BIOGRAPHY
シフラの家系を正確に辿ることは不可能であるが、母方の祖母がフランス人である他は、全てハンガリー人またはジプシーの血である事は間違いない。父
Gyula Cziffraはジプシーオーケストラのピアノとツィンバロンのプレーヤーであった。フランスにて(公演旅行で行ったのか?)シフラの母となる女性
Ilonaと出会い結婚。その後、父 Gyulaはパリに住み、パリのキャバレーで演奏して生計を立て、一家は快適なアパートメントで暮らしていた。1912年頃に一人目の娘Yolande誕生。1914年には2人目の娘が生まれる。
ところが、第一次大戦が勃発し、フランス政府は祖国がフランス敵対国である全ての外国人を国外追放とする事を決定。全財産を没収され、ハンガリー人である父
Gyulaは捕まって収容所送り、母 Ilonaはフランスを追放され娘二人と共にブダペストへ向かい、ハンガリー赤十字の世話でブダペスト郊外に住むこととなる。ハンガリーは第一次大戦で敗戦。1920年のトリアノン条約によりハンガリーは国土の実に70%を失い、400万人のハンガリー人が国外に取り残されたという。戦争終了後、父
Gyulaが帰ってくるが、貧困、飢え、失業の中、下の娘を結核で喪う。そんな中でジェルジ(ジョルジュ)・シフラは生まれた。
1921年11月5日、ハンガリーの首都ブダペスト郊外にて生まれる。”それはお役所のミスでね。僕はそれより6年前に生まれたんだ。これは妻のズレイカも知らないんだけどね”などと本人は言っているが・・・。
その後も一家の生活苦は続く。父 Gyulaは仕事を探すが、収容所で身体的にも精神的にも健康を害しており、うまくいかない。
母 Ilonaが食料品店で働き口を見つける。数ヶ月後、姉 Yolande(13歳)がある会社の社員食堂で皿洗いの職に就く。この時からようやく一家は飢えと貧困から抜け出せた。姉
Yolandeはほどなく出世してその会社のオフィスで働くようになった。そして、ある夕方、彼女はピアノをレンタルして家に置くことを宣言する。
生まれて1年はずっと病気だったシフラは、その後もずっと病弱であり、姉がピアノを上達していくのをベッドで寝込みながら聴いていた。毛布の下で指を動かして、姉の練習を真似していたという。
父の教えの下、ピアノの練習を始め、姉の後を追う。しかし、楽譜が家に無かったので、全て耳から覚えて練習していた。母に有名なオペラやオペレッタのアリアを歌ってもらっては、適当に左手の伴奏を付けて、新たなレパートリーを作っていった。シフラがどんどん上達するので、父
Gyulaはより複雑で変わったハーモニーを教えて、シフラの演奏(カルメンやグノーのファウスト、シュトラウスやオッフェンバックのポピュラーなアリアを弾いていたらしい)にスパイスが効くようにしていった。数ヶ月のうちに、シフラは一日5〜6時間をピアノの前で過ごすようになる。
この頃、シフラは、近くのサーカスで演奏会デビューを果たした。お客さんのリクエストした主題による即興演奏を毎日30分行い、日々銀貨5枚を稼ぐようになったのだ。しかし、わずか15回の出演で5歳半のシフラは再び病気になってぶっ倒れてしまった。連日の練習と観客との対決が祟ったのであろう。
9歳の時から、Yolande Tauskyの指導を約1年間受け、ブダペストのリスト音楽院のオーディションの準備をする
リスト音楽院のオーディションを受ける。シフラの演奏に魅せられたエルンスト・フォン・ドホナーニ(作曲家・ピアニスト・指揮者。指揮者クリストフ・フォン・ドホナーニの祖父)は、音楽院の規約(適切な音楽学校で初等教育を受けた者しか入学させないという規約)を破って、シフラの入学を認めた。シフラの先生はImre
Keeri-Szantoであった。ちなみにこの先生はドホナーニやバルトークと共にリストの弟子のIstvan
Thomanに教えを受けていた。またシフラはThomanのマスタークラスの受講も許された。(つまりリストの孫弟子とも曾孫弟子とも言うことができる)
Kis Mozart(小さなモーツァルト)というキャプション付きで、雑誌の表紙に写真が載る。
シューベルトの即興曲D899 No.4を演奏しているところが映画に撮られる
リスト音楽院を訪れたラフマニノフと会う。ラフマニノフはシフラが将来素晴らしい演奏家になると予想したとか。
ハンガリー国内でコンサートを開くようになる
ハンガリーの著名な評論家 Aladar Toth(アニー・フィッシャーの夫)が、シフラの演奏会を絶賛した記事を書く。スカンディナビア諸国やオランダに演奏旅行を行った。シフラは10代で早くもハンガリー国内や北欧諸国にその名が知られる期待のピアニストとなっていった。しかし、徐々に第二次世界大戦の影が忍び寄って来た。1938年にはナチス思想がブダペストにも及ぶ。第一次大戦での敗戦と70%にも及ぶ国土喪失が、ハンガリーに熱烈なナショナリズムを引き起こし、その結果ナチスに接近することになった。
リストの弟子 Istvan Thoman没
軍は、リスト音楽院の学生にも勧誘をかける。シフラはナチ思想の軍に入ることを断固拒否。
1940年11月、ハンガリー、ルーマニアの両国は相次いで三国同盟に加盟。ナチスドイツの同盟国となる。
6月22日、ドイツ軍がソビエトに侵攻を開始。当初中立を守ろうとしたハンガリーであったが、ドイツがそんなことを許すはずもなく、やがてハンガリーもソビエトに宣戦布告
ローマ生まれのSoleika Abdinと結婚。ちなみに彼女はブダペストに住むエジプト市民の娘であった。”一目惚れでね。出会って数日後には結婚式をしたんだ。親の許可なしにね。結婚するためにIDカードを盗み出したんだ。市民ホールで式を挙げたんだが、結婚証明書には2人の立会人のサインが要ると言うじゃないか。あわててホールを飛び出して、近くにいた浮浪者を連れてきてサインしてもらったよ。式が終わると彼らは祝福してくれたけど、飲みに連れていって貰えないとわかると帰っていってしまった。いや、僕らはほんと1ペニーも持っていなかったんだ。ありがとうって握手してあげることしかできなかった。僕らの結婚して初めての食事は、ホール近くのベンチで食べたソーセージだった。でもそれはまるで華やかな宴会のように思えたものさ。天国にいる気分だったね”とはシフラの弁。
だが、第二次世界大戦が、幸せな結婚生活と、シフラのコンサートピアニストとしての世界雄飛への夢をうち砕いた。この年の秋、軍からの動員命令がシフラの元に届き、シフラは妻とお腹の中のシフラJrを残して、戦争へ行く事となる。数週間の訓練の後、騎兵隊の一員としてロシア前線に送られる。この頃、父
Gyulaが殺される。ここから、音楽の事を考えることもできなければ、ピアノに触れることもできない戦場での戦いの日々を送る。心優しいシフラにとって、この戦争の日々は大きなトラウマとなって心に残った。
ウクライナ近辺の村に駐留していたクリスマス前のある夕方、シフラはドイツ軍の将軍達のためにピアノを弾いてくれと頼まれる。ドイツ軍の駐留地に行くと、驚いたことにぼろぼろのアップライトピアノではなく、ベビーグランドが待っていた。1年以上の間、ピアノを弾く機会はまるで皆無だったシフラだが、与えられた2時間のウォームアップの間に指の動きを取り戻すと、将軍達を前にしてリリー・マルレーンの歌や美しく青きドナウ、ワーグナーの指輪やトリスタンの主題を元にした即興演奏を繰り広げた(シフラは後に”将軍達がぺちゃくちゃおしゃべりしていてうるさいので黙らせてやろうと思い、一曲目に”剣の舞”を弾いてやったら静かになったよ”と語っているが、剣の舞の作曲時期から考えて、この時までにシフラが”剣の舞”を聴いたことがあったとは考えにくく、これはシフラの記憶違いだろうとされている。私には記憶違いというよりは、ジョークに聞こえるのだが・・・)。意外なことに、将軍の一人がベルリン音楽学校出身で、”ブゾーニ以上だ!”とすっかりシフラの演奏に魅せられてしまう。”リヒャルト・シュトラウスに紹介してやるからベルリンに来い”と誘われたシフラであった。地獄で仏のようなこのオファーであったが、自らのジプシーの血、妻がエジプト市民である事を考えるとベルリンで生きていけるはずがない、それに赤軍がこの戦争に勝つに違いない、そうしたらベルリンに行っても殺されてしまうだけだ、と悟ったシフラは、同じ日の夜、軍からの脱走を企てる。それも将軍達を乗せてきた汽車を動かして、ロシア方向に逃げるというとんでもない方法で・・・。
翌日、パルチザンに捕まりウクライナのどこかの見捨てられた鉱山で捕虜となる。脱出を試みるも捕まってしまい失敗。その後ロシア軍が近づいてきたためチェコ・ハンガリー国境まで一週間かけて行進。そこで、囚人を新たに組織されたハンガリー民主軍の兵士に変えるキャンプに放り込まれる。そこで戦車の操縦士の訓練を受け、ドイツ前線に送り込まれた。
戦場での生活の間に、シフラは何度もけがをし、また近くで砲弾が炸裂したため、片耳の聴力を失った。
1945年2月、赤軍により包囲されていたハンガリー首都ブダペストは陥落。同年4月、ハンガリーは実質上ソビエトの支配下に置かれた。
1946年9月、ようやく自由の身となってブダペストに帰還。妻と、今や4歳になった息子と再会する。20年以上前に父がしたように、シフラは生活費を稼ぐために、ブダペストの夜の街で働き口を探す事になる。最初に来た仕事口は売春宿からだった。それは断って、バーで働く事になる。次にティーサロンで働けるようになり、アメリカのジャズバンドにレンタルされて2ヶ月間ヨーロッパツアーに出掛けたりもするようになった。そして、ブダペストの夜を盛り上げる、ジャズもクラシックも自由な即興演奏もこなすピアニストとして地位を築いていった。
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1947〜1950 生活費のためにバーでピアノを弾く日々
1947年よりGyorgy Ferenczy に師事し、研鑽を積む。この時期(1948年)に録音されたショパンの練習曲作品10-4とクープランの”取り入れをする人々”の2曲が、現在手に入れることのできるシフラの最も古い録音である(APR5545
"Canons & Flowers)。シフラは、バーなどで夜通しピアノを弾いた後、コーヒーで眠気を覚まして、早朝から毎日4時間、クラシックのレパートリーを練習し、テクニックに磨きをかけた。何時の日か、この練習が実を結び、ピアニストとして再挙する日が来ることを信じながら・・・。だが、そんな日はいつまで待っても来なかった。この時代のハンガリーはソビエトの支配下にあり、自国の演奏家よりもロシア出身の演奏家を優遇していたのだ。そして、いつまで経っても改善しない周りの状況を打破するため、シフラは国外への脱出を考えるようになっていく。
1950年1月上旬、シフラ一家は国境突破を決意する。成功の可能性は少なかった。国境には隔離された無人地帯があり、そこは警護され、また地雷が埋められていたからだ。だが、結局シフラ一家は、亡命計画を実行に移すことはできなかった。脱出決行前夜に(おそらくは)何者かに密告されたため、翌早朝、国家警察はシフラ一家を逮捕した。シフラは拷問にかけられ、思想犯として18ヶ月の刑務所送りとなる。さらに懲戒収容所に送られ、ブダペストの建設中の大学の階段建設のため、ひとつ60kgの大理石を運ぶ仕事を、毎日10時間こなした。この作業の結果、彼は手首の腱を伸ばしてしまう。これが、シフラが右手首にずっと黒い皮のリストバンドを着けていた理由である(リストバンドをしている理由として、1956年のハンガリー脱出時に鉄条網で怪我をした傷を隠していたという説もある)。
1953年の年末、ついに釈放され自由の身となる。全ての希望は失われたかと思われたが、シフラは不屈であった。3年間、一度もピアノに触っていなかったシフラは、職探しを始める前に4ヶ月間、再び自在にピアノを操れるように自らの腕を鍛え直してから、ブダペストの夜の街に討って出た。
夜の街の音楽好きの人々は、シフラの演奏を覚えていた。シフラの名とその評判は、程なく権力者の耳にも届くようになり、文化大臣が面会を求めてきた。運命の女神は、初めてシフラに微笑みかけてくれたようだった。シフラは3ヶ月間の準備期間を経て、公式な国家のピアニストとなった。演奏旅行も行うようになり、チェコスロバキアとスイスを訪問した。また、ブダペストでレコーディングも行われ、ハチャトゥリアンの剣の舞やリムスキー・コルサコフの熊蜂の飛行(シフラ編曲:APR 2000にてCD化)が78sのSPに録音された。続いて、MHV(現在のHungaroton)により、バラキエフのイスラメイ、リストやシフラ本人による編曲物やパラフレーズなどがLPに録音された(Hungaroton 31596”Paraphrases and Transcriptions”、APR 7021”The Hungaroton Recordings
1954-6”にてCD化)。また、1954年には、シフラ唯一のジャズ録音、YoumannのTea
for Two がブダペストのスタジオで録音されている(APR 5545)。
作曲家以外の音楽家としては初めて、栄誉あるフランツ・リスト賞を受賞。チェコスロバキアのプラハで、SupraphonのLPに録音(Supraphon
LPV 364未CD化)。ヨハン・シュトラウスのこうもりやジプシー男爵などによるパラフレーズや、ガーシュインのラプソディ・イン・ブルーをMHVにて録音(Hungaroton 31569”1955-56 Budapest Recordings”にてCD化)。
1956年、この年もブダペストにて録音が行われている(リストのピアノ協奏曲第1番、ハンガリー狂詩曲や超絶技巧練習曲からの抜粋。シフラ編曲の美しく青きドナウなど。Hungaroton 31569、APR 7021に収録)。モスクワやロンドン、パリへのコンサートツアーも計画され、国境を越える機会が訪れるはずであったが、結局これらのコンサートツアーは実現しなかった。ハンガリー動乱が起こったためである。
10月22日、シフラは10月革命を記念するコンサートでバルトークの2番のコンチェルトを弾いた(この時のライブ録音がCD化されているが音質は劣悪である:EMI 66164-2)。直前になって中国人ピアニストがキャンセルしたための代役で、準備期間は6週間であった。だが、この10月22日の演奏会は予期せぬ結末を迎える。イベントに集まった約2000人の人々は、国家を歌いながらホールを後にし、ナショナルカラーに塗られていない全てのものを打ち壊し、さらに巨大な暴動(ハンガリー動乱:10月23日勃発。共産党支配からの独立、民主化を求める革命運動であった)の一部となっていく。数日のうちに国境が突破され、数万人のハンガリー人が国を後にし始めた(大部分はオーストリアに向かった)。思想犯の前科があるシフラは身の危険を感じていたと思われる。最初は国外脱出をためらったシフラだったが、妻ズレイカに今こそ自由を手に入れられる時だと説得され、妻子を連れて徒歩で国境を越え、胸まで水に浸かりながら川を渡ったりするような過酷な旅を経て、西側への脱出を計った。(その後、ハンガリー民衆の反乱に対してソビエト軍は正規軍戦車隊をブダペストに投入。首都ブダペストで、共産党独裁からの自由を求める武装市民と、ソ連軍が衝突、市街戦が繰り広げられた。過酷な弾圧が行われ、当時の首相ナジ・イムレ、軍事相マレテレはソ連に逮捕され処刑。結局ハンガリー民主化への道は閉ざされた。この弾圧の苦い想い出のため、シフラは生涯二度とバルトークの2番のコンチェルトを弾くことは無かった。)
ハンガリー動乱の後、シフラの行方は杳として知れなかった。
当時、パリのPathe-Marconi社(EMIの子会社)を仕切っていたPierre Bourgeoisは政治的左派であり、東側諸国のレコード会社との文化交流に非常に熱心であった。Patheの芸術監督Peter
de Jonghによって集められたピアノ芸術の目利きの一人、Norbert Gamsohn(アルフレッド・コルトーの弟子)は、そんなPathe社の方針により、定期的にブダペストを訪れ、MHV(後のHungaroton)が新たにリリースしたレコードをチェックしていた。1956年のブダペスト出張の際、Gamsohnはシフラの弾いた4曲のハンガリー狂詩曲(2、6、12、15番:APR 7021、EMI
CMZ7 67888-2に収録)の録音を聴き、仰天する。このピアニストを捜し出せ!即刻、Patheは全社をあげてシフラ捜索網をしくこととなり、1956年11月半ば、シフラがウィーン音楽学校の近くに住んでいることを突き止めた。Norbert
GamsohnとJacques Leiserがウィーンに派遣され、シフラとPatheレーベルの契約(5年間の専属契約)が結ばれた。11月17日、公演をキャンセルしたTatrai四重奏団のピンチヒッターとして、シフラはブラームスザールにてリサイタルを開く。スカルラッティ、モーツァルト、ベートーヴェン、リストを演奏したこのリサイタルは、歴史的イベントとしてオーストリアで絶賛され、その評判は雑誌”New
Yorker”にまで載るほどであった。
11月29日にパリに到着したシフラは、12月2日、Chatelet劇場でのコンサートに出演した。シフラのパリ初登場となったこの演奏会は、今や伝説である。リストのピアノ協奏曲第1番(バックはGeorges
Tzipine指揮のColonne交響楽団)を演奏したシフラに聴衆は爆発的に熱狂した。12月6日からは、パリにあるPatheのスタジオでレコーディングが行われ、リストやシフラお得意のパラフレーズや即興演奏が録音された(EMI CDM5 65255-2などに収録)。
1957年1月15日、パリでの最初のソロリサイタルを開く。シフラの弾くリストや剣の舞、熊蜂の飛行は聴衆を驚倒させた。しかし、ショパンやモーツァルトに対する反応は内容空疎だなんだと散々であった(この頃も、現在も、シフラに対する評価を難しくする最大の要因がこのあたりに存在しているのは、変わらないようである)。1957年4月11日にはパリで、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番をカルロ・マリア・ジュリーニ指揮のフランス国立管と共演(非正規録音あり)。その後、シフラは世界ツアーを行い、シカゴ(Ravinia音楽祭:オーマンディと共演)、ロスアンジェルス(ハリウッド・ボウル)、ニューヨーク(カーネギーホール)、モントリオール、ロンドン(ロイヤルフェスティバルホール)や様々なヨーロッパの国々を回った。また録音も積極的に行った。リストの超絶技巧練習曲全集(EMI
CDM7 69111-2, TOCE-3316)、ハンガリー狂詩曲全集(EMI CMZ7 67888-2, TOCE-3546, 3547:フランスACCディスク大賞受賞)、Pages
Immortelles(不滅の楽譜達)と名付けられた魅力的な小曲集(EMI CDM7 69754-2:1958年と1961年の2回にわけて録音)といった名盤の数々はこの時期の録音である。また、1999年に楽譜と共に発売されたシフラの編曲集”Message
a tous les pianistes”(EMI 66162-2)の後半に収録されているシフラ作曲のルーマニア幻想曲、シフラ編曲のパラフレーズ(ハンガリー舞曲第5番、熊蜂の飛行、トリッチトラッチポルカ、悲しみのワルツ)を1957年12月に録音している。1958年7月にはヴァンデルノート指揮のフィルハーモニア管をバックに、リストのピアノ協奏曲第2番、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、グリーグのピアノ協奏曲(EMI CZS7 67366-2)を録音している。
世界中を飛び回ったシフラが、ようやく2回目のソロリサイタルをパリで開いたのは1959年1月であった。シフラ一家はパリ郊外に引っ越し、猫1匹、犬2匹と一緒に暮らし始めた。ちなみに車は3台、ピアノは6台を所有していた。家の購入費用はEMIによって支払われたが、レコードの売り上げ数ヶ月分ですぐに回収できたそうだ。シフラは、最も高額なギャラを取れる音楽家の一人となっていた。1月20日ルクセンブルクでのライブ(シフラ友の会CD)、1月22日トリノでのライブ(Arkadia
905)、3月3日ミラノでのライブ(Fonit Cetra LAR35、未CD化)が残されている。この年の正規録音は7月に行われたリスト編曲のリゴレットパラフレーズ(EMI CZS7 67366-2)とワーグナー/リストのタンホイザー序曲(EMI 66164-2)のみ。
1960年3月6日ヴェネチアでのライブ(Fonit Cetra LAR35、未CD化)が残されている。1960年の正規録音は12月に行われたシューマンのトッカータ(EMI CZS7 67366-2)と交響的練習曲集(EMI CDM5 65254-2)。(このシューマンの録音が別々のCDに収録されているあたり、如何にEMIがシフラの録音を系統立てず行き当たりばったりにCD化しているのかが、よくわかる)
1961年2月23日ルクセンブルクでのライブ(シフラ友の会CD)が残されている。正規録音としては1月にヴァンデルノート指揮のフィルハーモニア管とリストのピアノ協奏曲第1番(EMI CDM5 65252-2)とフランクの交響的変奏曲(EMI CZS7 67366-2)、2月にPages
Immortelles(不滅の楽譜達)と名付けられた魅力的な小曲集(EMI CDM7 69754-2:1958年と2回に分けて録音)の録音が行われた。
この年、シフラがウィーンでPatheと結んだ5年間の契約が終了した。また、シフラのプロデューサーにして友人のNorbert
GamsohnがPatheを去ってPhilipsに移ったので、シフラはGamsohnを追ってPhilipsに移籍する決意を固める。これに怒ったのがPathe社である。時間と金を投資し育てたアーティストがみすみすライバル社に移籍するのを黙ってみているはずもなく、Pathe社は裁判を起こし、シフラがPathe社と録音した曲目を再録音する事を禁じる判決を勝ち取ってしまった。このため、シフラは自分のレパートリーのほとんどを再録音できなくなってしまう。
Philipsに、ショパンのワルツ集(14曲:Philips 434 547)、ピアノソナタ第2番(Philips 434 547)、練習曲集(Op.10、Op25の全24曲:Philips 456 760-2 Great Pianists
of the 20th Centuryに収録)を録音。またBBCにテレビ出演した時のビデオの一部が残されており、カメラテスト用に即興演奏をしているシフラの貴重な画像をみることができる(EMI
TOLW 3760)。
9月27日Asconaでのライブ(Ermitage 196-2)、12月19日ルガーノでのライブ(Ermitage 143、AURA152が残されている。Philipsにショパンやリストの小曲集(Philips 434 547に収録)を録音するが、Patheの広告戦術によるバックアップがあった以前のようには売れなかった。
1964年、初来日。東京ライブでのリストのハンガリー狂詩曲第6番と華麗なる大ギャロップは、人間業を越えた超人の域に入っている。1964年2月、ヴァンデルノート指揮のフィルハーモニア管とリストのハンガリア幻想曲と死の舞踏を録音(EMI CZS7 67366-2)。1965年には自分のレコード会社”Cziffra Production”を設立するが(販売はPatheと契約)、ベートーヴェンのソナタ4曲(第12番のみEMI CZS7 67366-2に収録。第8番、ワルトシュタイン、熱情が未CD化のまま残されている)、リストのダンテソナタ(EMI CMS7 64882-2、EMI CZS7 67366-2に収録)と数曲のライブ(ヤマハとの共同録音)を録音したのみであった(Cziffra
Productions MCP201)。
1965年3月、息子シフラJr(12歳にてブダペスト音楽院に入学、ピアノをアルフレッド・コルトーに、指揮はマニュエル・ローゼンタールに習った)が22歳で指揮者としてデビュー。ルクセンブルクにてフランクの交響的変奏曲を親子で共演した。
シフラJrとシフラは Chaise-Dieu 音楽祭を設立。
”あなたの得たものを自分だけのものにしていてはいけない。あなたの経験を若手のために役立てなければ”というマルグリット・ロンの願いを叶えて、フレンチ・リビエラのJuan-les
Pinsに芸術センターを設立。この年、再来日(東京ライブの演奏はシフラ友の会日本支部からCD化)。ショパンのピアノ協奏曲第1番、アンダンテスピアナートと大ポロネーズをローゼンタールの指揮で録音(Philips 434 547)。結局、この後シフラはPathe社に復帰する。
ド・ゴール将軍の命により、フランスに帰化。シフラ・ピアノコンクール設立(シフラ・コンクール出身のピアニストは、ジャン-フィリップ・コラール(1970、1位)、イェーネ・ヤンドー(1972、2位)、シプリアン・カツァリス(1974、1位)など)。
シフラJr 指揮パリ管とリストのハンガリー幻想曲、死の舞踏(TOCE-3135、EMI47640-2)、ショパンのピアノ協奏曲第1番(EMI CDM5 65251-2)を録音。
またこの年は、録音において新しいレパートリーを開拓しようとした年でもある。ラヴェルのソナチネ、トッカータ(EMI CDM5 65253-2)、シューマンのノヴェレッテ(EMI CDM5 65254-2)、謝肉祭(シフラ協会のCD
RCP1-RCP 9608に収録)、リストのB minor ソナタ(EMI CDM5 65250-2)、ブラームスのパガニーニ変奏曲(EMI CZS7 67366-2)、メンデルスゾーンのロンド・カプリチオーソ(EMI CZS7 67366-2)、ベートーヴェンのソナタ10番、13番(EMI CZS7 67366-2)、バッハ/ブゾーニから3つのコラール(EMI CDM5 65255-2)を録音。
シフラJr指揮パリ管とリストのピアノ協奏曲第1番、第2番(TOCE-3135、EMI 47640-2)、シフラJr指揮ブダペストSOとフランクの交響的変奏曲(EMI CMZ 62533-2)、グリーグのピアノ協奏曲(EMI CMZ 62533-2)を録音。モーツァルトのトルコ行進曲などを含む小曲集(EMI
72984-2)を録音。
シフラJr指揮ニューフィルハーモニアとラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を録音(EMI CMZ 62533-2)。バラキエフのイスラメイ(EMI 71774-2)、ショパン、リストの小曲(EMI CDM5 65250-2, EMI CDM5 65251-2)を録音。
ラフマニノフ編曲の2曲、ビゼーのメヌエットとメンデルスゾーンのスケルツォを録音(EMI CDM5 65255-2)。
リストのハンガリー狂詩曲全曲の再録音を開始(1972-1974:EMI CMS7 64882-2)。
若い演奏家の支援を主な目的とするシフラ財団の本拠として、フランスのSenlis市の中心部にある古い教会を購入。シフラの後半生は、ピアニストとしての活躍よりも、若手の演奏家を支援することに注がれることになる。それはおそらく、若き日のシフラがハンガリーにおいて貧しく苦しい日々を送ったことと無縁ではない。
さて、このシフラ財団の本拠として購入した教会は、長期にわたって荒れ果てており、教会の一部は自動車修理場、兼駐車場として使われているような有様であった。ところが、建物を修復しつつ進められた考古学者の4年に渡る調査の結果、この教会がフランス王ユーグ・カペーの妻アデライードによって建てられた、フランス最古のカトリック教会Royal
Chapel of Saint-Frambourg教会であることが判明した。そして、フランスの歴史上の重要な拠点を偶然発見する事になったシフラは、フランス芸術大臣アンドレ・マルローの支援を得ながら、残りの生涯全てをこの教会の再建に捧げていく事になる。駐車場に使われていた部分は、フランツ・リスト・オーディトリウムとなり、現在もシフラ財団の支援する若手演奏家のコンサート会場として使用されている。
シフラJr 指揮ハンガリー国立管とフランクの交響的変奏(APR 5545)、ドホナーニのカプリッツォ(APR5545)、ショパンのポロネーズ5曲(EMI
CMZ 69440-2, EMI 69425-2)を録音。
11月にイギリスでの最後のコンサート。この後、シフラの演奏会はほとんどがフランス国内、スイス、ドイツ、イタリアでのものであった。
Leppard指揮BBC管とラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を録音(Live Classics
Best 64)。ショパンの即興曲4曲(EMI 69425-2)、ラヴェルの水の戯れ(EMI 71774-2)などを録音。
1976年にかけて、リストの巡礼の年全曲を録音(EMI CMS7 64882-2)。
ショパンの即興曲3曲、シューベルトの即興曲90-4を録音(未CD化)。シフラJr指揮モンテカルロ歌劇場管とショパンのピアノ協奏曲第1番を録音(未CD化)。
1978年にかけて、ショパンのワルツ全19曲(通常の14曲とヘンレ版の5曲)を録音(EMI CDM4 78107-2)。ショパンのソナタ第2番、第3番(EMI 69425-2)、リスト作品集(EMI CDM4 78972-2)を録音。
シフラJr 指揮モンテカルロ歌劇場管とショパンのRondo a La Krakowiak、メンデルスゾーンのピアノ協奏曲第1番、ウェーバーのコンツェルトシュタックを録音。
クープラン、ダークィン、ラモー、リュリの作品集を録音(EMI CDM5 65253-2)
シフラJr 指揮モンテカルロ歌劇場管とシューマンのピアノ協奏曲を録音(RCP-1-RCP
9608)。これがシフラが息子と共演した最後の記録となってしまう。11月17日、シフラJrは火事を起こした家で焼死体となって発見された。これまで戦争や収容所という様々な困難を克服し乗り越えてきたシフラであったが、最愛の一人息子を喪ったこの悲劇を容易に乗り越えることはできなかった。この後も録音やハンガリーへのコンサートツアー、ハンガリーでのマスタークラスなどを行うものの、シフラは演奏への意欲を失ったままであった。
後にシフラ自身が振り返るには、”ウィスキー、ウォッカ、ワインの日々”であった。ただこの時期にも貴重な録音がある。1982-1983年にかけて行われたとされる、ブラームスのハンガリー舞曲の自身による編曲版の録音(TOCE 9503、EMI
66162-2)である(ただ、この録音についてはErmitageのCD付録のディスコグラフィでは1981年11月、つまりシフラJrの死の直前の録音とされており、正確な録音時期は判然としない。演奏の素晴らしさから、シフラJrの死後の演奏とは思えないという感じもする)。この録音、テイク毎に楽譜が変わるので(即興が入っているのだから当たり前だが)、録音編集者にとっては悪夢の録音だったらしい。
もう一度、ピアノをやり直そうと決心。鈍りきった腕をもう一度鍛え直し始める。”自分のヴィルトゥオジティを失ってしまった。今は一歩一歩、以前の自分を取り戻して行っているところだ。でもまだ、80%も戻っていない・・”
リストの没後100年を記念してのCDを録音。結果、これがシフラの最期のレコーディングとなる。”私は録音を拒否するべきだった。録音できるほど回復していないと言うべきだった。泣きたいよ。この録音は完全に失敗だ。どれもこれも散々だ。平板で、だれていて、表情がなく、なによりもテンポが遅すぎる・・・”。
1989年、祖国ハンガリーが民主化された。1989年11月に最後のリサイタル。1990年代になると、Senlisを離れ、パリ郊外のLong-Pont-sur-Orgeにある私立病院で療養する事が多くなる。1993年になり、体調を崩す。1993年12月、肺癌が発覚。急速に進行し1994年1月15日、帰らぬ人となった。(シフラはヘビースモーカーであったが、この急激な進行からは肺小細胞癌が疑われ、喫煙との因果関係はなさそうである)
参考&引用文献
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Pierre-Martin Juban, Virtuose d'execution transcendente, International
Piano Quarterly No. 10 (2000年冬号)
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Georges Cziffra, Cannons & Flowers, APR
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