迷子の指先


「んー、美味かったー!」
 お店から出た所で至って満足気に快斗が大きく伸びをして、言った。
 昼は真夏日もかくやという陽気だったとはいえ、二十二時を回ると外気はやや肌寒い。
 無意識でか、快斗がふと右手を左腕に滑らせたのを見て、白馬は黙って腕にかけていたジャケットを肩に着せかけた。
 長袖シャツ姿の白馬と違い、快斗は既に夏本番なTシャツ一枚である。
 昼間はそれでも暑いくらいの陽気だったかもしれないが、この時間ともなると六月半ばの正しい気温に戻っているだけに、夜風は涼しいを通り越してやや肌に寒い。
「……悪ィ。サンキュ」
 いらない、と突っ返されるかと思いきや、珍しく快斗は素直にそう呟いて、少しばかり照れくさそうに微笑んだ。
 アルコールも程よく入り、ご機嫌麗しく頬をうっすら桜色に染めた、いつになく無防備な微笑みは、このまま浚って帰りたい凶悪な可愛さである。
 勿論、ここで引っ込んでいる天邪鬼を突いて起こすような真似をする必要はないので口には出さないでおくが、少しばかり表情には出たかもしれない。
 何せ恋人である彼がこうして手を伸ばせば容易に触れられる距離にあるのはかれこれ三ヶ月ぶりだ。
 メールと電話は欠かさなかったとは言っても、やはり生は全然違う。顔を見るだけでもふつふつと愛しさがこみ上げて仕方がない。
 再会した時には思わずそのまま横抱きに抱えて浚って帰りたくなったほどだ。夕食を、と約束していたのと彼自身に『あとで』とサインを貰い、どうにか踏み止まりはしたが。
 そして今は今で、即座にキスの一つも奪いたい気分なのは薫りしか味わっていないアルコールのせいでは決してない。
 それでもどうにか辛うじて礼儀正しさを保って、白馬は声を取り繕った。
「ここで待っていてもらえますか。車を回して来ますから」
 そう告げると、快斗は歩き出そうとしていた足を止めて振り返る。
「あ、やっぱオマエ車だったんだ。全然飲まねーから体調がいまいちか車で来たのか、どっちかと思ってた」
「体調はご心配なく。ここ、着いた時にはもう埋まってましてね、少し離れた所に停めてあるんです」
 駅前から徒歩圏とはいえ住宅地の中にぽつりとある隠れ家的な小さな洋食屋は、店の前に三台分しか駐車スペースはない。
 そして店の明かりがある辺りはまだ明るいが外れると途端に住宅街ならではの夜の闇に包まれる。だからここで待っていて欲しい、と言ったのに。
 歩き出した白馬のすぐ隣を何故だか決然と力強く踏みしめる足音が一つ。
「あの、黒羽くん?」
「一緒に行く」
「……ええと、あのですね、本当に少し離れているんですけど」
「だったら時間がかかるよな」
「ええ、まぁ少し。ですから、」
 待っていて下さい、と繰り返そうとした所を、言葉を失う。
 左手の人差し指に、ひょいっと一本だけ引っ掛けられた、人差し指。
「そんな簡単に、置いてくなよ。……三ヶ月も独りにした癖に」
 三ヶ月。
 それは決して短い時間ではない。
 これは、白馬の都合だけで会えなかった訳ではなくて、白馬の予定と快斗の予定が何故だかうまくかみ合わない日々が積み重なって、気付けば三ヶ月も経っていた、というのが現状だ。
 けれど、本意ではなくても結局のところ長く彼を独りにしてしまったのは、本当。
 しかも、全身で抱きつかれて引き止められるのにも負けない衝撃を、その小さな仕種は与えた。
 拗ねたように呟く声も、足元に落としたきりの視線も、腕を掴むでも手を握るでもなく、たった一本の指を絡めるだけの仕種も、何もかもが抱きしめたくて可愛らしくて。
「……すみません。今、すごく君を抱きしめたいんですが、まずいですかね」
 まだ先ほどにこやかに送り出された洋食店から目と鼻の先である。まずいですかね、と聞きつつもまずいだろうと自覚はしている白馬に、快斗も困惑気味に応える。
「ここはやばいだろ、流石に」
「じゃあ、とりあえず肩を抱くくらいならどうでしょう」
「……まずいだろ、それはそれで」
「ですかー……。じゃ、手、繋いで行きましょう。ほら暗いですし、そのくらいならいいと思いませんか」
 たまらず、といった風に、快斗が噴き出した。
「オマエ、それ必死過ぎ……っ」
「必死にもなりますよ。僕だって、君の目を見た瞬間から抱きしめたいしキスしたいですし、夕食よりも本当は君を、」
「わーわーわーっ!」
 両手で口を塞がれて、白馬はその続きを仕方なく飲み込んだ。
「だからそれは後で! ほら行くぞ!」
 見当違いの方向にあたふたと慌てて歩き出す肩に手をかけて、とりあえず軌道修正。
 並んで歩く彼の前に、おもむろに白馬は左のてのひらを差し出す。お嬢様、お手をどうぞ、のポーズに足を止めず、胡乱に快斗はそれを見返した。
 が、中途半端に差し出したままの手は取られずに、快斗がそれを凝視しながら歩を進める事、しばし。
「……だめですか」
 肩を落とし、手を引っ込めようとした、その時。
 ぱし、と一回手は弾かれて。
「……しょうがねえなぁ」
 その後で、また一本だけ、そっと指に指が絡められる。
「これでいいだろ。車まで、な」
 照れ隠しに軽く睨み上げられて、車なんてずっと辿り着かなければいいのに、と思ったのはあくまでも内緒である。
 指、一本だけふれあいながら、月夜の道を二人は歩く。二人にとってその道は、ほど良く暗く人気もない、腹ごなしにも丁度良い散歩道も同然である。
「あのさぁ」
 小声でも充分に伝わる距離だからか、快斗の声も自然囁くようなものとなる。返事代わりに、白馬は微笑で先を促す。
「オマエさ、明日は……?」
「明日は……、朝は八時には着きたいので六時半くらいに出れれば間に合います。……君は?」
「オレは昼から。まぁそう簡単にゃ合わないよなぁ、三ヶ月もなかなか予定合わなかったくらいだし」
 溜め息混じりに言われて、白馬としてもうなだれるより他はない。
「三ヶ月間、君よりも目暮警部や工藤くんたちの顔を多く見ているだなんて、僕としても釈然としません」
「あー、オレもオマエより新一やへーじのが顔見てる、そういえば。不思議だよなぁ、あの二人も結構忙しい筈なんだけど」
「僕は現場でよく鉢合わせますよ、彼らとは」
「警部さんに、呼ばれてんの? 探偵が三人も?」
「いえ、むしろ全然偶然ですね。事件に巻き込まれて何故か会ってしまうというか、偶然会った時には事件が起こると言うか……」
「因果だねえ」
 呆れ混じりの呟きにはその通りと苦笑を返した。なるほど、事件を呼ぶのも事件に呼ばれるのも探偵が探偵と顔を合わせるのも、探偵の血に刷り込まれた因果なのかもしれない。
 希望としては探偵より怪盗との遭遇を望んでいるのだが、それはまた別なのだろう。人生思うようにはならないものである。
「君は、彼らとはどこで?」
「どこって……暇出来たら新一んトコ遊びに行ったりもするし、結構普通にスタバとか本屋でばったり会ったりとか」
「何だか妬けますね」
 会おうとしてもなかなか会えない人もいれば、偶然、ばったりで会う人もいる。仕方がないと分かっていても運命に呪われている気がするのはこんな時だ。
「でも今日は会えたじゃん」
 不意に、晴れ晴れと快斗が言う。
「それでいーんじゃねえの、とりあえずは。やっぱさ、こうやって会えんのが一番だけど、その為に出来ない無理したら、いつかどっかで破綻しちまうんじゃないかな」
 そうでなくても誰かさんは無理しがちだし?と付け加えて、快斗は指一本で繋いだ指を軽く振る。
「だからさ。……とりあえずは元気そーで、良かった」
「……君も元気そうでほっとしました」
「オレはいつだって元気だよ」
 ふわり、と快斗は笑う。それに頷き返して、
「ところで黒羽くん。明日は昼からと言いましたよね」
「……言ったけど……」
「では、このまま君をお持ち帰りしても、問題はありませんね?」
 絡めた人差し指を持ち上げて、ちゅ、と音をたててキスを落とした。
 一瞬唖然とした快斗が慌てて指を逃がそうとする。勿論、絡めた指をそう簡単に白馬が逃がす筈もなく、小さな攻防は元通り絡めたまま下へと下ろされる事で一応の決着をみた。
「だって! オマエは早いんだろーが、明日の朝っ」
「ええ、でも多少寝不足になる程度ですよ。出来ない無理はしませんが、出来る無理ならしてでも、少しでも長く君と過ごしたいんです」
 むしろ、一晩徹夜したところでその程度なら無理と呼ぶほどでもない。
 それよりもようやく会えた快斗をこのまま紳士らしく送って行って、次にいつ会えるかも分からないで別れる方が、余程精神的にも負担がかかる、無理をしている状態だ。
 文面と声だけで繋いでいた頃はこうして顔を会わせるだけでも、と思ったのは確かだが、実際に快斗と顔を会わせれば、抱きしめたいし、キスしたいし、余すところなく触れ合いたい。
 そんな当たり前の欲求が溢れ出て、どうしようもなく好きなのだと実感する。
 白馬の言葉の真偽を確かめるように、まじまじと快斗が視線を重ねる。背中を焦がすかと思ったあの熱視線が、まともに白馬の瞳を貫いた。
 迷うように揺らめく指先を頼りないたった一本の指で捕らえて。
「君も言ったじゃないですか、背中に『後で』って」
 くい、と指が引かれて、一本だけでなく他の指も添えられ……しっかりと手を繋ぐと、快斗は大きく溜め息を落とした。
「ったく、もう! 知らねーからな、寝過ごしても!」
「その時はその時ですよ。では、そうと決まれば早速タクシーを呼びましょう」
 繋いでいない方の手で器用に携帯電話を引っ張り出した白馬に、快斗が怪訝な顔で小首を傾げる。
「タクシーって、おい、車はどうすんだよ?」
「明日取りに行って貰います。ああ、もしかして気付いていませんでしたか。さっきから同じ所を歩いていたのを」
「……いや、知ってた、けど。ただ、これ、オレが車に着くまでって言ったから、もしかして回り道してんのかなって」
 これ、と言って彼が繋いだ手を持ち上げる。白馬はそれにもう一度キスを落としてにこやかに、そして至って正直に堂々と白状した。
「それもありますけどね。実はそもそもパーキングの場所をあやふやにしか覚えてなくて、僕たち迷子だったんですよ」
 ぽかんとしている快斗に笑いかけながら、白馬は周りを見回した。
 些細でありながら最大の問題は、明日の寝不足よりも何より、タクシーを呼ぶのに現在地が分からないというその一点だと呼び出しのコールを数えながら白馬は悟ったのだった。
 
 
 

・END・     

◆迷子の指先(「だるまさんが転んだ」収録)より◆白×快◆


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