あくび




「七回」
 不意に声が意識に割り込んで来て、白馬はゆっくりと一度瞳を瞬かせた。
 彼の存在を忘れていた訳ではない。
 彼がそこに居るのはしっかりと認識していたし、相変わらずとりとめなく振られる彼独特の会話にもそつなく応えていた、つもりだ。
 ただ、少しばかり彼の声を正確に捉えるのが難しくなっていて。
 ただ、少しばかり周囲に意識が散漫だったのも確かで。
 だから、その声は唐突に耳に届いたようであったし、彼の呟きの意味する所は一向に分からなかった。
「……何が、七回ですか?」
 振り向いて問うと、長椅子の背に肘を引っ掛けて足を組みTVにリモコンを向けていた快斗が、首から上だけくるりと振り返り真顔で白馬を見返した。
 その顔に笑みはない。
 見たところ不機嫌な色こそないものの、何やら意味ありげに視線だけが揺るぎ無く突き返されて来る。
「快斗?」
 名で応えを促すと、彼はふいっと視線を逸らす。
 ビイン、と余韻を残してすっかり彼のお気に入りと化している57V型液晶プロジェクションテレビが沈黙し、百十グラムのプラスティックが彼の手を離れた。
 ぽん、っと投げ捨てられた筈のリモコンがソファーに辿り着く前にいつも通りな鮮やかな手際でどこかへと姿を消す。
 よ、っと腕を振り上げ振り下ろし、その勢いで彼は立ち上がり、
「オマエ、昨日夜更かしした?」
 つかつか、と歩み寄ったかと思うと白馬の前で足を止めた。
 手が伸びてするりと白馬の頬を撫でる。
 まさに恋人にするような仕草だった。
 そして彼は確かに白馬の恋人な訳だが、そのわりに彼からのアプローチには恋人らしい甘さは希少だ。
 流石にまるっきりとまでは言わないが、自発的に快斗からもたらされる恋人らしい行為など滅多にお目にかかれるものではないし、たまにあるにしてもその八割は思わせぶりな言動に彩られ白馬は結局振り回されて遊ばれているばかりの現状だ。
 そんな風だから、束の間頬を過ったてのひらにしたって白馬が勝手に心浮き立ち期待をしたくなるだけで……彼から触れられたという、それだけにでも。
 けれど彼にすればさして意味のない何気ない一動でしかないのだろう。一呼吸分だけ触れて残酷なまでに素早く離れてしまう指先とてのひら。
 たった一瞬のその温度を感じ取り、すり、と懐きたくなる、衝動。
 『七回』の、質問の答えは宙に浮いたまま。
「白馬?」
 怪訝に見遣られ、慌てて首を横へと動かした。
「……いいえ、さほど遅くは」
 雑事に追われていつしか就寝時刻が夜半を大きく回るのも、白馬にとっては別段珍しい事ではない。
 そもそも年末年始から一月いっぱいなんて頃合いは一見のんびり過ごせそうで実際はそうはならない季節の典型だ。
 風邪で疲労でと何かにつけ人手は不足し、三月決算に向けても追い込まれこの時期に元気な者ほど走り回らされる結果となる。
 母の事業に、叔父の研究所、そして探偵業に学業。
 どれもこれも自分で望み選んだものばかりだから忙しかろうが追われようが、これこそ日常と捉えて白馬は敢えて睡眠不足と訴える要素はない。
 その答えに、快斗は「ふむふむ」と一つ二つ頷く。
「分かった。んじゃ、もうオシマイ」
「え、待っ、あの、栞を」
 指が肩を越えて伸び、開いていた蔵書が閉じられる、重々しい、音。
 うろたえ向き直った先で、栞を挟まれる間もなく無情にも太い洋書はあっさり閉じられ机の端に寄せられてしまっていた。デスクに広げてあった未読の資料も書きかけのレポートもどうやったか一動作で脇に纏められている。
 ああ、と眉間に寄せた皺を彼の親指がすっと撫でて、喉の方で笑う気配に合わせた視線の先。
 覗き込んで来た瞳がゆるり細められて。
「七回」
「…………?」
 繰り返された呟きに、首を傾げた白馬に向けられたのは少しだけ困ったような小さな微笑み。
 躊躇いなく伸べられた手が頬に添えられ、今度は束の間でなくその場に、……頬にと留まる。
 肌に添われた温度が不意に引き起こした人肌恋しさに突き動かされて、てのひらの上自らのてのひらを重ね、頬とてのひらで感じる快斗という存在。
 てのひらはするり逃げ出しもせず、彼もまたそのままにひっそりと白馬の前に佇む。
「オレが来てからオマエがした、あくびの回数だよ」
「僕が、ですか」
 ぼんやりと聞き返した声に返されたのは今度はもっとはっきりとした苦笑いだった。
「そ、オマエが。知らねぇの? 生あくびばっかり繰り返してんのはね、調子悪い証拠なんだってさ」
 決めつける声はあくまでも穏やかに響く。
 それで気づいた。
 訪ねて来てから話し掛けてくれていた彼の声の声量もテンションもいつもよりずっと抑え目だった。
 光が降り注ぐような彼独特の弾ける笑い声や隙を見ては仕掛けられる他愛のないいたずらが一度として見られず。
 時折向けられていた視線はまるで何かを推しはかるようなものだった。
 それでも白馬としては体調が悪いなんて自覚はてんでないから、あくまでも首を横に振る。
「君の気のせいですよ。僕は別にどこも、」
「七回」
 きっぱりと遮る声は確信に満ちて、目の前に突きつけられた七本の指。
「たった一時間とちょっとの間でだ。しかも寝不足じゃないって、今、言ったよな?」
 さぁどうだ、これをどう申し開きする?
 そう仁王立ち、目前で腕組みされて片眉を引き上げられては咄嗟に返す言葉もない。
 と、彼の手が白馬の前髪を梳き上げてそのままペタリ、額にあてられた。
 そして、てのひらの代わりに今度は快斗の額が……コツリ。
 やけに親密な熱を測る仕草に、喉まで出かけた反論も言い逃れも口に辿り着くまでにあえなく立ち消えるしかなかった。
 思わず息を詰める。
 間際に伏せられた瞼があって、睫毛の数まで読めそうな程の至近距離。
 そのままで数秒、目を開いた彼は勝ち誇った声を上げた。
「ほら、絶対オマエ熱あるって!」
「…………これは君のせいですよ」
「あ?」
 口の中での小さすぎた反論……負け惜しみ、とも言うかもしれない、を聞き逃した快斗に力なく『何でもない』と手を振って見せて。
「本当に平気ですから。どこも何ともありませ、」
 ありませんから。
 そのまま続く筈の台詞はぶざまにも『ふぁ』と溢れ出た中途半端な生あくびに遮られた。
 バッと両手で口許を覆うも時既に遅し。恐る恐る上げた視線は勝利の色を目に湛えた目撃者のそれと見事にかちあって。
「八回目。もう後はないぜ。どうする、白馬」
 まるで脅しをかけるような声音に「どう、とは……?」と問うと、彼はひどく楽しそうに数度瞳を瞬かせた。
「二者択一だ。今すぐ寝るを選ぶなら一緒に寝てやるよ。ただし、まだ意地張って寝ないなんて言い張るなら、」
 両腕が首に回り、快斗は白馬の膝に乗り上げる。慌てて背に回した腕は最早、条件反射に等しい。
 ギシ、と椅子だけが不満を訴えた。
「オレが今晩、一睡もさせてやんない。……さあ、どうする?」
 直接耳に注ぎ込まれる熱っぽい脅迫は媚薬の如く脳内をとろけさせ、至近距離で緩やかに笑みを形取る唇は極めて一方的に二者選択を迫り、眼差しが決断を誘いかける。
 互いの腕の中、柔らかな拘束が彼に抗う術をことごとく奪って。
 白馬はとうとう白旗をあげた。


*   *   *


 くあ、と大きなあくびを一つ。
「流石にこの時間になるとキッツイよなぁ〜」
 既に夜明けまで後僅か。
 盛大に彼を煽ったのは確かに快斗自身だが、たがが外れた白馬がここまで頑張るとは思わなかった。
 本来の目的からするに、もしかして本末転倒だったかもしれない。思わず苦笑が漏れる。
 彼のせいだけに出来ないで煽り煽られたのはお互い様だけれど、それにしても。
「頑張り過ぎだっての」
 つい先ほど沈没し今は隣で泥のように寝ている恋人は肘で突いた位じゃ目を覚ます様子もなく、ただ満ち足りた微笑みが口許にほんのり残されている。深い寝息は規則正しく繰り返されて、眠りに落ちた穏やそうな横顔はどこかあどけなさもあって微笑ましいような、少しばかり悔しいような。
 深い眠りに沈んだ彼は横でぼやいている位では、当然変化なし、だ。
「まーったく」
 よいしょ、と重い身体で白馬を乗り越え、まずは第一関門である、枕もとの目覚まし時計を捕まえて、アラームを静かにオフに。
 いっそ電池ごと抜いてやろうかとも思ったが、流石に目を覚ました時に時間がまるで分からないと御曹司が動揺しそうな気もするのでそれは思い留まる。
 床に脱ぎ散らしたジーンズの後ろポケットから発見したケータイの電源は無造作に落とした。
 更に躊躇いなく白馬のケータイを手にするとこちらもアラームを解除してウェイクアップもチェックしてから、電源オフ。
 内戦のコール音をサイレントに設定して念を押してその上から上着をかけておく。
 これで点滅する光すら封じ込められた。
「尽くしちゃってるよなあ、オレ」
 ヨロヨロと壁伝いに進み、お手製の『起こさないでね♪』プレートをホテルのように寝室の外側のドアノブに引っ掛けて、しっかり、施錠。
 仕上げに遮光カーテンをきっちりと引いて朝陽の対策もばっちり。これでもまだ彼の眠りを妨げるものがあるなら、実力行使に及ぶ覚悟だってある。
「完璧、っと。こーんな手ぇかけて貰えるなんてコイツ幸せな奴だよなぁ、ホント」
 ここまで愛されてる自覚なんてないんだろーなー、なんてぼやきながら、流石にいつもの軽快な動きとはかけ離れのろのろと四肢を動かして。またも白馬を乗り越えて、彼の隣、空いたスペースに身を滑り込ませた。
 迎えるのは未だシーツに残っていたほのかな体温と、それよりも確かに暖めてくれる、白馬の体温と。
 これだけ苦労して体調管理の出来ていない御曹司の面倒をみてやったのだから、もう少しばかりこの温もりを独占したって許されるに違いない。
 陽が昇って、街が動き出して、多分それからもうちょっとくらいならば、きっと。
 そんな理屈をつけながら、大きなあくびをもう一つ。
 これは幸せなあくびだと、快斗は小さく笑った。


               (END)

◆サイト日記→mixtureより◆白×快◆


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