脱走金魚




 ピーピーヒャララ、ピーヒャララ。
 ドン、ツクツクドン!
 甲高い笛の音と小太鼓の祭り囃子が、未だ生暖かい風に乗って時折耳に届く。
 しかしそれも、参道の道沿いにずらりと並んだ屋台たちと、押し合いへし合い進んでいる人の川の賑わいに直に紛れる運命であったようだ。ざわめきを縫い不意に空に向かっている小さな音が、否応なく祭り気分を盛り上げる。
 だが、それよりも間近で祭り気分を盛大にまき散らしている賑やかさの筆頭が、耳傍で歓喜の声を上げた。
「新一、へーじ! あそこ、焼きモロコシ!」
 叫んだ時には傍らにいた筈の快斗は進行方向とその反対にと真っ二つに分かれている人の流れをものともせずに、猛然と斜め向かいの屋台へと突き進んでいる。
 無造作に人の波を掻き分け進んでいるように見えて決して人を押し退けたり突き飛ばしたりはしないらしく、流れを無視した動きにみえるのにも関わらず迷惑顔一つされる事もなく、器用に泳ぐように彼は人波をすり抜ける。
 手には既に半分になっているリンゴ飴があるが、彼はその前に卵せんべいとオムフランク、かき氷に玉こんにゃくなどを制覇している。
 ちなみに平次が止めたにも関わらず手を出したたこ焼きは案の定『それなり』の味で、束の間テンションが下がった快斗だったが、テキ屋価格のやたら割高な缶ビール一本で機嫌はあっさりと浮上し、今となってはもう誰にも止められそうもない。
「なんちゅーか、こう……いつもの五割増しくらいに元気やなぁ」
「予想通り、だろ」
「予想以上に、かもしれん。こーゆーん、好きやろーと思とったけど、ここまで全力で満喫しよるとは思うてへんかったし」
 誘った甲斐あったからええねんけど、と付け加えると、誘い甲斐がなくて悪かったな、と新一がつくね串を片手にぼやく。ちなみにこのつくね串も快斗がゲットしてきたものだ。
 これに限らず、快斗は今回の外出において、正しくキーパーソンなのである。
 曰く、祭りなんか興味ない、外はまだ暑い、出かけるのが面倒くさい、人込みがうっとうしい。
 挙句、わざわざ揉みくちゃにされに行くなんて気が知れないとまで散々っぱらごねた新一を、誘った平次がとうとう匙を投げたというのに、どんな駆け引きがあったのか説得の仕方をしたのか、はたまたどう釣り上げたのやら最終的に当日である今朝には新一は快斗の誘いに応じていた。
「絶対に楽しいよ!」
「せっかくのお祭りなんだから一緒に行こう!」
 そんな安直な誘い文句に乗ったのでは断じてないと信じたい。その位で応じるならば平次が誘った時点で頷いてくれてたって構わなかった筈だ。
 誘い文句なら平次も冗談混じりにや、真摯に、また懇願も併用したり、押して引いても使い分け、しつこくなり過ぎないようだけは気をつけて多数繰り出していたのだから。
 物で釣ろうとしたり交換条件を提示してみたり、またからめ手として快斗を誘ってみたりと思いつくままあれこれと手は尽したものの、新一の態度は一貫して『やなこった』『面倒臭ぇ』『勝手に行って来い』に終始している。
 ……いや、していた。
 つい昨晩までは、確実に。
 ところがあれだけ頑固に強固に意固地なまでに断固拒否の姿勢を貫いていたにも拘わらず、どうやって快斗は口説いたのやら、今、新一はつくね串とビールをちびちびやりながら平次の隣りを歩いているのだ。
 それまでの苦節数日、説得の日々を思うと平次にしてみればやや複雑な思いもある。
 だが、それ以上にやはり顔はへらりと締まりなく笑み崩れ、心は浮き立つ。
 来てしまったからには楽しむ事にしたのか、境内までの道程を共にのんびりとそぞろ歩く新一の表情はそこそこ穏やかでそれなりに楽しそうですらある。
 こうなると、どう口説き落としたのかは謎なれど快斗の手練手管口八丁手八丁は神業として平次に崇めたて奉られた。
 快挙だ。
 いや、大快挙だ。
 夏の祭りと言うには些か遅い九月頭の開催は、秋の祭りと呼ぶにはまだまだ残暑が厳しい。金魚すくいにスーパーボールすくい、ヨーヨー釣りにかき氷など水ものな屋台が軒を連ね、そぞろ歩く中には女性陣の華やかな浴衣姿が華を添えている。
 暦や祭りの名称はともあれ、平次の認識は間違なくまだ夏である。そして居並ぶ彼にとっても夏な筈である。
 しかも不思議な事に、彼が言い張っていた通りに未だ残暑は残り、むしむしとした暑さに人込みが追い討ちをかけ、歩くも何も牛歩でしか先に進めない有様だと言うのに、新一はもう帰るとまだ言い出してはいないのである。
 これはある意味、奇跡かもしれない。
 そして快斗ほどに全力で楽しんではいなくとも新一の機嫌はそう悪くもないようなのだ。
 これもまためでたい事だが、平次の貧乏性的な一面が、何がどうして新一の機嫌が上昇傾向のままなのかが分からないのでは、どこで下降スイッチが入るかも分からない、これは非常に落ち着かないと囁いている。我ながらかなり小市民的だ。
 ともあれ祭りは平次が予想していた以上の人出だった。
 恐らく通常なら道幅五メートルはあるかと思われる参道も、今日は両側に軒を連ねる屋台が幅をきかせ、その上『お祭』ならではの人通りが盆暮れの高速道路の大渋滞のような有様を引き起こしていた。
 せいぜい半歩ずつしか先に進めない現状は、言い出しっぺの平次ですら徐々に気力体力を削ぎ取られてしまっている。
 魔法みたいにそこをすり抜けて快斗があれこれゲットして来るのでなければ、屋台で何か一つ買い求める労力ですら、振り絞れたかどうか分からない。
 それ程に境内までの道程は果てしなく人波で埋まっていた。
 勿論、参道へ辿り着くまでも道は車の渋滞で駐車場もとっくの昔に満車、公的交通機関を利用しようにも最寄り駅には既に入場規制がかかっているらしい。
 ケータイでニュースをチェックしていた快斗が『歩いて来れる距離で良かったね〜』と笑ったが、それだけの人出で寿司詰めとなった参道は最早普通のスピードで歩く事すら出来やしない。
 如何に祭り好きがDNAに組み込まれたお祭男な平次でも、地元でない上にこの人出だ、お祭として楽しむには気力と体力と根性と相応に人込みすら楽しめるツレが必要だった。
 幸いにも、新一はまずまずの機嫌を維持し、快斗は至って祭りを楽しむのに労力を惜しまない人物であったので、やや圧倒されつつも平次もどうにか現状を楽しめている。
 しかし、ここでツレを見失ったら流石にしゃれにならない。
 突き当たりの神社に到着しても恐らく、夕方の山車待ちや夜の花火の場所取りの人だかりで境内はごった返しているに違いない。
 速やかな合流は難しそうだし、最悪、工藤邸に帰り着くまで再会出来ない恐れもある。
 携帯電話という力強い文明の利器があっても神社の境内までひたすら続く参道と屋台では、ろくな目印にならないだろう。
 しかも人が多過ぎるからか電波が錯綜し、とうとうたまに思い出したように電波が一本立つかどうかで電話もメールもほぼ繋がらなくなっている。
 参道が山手へ向かっていてそもそも電波があまりない所にこの人込みがとどめを刺しているとしか思えない。
 なのに、電波すら飛ばない人波をどういうセンサーを体内に内蔵しているのか、快斗は何かを見つけてはするすると勝手気ままに泳いで行き、残る二人が足を止めもしなければ待ち合わせの場所も決めずに先に進んでいるのに、不思議と戦利品片手に二人の元へと戻って来るのだ。
 今もまた、焼きとうもろこしがざっくり二、三本突っ込まれたビニール袋を二袋も握り締め、どこからともなく快斗が迷いなく速やかな帰還を果たした。
 買えたよー、と報告するように二人に戦利品を振って見せる快斗の顔はへにょりと綻び幸せ一杯な笑顔だ。
「ブーメランみたいだな」
 同じような事を考えていたのか、からかうように呟いた新一に平次も笑う。
「せやな〜。忠犬ハチ公とか伝書鳩っちゅーか」
「ああ、精密機器ってよりは本能っぽい感じだよな」
「……あに?」
 手を空ける為にか残りのリンゴ飴を咥えたままの快斗に、何でもないと新一が首を振る。
「とりあえず高性能やっちゅー話や、気にせんで。それより咥えながら喋ったら落としてまうで」
「んーん、らいりょーる! ほれより、あい!」
 器用にリンゴ飴を頬張りながら、快斗は握り締めていた焼きトウモロコシのビニールを平次に渡す。
「なんや、くれるん?」
「んーん、これも持ってて♪」
 片手が空いてリンゴ飴なしのはっきりした発音に戻った快斗が悪びれずのたまう。
「やから、荷物持ちちゃうっちゅーのに」
 ぼやく平次の手には既に快斗がゲットして手をつけていない戦利品が山だ。
 綿菓子の袋と、水ヨーヨー、お持ち帰り用だと言う回転焼き……つぶあんや白あん、チョコやカスタードの入った今時の代物だ……の、十個入りが一箱と、金魚すくいやスーパーボールすくいで良く見かける小さな透明のビニール巾着に入った優しい色の金平糖が一袋と大粒でカラフルなどんぐり飴が入った一袋。
 全て快斗から託されている。
 要するにどれもこれもが悪びれない快斗から『ちょっと持ってて』と押しつけられた結果だ。
 普段なら快斗相手に荷物持ちの真似事をする程お人よしではないつもりだが、今回だけは新一を引っ張り出した功績を買って『しゃあないなぁ』と大目に見て、一つ持ち、二つ持ちする内にいつの間にやらこんな有様になった。
「いーじゃん、帰りにお隣寄って皆で食べようよ。博士甘いもの好きだし、哀ちゃんも焼きモロコシなら食べてくれるよね?」
 突然振られた新一が、首を傾げながら「……多分」とあやふやな返事を返している。
「あ、そうだそうだ証拠写真! はい、新一もーちょっと平次の方、寄って。平次、戦利品が入ってない、ちょい持ち上げて、うん、いいよー、はい笑って〜!」
 二人の前に快斗が立ち並んで自分撮りの要領で唐突にケータイを向けられて、ろくに身動きも出来ず言うがままに撮られた写真に探偵たちは揃って顔をしかめる。
 幾重にも重なったシャッター音とフラッシュの瞬きは、確実に快斗のものだけではなかった。便乗が出たぞ、としかめっ面で呟く新一の隣で平次はコメントを差し控えて苦笑う。
「で、何や、証拠て」
 問うてるそばから快斗はケータイをいじり、どうやら満足に到ったらしく、へらりと笑う。
「添付して送っちゃった」
「誰にだよ」
 また変な事を始めたのでは、と気色ばむ新一ににらまれても、快斗はケロリとしている。
 平次的にはむしろこの電波の不安定な人込みでよくぞメールが飛んだものだとそちらが気になったが、ここで口を挟むとたちまちに話が脱線するだろう予測はつくので、口に出すのは止めた。
「白馬。どーだ楽しいぞー、羨ましいだろザマーミロ、メール」
「あー……」
 なんだ、と新一の肩から力が抜ける。
「いけずやなぁ。そんなん送っとらんで、白馬も誘ったったら良かったやん」
「誘ったよ! けどアイツが勝手に帰って来なかったの! 事件がどうとか言って!」
「あー……」
 探偵たちは揃って曖昧な相槌で視線を泳がせたりうなだれたりした。この手のやり取りは身に覚えがあり過ぎて今回が我が身でなかったにしろ実に何だかいたたまれない。
「なんか、向こうで邦人が連続で行方不明になってるとかで、ヤードから協力要請が来てさ、すっ飛んでったっきりてんで帰って来ないでやんの」
 事件で『帰って来なかった』先がちょっとした出先やら近いけど連絡の取れない孤島などからではなく、大陸も海をも越えたはるか彼方の島国からと知ってはそう簡単に帰れまいと思うものの、事実白馬は身軽に海を渡って行き来しているようでもあるので、そういうものかと流しておく。
 そういう意味では平次も実に軽やかに身軽に大阪東京間を行き来していたが、上には上がいると言う事だ。
「ああ、あれか」
 新一が記憶を辿るみたいに視線をやや上方へ向けて呟いた。
 声は潜めたものの、この人込みで周囲に届かない声音というのはある意味不可能で、新一の気持ちとは裏腹にそれは気休め程度にしかならない。
 ましてや三人はやたら目立ち周囲からは並々ならぬ関心を向けられてもいるのだが、そこまで気にしていては普通になんて暮らしていけない。興味本位な視線を新一は、綺麗に無視している。
「……その話なら警視庁でちらっと小耳に挟んだな。確かまだ報道規制かかっているだろ」
「みたいだね。オレには意味ないけど」
 快斗が鼻で笑う。なにせ快斗は曲がりなりにも怪盗キッドその人である。情報収集なら彼にはお手の物だ。
 その上今回は白馬本人から大まかにであれ事情を聞いているのだから、下手な警察関係者より詳しくて当たり前である。
「そもそもさぁ、邦人がらみだか不可能犯罪だか知ンないけど、わざわざはるばる極東日本から学生の探偵呼びつけるってどんだけ非力で他力本願だよ、スコットランドヤード!」
 辺りはばからず火を噴く勢いで毒づく快斗に探偵たちは顔を見合わせ苦笑うばかりだ。
「そらほら、白馬が向こうでそんだけ実績積んで、頼りにされとる言う事やし」
「だよな。別におもねる訳じゃねーけど、捜査機関と友好関係を結んでおけるならその方がいいと思うぞ」
「せやで。持ちつ持たれついうこっちゃ。まぁ工藤は上手いこと顎で使い過ぎやけどな」
「そこを使われてると思わせないのがコツなんだ。誰かさんは身を持って知ってたと思ったけど?」
「そのいかにも悪巧み中いう目ぇ、やめて貰えまへんか工藤サン」
 悪びれない新一を、日々顎で使われている自覚が薄い筆頭と目された平次は、苦笑半分どこか眩しく眺めやる。
 成程、頼られていると思っていた内の幾つかは顎で使われていたのだと言う事らしい。そんなものは自覚していたとしても、結局新一を前にすれば、なんだってしてやりたいのだから自分に関してはさしたる問題でもない。
「人聞きの悪い。普通の目だろ」
「よぅ言うわ、ジブン、ごっつーいけずな目ぇしとったで」
「気のせいだって。それにいいだろ、当人に使われてる自覚がなけりゃ問題ねーんだから」
「そーいうとこが横暴やねんて。……まぁええけど。顎で使われとるん承知の上で使われとるんやったら、それもアリやしな」
 例えば、警視庁の高木刑事などは、そういう新一の計算高さにはまるで無自覚で。
 平次はといえば薄々使われていると感じつつも希望的観測も交え見て見ぬふりをしていたのに、今し方仕方なく便利に使われている節もあると自覚を受け入れた、所だろうか。
 いいように使われているとなるとへこみもするが、どちらにせよ新一を前にすれば自分に出来る事はなんだってしてやりたいのだし、最悪、使えない奴より使えると思われているのだと思う方が、精神衛生上格段に良い。
 そして、その極みが、彼の流した視線一つで意を汲み取れると言う事なら、使われるのもそれを突き詰めるのも、悪くはないのではないだろうか。
 悪態ばかりが滑らかな癖に、それ以外の言葉は不器用に抱え込むばかりの彼だから、そのまなざしから受け取れるなら。
 さらりと流した平次の台詞に、新一は呆れ混じりの視線をちらりと寄越して、小さく口の中で何かを呟いた。
 どこか軟らかく解けた表情に、平次は微かな甘さを感じる。
 紡がれた言葉は恐らく『ばーか』か、何か。つまり、とあるフィルターのかかった平次の耳には恐ろしく甘く響く、彼特有の悪態か何か、だ。
 束の間、人込みも押しつけられた荷物もましてや話題提議した友人ですら忘れて、平次は隣にある稀有な存在にしばし見惚れる。
 しかしそれも長くはなかった。
 少しばかり脱線したじゃれあいじみたやり取りに、残された一人が大いにむくれたからだ。
「何だよ〜二人してヤードの味方すんのかよ」
 その言葉に、はた、と平次は現実に立ち返る。
 そうだった、元はと言えば白馬についての云々から始まったのだった。
 それにしてもこの場にいない探偵の巻き添えで八つ当たりをされているだけだとしても、耳に痛い台詞だった。
 非公式な協力者としてや巻き込まれた第三者として現場に居合わせても、平次のやるべき事は一つだけだ。
 新一が、真実はいつも一つと言うのと同じで。
 その結果、警察の犬か、を始めとして様々な罵声を浴びて来た。基本、楽天的な性質の平次だからいちいちとりあったりはしないものの、それらは時折平次に爪を立てピリピリと染みる傷を残していく。
 とっさに返す言葉に詰まった平次の横から、凜とした声が場を掬い上げた。
「しねぇよ。別にヤードにそんな義理もない」
 さらりと述べた新一に快斗は怪訝顔だ。
「ただ白馬にはちょっとは義理もあるから言うけど、事件を前にして無意味に長引かせようと思うような探偵なんか、いない」
 そして、白馬は探偵だ、と新一は淡々と続ける。
 快斗の瞳に一瞬読み取れない色が過ぎり、継いで分り易く拗ねた声で彼は、ちぇっ、とぼやく。
「なンだかなぁ。探偵ばっかで分かり合っちゃって、ズルイよー……」
「ほな、黒羽もなるか、探偵。ごっつー親切に手取り足取り教えたんで〜」
「それはやだ。てかこれ以上局地的に探偵率上げてどうすんのさ」
 有能な探偵ほど事件が向こうからやって来るし、有能であるが故に凡人が見過ごす日常に『事件』のにおいを嗅ぎつける。
 『事件』の全てが全て血なまぐさいものばかりではないとはいえ、東西探偵……西には『元』の一文字がつくが、加えて英国帰りの探偵がいるだけでも東都はやたら事件率も死体遭遇率もうなぎ登りなのだ。この上快斗までが怪盗から探偵にクラスチェンジなどしようものならどうなる事か。
 超一流の怪盗が平凡な探偵に収まるとは思わない。推して知るべし、だ。
 『せっかくやし奇術師探偵カイトとかどうや?』と茶化す平次に快斗は、ベェ、と氷イチゴで赤く染まった舌を出す。そこを狙い澄ましてカシャ、とお馴染みの軽いシャッター音が新一の手元で鳴った。
「激写。今流行のぶさかわ顔」
「ひどっ新一ひどーいっ! そこ『ぶさ』いらないから!」
 そこで平次なら可愛いではなく格好良いと言ってくれと訂正を要求する所だが、快斗的には『ぶさ』がなければかわいいには問題なし、むしろ褒め言葉と受け取るらしい。
「ええやん、件名『ぶさかわ』で。添付のみの空メールやったら迷惑メールフォルダに入りそうやけど、件名あったら平気やろぉし白馬に送ったりーや、工藤」
 平次のそそのかしに新一は、ぬかりなし、とニヤリと笑う。
 彼はこのほとんど電波のない界隈にも動じずすかさず強引に電波を調達していたようだ。人の悪い笑顔で披露されたケータイの液晶画面には送信済みの文字と途端に圏外に変わったアイコンが彼の強運を示している。
「任せろ、もう送信した」
「は、あああっ? ウソっ何言ってんの新一ィィーッ!」
 新一のケータイに鼻先をつけんばかりに詰め寄った快斗の絶叫に呼応するように、彼の握り締めたてのひらの中で厳かなクラッシックを奏でブルブルとケータイが存在を主張する。
 肩から跳ね上がるようにして、快斗は『うひゃあ』と身も蓋もない叫びをあげた。
 自らの持ち物にもかかわらずケータイそのものを放り出しかねない驚きっぷりに、苦笑しつつも新一が腕をつついてせっつく。
「さっさと出ろよ快斗」
「うそっ。なんでかかるんだよ〜、この辺ほとんど電波ないのにっ」
「ジブンのメールかて工藤のメールかて飛んだんやから、かかって来てもなんもおかしないやん。どぉせ白馬やろ? ほらほら、早よ出ぇて」
「分かってるよっ、出ますってば! ったく、いつもそんな速攻反応したりしない癖にっ。今日に限って何だよなーもう」
 そのタイミングからも台詞からも、とあるクラッシックに着メロを設定されている件の主が誰かは、探偵でなくとも容易く想像がつく。ぶちぶちぼやく快斗を新一が肘でこづいた。平次も右に倣う。
「こら快斗」
「ほら黒羽」
「分かってマス! もしもしっ!」
 探偵コンビに左右から煩くせっつかれふてくされ顔の快斗は漸くケータイを耳にあてて、破れかぶれな勢いのまま電話に出る。
 あまりにも快斗が無造作にメールしていたので気に留めていなかったが、実際即座に返って来た電話に、平次はふと小首を傾げた。
「……ロンドンって時差九時間くらいやったか?」
 こちらがもうすぐ午後一時だから、向こうは午前四時、日の出の正確な時間までは把握していないがいわゆる夜明け頃だろうか。
「今はサマータイムだから八時間だな。向こうは五時か」
 冷静に新一が訂正を入れるが、それでも早朝と銘打たれるべき時刻には違いない。世間一般的に緊急時でもないなら非常識と烙印を捺されても致し方ない時間だ。
 それも辛うじて、届いた当人の都合の良い時に見て返信すれば良いと言うメールである、という一点においてのみお目こぼしが貰えるかもしれない、そんなレベルの非常識だ。
「しもたー、寝とるとこ起こしてもうたやろか」
 ところが、どうも快斗のケータイから漏れ聞こえる白馬の声とぶちぶち反論している快斗の発言からするに、問題点はそこではないらしい。
 小さく罪悪感を感じていた平次だったが、それも長くは続かなかった。
「快斗の『ぶさかわ』送ってやったんだ、礼こそ言われても文句を言われる筋合いはねぇよ」
 何故そこで威張る、というタイミングでふん反り返って開き直る新一に、ついつい笑ってしまう。
 確かにそれが新一の『ぶさかわ』写真だったら、早朝だろうが深夜だろうが、送り主には柏手打って感謝を唱え、速攻で写真はコピーを取って保存をかけてシークレット壁紙設定間違いなしだ。
 恨み言などひっくり返しても出ては来ない。
 ちなみに先程快斗が白馬に送ったスリーショットも後でこっそり転送して貰おうと平次は心に決めている。願わくば新一とのツーショットだが、贅沢は言えまい。
 騒ぎの間にも、大名行列ばりの流れはじわじわと進んでいる。
 電波も途切れがちで聞き取りにくいであろう電話に耳を澄ませている為か、はたまた電話の向こうの相手に気を取られている為か。
 やや遅れがちになる快斗の歩調に合わせるように、新一は牛歩から更に歩を緩めゆったりと視線を巡らせながら歩を進めている。
 ふと、そんな新一の口許が柔らかく綻んだ。
「工藤?」
 どないした、と問えば、ちらりと視線で快斗を示して彼は笑う。
「いや。スイスイ泳ぐみたいにどこへでも行くからって、魚に喩えたりしたら震え上がって嫌がるだろうな、と思って」
「せやろなぁ。けど分かるわ。スイスイ、ちゅうかひらひらゆーか、……尾の長い金魚でも見とるみたいや」
 小さな女の子のふわふわとした兵児帯の華やかな浴衣姿とどこか似通う華やかさと掴み処のなさが、金魚を連想させるのかもしれない。
 金魚といえば、と平次は笑う。
「あの手のもん上手に避けて通っとったな、ほら、金魚すくいの屋台やとか」
「おもちゃの鯉釣りもだ」
「せやせや。鮎の塩焼きも近寄らんかったで」
 七月の祭りと九月頭の祭りでは、同じく『祭り』の冠を背負っていてもどことなく屋台のテイストが違う。
 それでも代表的な夏の屋台も秋ならではな屋台も、魚関係の物は綺麗さっぱり視界にすら入れずスルー出来るのが快斗のすごい所だ。
 当人には単なる死活問題だろうが、しようと思って出来るものでもない。
「けど海老イカタコは平気な顔して食うよな。やっぱり魚介類じゃなく魚が駄目って事か」
「魚、なぁ。味やろか、小骨が苦手で嫌いや言う人もおるけど」
「うーん」
 新一もはっきりとは聞いていないのか、小首を傾げている。
「それとも生臭い感じが苦手やとか、魚っちゅービジュアルがあかんねやろか。こう、尻尾とかウロコやとか」
「ビジュアルも確実にアウトみたいだけど、刺身だろうが、つみれ汁だろうが、魚肉少しだけ入れた魚の味なんか欠片もしないハンバーグでも駄目だった」
 刺身は快斗が来ているとは知らなかった隣の、阿笠の釣り旅行のお土産兼お裾分けで、ものぐさな家主である新一の代わりに何の気なしに玄関に出迎えた快斗は、悲鳴を上げて屋根の上まで本気で逃げる羽目になった。
 ちなみにこの騒ぎを面白がった哀の更なる実験によりつみれ汁、イワシバーグの不可も証明されている。
 勿論、可・不可の基準は魚の種類や大きさでもないようで、食用かどうかでもなく、金魚だろうがじゃこだろうが、魚っぽいシルエットではないマンボウだろうがウナギだろうが、その辺りは分け隔てなくアウトらしい。
 と、新一は言う。
「せやったら、加工品はどないや?」
「うーん、どうだろう。ラーメンのなるとには悲鳴上げたりしなかったけど、食ったかってーと……。そういやかまぼこやごぼ天とかも食ってるとこ見た事ない気がするな」
「……それ、ホンマやったらごっつー徹底しとるで……」
「……だな。そもそも魚丸ごとなら宅急便とか冷蔵庫開ける前から「イヤな気配がする」とかって感知するし、GW前後は絶対空は見上げないし、『魚』って単語言いかけただけでも半泣きで逃げるんだから相当だよな」
「なー……、それ殆ど超能力ちゃうん」
 嫌いな物にはそれなりに敏感にはなるだろうが、それにしても強烈だし極端だ。
「分かんねぇけど、つくづく不思議だよな。その癖、鮫とは接近戦してたような……」
 イルカやクジラなどの哺乳動物はセーフなのか、と思いかけて、鮫は違ったか、と思い直す。三大珍味の一つキャビアは、チョウザメの卵だ。イコールで哺乳類な訳がない。
「接近戦っていうからには仕事絡みやろ。やむにやまれずちゃうん、それ。平気なんやのぅて」
「……そうか。そうかも。流石にあの格好の時に泣いて逃げる訳には行かねーか」
「そらアカンやろ。ファンが泣くで」
 月下の貴公子、平成のルパンとうたわれる怪盗キッドのファンには鈴木園子を筆頭に、やたらキッドに夢見がちなファンが多いのも周知の事実である。ライバルを自称する鈴木の翁や中森警部などもキッドのそんな姿は是が非でも見たくはない筈だ。
 ケータイを耳から放さずにいるのに探偵たちの交わす不穏な会話を感じ取ったか、快斗が新一に、そして平次にうろんな視線を寄越す。
 それに対して、なにもない、なにもないと平次は笑って誤魔化した。
 新一はと言えば完全に素知らぬふりでビールを呷り、今その口で快斗を肴にして盛り上がっているとは欠片も悟らせない構えである。
「気をつけろ服部。快斗、唇読めるぞ」
 その上、目で笑い、あろうことかビール缶で口許を隠しながらそんな事をさらりと言うのだから、新一も相当にしたたかだ。
 残念ながら平次の分かり易い誤魔化しなどで快斗が流されてくれよう筈もなく、ケータイ片手の快斗の追及の視線がザクザク突き刺さり激しく痛い。
 新一が素知らぬ顔を保っているので疑惑のまなざしは完全に平次一人へと向けられた。その視線からするに通話を断ったら最期、平次が追及の矢面、標的となるのは必至だ。
「ずっこいわージブン」
 笑いながらぼやいて、平次はひとまず不穏で楽しい他人の不幸こと魚談義に幕を降ろしたのだった。
 ざわり、と群れた人の中で空気が大きく揺れる一瞬がある。
 それは群衆の中の一部から発生して、大きな広がりとなる、一番初めだ。
 それに気づいて表情を引き締めたのは、新一が目を凝らして人波の向こうへと視線を走らせたのとほぼ同時だった。
 か細い悲鳴を引き金に、次の瞬間には一点から扇状に悲鳴と秩序が崩れた動きがぶわりと波のように広がる。境内へと向かっていた流れと、引き返していた流れ、どちらにも波及して大きく乱れた。
「きゃあ!」
「押さないで!」
「危ないっ」
 押されたり、突き飛ばされたりして上がる悲鳴と混乱を軸にして、雪崩のように周囲に混乱が起きる。転ぶ人、何が起きたのか分からないが故に引き起こされるパニックが、ドミノ倒しを引き起こす寸前で。
 悲鳴と怒号の隙間に「泥棒……っ」の声が届く前に新一が動いた。
「ひったくりだ」
 手にしていたビール缶を投げ捨てて、平次の手から水ヨーヨーを奪う。止める間もなかった。
「こっち来たら頼む」
「工藤っ」
 既に阿鼻叫喚になりつつある中を、さらりと一声残して瞬く間に濃紺の浴衣の背中が人込みに紛れる。
 すぐさま追うべく踏み出した足を、引き止めたのは背後から肩を掴んだ手だった。
「へーじ! 新一は!」
「行きおった。これ頼む」
 腕に抱えていたあれこれをろくに確認もせず快斗に押しつける。全部渡そうとして思い返し、一つだけ手許に残す。
「ちょっ、」
「ついでにちょお借りるで」
 拒否の間も与えず目についた快斗の頭上の仮面ヤイバーの面を指先にひっかけ、混乱の先端を見据える。
 ひげ面の男が向かって来るのが見えた。押し退けられたり突き飛ばされたり、また騒動から逃げようとする不規則な流れで、走る男の周囲と目前が、モーゼのように割れて行く。
 その前に、立ちはだかる細くも凜とした、背中。
「ホンマに、どっちが呼んどんねやろ」
 東の探偵か、元西の探偵か、それとも騒ぎ好きな怪盗か。誰が引き寄せるにせよこのメンバーではやはり平穏無事には終われないらしい、と平次は嘆息と共に面をつけ、混乱する流れを擦り抜ける。
 向かう先は分かっていた。
 そして己の成すべき事も。
 男は左腕で女性物のバッグ……巾着のようにも見える……を抱え込み、右手を威嚇するように振り回したり人を押し退けたりしながら、駆けて来る。
 どけ、と何度も飛ぶ声と険しい形相、荒い態度に、潮が引くように付近の人波が引く。だが、騒ぎを理解出来ている人と出来ないでいる人の狭間で新たな軋轢が起こり、将棋倒しになりかけて波及するよう周囲で更に悲鳴が上がった。
 怒号、悲鳴、叫び、……混乱に連れとはぐれたか、必死に名を呼ぶ声。
 見失いようのない背中は、逃げ惑う人波に逆らいただ独り男を待ち構えている。……泰然と。後を追いながら、振り回した男の右手に光るものを認めて、平次は叫んだ。
「工藤!」
 下がれ、と言って素直に従う相手ではないのは重々承知している。むしろお前が引っ込んでいろとにらまれるのがオチだ。
 しかも小さなナイフおろか鉄パイプや拳銃を向けられてさえも、怯む所か大胆に立ち向かうのが工藤新一だ。コナンだった頃も、新一であっても。下がっていて欲しいと願って叶うべくもない。
 けれど、飛び出して行くのが彼の性分だからと黙って指をくわえて見ているつもりもなかった。遅れを取った数歩分を、平次は一気に巻き返す。
 その時、一際大きな悲鳴が至近距離で上がった。パニック映画さながらに、男の目前に転んだと思しき子供が泣き声をあげ取り残されている。
 繋いでいた手が騒ぎで離れたのだろう、脇から飛び出そうとした母親を反射的に平次は片腕で遮った。急に目前を遮られた形になった女性が悲鳴を上げて闇雲に平次を押し退けようとする。
「どいて! チカ! チカ!」
「アカン」
「嫌、離してっ、チカが……っ」
「大丈夫やから、あの子は絶対助かる。せやからここに居ってや」
 揉み合い、乱れ打つこぶしを掴まえて、近くにいる筈の友人の名を呼ぶ。
「オーライ」
 場にそぐわない呑気な声だが、それだけで彼が平次の意を汲んだ事も後を任せても安心である事も疑わなかった。素早く女性から腕を放す。
 日常生活では軽い言動や悪ふざけ、いたずらばかり仕掛けてくる相手で手を焼かされてばかりだが、非常事態と事件現場において工藤新一に次いで信頼でき頼りになるのが黒羽快斗と言う人間である。
「ママ、ママッ……!」
 浴衣姿で座り込んだまま、涙でぐちゃぐちゃな顔を上げて、少女が泣く。白地に赤やピンクの花柄の浴衣に、赤と黄の兵児帯が二重に重なりふわりと金魚の尾のように広がっている。五つにもなっていないであろう子供だ。
 すぐにでも飛び出して行きたい気持ちをぐっと抑えた。こういった際の快斗が信じるに足るのと同様に、新一のタイミングも信じている。騒ぎの円の縁で平次は、軌道修正しながら新一へと目を走らせた。
 男へ真直ぐ視線を向かわせていた新一が、一瞬だけ視線で周囲を薙ぐ。視線は合わなかった。平次を捉えたかどうかも分からなかったけれど、それだけで充分だった。
 新一はぐっと指を引き絞っていた指を放った。ビシャン、と破裂音と共に水とゴムの破片が辺りに飛び散り、男は目元に腕をやって大きくのけ反る。
 と同時に、新一が数歩を一気に詰め子供を両手に抱えて脇へと転がる。砂煙と悲鳴の連鎖がみるみる広がった。
 ぶわ、と瞬間的に上がった砂煙が煙幕のように広がり、消えるのと同時に態勢を取り戻したらしい男が、血走った目に新一とその腕の中の子供に焦点を当てる。奇妙な唸りをあげ二人に足を向けた。
 一歩、ニ歩。
 新一が半身を起こし、子供を背へと回して見上げる。
 誰のものとも知れぬ悲鳴が尽きず潮が引くように開いた空間に男、そして新一と子供が取り残された。
 落ち着いて欠片の怯えも交じらない強い蒼の瞳が、瞬きもせずに男の視線を跳ね返す。
 ザッと新一が腕を払ったのが合図となった。
 掴んだ砂を顔めがけて投げつけた新一と、腕を振り上げた男の間へ平次は踊り込む。
「おいたはそこまでや、で!」
 よろめきながら振り下ろされたナイフを、焼きトウモロコシで受け止めて。抜き差しが出来なくなった所でナイフを持つ手を捻り上げ、後ろを取ると即座に足払いをかける。
 がくんと膝から落ちた身体の首筋に手加減なしで腕を入れ、完全に落とすまで十秒。ぐぅ、と最後の一声を上げて気絶した男を転がし背に膝で乗り上げる。
 ついでとばかりに落ちた串刺しモロコシを後ろ足で蹴りはなしてから、おもむろに平次は視線を上げた。ぐるり、と周りを見回して、一点で止まる。
「なぁそこのにーさん、ちょお頼まれて欲しいねんけど」
 大捕り物の立役者である大阪弁の仮面ヤイバーにいきなり陽気に声をかけられて、あてもの屋台の青年がぎょっと身構える。
「そこのガムテ貸してくれへん? そんで」
 男の腕から転がり落ちた巾着バッグを無造作に青年へとポンと放った。火のついた何かを受け取るみたいにおっかなびっくり青年がそれを受け取る。
 仕上げとばかりに手際良く倒れている男の両の腕を背中側でまとめあげて、平次は言った。
「警察、頼むわ」
 どお、と参道に歓声が広がった。



「って言うような事があったんだよ! いやぁ見応えあったよ〜!」
 嬉々として事件のあらましを語った快斗に、阿笠は祭り土産のロシアンルーレット回転焼きにかぶりつきながら「それはすごいのぅ」と同意を示す。
 立ち回りで焼きモロコシは一本犠牲にはなったが、他の戦利品は全て快斗の手によって守られており、現在無事に工藤邸の隣家である阿笠宅まで届けられている。そして土産にはそれを持参した怪盗と砂だらけの探偵たちもついて来た。
「それで? その時貴方はどうしていたの」
 淡々とした口調で問われ、ソファーの隅に縮こまっていた東の名探偵は、びくりと肩を跳ね上げた。
「えっと……こいつが立ち回り演じてる隙に子供を母親に引き渡して、」
「で、即行引き返そうとしたからオレが野次馬ン中に連れ込んじゃいました♪ だって新一、モロに素顔晒してたからさぁ、それ以上目立ったら警察来るまでに動画がネットにアップされちゃうよ」
 人気者は辛いね、と笑う快斗に、なるほどねと哀は頷く。
「その点この人は撮られても単なる怪しい関西弁の仮面ヤイバーだものね」
「や〜あの、怪しい訳やないんやけど……」
 ソファーの片隅でこれまた縮こまっている元西の名探偵が入れた弱々しいツッコミは、あっさりと黙殺された。
「でも、それだけ囲まれててよくすんなり帰って来れたわね」
「そこでまたオレの出番って訳。へーじが男を縛り上げたタイミング見計らって煙幕張って、その隙に野次馬に紛れて帰って来ました〜」
 『あー楽しかった!』と祭りとしては山車も花火も見る事なしにいつもの如く事件に首を突っ込み、結果、参道半ばで引き返す羽目になったにも関わらず、快斗はいたくご機嫌だ。
「そう。よく分かったわ」
 哀が一つ頷いて、低かった語調を更に冷ややかにもう一段階下げる。
「せっかく着付けてあげた浴衣がそんな有様な理由が、よぉぉく、ね」
「や、あのよ、こんななったのはわざとじゃなくて」
「せやねん! ああ言う場合ほっとく訳にもいかへんし、しゃーなしに」
「そうそう! そうしたらついいつもの調子で動いちまって」
 結局、二人して浴衣姿での大立ち回りになってしまった。
「砂だらけのボロボロだわ」
 哀の冷ややかな指摘に、両探偵はしおしおとうなだれた。
 そもそもの浴衣姿にしても、言い出したのは快斗だったがどう説得したのか、巻き込まれ着付けに借り出されたのは隣家の少女で。その苦心の作を砂まみれに着崩してしまったのは明らかなので探偵達は足を踏み入れてからこちら戦々恐々としている。
「悪かった、せっかく着せてくれたってのに、こんなになっちまって」
「ホンマに堪忍」
「まぁまぁ哀くん。新一に事件の方から寄って来るのは今に始まった事でなし、仕方ないじゃろう」
 しゅんと小さくなる二人を前に、フォローになっていないようなフォローを阿笠が入れた。ニヤニヤと一人着崩れなし汚れなしな快斗は、少女にペシャンコにやり込められている探偵二人を笑いながら焼きトウモロコシにかぶりついている。
 はぁ、と哀は小さく嘆息を落とす。
「もういいわよ。それより二人共、いつまでその砂だらけの格好でうちのソファーに座っているつもり」
 ちろり、と横目で見られて二人はガタガタと飛び上がる。
「シャワーしてくっから!」
「後でまたお邪魔さして貰うわ、ほな!」
 引きつった笑顔で叫び、大立ち回りの機敏さは欠片も感じさせないドタバタした足取りで、探偵たちは我先にとリビングを飛び出して行く。その全身からパラパラと振りまかれる砂に、後で掃除機かけて貰うわよ、と、彼らの背中に一言釘を刺す。
「哀ちゃん、容赦ない〜」
 ゲラゲラと大ウケしている快斗に「当然でしょ」と哀はお茶を手にする。
 小さな身体で苦労して着付けてやった浴衣を二人して事件に首を突っ込んで台無しにしたのは大目に見るとしても、だ。
 約束もなく押しかけて部屋中を砂だらけにした後始末はしっかりつけて貰わねばならない。恐らく押しかけようと押し切ったのは快斗であろうと想像がついたとしても。
「ああ、そーだ。これは哀ちゃんにお土産」
 相変わらずどこから出すのか分からない見事な手さばきで快斗はひらりとてのひらを翻すと、その手には、小さなビニール巾着。
 金魚すくいで金魚を持ち帰る時に入れてもらう透明な巾着で、ナイロンっぽい赤い紐が口を絞っている。
「見たら哀ちゃんだなーって思って思わず買っちゃった。はい、どーぞ♪」
「……コンペイトウ?」
 淡い水色に、薄桃色、そして黄緑色が少し混じっている。紫陽花を彷彿とさせる優しい色合いの、小さいつぶつぶの砂糖菓子。
「トゲトゲしいのがそっくりって言いたいの?」
「まさか〜。ちっちゃくてキラキラして甘くて、哀ちゃんぽいなーって」
「……今度眼科検診して来るのね」
 三秒程押し黙ってから呟いた哀に、快斗は愉快そうに笑った。



 脱兎の如く隣家から逃げ出し、家主特権で、と言うよりは世話焼きな居候の強硬なすすめより先にシャワーを浴びた新一は、身軽なシャツとジーンズ姿でソファーへと深く沈み込む。
 流石に戻れば掃除が待っていると分かっている隣家にその足で取って返す気分にはなれなかった。
「工藤」
 交代でシャワーに向かった筈の平次が、気付けば呆れ顔でソファーの背から覗き込んで来ている。ちらりと視線を流すとぼんやりしている時間が長かったのではなく、平次の方がいつもよりカラスの行水であったらしい。
「なんや、まだ頭乾かしとらんの」
「面倒くせぇ……放っときゃ乾く」
「アカンて、タオルドライ位せな」
 言うのと同時に平次は手が出る。問答無用とタオルが視界を遮り、わしわしと髪を乱された。
 俯いたまま乗っけられたタオルごと、てのひらが後頭部から全体をひとしきりかき回す。続いて肩を引かれ、ソファーに背をつけ首をソファーの背のふちへと促される。
 ぱらぱらと跳ねる前髪の隙間から見える顔はこんな時にしなくても良いような、妙に真剣な顔で。
 そういえば祭りでの立ち回りでも真剣な顔だったのだろうが……少なくとも名前を呼ばったあの声はいつものような軽いものではなかった……だが、ふざけた仮面ヤイバーのお面でその表情は見る事は叶わなかった。
 視界の隙間から垣間見える表情を新一はぼんやりと見上げる。自然と綻んだ口許に気付いた平次が指を止めて小首を傾げた。
「なんや?」
「いや、……灰原には叱られたけど、なんかああなっちまうんだよな、と思って」
 納得顔で平次が頷く。
「ホンマに、誰が呼ぶんやら。……なぁ工藤、今更やけど、ちょお聞いてもええか」
 らしくなくためらいがちに平次が呟く。
「何だ?」
 やる事成す事大雑把なイメージなのに、思いがけない所で繊細に丁寧にその手は動く。髪を丁寧にふきあげるてのひらや指先が心地好く、夢見心地で新一は先を促した。
「なんで今日、一緒に行ってくれる気になったん? ずっと行かへん言うとったやん」
 言ってから、慌てて「いや、文句言うとるんやないで! 一緒に行けてめっちゃ嬉しかってんで?」と言を継ぐ。
 まなざしだけで頭上の平次の顔をうかがうと、不安と好奇心の入り交じった色がその瞳からは読み取れた。
「快斗が、誘ったから」
 告げれば面白いくらいがっくりと彼は肩を落とす。自分があれだけ誘っても乗らなかったのに、快斗の誘いになら応じるのかと落ち込んでいるのが手に取るように良く分かる。
 耳も尻尾も垂れしょんぼりした大型犬のような様が見たくて、わざと誤解するような言い回しを選んでしまう自分の意地の悪さをいい加減分かっても良さそうなのに、平次は簡単に新一の言葉一つで落ち込んだりへこんだりと忙しい。
 タオルの陰、新一は軽く喉奥で笑う。
 しょげ返った大型犬が、どうすれば尾を振り目をキラキラさせるのかも知っている。
「最近アイツちょっとへこみがちだったから、気晴らしになんじゃねーかと思って」
 気になっていたのは事実だ。表面上は変わらず賑やかで明るく振る舞ってはいたが、快斗のそれが空元気なのはよく見ていればすぐに分かる。
 仕事絡みか白馬絡みと踏んではいたが、実に分かり易く後者だった。
 平次は顔を上げる。腑に落ちた、と一つ頷いて目をすがめ、柔らかく紡がれる声。
「せやなぁ。せっかく電話しとったのに、結局あんな騒ぎなってしもて、ちゃんと話出来たんやろかって気にはなっとったんやけど」
「大丈夫じゃねーか。この騒ぎの顛末をダシにして快斗だって今度はちゃんと連絡取るだろうし」
 遠距離だし、時差があるし、白馬は事件で行ってて忙しいから、オレばかり好きみたいで悔しいから。そんな風に理由を並べて連絡を控えて、結局寂しくなってへこんでいたのだから世話ない。
 普段の快斗の傍若無人な遠慮のなさがこんな所では引っ込んでしまうのだから、恋なんて当事者にだって驚きの連続なのだろう。
「せやな。白馬かて意地でもとっとと解決して帰って来ようとするやろし」
 そうそう、と返す声は既にあやふやな声にしかならなかった。
 シャワーでさっぱりしての室内は程良く涼しく適温で、あやすように髪を梳く平次の指が心地好く、まどろみを誘う。
「……工藤……?」
 そっと名を呼ぶ囁きは、湖面から枯れ葉が湖底へ沈むように、新一のぼんやりとした眠気を妨げはしない。
「お疲れ様」
 ふわりと身にかけられるのは愛用しているタオルケットだろう。
 リビングでうたた寝してしまう新一を、当初は部屋で寝るよう説得し起こしていた平次だったが、中途半端に起こされると不機嫌になる新一と、重ねられるうたた寝に結局平次が根負けしてタオルケットを常備するようになったのである。
 新一にすれば粘り勝ちだ。
「夢ン中でまで浴衣で暴れたらアカンで〜」
 浴衣で暴れたのはお互い様だろ、との反論はもう声にならない。
 閉じようとする間際に映ったのはいつも通りな平次のTシャツ姿で。浴衣、似合っていたのに、とぼんやり思う。
 快斗の気晴らしになれば、と思ったのも本当だが、新一を動かしたのは快斗の言葉だった。
『せっかくだから皆で浴衣着て行こうよ!』
 そして新一にだけ聞こえるように囁いた。
『平次はさ、胴着があれだけ似合うんだよ。きっと浴衣も似合うと思うなァ』
 唆す時のチシャ猫のような笑顔で快斗が笑う。
『どお、見てみたいと思わない?』
 そんな言葉が決め手になったのだと、伝えたらきっと尻尾を振切れんばかりに舞い上がるのは分かっているけれど、それは秘めたまま。
「……しゃ、し……」
「? ……くどう?」
 快斗に今日撮った写真のデータ、忘れずに貰わないと。そう思ったのを最後に、新一は優しい指に導かれ穏やかな眠りへと落ちていった。



・end・  

◆『脱走金魚/うちのコ自慢』より◆白×快◆


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