モノクロカレンダー ・六月雨・




 ガラスを一枚隔て、窓の向こうでは朝からずっと降り続けている、霧雨。
 庭、というより個人宅としては有り得ないような緑豊富で豪奢な庭園に、そっと紗をかけて。
 しとしと、しとしと。
 どしゃぶりにはならずとも、降り止む気配もない雨が、目前の景色にぼんやりと曖昧さを醸し出している。
 彼の部屋のベランダへと続いている観音開きの窓は快斗の身長を遥かに超えた両開きの大きな扉窓となっていて、くすみのない金色のドアノブが控えめながら上品さがある。
 晴れた日には室内に大きく光を取り込むその窓は、白馬が部屋から外を眺めたり、部屋とベランダの行き来に開閉されるより遥かに高い頻度で、快斗が部屋へと忍び込む……現在は忍び込まずとも部屋の主に招き入れられるようになったが……為の、玄関として主に活躍している。
 霧雨が少し強まった。
 ベランダのひさしで遮り切れなかった雨が風に煽られ窓に打ち当たっては水滴が伝い落ちてゆく。
 それに伴い、野外の空気が更に薄く煙ったように見えた。
 触る事が出来るならきっと重さだってあるに違いない。そんな濃度を感じる空気だ。
 だが、快斗の耳には強く窓に叩きつける雨音は届かない。
 一見した所では判別がつかないが、白馬の家は基本的に大邸宅である。やり手の実業家と警察の上層部に所属している人間と、その家族が安心して暮らせるように造られている。
 そう言うだけあって、防犯対策だけでなく防音も完璧だった。
 ここで快斗が何を話しても、例え怒鳴ろうが叫ぼうがそれこそ鳴かされようが、それは一切外へと漏れる事はなく、同様に屋外のどのような物音も薄いガラス一枚に遮られ室内に届けられる事はない。
「快斗」
 ぼんやりと窓に寄り添って外を眺めていた快斗を、やんわりと現実へ引き戻す、声。
 くるりと振り返った先で恋人が眩しそうに瞳を細める。
「お茶が入りましたよ」
 白馬がティーポットを優雅に傾け、紅茶を注いだ所だった。ふわりと上がる香気に誘われるように窓からてのひらを離す。
「今日の、ナニ?」
「アッサムティーにしました。今日は少し肌寒いですから、熱いままで構いませんね?」
 問い掛け、というよりは既に事後承諾でしかないのは彼の一連の動作が物語っていた。
 梅雨入り前の五月末の真夏日もかくやという日々には問答無用でアイスティーを所望した快斗だったが、六月半ばのこの所はどちらかと言えばひんやりする気温が続いている。
 見透かされているのは少々癪に障っても、実際、喉越しの良いアイスティーより、てのひらから暖まれるほのかな熱をより快斗は求めていた。
 軽く頷き、差し出されたソーサーを受け取って彼の傍らの長椅子へと腰を下ろす。
 白地に繊細なブルーと黄色の小花の描かれたティーカップとソーサー、揃いの柄のティーポット。この所の彼のお気に入りのようで快斗は既に数度に渡りこのティーセットでお茶を頂いている。
 だが、金の縁取りの砂糖壺と白亜のミルクポットは快斗が出入りするようになってから、彼のティーセットの仲間入りしたものである。紅茶を愛飲している英国帰りの高校生探偵は、普段はストレートで紅茶を飲んでいた為だ。
 そんな些細な心遣いが、快斗を喜ばせる。
「これ……、」
 いつもならカップと同時に差し出されている筈の砂糖壺の代わりに、差し出されたのはてのひらに悠々納まるサイズの小皿。
 ちょこんと五ミリ角の小さな角砂糖が二つ並んでいる。添えられているのは玩具のように小さなトングだ。
 しかも小さな立方体はそれだけでもどこか可愛らしいというのに、まるで贈り物のラッピングのように、その表面にはピンクのバラの花が咲いていた。
 愛らしいそれは、それだけで使用を躊躇う位に小さな芸術品だった。
「どうぞ?」
 仕組んだ悪戯を悟られないよう必死で顔を引き締めているように、どこか楽しげな瞳の色で彼はそっと促す。
 促されるままに快斗はトングで角砂糖を摘まんでぽとんとティーカップへと落とす。
「あ」
 スプーンで混ぜようと手に取った所で、快斗は動きを止めた。
 紅茶に沈んだ砂糖がみるみる角を崩し、重石から解き放たれたバラがゆるゆると見る間に水面へと浮かび上がる。
 ぷかり、と淡い琥珀の水面に咲いた花に快斗は感嘆の声を上げた。
「すごいな。……浮くんだ」
「ええ。ちょっと珍しいでしょう」
 白馬が嬉しそうに相好を崩した。
「気に入って貰えたなら、良かった」
 まるで我が事の如く嬉しそうな微笑みで、白馬も自分のカップを手に快斗の隣へと腰を下ろす。
「……手作りなのですよ」
「ふぅん。って、オマエの?」
「まさか。無理を言わないで下さい。母の知人が趣味で造ってらしてね。以前頂いたのを思い出してお願いしてみたんです」
 快斗の反応に至極満足そうな笑みを浮かべて白馬もカップを口に運ぶ。
 快斗が様々な紅茶を飲むようになったのはこの部屋に来るようになってからだ。
 自宅ではありふれたティーパックをマグに放り込んで飲んでいるし、それに不満を覚えた事はない。……今でも。
 だが、白馬の淹れる彼のお勧めの紅茶を飲むようになって初めて『紅茶』には様々な種類があるのだと知り驚いたのだ。ストレートティーにレモンティー、ミルクティーだけではなくて。
 色一つ取ってもそうだ。
 鮮やかな紅色や渋い茶色、淡い琥珀など茶葉によって異なり、無論味や渋み薫りなど一言で纏められるものではない。
 しかし、快斗に分かるのはそこまで。
 紅茶の正しい飲み方なんて、快斗は知らない。
 意外な事に何かと蘊蓄好きそうな白馬だが、紅茶の飲み方には決して難癖をつけたりはしなかった。
 ただ美味しく飲めればそれで良いのだと微笑んで。
 一口飲む。
 少し甘味を加えたアッサムティーは、薄い色味とは裏腹にしっかり味はある。渋味は控え目で、少し重みのある紅茶らしい味だ。
 ティーコージーに包まれて三分蒸らされた紅茶は、温かさは充分にあるのに、舌を焼くような熱さはない。
 だからだろうか。
 喉を通り過ぎる温かさが、すとんと胃に落ち着く。不思議と白馬の淹れた紅茶はいつだってそんな風な穏やかさを伴った味だった。
 快斗の心と身体にリラクゼーション効果をもたらす。彼の淹れてくれるたった一杯の紅茶に心底ホッと出来るのだ。
 軽く白馬の肩に肩を寄せて、全身からそっと力を抜く。
 そしてはたと気付く。
 それはとても親しげな所作で、同時に馴れ馴れしい程に甘ったれた仕草のようで。快斗内心酷くうろたえた。
 だが。
 いたたまれず慌てて身を離そうとした快斗を、白馬がやんわりと目顔で押し留める。
 見返した瞳は淡く紅茶を溶かし込んだような色を持ち、至極満足そうな色合いに染め上げられている。
 取り澄ましたプライドの高い鼻持ちならない級友の姿も、疑念と探求に囚われ手に入らない真実に焦がれ疲れた高校生探偵の姿も、そこにはない。
 幸せそうに目だけで微笑み、快斗を捉えてゆっくりと細めた瞳は充足に満ちている。
 ここにいるのは、恋をしている『白馬探』という一人の男。
 彼の左手が快斗の手からからっぽになったカップとソーサーを受け取り、さりげなく肩に回ったのは、右腕。引き寄せられて……やや強引とも取れる強さで間近へと抱き寄せられる。
 肩。
 てのひら、指先。
 胸、二の腕、膝。
 互いの、髄。
 触れ合い重なり合った布越しに感じる熱は確実に何かを揺り起こす力を持つ。快斗の中で常は眠らせている、とある衝動を。
 吐息が首筋を伝って、耳たぶを掠め、……頬へ。
 唇が、舌が、同じ道筋を通って、辿り着いた鎖骨に朱い華を咲かせた。覚えている。彼だけがもたらす事が出来る、どこか現実離れした……それでいてこの上なく、リアルな感覚を。
 だから、ほとんど触れない今の距離感が逆に快斗の記憶を呼び起こし、愛しいと叫ぶ心内を、抑え難く煽りたてる。
 空気を通して感染するは、微熱。
「……あ、……っ」
 唇が軽く掠めただけの耳たぶから途端に発火するような熱さとむず痒いようなじれったい感覚が生まれ、快斗は小さく息を飲んだ。
 思わず漏れた声がまるで真夜中の情事の最中のようで、午後のお茶の時間である現実を意識すればする程に、かっと顔が火照る。
 白馬の口元の笑みが深まった。
 彼のどこかおっとりした気性にも似たゆるやかな愛撫は、その先にある狂おしい程の熱情をまざまざと思い出させるのだ。
 いつもの紳士然とした控え目な微笑みの後ろに隠れている、丸ごと喰らい尽くさんばかりの、牙を持つ男を。
 ただの級友なら知らなかった。
 ただのライバルなら知り得なかった。
 ……恋情に焦がれ、愛しさと切なさが抑え切れず、この存在に手を伸ばすまでは。
「快斗」
 容赦なく視線が絡む。
 反応を窺うように覗き込んで来る瞳は熱を帯びている。それでいて何かを確かめるよう触れる指先には細心の注意が払われているらしく、ガツガツした性急さはない。
 にわかに距離を縮めた唇を前に、タイミングを見計らい……、
「白馬、」
 甘く、呼ぶ。
 期待に満ちた瞳に向かって、快斗は至近距離でぺろっと舌を出して見せた。……無邪気を装って。
「あのさ。……せっかくのバラ、呑み込んじゃった。お代わり、ある?」
 狙い通りに意表を突かれてくれたらしい白馬は、ピシリと表情を凍りつかせた。
 急速に霧散する濃密な空気。そんな中、彼は、ゆっくりと一回瞬く。
「…………ええ、いれましょう」
 隠し切れていない少し茫然とした声音ではあったが、間に挟まれた数拍の空白だけで気持ちをクールダウンし切り換えられたのなら大したものである。
 むしろ快斗の方が一歩遅ければ衝動に押しきられていたかもしれない。
 白馬へ向かう熱は簡単にコントロールを失い、幾度となくキスしても肌を重ねても向かう想いは心のどこかへと落ち着きはしない。決して完全な充足には至らないのだ。
 向き合っているのに互いを強く律し、想いばかりを溜め込んで飢えていた時間が長過ぎたのだろうか。
 不安は強く根付いていて、愛しいと思う端から熱に溺れる事に怯える気持ちがある。
 だのに、心は一分の隙間もない程に触れ合いたいとも叫んでいるのだ。……さりげなさを装って彼の唇から逃げておきながら。
 快斗は微かに目を眇め、視界からその男を閉め出した。
 束の間考え込んでいた白馬は、鷹揚に一つばかり頷く。そしておもむろに。
「っ!」
 手を離し立ち上がる途中で、白馬は素早く額にキスを落とす。
 掠め取られた小さなキスは英国育ちの本領発揮なのか、はたまた恋人と呼ばれる間柄になった彼の当然の権利から成るものか。
 どちらの要因から成るにせよ、最近とみに白馬の言動は臆面がなく積極的なアプローチは快斗を熱に溺れさせるかうろたえさせるかのどちらかに作用した。
 それまでが距離を保ち過ぎていただけに反動もあるのか、今の関係の不安定さが影響しているが故か……快斗自身にもよく分からない。
「茶葉は次もアッサムでいいですか」
 尋ねておいて、はぐはぐと空気を食べて答えられないでいる快斗を、やけに楽しそうに眺めやる白馬である。
 白馬が臆面なく振る舞えば振る舞う程に、不思議と快斗の形ばかりの余裕はどこかへ吹き飛んでしまう。
 いがみ合っていた頃は、お互いの態度が鼻について仕方なかったし、それ以上に嫌われる事なんて何とも思わなかったから話すこともすることにも、怖いものなんかなかった。
 今と違って。
 今はアクションに伴うリアクションは逐一気にかかるし、怖いものも失えないものも山ほど抱え込んでいる。
 抱え込んだものに思考が過ぎる都度躊躇いが生まれて、躊躇する事によって臆病になる。そんな風に変わってしまうと彼の求めてくれた『黒羽快斗』ではなくなってしまいそうで、精一杯強がってみるがそれだとて返事を促す探偵をジロジロと睨み返すのが関の山である。
 しかもティースプーン片手に邪気のない微笑みを返されてしまうだけで、突っ掛かるポーズすら保てないのだ。
 ぺたり、と熱を持った気のするバードキスの落ちた額にてのひらをあてて、返したのは「うん」と一言。
 それこそ子供みたいに捻りもしなければ顔を造るまでもない、ひたすらに素直な承諾の返事のみだ。
 たった一度のつもりで、精一杯素直な自分を出した。
 すると彼は柔軟にそんな自分を受け入れてくれたから、ふと気付けば当たり前についていた悪態も、半ば条件反射のようになっていた我の張り方も、すっかり分からなくなってしまった。
 以前、感情は意思の力でコントロール出来るものと信じていた。一身に視線を集めた舞台の上で、またサーチライトに照らし出された孤高の世界で、不敵な笑顔を保つのと同様に……、完全に。
 けれど今はそんなに単純なものではないと知っている。己の心の扱いには、心底困っているくらいだ。
 ひょんなきっかけで感情は暴走する、感情の起伏に抑えは利かない、周りに対して必要とする注意力さえも散漫になる。恋心なんてものには理性も打算も計算もまるっきり太刀打ち出来やしないのだ。
 かと言って心の欲するままに動いたら、厄介な事にいつだって自分はここに……彼の傍へと陣取ってしまう。
 迎え入れてくれる腕に甘えて、引き留める視線に囚われて。
 決して彼が暇を持て余した身分でないのは承知しているのに腕の中からは離れ難く、……頭に留めおくべき『常識』を始めとした彼と自分の間の諸事情を忘れてしまう。
 一度埋めた距離を気持ちは変わらないのに広げなければならないとしたら、容易な覚悟ではいられない。
 そうと知っていながら、それでもせめて今は、今だけでもと快斗は足しげくこの場所を訪れている。
 招かれる事もあれば連絡なく押しかける事もあり、学校帰りに連れ立ってそのまま訪れる事もあった。
 いずれの場合も快斗の来訪を、白馬は喜んだ。それこそ嬉々として迎え入れ、もてなしにも余念がない。
 紅茶は必ず白馬の手により、出されるお茶うけこそ流石に彼の手によるものではないものの、お抱えのシェフパティシエが労を惜しまず最上のもてなしで迎えてくれる。
 ホールのケーキ、気軽に摘まめるクッキーを初め三度に一度の割合でゴージャスな本格アフタヌーンティーの形式で振る舞われる菓子は相当な凝りっぷりだった。
 今日も例にもれずワゴンで運ばれて来たお茶菓子は多岐に渡り、壮観な眺めである。
 持ち手のついた陶器の横長のプレートには、ハムとチーズ、サーモンとキュウリのミニサンドイッチに、甘さ控え目の苺とチーズのタルトレットが可愛いらしく並んでいる。甘味の苦手な白馬も摘まめるようにしっかりと配慮が窺えるセレクションだ。
 だが、もう一つは完全に快斗の為のみに用意されたものだった。
 二段重ねの円形のプレートの上段には多種多様なクッキーがパターン化された綺麗な図柄のように盛り付けられている。
 ココナッツ入りのチョコクッキーに丸ごとアーモンドをあしらったサクサクのクッキー。
 オレンジのジャムを中心に絞り込んだ絞りのクッキーに、ザラメをまぶした小さなコイン型のしっとりとした抹茶のクッキー、それにスィートチョコでコーティングされた、リング型のクッキー。
 アーモンドスライスをキャラメリゼしたものをプレートに伸ばしたサブレの上に敷き詰め焼き上げ、四角くカットしたフロランタンサブレ。
 そして下段にはこぶりのスコーンが四個と、たっぷりのクロテッドクリームにブルーベリージャムが添えられている。
 白馬は甘味があまり得意ではない。
 家人もそれを承知しているし、となればあくまでもこれらの菓子類の多くは快斗の為に用意されたものとしか言えない。
 まるでお菓子の専門店もかくやの豪華さは、旨い旨いと平らげる快斗に造り甲斐があると言って白馬邸お抱えのパティシエが存分に腕を奮ってくれている結果である。
 それだけではない。
 白馬が席を外した折りにそのパティシエはそっと快斗に耳打ちしたのだ。
 最近ではとみに休む事を忘れがちだった御曹司が、きちんと食事を摂って、休息を取るのは快斗が来ている時くらいのもの。
 皆、快斗の来訪を心より喜んで感謝しているのだ、と。
 彼は多忙な生活をおくっている。学生と怪盗なんてものをしている二足の草鞋の快斗の上を白馬は軽く追い越して。
 学生でありながら探偵活動をし、母親の事業の一部も引き継いでいて、叔父の研究所の手伝いもしている、らしい。既に何足の草鞋を履いているのかも分からない。
 何もそこまでしなくても、と思う過密スケジュールである。それでも殺人スケジュールをやりくりして、快斗と過ごす時間を確保する。

『僕には君と居る時間は必要不可欠なんです、他の何よりも』

 真面目な顔でそんな事を言って。
 それを白馬が本気で言っているのを知っている。
 快斗を好きだと認める事がこの潔癖でクソ真面目な男にどんな影響を与えたのかは不明だが、葛藤を越え曖昧さを受け入れた白馬はそれでも本質は変わらず、より魅力を増した。
 真面目で、誠実で、ひたむきで。相手だけに一心に心を傾ける。
 なのに情熱だけがそこにない。怪盗キッドを追いかけている時の、激しさが。
 けれどそれはあくまでも二人の間の問題だった。
 特に彼の周りの人間は快斗にとって関わり合うべき相手ではない。当然、彼らに受け入れられる可能性なんて、快斗は考えもしなかった。
 しかも形式的ではなく、心よりの笑顔でもって歓待されるだなんて、想像も出来ず。
 目前に並ぶ、お菓子。
 目礼に、笑顔、気さくな会話。
 それこそ対応はそれぞれだけれども、深読みするのも憚られる程に、向けられて来る純粋な好意。
 ……時に戸惑う程に。
 そんな好意には却って引け目を感じてしまう。白馬の周りの人々が、白馬を愛すればこそ向けてくれる気持ちを本来貰えるのは快斗ではない筈なのだ。快斗は白馬のパートナーにはなり得ないから。
 育ちは至って普通だし、裏家業では徹底的に相反する立場で、何より極めつけは、同性、で。
 永続する甘い夢を見るには、快斗は現実的に過ぎた。
 二人の間にあるのは二重三重の障害で、仮に今想いが成就しているにしても互いにリスクが高過ぎる。
 そこまで分かっていてそれでも、快斗は白馬を好きだった。
 好きになって、しまっていた。
 皮肉と嫌味のオンパレードで鼻につく物言いも、KIDというファクターを除けば育ちの良さから今一つ砕けた話し方の分かっていないだけの不器用なクラスメイトが顔を覗かせた。
 貴族然とした王子様フェイスに、淡い紅茶色の瞳。
 バランスの良い長身も、生来の生真面目さも、しっかり確立した理念とそれに基づく素早い行動力も。
 腹立たしい要素がどれだけあっても……早い話、それを上回る好みの要素で彼は快斗を惹きつけるのだ。
 最期には、惹かれる気持ちに抗うのは引力に逆らおうとしているようなものだと、認めるしかなかった。
 結局の所、快斗は白馬を好きで好きで、手に入れようとする事で彼を培っている各要素が変質してしまう危惧があっても、欲しい気持ちの方が強かった。
 そんな気持ちに後押しされた形になった快斗は、思いがけなく白馬に受け入れられ……、こうして今、穏やかな時間を手にしている。
 目を閉じて水面にただたゆたっている時の如く穏やかで柔らかな幸せを手にした時から、快斗はカウントダウンの時をひそかに恐れている。
 黒羽快斗でなくなる時が来たら、きっと放さなければならない、手。
 安穏とした、彼の腕の中のまどろみを失う日を。
 紅茶のお代わりをいれるべく離れてしまった慣れた温もりの代わりに、ソファーの背にゆったりと体重を預ける。
 僅かに物憂気な表情を垣間見せる、横顔。
 戸惑いは見せても、白馬は先ほどの快斗の態度に気を悪くしたり不満を顕わにしたりはしない。
 快斗の見せるひそやかな甘えやはぐらかし等の気まぐれな一面までをも愛しく思っていると明言するだけあって、苦笑一つに納める彼の態度は時折腹が立つ程に大人だった。
 いつもと同じ手順を踏む白馬の手つきは淀みなくかつ慎重で、手捌きは優雅そのものである。
 ティーコージーを被せて砂時計をコトンとひっくり返す。待つ事、三分。
 ふ、と。
 白馬が砂時計から視線を転じた。先ほど快斗が立ち尽くしていた窓へと。
「……よく降りますね」
「そりゃあまぁ、梅雨だからな」
 ひそやかな呟きには、出来得る限りの軽い呟きで応える。
「……そのうち明けるさ」
 クッキーを一枚摘まむ。
 ローストアーモンドの香ばしさと、さくさくとした歯ざわり、上質なバターの香りがふわりと口の中に広がる。
 甘いお菓子は快斗の大好物でありストレス解消の必須アイテムであり、時として主食ともなる、活力源だ。
 そして間違いようもなくこのフロランタンサブレは甘く美味しく、快斗を幸せにしてくれる筈だった。
 なのに、白馬の意識が僅か自らから逸れただけで絶品のお菓子の美味しさは三割減になってしまう。……砂を噛むような味、とまではいかずとも。
 白馬は甘味を好まない。
 けれど『こんなに美味しいのに!』と笑ってクッキーをほおばる快斗を、彼が目を細めて眺めている時はその美味しさは分かち合えている気がするのだ。
 美味しいものだけでなく、楽しい一時や、幸せな気持ち、スリルや緊張感、……悲しみや苦悩ですらも。
 それらは行動を共にしたり過去に同様の経験を持たずとも、分かち合い共有する事は可能であると快斗は信じている。
 互いの意識さえ、互いへと向かっている限り。
「そう、でしょうね」
 白馬の口から憂鬱そうな小さな溜め息が一つ零れた。望みを垣間見せる事なく窓へと注がれたままの視線。
 ただ切ないような、途方に暮れたようにも見える瞳の色は、静かで穏やかな祈りのようでもある。何とも形容し難い色をたたえて、……まるで独りでどこか違う場所に行ってしまったみたいに、唐突に白馬は周りを遮断した。
 快斗にはそう見えた。
「オマエ、雨嫌い?」
 ふと快斗の口をついたのは素朴な疑問。
 天気一つで彼の機嫌が左右するような子供っぽい一面を彼が持つとは知らなかった。
 こうまで見事に意識丸ごと窓の外に持っていかれると、常に彼を引っ掻き回している自覚のある快斗としては、面白くない。
 そうでなくても興味の幅の広い人間を繋ぎ止める為には、表向きの己の魅力だけでは足りないのではないかと戦々恐々と不安に駆られているちいうのに。
 雨如きに、隣に居る快斗をそっちのけで意識を傾ける程の、何があるというのか。
 快斗の拗ねた気配を察したか、白馬はやっと意識を戻し、快斗へと微笑を向けた。
「いえ……、特に嫌いでもないですよ」
 微妙に『困った』色の混じった、微笑み。俯いた拍子に、前髪に隠れてしまった表情。
 立ち上がって前置きなく頬へ伸ばした手に、白馬が驚いたように一つ瞬いて、快斗を見返した。
 たったの二歩で距離を縮めた快斗に驚いたのか、伸ばした指が頬から唇へと辿るその動きに面食らったのだろうか。珍しいものでも見るように見返されてしまう。
 白馬の虚をつかれた時の素の表情は快斗のお気に入りである。その為か、不意をつく事ばかりを楽しんで必要以上に振り回してしまっているのかもしれない。そうは思っても、行動は改まらない。時折埋め合わせを兼ねて率直に好意を示すのが精一杯だ。
 そんな時のキスはいつも快斗が伸び上がるようにしてキスをせがむ。足りない身長差の分を少しだけ悔しく思っていたけれど、普段は腹立たしいばかりの数センチの身長差もこの時ばかりはありがたかった。
 向かい合わせに立つだけで、俯いた彼の表情が快斗の目前に顕わになる。この身長差が反対だったなら、顎に手をやって顔を上げるよう、視線を合わせるよう促さなければならなかった。いつも白馬がするように。
「……快斗?」
「隠されたものを暴くのは、探偵だけの専売特許だと思うなよ」
「……すみません。君の言ってる事が、よく分からないのですが」
 言葉通りに、白馬の瞳は困惑に揺れていた。何かを誤魔化そうとしている訳ではなくて、本当に快斗の指摘にただ戸惑っているのが伝わって来る。
「ふぅん、あっそ。じゃあさ、誰でも分かるよーに噛み砕いて聞くけど。……嫌いじゃないなら、雨が、どうしたんだよ?」
「……え」
「今オマエ、窓の外、見てたろ。ここからじゃ庭なんてロクに見えない。だったら見てたのは庭の景色じゃないって事になるし、雨くらいしかない。違う?」
「ああ、……ええ確かに」
 やっと戸惑いの色が薄れ、楽しげな光が瞳に宿る。
「参りましたね。まるで、工藤君を見てるみたいでしたよ。探偵になれるんじゃないですか」
「分かってて、そーゆー事言うんじゃないっての、バーカ」
 ギロ、っと睨むと白馬の視線が僅か和む。
 白馬は快斗のもう一つの顔についてこんな風にからかうような発言はあまりしない。まるで口に出すのを恐れているように、甘い会話からキッドの話題は弾き出される。
 初めから、ないみたいに。
「……雨を見ていたとも言えますし、そうではないとも言えます。つまり……、」
 白馬は少し言い淀む。
「雨を見ていましたが、雨の事を考えていた訳ではないんです」
 片眉を引き上げる仕草で『それで?』と続きを促すと、苦笑の気配が瞬間過った。
「……ッ、おいっ」
 慌てて押し退けようとしても、もう遅い。
 白馬の腕はしっかりと強引に快斗を抱き込んで、苦情を申し立てるべく上げた目を避けるように、白馬は快斗の肩に額をつける。
 目の端に、襟足と、少し覗く項。
 痛みを覚える程の強い拘束は、二人の関係から導き出される筈の甘さより、何故だか彼の抱えている焦燥感を伝えて来る。
「…………白馬?」
 囁き声に呼応して、更に抱き竦める力が強まる。
 快斗の隙をついた計算した動きではなく、酷く衝動的な動きで……白馬をイメージする時にまず出て来るスマートさはカケラもない。ただひたすらに必死さの伝わる不器用な抱きしめ方だった。
 だから、かもしれない。挟み込まれた腕を、抗い彼を押し退ける為に使用しなかったのは。
「……止まなければ、いいのに」
 ぱちくり、と快斗は瞳を瞬く。
「そう思っていました。ずっと、雨が止まなければいいのにと」
「……どうして」
 肩口で熱い吐息が耳をくすぐる。迷っていると分かる微妙な間が落ちて、すぐに快斗の質問に返答は返らない。
 白状しちまえ、と言う代わりに、快斗は片手を強情者の背に回した。
 互いに逃げ場のない態勢で、空いた指を引っ掛けてシャツの襟ぐりを引き下ろす。剥き出しになった首筋は、日焼けなど有り得ないような、白。
 居心地悪そうに身じろぐ気配も、首筋に唇を寄せるまでの事。
 緩やかに喉から鎖骨へと滑り下ろし、軽く歯を立てる。仕上げとばかりに鎖骨を強めに吸い上げると甘い吐息がそれに応える。
「ずるいですよ、君は」
 苦笑と甘い苦情が零れた時にはもう振り払うのを躊躇うかのような切実な拘束も、穏やかな抱擁へと変わっていた。
「いつだってこんなに簡単に答えが手に入るものと思って欲しくはありませんね」
「思ってねぇよ、そんなの。今のはオマエのまねっこ」
「……僕はキスで君から何かを聞き出そうとしたりしていますか」
「たまーに、ね。キスとか、こーゆー事とか、そーゆー事やなんかで、さ」
 誘うまでもなく下りて来る唇に、噛みつくようなキスを仕掛けて。
 するりとシャツの中へ滑り込むてのひらが肌に吸い付き、指がリズムを刻んで背骨を這い上がると、とうとう白馬は吹き出す。
「本当に、君って人は……、」
 笑顔が消えない内に快斗に返されたキスは深く、微塵の隙間もなく呼気を奪い取り、大胆に舌が忍び込む。果敢に挑んだ戦いも一息で絡め取られてそれっきり。
 僅かな息を継ぐ間もない口付けに、くらくらと酩酊感に襲われた快斗は、長い長いキスの後、肩で息をする羽目に陥った。
 愛しい気に白馬の指が頬から顎までを辿る確かな感覚が、どんどんともう止めようもなく快斗の鼓動を早めて行く。こめかみで響く脈動がうるさい程だ。
 瞳を開けると、至近距離で白馬が溜め息ともつかぬどこか甘やかで切ない息をそっと漏らす。視線が眇められて、彼の絶望的な声が快斗の名を呼んだ。
「雨が止んだら、君は行ってしまうでしょう」
「……ナニ、どういう、」
「梅雨が明けてしまったら、月の夜にはもう君は、黒羽快斗は、ここにいない。こうして、僕の腕の中にはいてくれないでしょう……?」
 彼の望む答えを差し出せるのなら、どれほどに良いか。どこにも行かないと、共にあると、ずっと一緒にいると確約出来るものなら。
 けれどそれは出来ない話だった。
 快斗は快斗だ。
 けれど、梅雨が明ければ白馬に指摘されるまでもなく怪盗キッドとして動かねばならないし、実際動く事になるのは分かっている。
 今こうして安穏と平穏に浸っていられるのは単にパンドラと疑わしい宝石が出現していないからと言うだけで。
 月下の貴公子と謳われるように、犯行は月の夜が多いのは確かだが、それ以外でも快斗はキッドであるべき時間がある。
 白馬もそれが分かっているから……告げても快斗には応えられないと……、だからあれほど言い淀んだ。
 今も、瞳に悔いた色を刷いてそれでもてのひらは快斗の背を宥めるように滑り、しっかりと抱き寄せる。白馬の微弱な香りと温もりに包まれ埋もれるように身を寄せて、幸せと絶望を味わう。
 答える事の出来ない快斗を抱きしめて、それ以上に語るべき言葉もなく、白馬も沈黙に落ちた。
 窓の外には、音すら届かない雨が降る。
 慰めるように静かに、優しい雨が。
 まるで、離れ難く熱に溺れるしか術のない恋人達の為にだけ降るように。


 流せない涙の代わりに、切ない、切ないと六月の雨は降る。



                           (END)

◆同名コピー→『mixture』より◆白×快◆


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