The Ethics of Science

第6章 科学的知識は何のために

知識の価値について、二つの対立する考え方。

(1)外在説 科学的知識は、結局それからもたらされる恩恵のため、あるいはその恩恵が人々によって享受されるので価値がある。知識の価値は、手段としての善である。(ただし、科学研究に携わる人々が知識を得て感じる喜び、一般の人々が新しいことを知って感じる喜びも、科学的知識の「外の」価値である、と見なしていることに注意。)

(2)内在説 科学的知識にはそれ自体として、つまり、それからもたらされる結果や結果の価値とは独立に、価値がある。知識の価値は、ほかのものの価値に還元できない独自の価値である。(この立場は、知識の手段としての価値を否定するわけではない。ただ、それにつきない別の価値を認めるわけである。)


内在説の定式化についてはいくつかの形があり得る。参考のために、私が参照した別人の定式化を二つほど上げておく。

このいわゆる科学的精神の自由は、近代の科学を成立せしめ、進歩させた条件に外ならない。善悪とか、社会的効果不効果とかいう道徳的または社会的な判断や干渉から離れて、もっぱら客観的世界の真理を、真理それ自体のために研究することが、科学者の自由であり、それがまた科学者の責任でもあった。(唐木順三『朴の木』、講談社学術文庫、1977, 41)

・・・一方で科学者は、研究は自らの好奇心や真理探求心によるものであり、それは純粋に知的な活動であることを主張し続けたのである。「価値」という点からみれば、ちょうど19世紀ヨーロッパに「芸術のための芸術」という考え方があったのと同じように、科学的知識には、それ自体に「内在的」な価値が備わっていて、したがって科学というのは、社会的に有用な価値を追求するのではなく、知識を追求することそれ自体が、人間にとって価値がある、という姿勢をとった。別の言い方をすれば、「知識のための知識」こそ科学の姿である、ということになる。(村上陽一郎『科学の現在を問う』、講談社現代新書、2000, 141)


(1)内在説については、例えば数学者などが「私の得たこの美しい定理にはそれ自体で価値があると思う」などと主張し、そのような主張に基づいて内在説の立場を支持するということがあるかもしれない。しかし、このような主張の内実は、「その定理がその数学者にとって価値あるものと見なされる」という数学者の選好の表明であることに注意しよう。「価値」の出所は、その定理やその定理の知識ではなく、数学者の好みの充足にすぎないのかもしれない。つまり、その「独自の価値」の正体は、「数学者が感じる満足」かもしれない。とすると、このような事例は外在説でも説明しうる。こういった問題を突き詰めていくと、結局、「あるものに価値がある」という言明が何を意味するのかという、いわゆるメタ倫理学の問題に帰着する。19世紀の倫理学者シジウィックが論じたように、「知識にそれ自体として独自の価値がある」という立場を擁護するのは、相当に難しい。なぜなら、好奇心が充足されたという「満足感」は、その満足感を引き起こした知識ないし知識の獲得という認知の状態とは違うからである。Henry Sidgwick, The Methods of Ethics, ch. 14 参照。

(2)わたしの『科学の倫理学』60ページでは、価値(いわゆる、目的としての価値も含め)は選好から生じると見なす立場から、ある知識とそれに対する選好とのつながりが「内在的」ではあり得ないという議論を素描した。この見地からすれば、上述の数学者の例は次のように分析できよう。

「この定理Aにはそれ自体で(高い)価値がある」という数学者の言明は、この定理が別の成果を得るために役立つとか、人類の福祉に資するとかいうことを度外視しても、その数学者がその定理を好む(選好)という彼の態度表明である。好み(選好)は種々の選択や行為の基盤となる。例えば、この数学者は、彼の別の定理Bで評価されるよりも、この定理で評価されたほうがうれしいはずである。別の定理より、この定理の引用が頻繁になされた方を喜ぶはずである。仮に、この定理について先取権が問題とされたなら、別の定理の場合よりも激しく動揺するはずである。定理AもBも同様な知識のはずなのに、こういった違いがなぜ生じるのだろうか。二つの定理の「手段としての価値」をすべて差し引いてもこういった違いが残るなら、かの数学者が「定理Aにはそれ自体として価値がある」と言いたくなる気持ちもわかるが、それは彼の選好の表明だと見なすのが最も納得できる。なぜなら、別の数学者がこの定理Aに彼と同じ価値(手段としての価値を度外視して)を付与するかどうかは大いに疑問だからである。かくして、

(a) 同じ数学者が定理AとBの間で「それ自体としての価値」の評価を変えること、また

(b) 同じような認知能力を備えた人々の間で同じ定理A(それ自体としての価値)の評価が異なるのは、

彼らの認知(知識)が同じでも選好が異なるからだと見なすのが最も納得がいく。こういった違いを許容しうるような「内在的価値」を人々の選好と無関係に認めようとするのは、いたずらに事を紛糾させるだけである。


Last modified May 2, 2003. (c) Soshichi Uchii.

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