北倭(きたやまと)村道路元標

 「生駒の古道」P.105にコラムとして、生駒市の道路元標についての記述があります。その中で、現生駒市内に設置された旧3ヶ村の3つの道路元標は【残念ながらいずれの[道路元標]も残っていません。】と記されています。確かに本来の設置場所には全く残されていません。しかし、北倭村大字高山出店橋西詰に設置された道路元標は移設されて現存していました。
 所在地は生駒市高山町4958-2、北倭土地改良区事務所西の武兵衛橋東詰でした。

  後面はすぐ川で撮影距離がとれず形がいびつに写っています。

 発見の経緯は全くの偶然です。高山の石造遺物の所在を調査しているとき、高山狭戸付近から向露寺に向かう必要がありました。どこを通ろうか、どうせならまだ通ったことがない道をと考えて、高山溜池の南を通ることにしました。溜池の西端に放流路(富雄川最上流です)を渡る橋(武兵衛橋)があり、黒添池東から南下する道に合流できるはずでした。これが浅はかな考えだったのですね。この橋は通行不可でゲートが閉まっており、アホでないと進入しない道だったのです。つまりここにたどり着くにはアホであるという資質が必要でした。しかしそれだけでは不十分だったことが後にわかりました。目が節穴である必要もありました。何ともハードルが高い。長く知られていなかったのもむべなるかなです。
 とにかく狭戸から西に進みましょう。「生駒の古道」に記載されている、「高山・伊勢街道」の最初の部分が共通です。坂を登り切ってしばらく西へ進み、道が分かれたら南下するのが伊勢街道ですが、急坂を下らず西へ進みます。生駒市営の「金鵄の杜倭苑」を右に見たら、すぐ道の様子が変わり、その先左手に掲示があります。この掲示を見たら礼儀正しい人は進みませんよね。私も礼儀正しい人なので目に入っていれば進まなかったはずです。ここで、節穴の目が威力を発揮します。私はこれを見逃しました。従って平気で進むことができました。(写真は帰りに撮ったものです。)

 どんどん進むとやがて、北倭土地改良区事務所で、有山武兵衛さん(北倭村の偉人です)の銅像などがあります。さらにすすむと武兵衛橋ですが・・・

  右手の石柱が道路元標です。

 橋の向こうにゲートが見えます。行き止まりでした。ところが橋の右手を見ると、「何かあるで」。近づいてみると、「ウッソーッ・・・」という次第ですが、最初は本物と信じられませんでした。レプリカじゃないかと怪しんだのですが、それならもっと目立つ所に設置するだろう、こんな誰も気づかない所に設置するわけがないと思い直しました。北倭土地改良区事務所にお尋ねすると「レプリカなど作る理由がない」という返事でまさしく本物でした。事情を記述してある資料として有山武兵衛さんの伝記である「有源」を教えていただきました。図書館で借りだして、移設事情の詳細がわかったら追記します。しかし、橋が渡れていたら素通りして見逃していたでしょう。全く何が幸いするかわからないものです。
 ところで、掲示に従えば見に行けないじゃないかという指摘があると思いますが、「御用のない人・車の通行はできません」という掲示でして、道路元標見学は立派な御用です。十手をかざして「御用、御用」といいながらお通り下さい。

追記: 「有源」の記事です。昭和48年(1973)、生駒北中学校本館落成式での講演で、思い出として語っています。中学校敷地決定を巡るエピソードの中の話です。
【・・・川口屋前の道路に中央標識の石が建ってあった。生駒町と北倭村の合併によりこの石は不要となり畑に転がしてあった。無謀な仕打ちに腹が立ったから山本町長に話をして譲り受けて吾家へ持って帰った。】
 この話では北倭村が無くなったから北倭村道路元標が不要になったとしていますが、生駒町と北倭村の合併は昭和32年(1957)です。実は道路元標が不要となるのは昭和27年(1952)の新道路法の施行からで、武兵衛さんの思い違いですが、その結果、元標を自宅に持ち帰った時期が限定されます。武兵衛さんが生駒町長となるのが昭和36年(1961)なので、昭和32年から昭和36年の間、34年か35年でしょうね。
 「有源」にはこれ以上の記述が無いので、有山家から高山溜池畔に移った時期はわかりません。講演でよそへ移した話をしていませんからそれよりは後、昭和49年(1974)に土地改良区事務所が現位置に移り、銅像と武兵衛橋が建設されるので、その時だろうと思いますが、確かなことはわかりません。はっきりしていることは、武兵衛さんの配慮で道路元標が失われずにすんだということです。

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