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Eugenics in the 20th Century---From the Biologist's Apprehensions to the Controlled Reproduction

二十世紀の優生学──生物学者の危惧から生殖管理へ

[これは、『科学の倫理学』(丸善、2002年4月)の一部原稿である。引用はウェッブ版ではなく前記の本よりされたい。]


二十世紀の優生学──生物学者の危惧から生殖管理へ

優生学が引き起こす倫理的問題について、基本的なことは前章で検討したので、本章では二十世紀前半の主な動きをざっと調べておきたい。優生学の支持者、同調者は、一流の科学者、著名な文化人のなかにも大勢いたことを忘れてはいけない。例えば、ロンドン大学で本格的な統計学の教室を開いたカール・ピアーソンはゴルトンと親密であり、独自の社会主義を信奉した優生主義者だったし、ピアーソンとは後に不倶戴天の敵となる遺伝学者、統計学者のロナルド・フィッシャーも優生学の強烈な支持者だった。マルクス主義を信奉した遺伝学者J. B. ホールデンや、トマス・ヘンリー・ハクスリーの孫の一人、ジュリアン・ハクスリーでさえ、「優生学主流派」を批判したことでよく知られているが、やはり優生学に同調的な部分も多くもっていた。こういった事実だけを取り上げてこれらの科学者に対して不当な評価をしないように、二十世紀の初期から中期にかけての流れを見ておかなければならない。「科学の倫理学」を言うからには、われわれも知的に誠実である努力をしなければならない。ただし、この時代の欧米すべての動きを独力で見渡すことはまず不可能であるから、適当な二次文献に依存することはやむをえない。わたしが依存するのは、主として、ケヴレースの定評ある『優生学の名のもとに』(1985、邦訳1993)である。英米以外の事情については、アダムズの『比較「優生学」史』(1990、邦訳1998)が優れた研究であるが、本書では立ち入る余裕はない。しかし、わたしが補う分析によって、前章で確認した優生学の「倫理問題」が、具体的にはどのような形を見せながら展開していったか、大筋は明らかになるはずである。

メンデルの再発見から進化の総合説へ

世紀の変わり目、1900年には、メンデルの「遺伝の法則」が三人のヨーロッパ人学者によって再発見され、「遺伝子」と呼ばれる不連続な単位を基本とする近代遺伝学が歩みを始めることになる。当初、この「メンデル学派」はイギリスにおいて、ゴルトンの統計的方法を引き継ぎ、生物の測定データから遺伝の問題にアプローチしようとしたピアーソンやウェルドンたちの「生物測定学派」とは折り合いが悪かった。やがて、これら二つの流れが適切な数学的道具立てを加えることによって統合され、「集団遺伝学」と呼ばれる分野が形成される(1930年代)。すでに触れたフィッシャー、ホールデンに、アメリカのシーウォル・ライトを加えた三人が、この分野の設立者と見なされる。この集団遺伝学に、古生物学、生態遺伝学、分類学などからの知見を加えて発展したものが、いわゆる進化の「総合説」であり、これが進化生物学の主流となる(1950年代から60年代)。遺伝学と進化学説のこういった大まかな流れを背景として、1930年頃までの「優生学」の目立った動きを確認してみよう。


イギリスでの動き

元祖ゴルトンは1911年まで生きながらえた。1904年5月16日に、彼は新しく設立された「社会学協会」の招きによりロンドンで「優生学、その定義、射程、および目的」という題の講演を行なったが、これには多くの名士(例えば、作家のH. G. ウェルズ)を含む聴衆が多数集まった。講演後の討論には、論文だけの参加により、作家のジョージ・バーナード・ショーや、イギリスにおけるメンデル学派のウィリアム・ベーツソンも名を連ねている(Forrest 1974, 254)。ゴルトンは、残りの数年間にこういった啓蒙活動に力をさくことになる。ゴルトン自身の考えは昔とほとんど変わらないのに、人々の反応が変わったのである(Kevles 1985, 57)。加えて、ゴルトンは私財を提供して、生物測定学や優生学関係の研究を後押しした。1904年に、彼はロンドン大学に「国民優生学」研究のためのフェローシップを設立した。その趣旨は、「社会的管理のもとで、将来の世代の人種的性質を、肉体的あるいは精神的な側面で改善または改悪する作用因の研究」(Pearson 1914-1930, IIIa, 222)である。この研究員は「優生学記録局」を開いて王立協会会員の家系図などを集め始めたが、長続きせず、結局ゴルトンはこれを改めて「ゴルトン国民優生学研究所」とし、ピアーソンを所長に任命した。それだけでなく、1911年にゴルトンが亡くなったときには、遺言により、45000ポンドがロンドン大学に寄付された。この基金を活用して、「ゴルトン優生学講座」が新設され、ピアーソンがその地位につく。また、応用統計学科も新設され、生物測定研究所と国民優生学研究所もこの新学科のもとに移管された。ピアーソンはこの新学科の主任もかねることとなった(Kevles 1985, 37-8)。

かくして、ゴルトンなき後、優生学研究を引き継いだのはピアーソンである。われわれは、科学者の倫理に着目しているので、作家のウェルズやショーなどは無視し、科学者、とくに遺伝や進化の分野での専門家の優生学に対する反応に着目したい。そこで、まず取り上げなければならないのは、カール・ピアーソンだろう。


ピアーソン

ピアーソン(1857-1936)は、社会主義の理想から優生学に至った。しかし、その社会主義とは、国家が対外的にほかの国家に対して強くあるためには、経済的な体制だけでなく、すぐれた資質の国民を育てて国家の内部で強さを蓄えなければならない、といったタイプの社会主義である(Kevles 1985, 23, 32)。これは、優れた資質の人々が国家の中で重要な役割を果たすべきだという、実力主義の「社会主義」であり、国家の効率を重視し、平等主義には向かわない。こういった政治的あるいは倫理的信条(イデオロギー)に、「優れた資質」(肉体的および精神的)には遺伝的基盤が大きく関わっているという「科学的知見」が加われば、ゴルトンが考えたような優生学に向かうのは早い。また、一国の人口の動態、つまり、世代が進むごとにどういったクラスの人口が増え、どこが減るかという統計的データも、ピアーソンの見るところ「危険な」兆候を示すものだった。デンマークの統計データによれば、各世代の1/2 は前の世代の結婚した人々の1/4 からの子供である。しかも、この多産な1/4 は、成人全人口の1/6 から1/8 しか占めていない。さらに悪いことに、彼らのうちには不釣り合いなほど多く「不適者」が含まれている、とピアーソンは見る(Kevles 1985, 33)。これら多産な「不適者」の性質が、ピアーソンのイデオロギーからして好ましくないものであれば、何世代かの後には、国家の中に好ましくない「不適者」が広がり、国家の力は衰えて他国との競争に負けることになる。こういった懸念は、すでにダーウィンが(彼の場合は、おそらく、生物学的見地から)表明していた懸念、「ダーウィンの危惧」と同種のものであり、イデオロギーに基づく価値判断が加わって具体性が増している。しかし、すでに前章のゴルトンのところでの分析で示したように、こういった推論に含まれる価値判断(あるいはイデオロギー)の部分と、科学的な探求で(原理的に)白黒のつく部分とを分離することは難しくはない。

写真 ピアーソンによるゴルトンの伝記(ゴルトンに大きな恩義があるピアーソンは、十数年を費やして大部の伝記を書き上げた。内井惣七撮影)

例えば、ゴルトン自身が「人種改良」のプログラムにとって重大な難点と考えた「回帰」の法則(平均以上の親からの子の平均は、親の平均ではなく全集団の平均に近づく)について、ピアーソンは別の解釈に思い至った。新しい世代の平均が回帰する中心は、遠い祖先の平均値ではなく、すぐ前の世代全体の平均値であるかもしれない。そうすると、数世代にわたる人為淘汰によって集団全体の平均値を動かすことも十分に可能ではないか。この「改訂法則」を、ピアーソンは統計的な分析と経験的データによって擁護しようとした(Kevles 1985, 30-1)。こういった部分は「科学的」な部分であり、事実ほかの学者から不備を「科学的に」批判されるところである。目を向けるデータの種類、選び方にイデオロギーが作用することはあり得るが、得られたデータが問題の「改訂法則」の確証例となるか否かはイデオロギーとは独立である。したがって、ピアーソンが彼の「改訂法則」が有望だと考え、それに基づいて優生学の新しい展望が開けたと判断したなら、そこは「科学者としての」判断に収まる。その判断が、当時の基準、あるいは歴史家の基準で見て妥当かどうかは別問題である。ピアーソンが統計的相関やその他について重要な貢献をしたことは間違いがないが、いま紹介したような特定の研究については、分析の道具立てや伏せられた前提に多く問題を抱えていたことは、歴史家だけでなく同僚からも批判があった。当時、例えば「知能」を量的な尺度で測る方法などはまだなかったので、ピアーソンはその方向に向けて新しい試みの一歩を踏み出したにすぎなかったのである。 

ただし、ピアーソンの名誉のために述べておかなければならないことがある。彼は学問、研究の人だった。彼は、自分には立法や政策を進めるための知識もないし責任もない、自分の主要な目的は、健全な優生政策が基礎とすべき理論(とくに、氏と育ちの相対的な重みに関して)を科学的に探求することだ、と公言し、(動機はともかくとして)それを実行した。1907年にイギリスで「優生教育協会」ができたときも、ゴルトンは会員になったがピアーソンは拒絶し、政治活動にも参加しなかったし、自分の研究成果や専門知識を優生立法のために提供することも拒否した(Kevles 1985, 34, 104)。好意的に言えば、これがピアーソン流の「科学者としてのケジメ」だったのだろう。

参考のために、歴史家ケヴレースの評価も引用しておく。

ピアーソンの学科が生み出したものは、健全な統計科学と、人間の遺伝についての通例偏った研究との混合物だった。しかし、二十世紀の早い時期において、そこは優生学的研究のイギリスにおける唯一の機関であり、正統的な優生学の主要な源泉であり、イギリスにおけるすべての優生的論議が参照すべき科学的な基準点だったのである。(Kevles 1985, 40)


フィッシャー

ロナルド・フィッシャー(1890-1962)はすでに名前のでた「集団遺伝学」の生みの親の一人である。彼はピアーソンの退職後、ゴルトン優生学講座の後任となる。応用統計学の方はピアーソンの息子エゴンと、ポーランド出身のイェルジ・ネイマンが引き継ぐが、両陣営の険悪な関係は果てしなく続く。というのも、親のピアーソンとフィッシャーは、1919年頃から不和となり始めたが、ついに1922年に「全面戦争」に突入していたので、(ほかにも理由があろうが)それが子の世代にまで引き継がれたのである。それはともかくとして、フィッシャーも筋金入りの優生主義者だった。フィッシャーの科学的研究をこの点だけに絞って論じるのは明らかに不当なのだが、スペースの都合でやむをえない。どういう動機で彼は優生学を支持したのだろうか。これは、わたしが自前で調べた事例なので、二次文献にはあまり依存しないで分析できる。

フィッシャーの主著の一つである『自然淘汰の遺伝理論』(1930、第二版1958)は進化生物学の古典であるが、その後半、8-12章は人間社会の考察に当てられている。その8章の最初の方に「文明の衰退」という節があり、次のように始まる。

ギリシア・ローマやイスラムの文明といった歴史的事例だけでなく、それに先立つことがわかっている先史時代の事例も含めると、文明の衰退と没落の例は、社会学者にとって、一つの非常に特別ではっきりとした問題を鋭く突きつける。鋭くといったが、実際、この問題は人間社会の本性と働きを理解しようとするためのいかなる試みに対しても挑戦状を突きつけるように見える。(Fisher 1958, 198)

これは生物学と無関係ではないかと思う読者が多いかもしれないが、フィッシャーはこれを遺伝と進化の話にもっていくのである。

以下の三つの章では次のことを調べる。第一に、人間の繁殖力における変異の大きさと遺伝可能性に関わる客観的な証拠を調べる。第二に、繁殖力が社会的な階層と関係しているという広い証拠の一部を考察する。そして最後に、この関係がどのような淘汰過程によって確立されたかについて、一つの説を提示する。この説によれば、破壊的な結果は管理不可能ではないことがわかるであろう。(Fisher 1958, 205)

この予告を見れば、フィッシャーがゴルトンやピアーソンらと同様、「ダーウィンの危惧」に基づいた発想を共有していることが推察されよう。そして、次の章ではその「客観的証拠」(統計的データ)が提示され、次のように結論される。

検討された証拠によれば、次のことにはほとんど疑いがない。文明化された人間において最も強力な淘汰作用因は、出生率を通じて精神的および道徳的性質に対して働いている作用因である。この作用因は、また、ほかの種においては類例を見いだすのが困難なほどの強度で人間において働いている。(Fisher 1958, 228)

この、やや抽象的な記述だけではわかりにくいかもしれないが、その次の章で社会的階層と出生率の関係を調べるところで、フィッシャーのメッセージははっきりとしてくる。社会における職業の違いは、経済的な収入の違いに反映される。これが生物学的になぜ重要かといえば、階層の違いが結婚に大きな影響を及ぼすからである、とフィッシャーは言う(Fisher 1958, 229, 245)。そこで、フィッシャーの危惧は、宿敵ピアーソンとほぼ同じところに収斂する(しかし、ピアーソンの名前は出てこない)。

異なった観点から行なわれた数多くの研究が示すところによれば、データが得られたすべての文明国において、より豊かな階層よりも貧しい階層において出生率がはるかに高く、しかもこの差違は近年になるほど大きくなりつつある。(Fisher 1958, 245)

この傾向は、高学歴層だけで現れるのではなく、もっと細かく分類して、医者や弁護士といった高い階層の職業でも、半熟練職人や、熟練を要しない労働者の階層でも等しく見られる、とフィッシャーは言う(Fisher 1958, 245)。かくして、次のような結論に到達する。

社会における人間の生き残りにおいて出生率は最も大きな要因であるから、出生率の逆転した社会においては、生存闘争における成功は、人間的努力の成功に逆比例する。淘汰を生き残り、将来の世代の先祖となる人間のタイプは、彼が属する社会に対して有益な奉仕を行なったことについて称賛され報奨される公算が最も小さいタイプである。(Fisher 1958, 246)

フィッシャーは、ピアーソンと違って優生主義を実践した。彼の『自然淘汰の遺伝理論』では、誰に対して献辞が贈られているかご存じだろうか。レナード・ダーウィン、チャールズ・ダーウィンの四男、優生教育協会の会長を1911年から28年まで務めた人物である。フィッシャーは、ダーウィンと持ちつ持たれつで優生運動に肩入れした。個人生活でも、妻を優生的考察に基づいて選び、財政的な困難にも関わらず子供を8人もうけた(Kevles 1985, 180; Ruse 1996, 298)。

もちろん、われわれの関心はフィッシャーの個人的な信条ではなく、「科学者としての」言動である。われわれは、「後知恵」によって彼に対して著しく有利な立場から検討しているので、彼に対して不当に厳しい評価を下さないように自制しなければならない。しかし、前述のフィッシャーの筋書きを見て、直ちに感じる疑問は、遺伝的資質、社会的階層、出生率の間の関係があまりにストレートに、(フィッシャーの主張に)都合よくできすぎているということである。ピアーソンでさえ言及した「氏か育ちか」のバランスの探求は、ほとんど消えたに等しい。第9章と10章で示された「客観的証拠」は、まさしく期待はずれに少ない(信用できないと言う読者は、ぜひ原典に当たって自分の目で確かめられたい)。したがって、名著の一つに数えられる『自然淘汰の遺伝理論』といえども、この部分に関しては、フィッシャーは「知的誠実さ」の義務をおろそかにしているというのがわたしの印象である。仮にフィッシャーの優生的理想を認めたとしても、これだけの証拠と推論では、結婚や生殖に関して社会的あるいは国家的な管理(家族手当などを介して)を正当化するにはあまりに不十分だと言わざるをえない。


アメリカでの動き

アメリカ合衆国での優生学は、イギリスに比べてはるかに大きな社会的影響をもたらした。しかし、この動きの中心となった人物は、「科学者」としてピアーソンやフィッシャーに比肩できるような業績はない、二流の科学者だった。その人物は、チャールズ・ダヴェンポート(1866-1944)である。彼はハーヴァードを出た後、シカゴ大学で教職につき、イギリスを訪れてゴルトンやピアーソンらとも会っている。彼がアメリカ優生学において重要な地位についていくのは、1904年以後である。おそらく、オーガナイザーとしての能力に恵まれていた彼は、カーネギー財団を説得して、コールド・スプリングハーバーに生物学研究施設をつくった。彼が使える予算は、ピアーソンの予算の二倍以上もあったのである(Kevles 1985, 45)。加えて、彼は、1910年には別の金持ちを説得して、すぐ近くに優生記録局を設立することにも成功した(1918年には、この全施設はカーネギー財団に寄贈される)。ここで養成された調査員を使って、病院を始め各所の施設や機関において人々の「形質調査」が行なわれ、膨大なデータが記録局に集められていくのである。こういったデータが、イギリスのピアーソンらが集めたデータとともに、英米の優生運動のための「権威ある」情報源となるのである(Kevles 1985, 56)。

知能テスト

もう一つ忘れてならないのが、「知能テスト」のアメリカへの導入である。知能を量的に測るための試験法が初めて開発されたはフランスである。1904年に「ビネ-シモン」テストが現れたが、これをヘンリー・ゴダードが1908年にアメリカに導入した。このテストでは、被験者の得点結果により「精神年齢」が判定できる仕組みになっている。ゴダードが自分の務める施設でテストを実施した結果は上々だった。施設職員が児童と日頃接触して得た感触とよく一致したのである。ゴダードは、ダヴェンポートにも相談し、優生記録局のデータも活用して、「精神薄弱」に関する研究を出版し、当時の研究者やその分野の専門家に大きな影響を及ぼした。後に、ビネ−シモン・テストはターマンによって改訂され(1916年)、「スタンフォード・ビネ」テストとして普及する。これで、知恵遅れの児童だけでなく、正常児や高知能児にまで適用できる「知能指数、IQ」という概念が導入されるのである。こういった知能テストの普及を著しく促進したのは、第一次大戦の勃発だった。時代はさかのぼるが、原爆やコンピュータの開発とよく似た経緯であることが興味を引く。心理学者のロバート・ヤーキーズの指揮のもと、徴兵された若者の適性を測るために、二種類のテスト(英語を読み書きできる者用と、それ以外の者用)が開発され、戦争が終わるまでに実に百七十万人に対しテストが実施された(これも軍の機密扱い)のである。戦後、このテスト結果を分析したアメリカ科学アカデミーの研究書(執筆陣はヤーキーズらのチーム)によって、平均的な白人兵士の精神年齢は十三歳、平均的な黒人兵士の精神年齢は十歳という衝撃的な結果が公表された(以上、Kevles 1985, 137-146)。

以上の結果を、当時流行しつつあった優生思想の文脈で解釈するとどうなるだろうか。またしても「ダーウィンの危惧」の再現であり、今度は知能指数という、ゴルトンが求めて果たせなかった量的な指標で裏づけられた「民族の衰退」である。大まかではあっても、被験者の出身階層や、人種、教育レベルによった分類ごとの分析結果も含まれるので、データの質、量ともに、フィッシャーの「客観的証拠」の比ではないと見なされるであろう。しかし、もちろん、後知恵をつけたわれわれには、決定的な不備が指摘できる。すなわち、テストのデータが示す事実は一つの話、そのデータの解釈によって「遺伝」や「教育」の貢献度を判定するのはまた別の話、ということになる。加えて、テストが正確には「何を」測っているのかについても、一義的な答えを得るのは難しいのである。したがって、1920年代から30年代にかけて、優生学的な立場での解釈を手厳しく批判する見解が出てきたのも当然だったのである。

優生立法 

さて、アメリカで目立った動きとなるのは、移民を制限する法律(これは連邦政府の権限)と「断種法」(こちらは州の権限)の制定に当たって、優生主義者が大きな役割を果たしたことである。いずれの場合も、ダヴェンポートの優生記録局の調査結果や、調査員たちがかんでいる。例えば、1910年にダヴェンポートの片腕となったハリー・ローリンは、1920年から1924年にかけて、移民制限の緊急時限法や移民制限法の制定に当たって大きな役割を果たした。問題は、彼が自分の偏見に「科学」の権威をまとわせたり、事実を歪曲したことである(彼は、東ヨーロッパ、南ヨーロッパからの移民に対して偏見を持っていた)。また、ダヴェンポートも、表向きは政策と関わることを避ける姿勢を公言したが、ローリンのような活動を黙認した(Kevles 1985, 176-182)。ピアーソンの断固とした態度とは対照的である。「断種法」について言えば、1907年にインディアナ州で最初に制定されて以後、1917年にかけてほかの十五州で制定された。

こういった動き、および同じようなことを目指そうとしたイギリスでの動きに対しては、イギリスの優生学者からも反対が出されたことを注意しておくべきである。ピアーソンをはじめ、優生学記録局の研究員を務めたこともあるエドガー・シュスター、メンデル学派のベーツソンなども、ダヴェンポートのデータの信頼性を疑問視したり、人間の遺伝に関する知識はまだ初歩的な段階にしかないので「性急で思慮に欠ける」、あるいは「中途半端な知識による介入」によって目的が達せられるはずはない、という趣旨の反対を繰り広げた(Kevles 1985, 105-6)。これは、「科学者」としては当然の主張であり、倫理的にもまっとうであろう。


優生学と科学者の責任

優生学と科学の倫理との関係については前章で一応の分析を示しておいたが、二十世紀の英米での優生学の動きを見ても、とくに変更するところはなさそうである。「優生学」と同じ名前でくくっても、主流派から反主流派、生物測定学派からメンデル学派、保守派から急進派、社会主義の様々な立場、産児制限運動とのからみ(例えば、有名なマーガレット・サンガー夫人)などがあって、なかなか一筋縄ではいかないことを認識しなければならない。専門的「科学者」に的を絞ってさえ、「ダーウィンの危惧」をどのように「社会的に」具体化してとらえるかによって、スタンスが変わってくる。そこが、まさに、科学外の価値判断、イデオロギー、国や時代の偏見が大きく作用するところである。

これは、英米だけの事情ではない。本書では立ち入らなかったが、ドイツの優生学、あるいは「民族衛生学」についても同じことが言える。ナチスに取り入れられた民族衛生学だけを見ていると、優生学の本質を見誤るおそれがあることは、すでに何人かの歴史家によって指摘されているが、ナチス以前のドイツの事情を丹念に調べたシーラ・ウェイスの最近の研究(1987、1998)も、わたしとほぼ同じ論点を指摘している。ゴルトンより少し後に、しかし独立に、ドイツで優生思想を提唱したのはヴィルヘルム・シャルマイヤー(1857-1919)であり、アルフレート・プレッツ(1860-1940)がこれに続く。彼らも、わたしが「ダーウィンの危惧」と名づけたものを共有する(ウェイス1998, 40, 47)。しかし、これに「反ユダヤ主義」が結びつくのはかなり後のことである(ウェイス1998, 44、104-109)。シャルマイヤーも、初期のプレッツも反ユダヤ主義ではなかった。ホロコーストに至るナチスの民族衛生学を非難するのはやさしいが、それだけで優生学の諸問題は片づいたと考えるのは早計である。結局、「ダーウィンの危惧」にさかのぼって、もっと広く問題を洗い直す必要があるのである。

それを確認した上で、再び英米の話に戻ろう。この時代、「科学者の社会的責任」が明確に意識されていたわけではない。しかし、以上、二次文献に依拠しつつざっと概観しただけでも、「優生立法」など、社会的な実害がもたらされる事態に対しては、科学者は、「科学者」として、それなりの行動はとってきたことが明らかである。いわゆる「良心的な」科学者と、そうでない科学者とを区別するためには、彼らの個人的な主義主張とは独立の「科学者の倫理」の基準が有効なのである。それ以外の、彼らのイデオロギーや社会的価値判断については、前章のゴルトン批判のところで示したように、「危害原則」のような倫理的原則と、彼らの理想や社会政策を推し進めた場合に何が生じるかという予測に基づいて、是非を判定しなければならない。この「予測」の部分で科学者が果たすべき役割は大きい。当然のことながら、「科学の倫理」や「科学者の倫理」だけでは、アウシュヴィッツ、ビルケナウ(第二アウシュヴィツ、大規模殺戮が行なわれたのはこちら)のような悲劇は防げない。当然、問題をもっと広い倫理の土俵にのせなければならないが、それは前章の終わりですでに論じた。原爆や水爆の場合と同じように、こういった事態に対する責任を科学者だけにかぶせようとするのは筋違いであるが、科学と政治が妙な形で結合した場合には何が起こりうるかを予見した、トマス・ヘンリー・ハクスリーの慧眼には敬意を表しておかなければならない。

写真 ビルケナウのバラックとその内部 (内井惣七撮影)

要約


(1) As regards Karl Pearson, visit this site, which is maintained by the department Karl Pearson founded: http://www.ucl.ac.uk/Stats/index.html. Also my page on Pearson, http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~suchii/pearson.bio.html

(2) For Fisher's view, see Fisher on Human Fertility.

(3) For Davenport and world-wide circumstances until 1930, see Eugenics timeline.


参考文献

安藤洋美(1989)『統計学けんか物語』、海鳴社。

米本昌平(1989)『遺伝管理社会』、弘文堂。

アダムズ、M. B. 編 (1998)『比較「優生学」史』(佐藤雅彦訳)、現代書館。

ウェイス、S. F. (1998)「ドイツにおける『民族衛生学』運動」、アダムズ(1998)所収。

Fisher, R. A. (1958) The Genetical Theory of Natural Selection, 2nd ed., Dover. 1st ed., 1930, Oxford.

Forrest, D. W. (1974) Francis Galton, Taplinger Publishing Co.

Kevles, D. J. (1985) In the Name of Eugenics, University of California Press. 邦訳(1993)『優生学の名のもとに』(西俣総平訳)朝日新聞社。

Pearson, Karl (1914-1930) The Life, Letters and Labours of Francis Galton, 3vols., Cambridge University Press.

Ruse, M. (1996) Monad to Man, Harvard University Press.

Weiss, Sheila F. (1987) Race Hygiene and National Efficiency, University of California Press.  

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