夏におぼれる


 シャク、と独特の歯触りを楽しむ一方で、瑞々しさと甘さが快斗の口いっぱいに広がった。
 指から腕へと伝いかけた雫を慌てて舐めとると、甘さの後に微かにしょっぱさを感じて、Tシャツの短い袖に猫のように額を擦りつける。
 開け放った二枚窓は、快斗にしてみれば窓というよりは観音開きの二枚の扉だ。高さも身長よりゆうに三十センチは高く、開け放っても充分余裕がある広々としたベランダはバルコニーと呼ぶべきか、否か。
 二畳ほどもあるスペースには、表面が硝子張りの上品な丸テーブルは藤で編まれ、揃いのすっぽりと身体を包み込むような卵型のフォルムのチェアーが向かい合わせに、二脚。
 硝子テーブルの上には白い皿が一枚。
 まるで高級ホテルか、レストランのテラス席のようだと思い、ああ、テラスと言うのだろうかとふと思う。
 呼び名は何であれ、あまり普通の一般的な家屋には見かけない造りだ。
 部屋へと続く窓は、大きく外へと開け放たれている。部屋毎に調節も出来るが、白馬邸は廊下など邸内一律で空調設備が稼動しているので、季節問わずかなり過し易い。
 しかしエアコンがどれだけ張り切って稼動しているにせよ、室内の冷気は完全に野外状態の快斗の場所までは影響を与えてはおらず、反対に無意味に生温い外気が室内へと侵食しているだけだ。
 せめて風でも通れば体感温度も多少なりとも変わったかもしれないが、残念な事に見事に凪いだ風に、庭の木々の一枝もそよがない。べた凪ぎだ。
 だが、そんな状況を承知の上だろうに、何故だか彼はベランダへ出た快斗に『そこ、開けておいて下さいね』と告げた。
 どうやら御曹司は節電に真っ向から喧嘩を売るつもりか、と呆れ顔を向けると、表情からそれを読み取ったらしい白馬は『自家発電ですから』と開き直る始末である。
 部屋には陽射しを遮るレースのカーテンすら引かれていない。故に、突き刺さるような快斗に注ぐ強い陽射しも絡みつくような熱気も容赦なく室内に入り込み、恐らく室温もかなり上昇している事だろう。
 なのに、窓を全開にさせた張本人は涼しげな顔でソファーへ陣取り、快斗と同じくスイカを食べている。同じスイカを食べる、と言うただそれだけの行為も、不思議と白馬がすれば絵になる程に優雅に見えるのだから世の中は不公平である。
 ジリジリと照りつける厳しい陽射しはまだまだ真夏のものだ。
 そんな中で、じんわりと肌に汗をにじませながらも、室内には入らずにわざわざベランダで快斗はスイカにかぶりついている。こちらの所作は優雅とは程遠い大雑把さだ。
 スイカといえば、縁側だ!
 そして縁側と言えば種飛ばし競争だ、と言った快斗を白馬はかなり引いたまなざしで見た。その上『そんな競争はしません』と言う代わりに『我が家に縁側はありませんよ』と澄まし顔でさらりと流した。
 しかもその声があまりに素っ気なくて、……本人にそんなつもりはなかったのかもしれないが、素っ気なく聞こえてしまっただけに、スイカで上がったテンションの持って行き場がなくて、快斗は分かり難く拗ねた。
 ふぅーん、ああ、そう、とだけ呟いて。
 にっこり笑って背を向けて、拗ねてむくれて一人でベランダからスイカの種を飛ばしている。
 拗ねるにしても、思えば随分とつまらない理由だし、そんな些細な理由で拗ねる自分にもいい加減嫌気が差す。
 なのに、折れる気にもなれないのだから我ながら始末に負えない。結果、半分自分に対してもの意味合いが混ざっての、絶賛不機嫌モード発動中の快斗だった。
 白馬は真面目だ。
 同年代のクラスメートと比べても一際落ち着いていて、穏やかで、理知的で、大人びている。
 それが悪いとは言わないが……むしろそこは彼の魅力だと認めるのはやぶさかではないが、しかし。
 だがしかし、だ。
 裏返せば、白馬には遊び心が足りない。
 無意味な事やくだらない遊びには手を出さないし、見向きもしない。
 もしかすると単に遊び方を知らないだけかもしれないが、どちらにしても『一見くだらなく見える面白さ』を共有出来ないのがつまらない。
 がぶがぶ、と三日月型に切られた甘いスイカに歯形を並べる。甘い物を食べるとお手軽に幸せな気分になれるのが快斗の特技の一つの筈なのに、シャクシャクと甘いスイカを食べても一向に下降しっぱなしのテンションは、上昇の兆しがない。
 シャク、シャク。
「白馬のバーカ」
 ぷぷっ、と口の中に残ったスイカの種を飛ばす。
 シャクシャクシャク。
 ぷぷぷっ!
「堅物の石頭っ!」
 悪態を吐いてはスイカの種を飛ばすものの、一向に気も晴れなければ楽しくもならない。
 天気は良くて、スイカは甘くて、種飛ばし競争にこそつきあわないけれど、白馬もすぐそこ……室内で同じくスイカを食べていると言うのに、だ。
 それらは決して悪条件ではないのに、テンションは下降の一途を辿っている。これはけんかにもならない。ただ、快斗が独りで拗ねているだけだ。
「つきあい悪ィぞっ」
 シャク、シャク。
 ぷぷぷっ。
「つまンない大人になっちまえ!」
 最初は八つ当たりも兼ねて、食べるのと、悪態を吐くのと、種を飛ばすのを勢い良くこなしていた快斗だが、それも次第にペースが落ちていく。
 シャク、……シャク。
 ぷ、ぷっ……。
 意識せずともこなせる他愛もない動作が、どうした事か上手くいかないのは概してこんな時で。
 こくん、と小さく喉がなる。
「あ」
 口内から逃し損ね喉を通った小さいながらも確かな存在に、とっさに口許に手をやりつつも思わず零れた一声。
 同時に、快斗は振り返っていた。
 背を向けてはいても白馬が室内にいる事は気配でも知っていたし、快斗同様スイカを食べている事も承知している。
 だが、振り返るだけで視線が音が出そうな勢いでかち合うとは、思ってなかった。それも、遮るものなく真っ直ぐに、ほんの僅かなタイムラグもなく。
 声がしたから視線を向けた、と言うようなタイミングでは有り得ない。その視線の強さと確かさは、背を向けていた快斗が認識していなかっただけで彼の視線はずっと背に注がれていたのかもしれないと、少し間を置いて思い至った。
 視線を合わせたままに続く言葉を飲み込んでしまった快斗に、白馬は訝し気に声をかける。
「どうしました」
 食べかけのスイカから一端手を離しおもむろに立ち上がった白馬に、快斗は、腕でぐいっと口許を拭いながら軽く眉をひそめる。
「いや、なんでも。……種、飲んじまっただけ」
 ペロっと舌を出しての告白に白馬は手早く手許の布巾で指を拭い、ベランダへと出て来る。
「スイカの種、食べちゃったんですか」
 つられたように軽く顔をしかめた白馬は、快斗の正面に立つと唐突に手を伸ばした。
 頬にあてられたてのひらに、口を開けるようにとでも促されるのかと思えば、その手はしばし頬に止どまるだけで。そのまま口許を押さえていた手に触れそうになって、慌てて快斗は手を引っ込めた。
 本気で白馬の手を避けたいなら、彼の手を掴まえるなり払うなりすればすむ話だが、我ながら面倒臭い事にそうではない。
 ただ、その手に触れられるかもと思うととっさに身を退くのと同じ感覚で、手を逃してしまった。……その一動がより自らを無防備にするとは思わずに。
 気付くと背がベランダに押し付けられている。後退さった自覚はないが、足は勝手に退いていたのだと身体で知って尚、動揺する。
 快斗の動揺を知ってか知らずか、白馬は頬からその手を喉元へとスライドさせた。
 そのまま、てのひらは喉元からまるで種の通った道筋を辿るみたいにするりとシャツの上を滑り、やがてお腹辺りで留まる。
 手を当てるから『手当て』を地でいくように、てのひらは慎重に優しく当てられた。
 太陽熱にあぶられていた快斗には負けるが、涼しげな顔とは裏腹に白馬の手は相応に温かく……熱を溜め込んだ身にその温かさはうっとうしく思ってもおかしくないのに、何故かそのぬくもりに安堵する。少なくとも、無下に払い退けようなんて脳裏を過ぎりもしなかった。
 同時に、表情を如何にポーカーフェイスに取り繕っても、鼓動が忙しなく刻まれるのは隠しようがない。あてられているのが腹とはいえ、てのひらが感じ取ってしまわないかと思えば更に心臓は強く早く乱れ打つ。
 それに連動して、こめかみで脈動がドクドクと煩く、じんわりなどと可愛い状態でなくびっしり額に浮かぶ汗は、絶対太陽のせいではない。彼の、白馬のせいだ。
 彼に他意があろうがなかろうが、間違いなく。
 いつの間にか、掴んでいたスイカは白馬の手に奪われていた。快斗の背中にあたっている、ベランダの柵の縁に置かれたらしい気配を感じたが、気にしているだけの余裕もない。
「何だよ、そンな深刻な声出さなくてもいーじゃんか」
 震えずに、あくまでも軽くふてぶてしく響く声を絞り出すのには尋常ならざる気力が必要だったが、快斗はどうにかそれを成し遂げた。
「……スイカの種食ったら盲腸になるなんて、まさかオマエ、信じてないだろ?」
「何を言っているんですか、スイカの種を食べたらへそから芽が出ますよ」
「はぁ……?」
 つい口を衝いたらしく、真顔で異論を繰り出してから、白馬は慌てた様子で手と同時に自説も引っ込めた。
 「いえなんでも」「忘れて下さい」「本気で信じている訳ではなくてですね」と、泡食う様子に自然と口許が緩む。離れたてのひらに、無理矢理上げていた舌の回転数が自然と上がり、緊張が抜け滑らかに言葉が転がり出る。
「……へぇー、オマエんちはヘソから芽が出る派なんだ。盲腸説以外ってオレ、久々聞いたなー」
 下手くそな冗談、とからかう代わりに悪意のない笑みを浮かべれば、白馬は探るような視線を返す。
「なぁ、それ言ったの、親父さん? おふくろさん? それとも絵本かテレビか何かで?」
 かなりの実業家でほぼロンドンで暮らしているらしい白馬の母親を快斗は、彼の語る言葉でしか知らない。
 彼が語る、と言っても長々と両親について語られた事はなく、何かのついでで話にもれ聞こえたのが全てだった。なので、人物像を明確には描き難く、実用的でいかにもキャリアウーマンを地でいっている人物であるらしいと情報を統合して推測している。そんな彼女に、ユーモアが通じるイメージはあまりない。
 彼の父親は父親で警視総監なんて相当に堅い肩書きを持っている。
 実際に垣間見た姿は別段堅そうではなくむしろ子煩悩な雰囲気だったが、だからといって、スイカの種を食べたらへそから芽が出る、だなんて可愛らしい戒めを口に出すイメージは彼の人にもあまりない。
「いえ」
 半拍置いて首を振り、少し照れくさそうにそれでいて酷く優し気に白馬は微笑んだ。
「ばあや、が、昔そう言っていました」
「ああ、そっか、ばあやさんか。それなら納得」
 彼が『ばあや』と呼ぶ人物は、白馬が幼い頃は彼つきの乳母のような存在であったらしい。
 現在は、白馬の為に車を出したりティータイムの支度をしたり、『ぼっちゃま』の身の回りのあれこれや、白馬家の様々をフォローしたり取り仕切ったりしていると聞く。
 さしあたり立場としては家令や執事、それとも秘書のような存在だろうか。
 見た目は小柄でかくしゃくとしたやや厳めしい老女という感じで、快斗が寺井に寄せる信頼や親しみと同様のものを彼が『ばあや』に抱いているのだと知っている。
 もしくは、快斗と寺井との関係よりも、共に暮らした年月分彼等はもう少し親密だったり身近な思いを抱いているのかもしれない。
「多分、小さかった僕がスイカの種を飲んでしまわないように、そんな風に言ったのだと思います」
「信じてた?」
「……ええ、実は九歳くらいまで信じていました」
 幼い白馬がへそから芽が出ないように真面目にスイカの種を選り分け食べる姿を想像して、快斗は笑いを堪えずにぷは、と吹き出す。
 スイカの種だけに限らず、白馬ならきっと幼い頃から生真面目で育ちの良いお坊ちゃんだったに違いない。
「激かわっ……!」
「あくまでも、小さい頃は、ですからね!」
 そして恐らくはとても『イイ子』だったのではないだろうか。……『イイ子』でいるよう求める空気を敏感に感じ取り、そう出来てしまった聞き分けの良い子供だったのではないだろうか。
「どうせ『それがこんなに可愛げなく育っちゃうなんて』とか言うんでしょう」
 拗ねた顔を隠しもしない御曹司は、対その他大勢や対大人バージョンの取り澄ました優等生な笑顔とは違い、有り得ない可愛らしさだ。
 ほんわかとした心持ちになると同時に、切なくもなった。
 拗ねたり、甘えたり。計算されたそんな顔を、白馬は案外しらっと使い分ける。
 育った環境で培われた大人びた笑顔やスマートな物腰と同じレベルで、必要な時に相手が求める『子供らしさ』を上手に垣間見せる事で無駄に敵を作らない。白馬家の御曹司として、警視総監の息子として、否応なく海千山千な大人の中に放り込まれて泳ぎ切らなければならなかった、それは白馬なりの処世術なのだろう。
 確かにその辺りは『可愛げがない』が、甘え方すら知らない大人になってしまった可能性を思うとばあやさんの存在に感謝したくなる。白馬が様々な物を失わずにすんでいるのは、恐らく彼女のお陰だから。
(今度ばあやさんには、美味い最中でも差し入れよう)
 それでも幼い彼を思えば、疼くような切なさは消えなくて。
 計算されたものではない素の拗ね顔が愛しくて、同じだけ自分が感知出来ず過ぎ去った時間を思わずにいられない。
 無性に衝き動かされ、手を伸べ髪を撫でたくなるのを、快斗はぐっとこらえる。小さな身じろぎに、意味を問いた気な視線が注がれるが、快斗は笑ってごまかした。
「いい感じに育ってんじゃない」
 うっかり見惚れてしまう程度には、とは口には出さずにおいた。
「でもせっかくなら、オマエがもっとちっちゃい時に、会いたかったな」
「まだ、可愛げが残っていた頃に?」
 珍しく混ぜっ返す白馬に「んにゃ、とりあえず、空気読み出す前に」と真顔で返す。白馬は、束の間無言で快斗を見返した。そして微かに苦笑う。
「……多分、その頃に同じように幼い君と出会っていたら、盛大に衝突していたと思いますよ。高校生になって出会っても、こうして仲良くなれるまでかなりかかったんですから」
 勿論、今だからこそ怪盗KIDと探偵としての立場も絡み、性格云々だけでなくひとしきり平行線を辿る羽目になってもいた訳だが。
「でもチビの頃って一回腹割ってケンカしたら、案外すぐ仲良くなれるじゃん」
「……どうでしょうねぇ、僕はこの歳になって随分、丸くなった方なので」
「マジ? これで!」
 かなり失礼な叫びに、彼らしい柔和な微笑みが応える。
「ええ、そんな暴言も笑って流せる程度にはね」
「ううーん、もっと堅かったとは……」
 呆れ半分、感心半分の口調で快斗が呟く。
「相当でしょう。自慢じゃないですが、いい加減なのもはっきりしないのも決められたルールを破るのも、断固許すまじって感じでしたから、多分幼い頃に君と出会っていたら揉めに揉めたでしょうね」
「じゃあ、今くらいのオレがちっこい頃のオマエと出会ってたら、どうだろ。それなら仲良くなれそう?」
 吟味するような間を置いて、白馬が淡い紅茶色の瞳を瞬かせる。
「そう、ですね。僕の周りには君のような大人はいませんでしたから……あの頃に今の君と出会っていたら多分、とても衝撃を受けたでしょうね。それにきっと、影響も」
 それって悪影響?、と笑って問えば白馬は曖昧に笑んで言葉を濁す。でも、と気を取り直したように軟らかく言を継いだ。
「同い年でも君が年上でも、すんなりとはいかないでしょうけど、最終的には、僕は君が大好きになると思いますよ。くっついて回って……君にうんざりされたかも」
 小さい白馬に懐かれて、まとわりつかれる想像は微笑ましくて、幼い頃の写真が見たいな、とふと思う。
 造りが完全に西洋風な邸宅なのでリビングのいたる所に家族写真がありそうなイメージの白馬邸だが、実際には廊下に肖像画もなければ部屋に家族の写真も飾られていない。
 雇われている人はそこそこいるようだが、家の大きさに反して住んでいる家人が少ないからか、人の気配自体がやたら薄い。
 母親はほとんどロンドン暮らしで致し方ないにしても、例の警視総監である父親とは未だ遭遇したためしがない。怪盗KIDとして当初は遭遇してはマズイと避けていたのも事実だが、避けなくてもあまりにも遭遇の機会がなさ過ぎてばかばかしくなって動向を探るのもやめてしまった。
 どんなに立派なお屋敷でも、ここには白馬以外の誰か家族が在宅している、という気配があまりにもない。
 家族の手がかりというだけでなく、アルバムを見せて貰った覚えもないので、幼い頃の白馬を知る方法もなかった。
 なので、快斗が想像するのは今いる白馬を幼くしてあどけなくしてみた姿だ。
 実際はどうだったのだろう。今の彼に幼い頃の名残はあるだろうか、それとも今からは想像がつかぬ風貌だったろうか。
 証拠の詰まったアルバムは、寝室の書棚にあるのか。それとも机の引き出しか。
 まさかと思うが彼の親の手許だったりなんかしたら、手にするのは少々面倒臭い。特に母親の手許であった場合は。
 そこで『面倒臭い』に括っても『出来ない』とは思わないのが快斗である。
(てか、多分、ばあやさんを籠絡するのが一番の近道かも)
 心を漂わせた快斗には気づかずに、白馬は言を継いだ。
「ただ……兄弟だとか、それ程身近に君が居たら却って反発してしまったんじゃないでしょうか。そうなればきっと、僕は今以上に堅物に育っていそうな気がします」
 血縁があってのその近さなら、確かに快斗の緩さを見習ったり破天荒さに憧れたりするより、反発が強いかもと言うのも分かる。
 反面教師的に、より生真面目に堅苦しくしっかりとしなければ、と思うものかもしれない。
 今となっては何も取り戻せない、想像の中の出来事でしかないと分かっていても、無性にもどかしい。
 手が届かない、そこは過去だから。
 『もしも』を幾つ並べても、過ぎた時にはどんな力も及ばない。だからこそ、もどかしくて、少し切ない。
 彼と幼い頃に出会えていれば反発されたかもしれなくても、ただ肩を張るのではなく、肩の力の抜き方を教えてあげれた。
 甘え方を分かっていない子供を、徹底的に甘やかせたに違いないのに。
 くだらないいたずらも、つまらない諍いも、仲直りの方法も分かち合えた。
 それから、聞き分けの良いイイ子じゃなくても愛してると伝えていたら、今とは何か違う白馬に育ったろうか。
 今とは違う二人だっただろうか?
「……黒羽くん……?」
 訝し気に向けられた視線に、何でもない、と首を振る。
 『もしも』は所詮『もしも』でしかない。勿論、そこに意味がないのではなく。
 ただ、仮定法過去が変えられるものは過去ではなく、今とその先にある、未来だと言う事を快斗は知っている。
「……今よりも面倒臭いオマエは、ちょっとヤダなーと思ってさ」
「言うと思いました」
「でもさ、捨てがたいのもあるンだよ」
 白馬が目顔で続きを促す。
「兄弟だったらさ、兄弟特権で強制的にスイカの種飛ばしに引っ張り出せるじゃん?」
「……こだわりますねぇ」
 苦笑いのような呆れ笑いのような、微妙な笑みとゆったりとした語調で白馬が笑う。
「うん。ちなみに、今からでも遅くないと思うよ」
 スイカならまだあるだろう、と聞こえたならばそれで良かった。
 でも本当は、今でも遅くありませんようにと、言葉のない、それは小さな祈りでもある。
 過ぎた時は戻らないけど、今の白馬を付き合わせる事によって白馬の中の小さい白馬と経験を共有することは出来るだろう。それが一見してくだらない事であっても、むしろ多少くだらない位の方がきっと、楽しい。
 暑さも気にせず熱射の下で、後始末も意味も意義も考えず、ただ楽しむ事から彼に波及するものはあると、信じてる。そしてまだ決して遅くはないのだと。
「その競争に随分とこだわるんですね」
「まぁね。最高にくだんなくって楽しいからさ。オマエもやったら分かるよ」
 苦笑めいた響きに、すかさず唆す笑みで応える。何事にも引き際は大事かもしれないが、諦めの悪さも快斗の快斗たる所以だ。
 白馬に好かれている自信ならある。自覚も一応それなりにだが、あるつもりだ。
 スイカの種を食べた、なんて一言で彼は快斗のもとへと飛んで来た。熱気が侵入していたとはいえ外とは明らかに違う快適な室内にいたのに、炎天下の快斗の傍らへと。
 それは、生来の人の良さが発揮されたからだけではないだろう。……無駄に暑いのに、さっさと室内へと引き返さない理由も。
 こうして触れ合わんばかりの位置に居れば、快斗が身体に溜め込んだ熱と進行形で降り注ぐ陽射しに、涼しげだった白馬の額にもうっすらと汗がにじむ。
 絶え間なく注がれるのは、真夏日の洗礼だ。
 けれど白馬は快斗の言葉を吟味しているのか迷ったか、ややして瞳を眇めはしたが一向に踵を返しはしない。ベランダの柵と彼に挟まれるようにしてしばしそんな白馬を静観したものの、迷う視線に痺れをきらし快斗は微妙に視線を外した。
 外した視線の先に、手つかずのスイカの赤が白い皿に鮮やかに映える。
 見上げれば、照りつける太陽と抜けるような青空。
 振り返ればそこには鮮やかな緑の夏の庭が広がり、ベランダの柵には危ういバランスで快斗の食べかけのスイカがちょこんと乗っている。
 軽く瞬きそのまま目を閉ざせば、ジーワ、ジーワと耳元に蝉時雨が叩きつけられる。
 遠い夏の、水を張ったばかりの田の青い香りまでが、つられて甦った。
 高く水色の空にぽっかり入道雲、午後の強い日差しと遠く蝉の声。
 田を区切る浅い用水路は格好の水遊び場で、あぜ道に腰掛けてさやさやと走る冷たい水に膝下までつけると、足の裏を水を泳いだ雑草がくすぐる。
 懐かしい夏の記憶には白馬の姿はないが、今年の夏には彼がいる。お腹にあてられた手と、袖で拭った額の汗と、スイカの赤。
 夏の記憶はこれから充分に共有が可能だ。
 遠い夏を押しやって、快斗はリアルを手繰り寄せる。懐かしい夏より、傍らの存在とどこまで夏を堪能出来るかがより重要だから。
 するりと、腹へ手が回され、快斗の意識は引き戻される。白馬が僅かに残されていた距離を歩を詰める事で埋めて、背中から抱き込んだのだと知れた。
 先ほどの続きのように腹の上で組むように回された手に手を添えようとして、またも快斗はためらった。そんな快斗のためらいを気づかない筈もないのに、白馬はただ抱擁を強めて抱き込むように身を寄せる。
 半野外の茹だる暑さは、人肌恋しくなるような抱き合いたい気候とは正反対で。
 なのに、白馬の腕は本人の性格とは露骨に反比例するのか、こんな時にばかり遠慮もなければ迷いなく、強引だ。
「スイカの種飛ばし競争より、もう少し大人の遊びをしませんか」
 ベランダと腕に快斗を閉じ込めて、まるで質の悪い大人の唆しの如くな台詞を耳元で囁かれ、熱射のせいだけでなく顔に熱が上がった。ぼんやり頭には霞みがかかり、汗がにじみ出るような気すらして来る。
 どうした事かいつもの軽口や切り返しは、すぐに口を衝かなかった。
 そんな自分が妙に腹立たしくて、ようよう出た声は少し拗ねたみたいな響きを帯びてしまう。
「後悔するぞ」
 端的に快斗が投げたのは忠告だ。
 決して脅しや何かではない。
「君とこうしているのに?」
 何故ですか、と問いかけもせず、白馬は『有り得ません』と一言のもと余裕で一蹴した。それはそれで潔過ぎて却って突っ込み所が満載である。
「いやいや、すると思うぞー? だって今のオレって最高に汗臭いし」
 言った端からどれどれとばかりに首筋に鼻を寄せられて、快斗は思わず身を捩り振り返りながら、その身をぐいぐいと押し返す。
「こらっ、嗅ぐなっ……ぁ!」
 咄嗟に白馬の胸元と頭を押しやった手を慌てて止めたものの、時既に遅く。
「……あーあ。だから言ったんだ」
 言ったのに、と声を大にして責任転嫁は出来なくて、呟きはどこか独り言めいた。
 押し当てた手を放すに放せず、そのまま力が抜けた腕をまっすぐ突っ張った快斗の様子を、腕の長さ分遠ざけられた白馬は不満そうに眺める。
「……どうか? 君は臭くなんてありませんよ?」
「……いや、……一応オレは、忠告はしたから」
 あくまでもそう言い張ってから、快斗はそっと手を引き戻した。怪訝顔の白馬が快斗の手が当てられた辺りの髪に手をやり、また手が押しやった辺りのシャツに目をやる。その所作二つで白馬は事の次第を悟ったらしい。
「……先刻から、動きがぎこちなかったのは、そのせいで?」
「……うん、……意味なかったけど。……後悔したか?」
 種明かし、とスイカの果汁に塗れてべとついたてのひらを差し出せば、真顔の白馬が快斗の手首を取る。そうしてから、しませんよ、と思い出したように彼は呟いた。
 開いたままのてのひらは、彼の手の促しに任せていたら白馬の頬を包む位置まで誘導される。頬に手を当てろって?と上目遣いに伺えば、まるで自主性に任せるとばかりにそこから彼は手を放す。
「……べったべた、だぞ……?」
「どうぞ。この際ですから思い切りよくやっちゃって下さい」
 白馬がふっと空気を緩ませる。
 何がこの際なのかはさておき、明らかに面白がっている気配に、べとつく両手をぺったりと頬に押しつければ、
「はは、本当にベタベタですね」
 と、益々、楽しそうな声が笑う。
 何をしたいんだか、と半ば呆れ、けれど声をたてて笑う楽しそうな白馬に快斗としてもどことなく気持ちがほぐれた。
 スイカの種飛ばし競争は快斗の中では子供らしさを取り戻せる楽しみの筆頭である訳だが、そうでなくとも子供じみたくだらなさを彼がちゃんと楽しめるなら、種飛ばしにだけ拘る必要もない。
「では、次は、」
 あろう事か白馬は快斗の手を今度は快斗の頬へと強引にあてさせる。
「こらこらこらこらっ」
「楽しいですよ、やった事ありません? こう言う事」
「……あー、いや、……あるけど、さ」
 スイカではなかったが、何かの果汁だらけの手で仕事帰りの父親に飛びつきあちこちをベタベタにしてしまって、母親にはがっつり叱られたものだ。
「親父のスーツ、クリーニング行きにして死ぬほど怒られたっけなぁ」
 とは言え、父親当人は怒る処か即座に一緒になって『ベタベタごっこ』を始めてしまって、最後には二人して風呂場に放り込まれた。しかし今思うにそれは、快斗には『怒られた』思い出ではなく『楽しかった』思い出となって記憶の片隅に残っている。
「大丈夫、僕は怒りませんよ。誰にも怒らせたりしません。それなら問題はありませんね?」
「別に怒られんのがどーのってんじゃ……っ」
 勢い込んだ台詞は、空気を食んで語尾まで辿り着けなかった。
 普段の思慮深さや遠慮がちな顔を引っ込めた白馬は、強引に束の間抗った快斗の手を自らの手と重ね誘導し、程なくべったりと甘い香りを放つ己が手が頬へと押しつけられる。
「……あー、もー……何が大人の遊びだよ」
 目一杯子供の遊びじゃないか、との突っ込みには、思わせぶりな笑顔と共に、今はね、と短く返された。
 快斗のてのひらごと頬にあてた手が身動きを阻み、額を合わせるよう間近に覗き込んで来る瞳がほんのりと笑むから、格好ばかりの不機嫌声は半端に崩れる。
 その態勢にまるでキスでも待っているみたいだ、と思った時には彼が残っていた僅かな距離を詰めた後だった。
 自分の手から、触れ合った唇から。纏わりつく、爽やかなのに甘い香り。
 鼻空をくすぐり抜けるのは、夏の香りだ。
 それに浸る間もなく唇を二度、三度と軽く啄まれ、眇めた末に緩く瞼を閉じる。
 しっとりと角度を変えて繰り返されるくちづけに、頬の上で縫いとめられたままの手が焦れったくなった。心許無く膝が揺らいでも身が傾ごうとも、頬と白馬の手に挟まれたままの手ではしがみつく事も叶わない。
 キスの主導を握るのは白馬だ。けれど快斗にも拒否の権利がある。
 イヤだと示せば、白馬がその意志を総て握り潰しはしないと快斗は知っていた。
 そうと分かっていて、快斗は舌を迎え入れる。お子様向けのバードキスから始まって、性急に舌まで絡め合うようになると『今はね』の意味を悟らずにはいられない。
 それでもてのひらであちこちに触れられる事なくキスだけを深められて、もどかしさを感じていたのは僅かな間で。キスはどんどんエスカレートしていった。
「……もっ……」
 もっと、と、もうヤダ、が同じくらい頭の中で回ってどっちが口から零れたのかは分からないが、白馬の気配に笑みが混ざったのだけは触れ合った全てからさざ波のように伝わる。
 吐息も漏らさぬよう執拗に口腔を深く探られ、上顎を舌でくすぐられ、歯列を丁寧になぞられる。強く吸いあった唇はすぐにどちらのものとも知れぬ程に熱を持ち同化し、快感以外の感覚を鈍らせた。
 体内で熱はどんどん溜まって、荒い息もほとんど吐き出せず肩ばかりがビクビクと好き勝手に踊る。最早、気持ち良いのか苦しいのかも判然としない。
 もうヤダともっとがぐるぐる回っていたのに、気づけばそこにアツイと溶けるとが加わって、遂には重しと共に水中に沈み込むかのように身体中が重くだるくなる。
「……っも、おぼ、れる……」
 僅かに許された吐息の隙間に、脳裏を占めた言葉を呻きと等しい声音で快斗は吐き出した。
 酸素が足りない。
 その訴えに白馬は吹き出すのと苦笑いの中間みたいな表情ながらも、快斗の意を汲んでくれる。とはいえ、完全に息のあがった快斗が息を整えるまでくちづけが唇以外に落とされ続けた、というだけでキスに終わりが見えた訳ではない。
 あちこち飛び火しながら、手の甲、てのひら、指先と馬鹿に丁寧にしるされた末に、快斗の手は解放された。
 自由になった手は、白馬のシャツに甘い香りを移しながら、最早遠慮も気遣いも捨て、シワを刻む。
 はふ〜、と色気も何もないであろう大きな深呼吸で息を整える様を、白馬はやたら甘いまなざしで眺めて来る。
 人柄がそのまま現われたみたいに、彼はとても優しい目をしている。そこに更に愛しさを乗せた視線を向けられて、平常心でいられよう筈もない。
 必死に息を整えようとしているのに、その視線を意識すれば途端に鼓動は駆け足になってしまうのだから、元の木阿弥だ。
 そんな風に自分の内にばかり意識を向けていたから、白馬の声はやや唐突な響きを持って耳に届いた。
「溺れてしまっては困りますから、その前にやっちゃいましょうか」
 明らかに笑み混じりの声の意味不明な、……不穏ともいえる台詞に、快斗は腕の中に収まったままぎくりと身構える。
「やるって、ナニを……?」
「君の未練を断ち切っておこうかと」
「未練って、」
 返事の代わりに白馬の手が肩の上でとんとん、と二度跳ねて快斗の注意を引き、その手が促すままにくるりと反転すると背から腕の中に囲い込まれる。
 視界一杯に広がった、夏の庭。柵にちょこんと乗せられていた食べかけのスイカを、白馬が手に取る。
「こら、それ、オレの、」
「まぁまぁ。せーの、でやりますよ」
 シャク、シャク。
 二口分、歯形の増えたスイカが、言葉もなく口許へと寄せられた。仕草だけで促され、そっと歯を立てると瑞々しい甘さが一気に口内に広がる。
 シャク。
 舌だけで口の中のスイカを崩し、種を選り分けるのと同時に、耳元でくぐもった声が聞こえる。
「せーの!」
 声を合図に、ぴったりくっついた背に促されるよう、ベランダの向こうへと二人して身を乗り出す。
 ぷぷぷっ!
 見送るは、青空に飛んで行く幾つかの小さな黒い、種。微かに弧を描いて直ぐに緑の中へと消えて行った。
 白馬の笑い声が降ってくる。
「案外難しいものですね、まっすぐ飛ばすのも、遠くに飛ばすのも」
「だろー。あ、今のオレの勝ちだよな」
「おや、僕の勝ちでしょう」
「明らかにオレのが遠かったって」
「いいえ、僕の方が飛んでました」
 子供みたいに互いに言い張って、なのに態勢は恋人を抱き込むそのままのスタイルで。
「いいでしょう、ではもう一戦。但し、その後は僕に付き合ってもらいますよ?」
「……大人の遊びに?」
 答えは笑みを刻んだ唇が、こめかみに落とされる事に代えられた。
 もう一度、と互いに一つのスイカに口をつける。
 交互に歯を立て一つの食べ物を分け合って、背中越しに白馬の体温を感じていると、ただの子供のお遊びの筈がまるで違うものに変質してしまう。
 せーの、で飛ばした第二戦は、へろりと力の抜けた放物線で。着地点まで見送るまでもなく、肩越しに勝ち誇った声が落ちた。
「僕の勝ちですね」
 台詞は腹立たしいのにその顔は存外子供っぽい笑顔だったから、それ以上の負けん気ももたげず。まぁいっか、と快斗は力を抜いて素直にその背を白馬に委ねた。
 降り注ぐのは、変わらない夏の日差し。そして熱を帯びた、まなざし。
「はいはい、オレの負けでいいよ。大人の遊びはベッドルームで?」
「そうですね、最終的には」
 未だべとつく快斗の指を取って、白馬が唇を寄せる。
「でもその前に」
 甘い声が耳に囁く。ますます快斗の体内でじりじりと熱が上がる。目を瞑ればどこまでも溺れそうに、夏。
「シャワールームで遊びましょうね」
 すかさずアヒルのおもちゃを出して「いいよ」とすまし顔の快斗に、一瞬目を見開いて。
 白馬の軽やかな笑い声が夏のベランダに響いた。
 
 

・END・     

◆「夏におぼれる」より◆白×快◆


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