三等三角点林ヶ谷の柱石

この三角点は国土地理院HPの基準点成果閲覧サービスで検索すると、「柱石亡失」と記述されており、点の記、写真等のデータの入手ができません。
この柱石がいつ頃失われたのかについて、上田倖弘氏の「大和の三角點を尋ねて(下巻)」に情報記述がありますので紹介しておきます。
記事は1997年2月24日に調査し、同年3月31日、奈良新聞に掲載されたもののようです。到達経路や現状は省略して一部を抜粋します。


 『点の記』に「亡失」とあるが年代の記入無し。地形図では、昭和55年6月発行の2万5千まで「△176.7」と載っており、同59年1月から消えている。
(中略)
 集会所南西の鈴木義雄氏(明治44年生)は「三角点の標石は子供の時はあった。私たちは『十』と表面にあるので『十字山』と呼んでいた。20歳前に東大阪電鉄の測量を手伝った折、技師を案内して点へ登ったが、標石はなかった」という。
(後略)


今はこの三角点の点の記閲覧はできませんが、1997年にはできたのですね。
ということで、明治44年(1911年)生まれの方が20歳である1931年(昭和6年)には、既に柱石が失われていたとのことです。それから90年近く、もしかすると100年近くが経過していますが、未だ柱石があったと思われる箇所の穴は健在です。実は上田氏の記述に次のように書かれております。
【・・・ここに柱石があったらしい。落ち葉を掻き出し杖で突くと盤石らしい。】
これを読めば、そりゃ掘りますよね。私も木ぎれでほじくりました。ただし、同ページ最下行に次のようにあります。
【(結局はなかった)。】
私も無いことを確かめました。
というわけで、穴は90年経った今も残っているのです。

 写真ではもう一つわかりにくいですが、はっきりした穴です。

現地へのルートはYAMAPレポを参考にしてください。

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