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Discoveries and Inventions---Priority Matters

発見と発明──先取権

[これは、『科学の倫理学』(丸善、2002年4月)の一部原稿である。引用はウェッブ版ではなく前記の本よりされたい。]


1. 発見と発明──先取権

科学的発見、あるいは科学上の顕著な業績として有名なものをいくつか思い起こしてみよう。コペルニクスの太陽中心説(いわゆる地動説)、ガリレオの自由落下の法則、惑星運動に関するケプラーの法則(一つではなく三つ)、ニュートンの運動法則(これも三つ)と万有引力の法則など、古典的な業績には多く発見者の固有名がついていることがわかる。二十世紀の新しい業績を見ても同じようなことにすぐに気がつく。すなわち、プランクの量子仮説、アインシュタインの特殊相対論と一般相対論、ボーアの原子モデル、シュレーディンガーの波動方程式、ハイゼンベルクの不確定性原理、湯川秀樹の中間子論と、これまた固有名のオンパレードとなる。物理学だけではない。生物学では、ダーウィン(とウォレス)の自然淘汰説、メンデルの遺伝の法則、分子生物学のDNAとくれば、ワトスンとクリック(二重らせん構造の発見)というように、科学的業績はほとんどすべて固有名とのつながりで語られる。

本書では、スペースの関係上、技術の問題にはできるだけ立ち入らないようにしたいのだが、科学的業績と固有名とのつながりという点については、発明との強力なアナロジーがあることにすぐに気づく。ジェームズ・ワットの蒸気機関(1765年)、トマス・エジソンの蓄音機(1877年)、白熱電球(1879年)、ライト兄弟の飛行機(1903年)といった発明についても固有名がつくだけでなく、ものによっては莫大な特許料という経済的な利得が法的に認可される。したがって、技術的発明の分野では、この経済的利得の帰属をめぐって激しい争いが生じることも珍しくない。例えば、現代生活ではすでに必需品になりつつあるパソコンのルーツは1943年から開発が始まったディジタル・コンピュータENIACにさかのぼるが、これの設計の基本的なアイデアについては、後に学問的な先取権の争いとともに、特許権をめぐって大規模な法的係争が行われた(例えば、Burks and Burks 1988、モレンホフ1994、マッカートニー2001を参照)。この話は、科学的発見と技術的発明の両方に関係があるので、ごく簡単に紹介してみよう。

ENIACの特許係争

ディジタル・コンピュータのルーツについては、アメリカ、イギリス、ドイツなどにいくつかの候補があるが、もっとも有名なのは第二次大戦中にアメリカのペンシルヴェニア大学で開発されたENIACと呼ばれるマシンである。これは、陸軍の弾道研究所がスポンサーとなって、大砲の弾の弾道計算を早く行なう目的で開発が始まった。もちろん、機械式の計算機はすでに存在していたが、それは歯車を使ったものであり、真空管やダイオード(現代では集積回路)などを使った電子式の計算機でなかった。電子式の計算機の発明に当たっては、(1)計算原理の発見と(2)その原理を技術として実現するという、二側面を区別する必要がある。以下の議論に関わりがある限りで(1)の内容を述べておくなら、「自動、電子式、ディジタル式の計算機」ということである(後の裁判では、これらのキーワードに即した判断が示された)。「原理」というのは、情報を自動的に処理し、電子的なスイッチやメモリによって離散的な信号を処理して、最終的には計算に相当する結果を出すという機械を、どういうアイデアの組み合わせで実現するかというデザインに関わる。そのデザインを物理的に実現するには、技術的な選択肢は一義的とは限らないので、また別の発明が入りうる余地が十分にあるのである。これが(2)である。先に触れた特許係争がアメリカで始まるまでは、(1)(2)いずれについても、先取権はENIAC開発チーム、なかでもリーダーだったジョン・モークリーとプレスパー・エッカートにあると広く見なされていた。事実、ENIAC関係の特許は彼ら二人が取得していた。後に、特許権はスペリー・ランド社が買い取ったので、他社がこの特許を使うためには、スペリー・ランドに莫大な使用料を払わなければならなかった。

しかし、1960年代後半から70年代初めにかけて、ハニウェル社がスペリー・ランド社を相手どり特許無効を申し立てた裁判の中で明らかになっていったのは、前述二つの側面のいずれについても、モークリーはジョン・ヴィンセント・アタナソフがアイオワ州立大学で行なった先行研究(1939-1942)に負うところが大だったという事実である。モークリーは、1941年6月中頃にアイオワを訪ねて一週間近くアタナソフの家に滞在し、完成間近かのアタナソフのマシンをつぶさに調べていた。ENIACの開発が始まったのは1943年である。両者とも裁判では証人として出廷したが、アイマイな証言を繰り返すモークリーに対し、アタナソフは鮮明な記憶と彼の高い知的能力を示し、反対尋問を執拗に行なったスペリー・ランド側の弁護士も、アタナソフの信頼性を突き崩すことができなかった。裁判の結果は、(1)の計算機の原理についてはモークリーがアタナソフから受け継いだ(derived)と認め((2)については専門的になるので、Burks & Burks 1988, 236-255、星野1995、135-141 を参照されたい)、ENIAC の特許は無効とされた(詳しくは、モレンホフ1994、17-20章、および判決文の重要な部分が引用されているBurks & Burks 1988, ch. 4 を参照)。

写真 ENIAC 関係の本

計算機の歴史については、いろいろな立場がありうるので、一言だけ注意を加えておきたい。発見についても、発明についても、「どういう条件がそろったなら、しかじかの発見、あるいは発明をしたという十分条件になるか」という定義をしてから議論をしたいという誘惑は大きい(このアプローチを、計算機の歴史を見るときにはっきりと宣言するのは星野1995である)。しかし、歴史的な事例を、当時の文脈を考慮しつつ調べるときには、このアプローチはうまくいかないことが多い。なぜなら、当の「十分条件」の規定自体が、はるか後の時代の「後知恵」によって提供されていることがほとんどだからである。そこに「歴史家」の苦労があり、基準の取り方でまたもめることになる(例えば、ガリレオ、ニュートン、あるいはもっと近いアインシュタインの研究でもこういった苦労があることは、科学史家の間では常識である)。そこで、発明に関わる「革新」的技術の追加と、比較的明瞭に分離できる(1)の原理の発見とを分けて論じたのが、わたしの前述の結論である。(2)の如何に関わらず、また適切に定義された意味(論者によって異なる)での「最初のコンピュータ」が何であるかに関わらず、(1)についてのモークリーの言動が科学の倫理にもとるものであったことは、裁判の過程で明らかになった諸事実に照らして疑問の余地がない(この点から言うと、モークリーらの名誉回復を論じたマッカートニー2001には、倫理的視点が欠如している。また、あまりにモークリー、エッカートよりの姿勢が露骨で、かえって説得力に乏しい。読者には、彼が略式の議論で退けたBurks & Burks 1988と読み比べてから判断してもらいたいものだ)。

EDVACをめぐる争い

ただし、モークリーとエッカートに対して公平であるためには、ENIAC開発の終わり頃から始まった「プログラム内蔵方式」のコンピュータ、EDVACについての先取権をめぐる争いについても言及しておかなければならない。この方式のコンピュータは、現在では「フォン・ノイマン型」とも呼ばれ、今日のコンピュータの基本構造もこれに従う。これについての争いは、フォン・ノイマンが「EDVACに関する報告書──一次草稿」(謄写刷り、1945)を書き、これが評判を呼んで広く流布したことから生じる。この文書により、フォン・ノイマンは「現代コンピュータの父」と広く見なされることになるが、モークリーとエッカートの言い分は、「基本的なアイデアはわれわれ二人のものだったのに、フォン・ノイマンがそれをより一般的な言葉に翻訳して整理しただけだ」ということになる(これについては、アスプレイ1995、37-44、星野1995、104-112、マッカートニー2001、132-141を参照)。これについてはここでは立ち入らないが、EDVAC についての議論がグループで行なわれていたことは事実であろう。仮に、モークリーとエッカートの言い分が全面的に正しいとしても、モークリーにとっては、自分がかつてアタナソフに対してとったと同じような仕打ちを、今度は自分が受けることになったのだ、と言わざるをえない。

科学における先取権

科学的業績については、経済的利得が発明のように直結はせず、むしろ「名声」とか「名誉」のような形で報われるのが普通なので、これほど露骨な争いになることはまれである。それでも科学的発見の先取権をめぐって争いが生じることは、科学の歴史をみても珍しいことではない。いずれにせよ、はっきりとわかることは、発見にせよ発明にせよ、そこで支配的な規則は「自由競争」だということである。知識にせよ発明にせよ、一度わかったものはすぐに他人がまねできる。したがって、権利を与えるとすれば「一番乗り」の者に与えるしかなかろう、というのが「先取権」の論理である。

「先取権」とは、簡単にいえば、問題の「もの」を最初に見つけた(発見あるいは発明した)人にその「もの」に対する権利が認められるという、一種の所有権である。こういった考え方は、近世の社会思想ではヒュームの著作で明瞭に述べられているが、彼のオリジナルというわけではなく、むしろ、すでに長年にわたって広く認められていた社会的慣行を、所有の理論としてはっきりと述べたものであろう。ヒュームによれば、所有を決定する規則は五つあるのだが、その第二が「まだ誰にも帰属しないものは、最初にそれを見つけて占有した者の所有物である」という規則である。もちろん、彼にとって所有の規則は社会にとって有益な結果をもたらすためのものだから、その枠の中で「第一発見者の所有権」が認められる、という制限があることは言うまでもない。また、時代的にはヒュームに先立つロックは、所有権を成り立たせるための本質的条件は、個人が加えた労働にあると見なした。例えば、森に木の実を探しに出かけた人が見つけてもって帰ってきた栗の実には、その人が費やした労働が加わっているのでその人の所有物となるのだ、という考え方である(以上、内井1988、2-3章を参照)。科学的業績の場合には、通常熱心な研究活動(知的労働)の結果として得られることが多いので、このロック流の考え方も「先取権」の基盤として援用できるであろうし、現にいろいろな科学賞の選考で考慮に入れられていることは間違いがない。他人が苦労して編み出したアイデアを、安直に盗用して発表しただけでは、いくら一番乗りを果たしても「先取権」は認められない。「自由競争」とはいえ、一定のルールが支配すべき競争である。それが、「倫理」が言われるゆえんである。

以上のような考え方は、現代社会においてもおおむね踏襲されている。例えば、「知的所有権」と総称される権利が世界的に認められており、それには一定の法的な保護が与えられている。著作権、特許、意匠登録などを含むこの権利についても、基本は「誰が最初に考え出したか」という条件である。ただし、「最初に」というための基準は、法的手続きに従った登録や認可の日時であり、その「もの」がいつ発表されたか、考えつかれたかという事実上の日時ではないことが多い(しかし、事実上誰が先に発明したかという基準をとる考え方もある)。さらに、知的所有権関係の法律は、産業や商業の領域で使われるものだから、とくに「科学的業績」を念頭においたものではなく、著作物や発明を一般的に対象としたものになっていることは言うまでもない。しかし、科学的業績については(すぐに触れるように)学界や専門家による別種の認知が前提されるとはいえ、業績についての「先取権」が重要であると見なされる点では、知的所有権の考え方ときわめて親近性が強いのである。したがって、科学をめぐる倫理問題の一つの重要な源は、この「先取権」にあることは間違いがない。

では、科学の世界において、発見や業績の「先取権」を獲得するためにはどうすればよいのだろうか。現代でもっとも標準的なのは、「名のある」ジャーナルに論文を投稿し、レフェリーの査読を経て掲載してもらうという方策である。このようにして掲載された論文が、同じ分野の専門家によって注目され、優れた業績だと一般的に認められて頻繁に引用されるようになると、その著者はその分野における「名のある」研究者として認知されたことになる。これが、先に触れた「学界や専門家による認知」の典型的な方法である。しかし、近代科学の形成期にはこのような方法は確立していなかった。そもそも、科学ジャーナル自体がきわめて数少なかったからである。例えば、イギリスで王立協会(Royal Society)ができたのは1660年であり、この協会の雑誌(Philosophical Transactions)が発行され始めるのは1665年のことである。これは、ちょうどニュートンが科学の業績をあげ始める時期と一致する。そこで、そういった時代の「先取権争い」をいくつか見ておくことは、科学の倫理を考えるためにもきわめて興味深い材料を提供してくれるであろう。しかし、もちろん、「学界や専門家による認知」が確立した後でも、現代に至るまで先取権争いは絶えるどころか激化する一方である(これは当然であり、必ずしも悪いわけではない)。したがって、表向きの「美談」の影にも先取権争いの底流がある。そういった事例も見ておく必要がある。


要約


 

(1)先取権の問題をもう少し掘り下げて考えるためには、「所有権」とは何か、考えてみなければならない。この問題は、近世哲学の倫理学や法哲学の領域で扱われた。ロック、ヒューム、カントなどは最低限当たってみなければならない。参考文献の内井(1988)およびそこで扱っている文献をみよ。

(2)コンピュータの草分け時代の話も、調べ始めるとなかなか一筋縄ではいかないことがわかる。星野(1995)の立場は明快だが、彼のいう「アーキテクチャ」を基準と見なす立場も、歴史家の合意が必ずしも得られるわけではない。「メモリ方式やスイッチなどの<ハードウエア>の可能性が見えてなければアーキテクチャも考えようがないではないか」という立論も可能だからである。マッカートニーは、こういった基本的なところに目を向けないで、多くの「証言」を引用するという脆弱な方法を多用するので頼りにならないということ。調べてみるなら、Burks & Burks (1988)、星野(1995)あたりから始めてみるべし。

(3)科学の業績を認定する場合に、従来のような「個人主義」(固有名とのつながりを重視する)でよいのかという問題提起がなされている。いわゆるビッグ・サイエンスでは、チームによる研究体制がとられる。このような場合、研究成果の栄誉は誰に帰属させるべきか?科学論文の著者欄に多数の名前が並ぶとき、その業績の「所有者」は?ENIACチーム(10人を超える)の場合、すでにこの問題が生じていた。


参考文献

アシモフ、I. (1992)『科学と発見の年表』(小山慶太・輪湖博訳)、丸善。

アスプレイ、W. (1995)『ノイマンとコンピュータの起源』(杉山滋郎・吉田晴代訳)、産業図書。

プラット、R. (1995)『発明の歴史』(赤木昭夫監修)、学研。

星野力(1995)『誰がどうやってコンピュータを創ったのか』共立出版。

マッカートニー、S. (2001)『エニアック』(日暮雅通訳)パーソナルメディア。

内井惣七(1988)、『自由の法則・利害の論理』、ミネルヴァ書房、2章、3章。

Burks, A. W. and Burks, A. R. (1988) The First Electronic Computer, the Atanasoff Story, Univ. of Michigan Press.

Mollenhoff, C. R. (1988) Atanasoff, Iowa State University Press. 邦訳(1994)『ENIAC 神話の崩れた日』(最相力・松本泰男訳)、工業調査会。(この本の書評は次を参照。http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/phisci/Newsletters/newslet_4.html)

Added on Jan. 8, 2004: As regards ENIAC and ABC machine, and also EDVAC, see Alice Rowe Burks' new book, which is rather comprehensive and up to date. This is also exemplary in presenting the evidence on which her claims are based.

Burks, A. R., (2003) Who Invented the Computer? The legal battle that changed computing history, Prometheus Books.

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Last modified, Jan. 8, 2004. (c) Soshichi Uchii.

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