残り香




 もう数ヶ月、この部屋へ彼は毎日のように入り浸っていたから。
 彼専用のティーカップ、彼の好きなお菓子にジュースの買い置き、彼の着替えにパジャマ、歯ブラシやいつも使っていた細々とした日用品。
 彼の為の物ならこの部屋には何だってあるけれど、彼自身が持ち込んだ彼の物は何一つ残されてなかった。
 彼の物も、意思を示す何かも、哀しいかな形のないものすら。
 『待ってて』も『必ず戻る』の言葉も。
 そして『忘れて』も……『さようなら』もだ。
 一言も一筆もなく、前触れもなければ手掛かりも残さず、ある日唐突に彼は姿を消した。
 そうして気付いた。
 彼は約束をしなかった。いつか、の仮定ですら明言しなかった。
 未来を語っていたのは専ら自分ばかりで、それをくすぐったそうに時に茶化して彼は聞いてくれていた。
 未来を語ったのは自分。
 過去を垣間見せてくれたのは彼。
 過去を語る口でさえ重かった彼が、そう易々と未来を語りはしないと思っていたが、いつかは時間が解決してくれるのではないかと思っていた。……そう、共に過ごす時間が。
 なのにその時間は唐突に断ち切られた。
 彼自身の意思ではないかもしれない。
 事故とか、何か不測の事態に巻き込まれたのではないか。
 その懸念は、この部屋から消えたのは彼だけでなく彼自身の持ち込んでいたものまでが消えている事実で打ち消された。
 後は彼自身の意思であっても望みとは限らないという淡い期待だけが、永遠のような苦痛に満ちた一日をどうにかやり過ごしている、今の白馬を支えている。
 彼が居た時の一分は、一時間は、一日は、一週間は、瞬くように飛ぶように過ぎた。毎日会っていても時間は全然足りなくて、束の間でも会えない時はじりじりと餓えが胸を焼く。
 会えれば会ったで過ぎる時の早さに目眩がする程。会って話して、笑って怒って困ってあきれて、そして触れて。
 その頃と今が同じように時間が流れているだなんて信じられないのに。
 一分が、一時間が、一日が、一週間が、長く果てない苦痛でしかない。
 彼の好んだお菓子をいくつ並べても、それは減らずにいつしか悪くなるだけで。
 昨日と同じような明日が来たとしても、そこに彼の姿はない。目覚めてはそれをかみしめ、頭では理解も諦めもするのに、いつまでも心は納得出来なくて朝を迎える度新たに、そして何度でも繰り返し胸は痛んだ。
 何故、どうしてと問う相手はいない。
 ここに答えがないと分かっていても、ここは白馬の部屋で、白馬の場所で。
 彼が確かに居た場所でもあるから、今、ここに姿はなくとも事ある毎に残像のようにそこにいた彼を思い出してしまって、離れる事も出来ないでいる。思い出すのは辛いのに、思い出や気配すらいつしか薄らいで消えていくのを恐れている。
 相反する感情に揺らぎながらも、それでも自ら離れは出来そうもない。
 彼と共にに居たこの部屋を彼は捨てて行ったのに、白馬は切り捨てられない。
 少なくとも、今はまだ。
 そうしてただ仄かに甘い薫りが残される時間が止まったみたいなこの部屋に、白馬だけが残された。


           END

◆ペーパー小話より◆白×快◆


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