、科学行政と科学の関係、そして科学行政と科学の倫理との関係である。科学行政といっても漠然としているが、要するに、与えられた社会体制、政治体制の中で、科学の振興、科学教育の整備、科学の成果を社会の中でどのように役立てるか、といった課題を行政府の政策を通して解決していく営みのことだと理解しておけば当面十分だろう。もっと具体的にしたいなら、国家の予算を科学の絡むどのような活動に割り振るか、どのような研究に援助を与えるか、どのような研究所や施設を作るか、といった問題を思い浮かべてもらえばよい。こういった問題に解決を与えるためには、ある種の一般的な「方針」が立てられなければならず、その「方針」の出所が当然問題となる。ヘンリーは、このような「方針」を、科学についてのみずからの考えに基づいて、前述の引用文のなかで明確に示した。彼は、まずスミッソンの遺言中の「知識を増やし広めるため」という一節を、「科学的知識」と狭く限定して解釈し、しかも「増やし」の方に強調点をおいた。そして、「科学」についても、目先の利益や成果(技術的応用や発明など)を目指す研究ではなく、基礎的な研究を重視するという方針を打ち出したのである(Moyer 1997, 249)。

この点については、スミッソニアン研究所のウェッブ・ページ上で、次のような興味深いエピソードが紹介されている。スティーヴン・ダグラス上院議員(民主党)といっても日本では知る人は少ない。しかし、彼は、エイブラハム・リンカーン(共和党)が1860年の大統領選挙で争った相手の一人であり、先立つ1858年のイリノイ州上院議員選挙ではリンカーンと議席を争って勝っている。実は、リンカーンの名を全国的に知らしめたのは、この58年の選挙中にダグラスと行なった論争(焦点は奴隷制)である。このダグラス上院議員は名うての論客であったが、1852年に彼がスミッソニアンで争った相手はヘンリーであった。論題は、スミッソニアン研究所が育成に務めるべきなのは、基礎科学の研究なのか、それともはっきりと役立ち、財政的な見返りが期待できるような研究に限るべきなのか、というもの。ダグラス上院議員は、「農学のような有用な研究ではなく、月の研究といったわけのわからない研究に金をつぎ込むスミッソニアンはけしからん」という意見ですでに知られていた。これに対して、ヘンリーは、「人間のもっとも高尚な渇望がいいポテトを食べたいというようなことだけに限られているとしたなら」ダグラスの批判は当たっているかもしれない、と切り返していた。ダグラスは、今回も、「海草やほかのクズについての研究みたいな、役に立たない研究ばかり後押しする」スミッソニアンを批判したので、頭に来たヘンリーは、ダグラスが後押しする農業省設立にスミッソニアンの金をつぎ込むくらいなら、スミッソニアンをつぶしてイギリスにお返しした方がマシだ、と応じたのである。結局、ダグラスの方がおれ、スミッソニアンの方針は揺るがなかった(Rothenberg 1997c, The Papers of Joseph Henry, vol. 8, xix-xx)。

誤解のないように補足しておきたいが、ヘンリーは科学の「応用」をまったく無視して「象牙の塔」にこもることを推奨したのではない。科学研究が、長い目で見れば有用な結果につながることを主張しつつも、目先の利益で個別の科学研究の値打ちをはかってはいけない、科学研究の値打ちは経済的見返りだけにつきるものではない、ということを強調したのである。ヘンリーが理想とした「科学者の共同体」とは、国際的に認められた基準を満たす、比較的少数のよく訓練された熱心な研究者が自由な知的交流のなかで知識を追究するといったもので(Reginald 1981, Moyer 1997, 227-8)、これはファラデイが考えていたものとよく似ている(ファラデイも科学の究極的な有用性に疑問はもっていない)。しかし、皮肉なことに、スミッソニアンの所長になって以後、ヘンリー自身の科学者としての活動は、政府や議会の科学顧問としての職務にもっぱら費やされることになり、プリンストンでやったような科学の基礎的研究には二度と戻れなかった。

科学者と科学行政

この、150年前のヘンリーのケースは、われわれにとって比較的客観的に眺められる位置にあるので、科学者と科学行政の関係を考えるには有益な事例であろう。彼はみずから望んで科学の行政官となり、自分の考えを国家(の重要な機関)の政策に反映させようとした。すでに述べたように、科学研究と科学行政とは一応別ものである。しかし、科学の実態を無視して科学行政を行なうことは一見して不合理であろう。また、科学の業績に乏しい人物が科学行政の責任ある地位についても、現場の科学者たちには歓迎されない公算が大である。また、いくら業績のある科学者であっても、自分の行政によって何を実現するか、どういう方向に科学研究をもっていくかというヴィジョンがなければ、行政官としてはただの飾り物である。さらに、政治家や官僚の言いなりになって自分のヴィジョンを貫けないような人物では、「科学」行政として落第であろう。かくして、科学の行政官には、一般論として、三種の徳目が求められる。一つは、科学の領域での知識あるいは業績である。二つ目は、科学行政に際してのヴィジョンである。そして、最後に、そのヴィジョンを実現に近づけるための力量、行動力や政治力がある。

もちろん、その「ヴィジョン」の是非も問題となるが、そこがまさに科学と、科学の外の社会とが関わる接点になるのではなかろうか。ヘンリーの場合、科学の発展途上国だったアメリカで、国際的に通用する科学研究を育成する必要があった。この点で、彼は大きな力をふるった。では、国際的に活躍する科学者が増えれば、国民にとって何がよいのだろうか。湯川秀樹がノーベル賞を受賞したときのことを想起されたい。日本人が湯川を国民的英雄と見なしたのは、それによって自国の文化のレベルを再確認し、誇りを取り戻すことができたと考えたからではなかっただろうか。社会の多くの人々に喜びと勇気を与えることが「なぜよいのか?」と問う必要はない(哲学の問いを突きつめようとする場合を除いて)。これは「善」の基本的な構成要素の一つにほかならない。ヘンリーにおいても、そういったことはほとんど自明であっただろう。

また、ヘンリーがいくら基礎研究を重視したとはいえ、アメリカ国民にとって有益な結果を研究成果として示し、科学研究の重要性と威力とについて、彼の職務上、政治家や国民の理解を得る必要があったはずである。この点で、ヘンリーの業績の一つとしてよく知られているのは、ボランティアを活用した気象情報網の確立と気象予報である。これについては、電信会社の協力を取り付けて気象情報伝達のネットワークを作りあげた。こうして、1857年からワシントンの新聞には気象欄が出始めるのである(詳しくは、Millikan 1997)。このように、われわれは日々生活の中で科学研究の、少なくとも間接的な恩恵を受けていることも、科学研究の「社会にとっての重要性」を裏づける理由となっている。

以上、二つの項目に分けて述べた、「科学研究からもたらされる善」は、科学研究と、もっと広い領域での倫理とをつなぐ基本的なリンクである。もちろん、いま述べたのは「よい」方の側面だけだったが、当然「悪い」方の側面にも目配りが必要になっているのが現代の状況である。そこで、科学行政がなぜ重要かという理由も、このリンクを介して理解可能となる。すなわち、一つの国家の中だけに話を限った場合、科学研究はいま述べたリンクを通して、その国の文化的、経済的、その他の力の重要な源となる。したがって、科学研究や科学教育をどのように進めるかという課題は、行政上の重要問題となりうる。そこで、科学の行政、とくにそれを指揮する科学の行政官には、ヘンリーの具体例で描写したような、三つの徳目が求められるのである。これらは、科学者としての職責を超える。しかし、一般的には、なぜ科学者の中から科学の行政官を選ぶのが望ましいかという有力な理由がある。そのように選ばれた科学者の行政官には、「科学」の「行政官」という二重の職責が課されるのである。


要約


参考文献

このほか、次の資料も参照のこと

[back to Index]


(1) We began our discussion by assuming that "priority" is essential in scientific activities. But we may ask about science thus characterized: why is it important for us, people or men in general? Or, why should we defend priority in science? To these questions, we cannot answer without getting into the problem of the value of science (scientific knowledge) itself. This is the topic of chapter 6.

(2) You may see the distinction between (a) values in science and (b) values of science. So far, we have discussed, mainly, the former and duties derivable from it. In order to address ourselves, however, to the problem of the scientist's obligation to society in general, we have to take (b) into consideration. This transition of perspectives should be quite familiar to the student of ethics (if you have learned ethics at all). But many writers on the subject are, regrettably, quite sloppy on this matter.


Last modified, April 24, 2003. (c) Soshichi Uchii.

suchii@bun.kyoto-u.ac.jp