ソーダ水のないしょばなし 〜ソーダ水のささやき・こぼれ話〜 




 初夏。謀らずも二人の関係に変化を招いた白馬のアルバイトは、おおよそ一ヶ月で終わりを告げた。
 平日の放課後は週三〜五日、そして外せない用事がない限り、週末は終日のペースで挑んだせいで、あちこちに不義理もしまくったが、白馬がアルバイト先に馴染んだのも早かった。
 最初こそ混乱の中幕を上げた状態だったが、数日が経つ頃にはどうにかペースも掴めて、十日も経つ頃には白馬も店独特の空気感を損なう事なく存在し、一月をどうにか勤めあげれたとこっそりと自負している。
 勿論、自負などと言っても自分自慢などささやかなもので、より自慢なのは、彼……黒羽快斗、だ。ぜひにと望んだアルバイト先だったが得た方法を悔いて辞めてしまおうかとの悩みを、快斗は軽々と吹き飛ばしてくれた。愛しい彼の前向きな言葉があってこそ踏み止どまれたのであり、いつも予想の上の上をゆく快斗は白馬の自慢の恋人である。
 そして、無事に先日正式に採用となった新入社員にあれこれと引き継いで、惜しまれつつも短かったバイト生活が終わった白馬を労ってくれると言い出したのも、快斗だった。
「開ーけーてー」
 寄り道、と称して二人して白馬邸へ帰宅したかと思えば「待ってて」の一言で部屋に一人白馬を捨て置いて、どこへやら姿を消した快斗が戻ったのは軽く十数分が過ぎた頃。
 自室の外から小学生のような節回しでかけられた声と共に、ノックとは明らかに異なるぽこぽこと妙に間抜けな音がした。しかもノックと言うには有り得ない、低い位置から。
「どうぞ……?」
 白馬の部屋へは庭に面したベランダの窓から出入りする確率が一番高いとは言え、普通に廊下からも彼は出入りしている。だが、どちらから入るにしても大抵ノックなど形だけで応答を待ちもせず同時に扉を開けて入って来る快斗が、ドアの向こうで大人しく待っている気配を訝りながら白馬はノブに手をかけた。
「どうし……おや」
 家人から借り受けて来たらしいワゴンを押して、ニンマリと笑う快斗が目顔で『通して』と訴えるので、慌てて白馬は扉を押さえたまま身を引く。
 澄まし顔でワゴンを押しながら通り抜ける快斗の、足元でスリッパがはたりはたりと音を立てる。足音は勿論、気配だって完全に消せる筈の彼の、やけに楽しげに響くスリッパの足音にその足元を何気なく目で追って。
 先程の音の出所は彼のスリッパに違いないと不意に確信を抱いた。
「……蹴りましたね?」
「まぁまぁ、細かい事は言いっこなしでヨロシク」
 顔をしかめる白馬を案の定軽くいなしてウインク一つ、快斗はするするとワゴンを壁際に寄せる。電気ポットの電源を繋ぎ、手回しのミルにコーヒー豆を入れ挽く手際は手慣れて見えた。
 まるで取り合わない様子に、やれやれと白馬は軽く嘆息する。
「喉が渇いていたのですか? お茶なら言ってくれれば……」
 紅茶なら自らの手で用意したし、コーヒーが飲みたかったのならわざわざ受け取りに行かずとも内線一本で届けられるのが白馬の家だ。
「いいじゃん、淹れよっかなって気分だったんだよ。それより突っ立ってないで、座れば?」
 誰の部屋だか分からない調子で椅子を勧められて、苦笑しながら白馬はソファーへと腰を下ろす。
 彼が豆を挽いた瞬間からふんわりと鼻先に広がるコーヒーの香りを、もう懐かしいなんて思ってしまうのだから、たった一ヶ月のアルバイトも随分と身に染み込んでいたのかもしれない。イギリス育ちと言う事もあり根深い紅茶党だった白馬も、この一月ですっかりコーヒーの香りにも馴染んだ。
「良い香りですね」
「ああ。挽いてる時が一番香り高いよな。これが淹れるとなんでどっかいっちゃうかなー……」
 後半の子供っぽいぼやきに思わず『可愛い』と口から零れそうになるのをぐっと堪え、控え目な微笑みにと止めた。
 ふっつりと途絶えた会話が気にならない程度には互いの存在に慣れたからか、口許にほんのりとした笑みを残したまま着々とコーヒーを淹れる彼を、白馬はぼんやりと目で追う。
 ポトポト、ポトポト、と。
 彼の手で丁寧にドリップされたコーヒーが、一滴、また一滴とコーヒーサーバーにゆっくりと溜まっていく。
「はい、おまちどー」
 ぼんやりとしている自覚のないままぼんやりしていた白馬は、その声にはた、と瞳を一度瞬かせた。
 俄かウエイターと化した快斗の見とれる指に支えられたリチャード・ジノリのイタリアンフルーツのコーヒーカップは、受け取ろうと伸ばした手をするりと逸れた。白馬の目前を抜けて、明らかにずれた場所にサーブされる。
 誰も座っていない白馬の隣、その前にちょこんと置かれたカップ&ソーサーを見つめ行き場を失った手を下ろしあぐねていると、肩を押され。
「そっち、詰めて」
「あ、はい」
 条件反射ですみませんと呟きながらソファーを一人分横へ……カップの前までずれると、白馬が座っていた場所へ……つまり、すぐ傍らへ、カップを片手に快斗が腰を下ろした。口許は含み笑いで、目も笑っている。
 ローテーブルを挟んで、ゆったりめの三人がけのソファーが向かい合わせに配されていて、悠々としたそのスペースに座るべき人は二人しかいないのだ。
 座る場所など選び放題である。
 なのに快斗はわざわざ奥に詰めさせて白馬の場所を奪い、素知らぬ顔で寄り添う位置に腰を下ろす。
 予想外ではあるものの、その小さなわがままと彼の選んだ距離感には、そわそわと心が浮き立つ。
 何となく向かい合わせに席に着くと思い込んでいた白馬の予想を外したのが楽しくて仕方がないのだろう。
 鼻歌でも歌い出しそうな表情で、彼はザクザクコーヒーに砂糖を投入し、きちんと溶けているのかと余計な手を出したくなるような手早さでかき混ぜ、仕上げにたっぷりとコーヒーミルクを注ぎ込む。
 香りがどこかへいってしまう理由はそれではないかと思ったものの、白馬は賢明にもその呟きは飲み込んだ。
「ありがとう。遠慮なく頂きます」
 息を吹き掛けふわりと鼻先をくすぐる香ばしさに目を細める。少し酸味のあるブルーマウンテンがゆっくりと口の中で広がった。
 無意識に出た『美味しい』の呟きに快斗が白馬を見ないまま無言で蕩けるような笑顔を浮かべる。静かに少し彼の身が傾いで、肩と肩がこつんと触れ合った。
 会話するみたいな小さな触れ合いに、浮かぶ笑みが自然ととても甘い。
「そういや、一度聞いてみよーと思ってたんだけどさ」
 カップが半分の軽さになる頃に、唐突に彼は口を開いた。
「前からコーヒー、好きだったんだ?」
 なんかオマエ血液の代わりに紅茶流れてそうなイメージだったから、と付け加えられて、語尾上がりな声がもれた。
「はぁ? 何ですか、それ」
「だから、そのくらい飲み物は紅茶しか飲まないって勢いで普段紅茶飲んでたじゃん」
「……それ、随分脚色が入ってますよ」
 確かに昔から紅茶をそれこそ水代わりやお茶代わりに飲んでは来たが、別段紅茶しか飲まない訳ではない。
「確かにコーヒーは進んでそう飲んではいませんでしたけど。飲めなくはなかったですよ?」
「ふぅん……そのくらいのコーヒー好きにしちゃ、随分あの店には入れ込んだよな」
 快斗が、どこか探るような視線を向ける。その口からバイト先だった店名を出されて、ああ、そこが引っかかっていたのか、と思う。
「美味しいな、と初めて思ったんです」
 歳を重ねるにつけ、コーヒーを口にする機会は増えた。お湯で溶くだけのインスタントやきちんと挽きたてのコーヒー豆を使ったもの、豆も様々であったろうし、淹れ方だってドリップやサイフォン、コーヒーマシンなどに因っても繊細な違いが現われる。
 飲み方にしてもホットにアイス、加糖や無糖、糖分の種類やコーヒーミルクの有無などで味だって変わる。
 けれど、それらのどのコーヒーも、思わずカップを傾ける手を止めてしまう程ではなかった。恐らく中には高価な豆を使用したものも淹れ方に特化したものもあったであろうに。
「美味しいコーヒーの話はよく聞きますけど、どうも実感がなかったんです。なので、コーヒーが美味しいってこういう事かと思いました。勿論、今も思ってますけどね」
「どーぞ、お気遣いなく」
 全然信じちゃいない、という口振りで彼は肩を竦めて受け流した。
「お愛想じゃないですよ?」
「いいよ、あの店に匹敵するくらい美味いコーヒーが淹れれたなんて、オレだって思ってねーもん」
 かく言う快斗はあの店には三度顔を出しただけで、三度共に注文はソーダ水でコーヒーは飲んでいない。だが、お客さんの顔見てたら分かる、と彼は言う。
 コーヒーを飲んでいる時の顔。
 そして代金を支払う時の顔。
「皆、満足しましたって顔で帰ってくもん、美味しかったに決まってる」
「負けてないと思いますけど」
「気合いとか根性じゃ勝てないってば」
「愛情ってスパイスが利いてますよ」
 言い終わるや否や、ぺしりと額を指先ではたかれた。はたいた本人は即座にそっぽを向いて、恥ずかしい事言うべからず、と言葉に出さずに訴えている。
 お世辞でもお愛想でもないのに、とは思うものの、快斗が白馬の為に淹れてくれた、という点で美味しさがプラスアルファされているかもしれないのもやはり多少は認めざるを得ず、軽くはたかれた額に手をやり白馬は苦笑う。
 そして快斗が愛情が入っている件について否定しなかった事にも気がついて、苦笑を微笑へと変えたのだった。
「ああ、それと」
 言を継いだ白馬を、快斗は不思議そうに見返した。
「あの店が特別なのは、コーヒーが美味しいからだけじゃないんです」
「やっぱりマスターさんと特別な関係でした、とか言ったら殴る!」
 茶化す快斗に『それこそありえません』ときっぱりとした否定を挟むのは忘れずに。つい横道に逸れがちな会話の軌道修正をはかる。
「そうではなくて。……君といる時みたいだと思って」
 忙しなく過ぎる日常と、まるで違う時間の流れに乗ったかのように、あの店では他で味わえない穏やかでゆったりとした空気が過ぎる。店内に一歩踏み入れるだけで緩やかに変わる時間の流れ方が癖になって、折を見て通うようになった。
 いつしかお客としてだけでなくその独特な空気感を身につけたいと願って、人を探していると言う言葉にごり押ししてまで飛びついた。約一月店内に身を置いただけで、果たしてあの空気感が身についたかどうかは不明だが、得がたい体験が出来たのは確かだ。
 あれ、と言う表情で快斗は小首を傾げる。
「……今、なんか途中すっ飛ばして話さなかった?」
「ええ、まぁ、少し。つまりあのお店にいる時の僕と、君と居る時の僕には共通点があります。さて何でしょう?」
「おい、無茶振りでクイズかよ!」
 目を見張って、継いで顔をしかめ、文句を言っているのに目許も口許もどこか楽しそうだ。ポーカーフェイスとはかけ離れくるくると変わる鮮やかな表情の変化は、とても素直で屈託がない。
「ないだろー、どう見てもオレとあの店の共通点なんて」
「違いますよ、あの店に居る僕と、君と居る僕、ですよ」
 直接的にあの店と快斗に共通項がないのは、二人に一致する認識だろう。
 ではどこで共通点を見出だせるのかと言えば、違う、と言う点だ。
 いつもの時間の流れと、あの店に居る時の、時間の流れが違う。
 不思議にゆったりと、店内と店外には違う時間の流れ方が存在するかのように、何もかもが穏やかに、緩やかに過ぎる。
 同時に、いつもの時間の流れと、快斗と居る時の時間の流れも違う。
 体感としてはまるで反対で、快斗と過ごす時間はまるで羽根が生えたように、飛ぶように過ぎる。楽しくて、嬉しくて、二人で居る時間の一分一秒を大切にしたいのに、目眩がする程瞬く間に時は流れてしまう。
 どちらもが確かに、平素とは違う時間の流れなのだ。
 白馬にはどちらの時間も大切で、『いつもとは違う時間の流れである』と言う点を共通項と呼んで差し支えなければ、そこに共通点はある。
 あるが……あまりに引っぱってから種あかしをしたら、こじつけだと快斗の不興を盛大に買いそうだ。
 ここは精々勿体をつけないでさっさと手の内を見せた方が賢明と思えた。
 そう口を開こうとした時。ああでもない、こうでもないと首を捻っていた快斗が、唐突に叫んだ。
「ないって、ないない、あーっやっぱ分っかんねーって!」
「おや、ギブアップですか」
 語尾に微かに混じった笑みを、快斗は敏感に感じ取る。今にもお手上げ、と言い出す寸前の口許が、キュッとへの字に曲がった。
「……可愛くないっ。そーゆー可愛くない態度取ンなら、労ってやんないぞ!」
「もう充分に労って貰ってますよ」
 快斗は部活動やアルバイトこそしてはいないが、クラスでも社交的でつきあいが広い人気者だ。正式にどこの部にも席を置いていないのを良い事にあちこちのクラブに顔を出し、まるで部員のように入り浸ったりはたまた運動部の練習試合などでは助っ人に借り出されたりと忙しい。
 遊ぶ時も全力投球だ。寄り道だって遊びに繰り出すのだって、快斗の一声でどんどん話は広がり、どこで築いているのか謎ながらやたら広い交遊関係が垣間見える頃には、寄り道が一大イベントになるのも珍しくはない。彼は常に台風のように周りを巻込んで、飛び回っている。
 その上、白き怪盗の姿も未だ現役だ。
 恋人、なんて甘い言葉で飾っても白馬が彼を独り占め出来る機会も時間も、そう多くはない。
 そんな風に決して暇を持て余している身ではないのに、今夜はバイトが終了した白馬の為に時間を割き、共に過ごす時間を作ってくれた。加えて、自ら丁寧に淹れたコーヒーを振る舞い、隣りに腰かけ一緒に飲んでくれている。
 優しく甘く快い、贅沢な時間。
 これだけで、学校に、アルバイトに、怪盗KIDの現場にと駆け抜けて蓄積された三十日分の、どんな疲れも吹き飛んでしまう。
 快斗が白馬のバイト先に顔を出したのは三度だった。
 だが、それよりずっと高い頻度で、終了時にふらりと現れたり……快斗はあくまでも待っていたとは認めなかったが……、公園で待ち合わせては寄り道したり、夜道に肩を並べて帰宅した。
 そうしてちょくちょくと快斗が足を運んでくれていなければ、白馬は恐らくもっとずっと早くに音を上げていたに違いない。
 疲れと、それ以上に快斗不足で。
 騒々しい学校の教室では深い話など出来ない。甘いやり取りなど望むべくもない。
 夜の公園は束の間の息継ぎにはなったが、そう度々引き止めるのも気が引けた。
 ましてや怪盗KIDの現場では、甘さよりも掴まえるか出し抜かれるかといった攻防に終始し、……それはそれで心踊ったのも事実だが、逢瀬というよりは駆け引きの色が強い。
 こうして久々に快斗と二人きり、邪魔の入らない場所で時間も気にせず過ごせて、疲れも癒えたし不足気味だった快斗も補給出来るというもので。
「たったのコーヒー一杯でもう満足?」
「この一杯には色々と附随していますから。……ご馳走さまでした」
 ただのコーヒーではなく、彼の気遣いや思いやり、労りや優しさが込められた一杯だ。
「美味しかったですよ、本当に」
 そう続けると、彼は肩だけちょん、と一度触れ合わせると『お粗末さま』と気のない声で呟いた。声音とは裏腹に、ほんの少し朱を刷いた目許を隠すようあさっての角度に向けるのは彼特有の照れ隠しの仕草で、しかめっ面に失敗したかのようなその表情ですら愛しさを掻き立てる。
 触れた肩は、すぐに離れた。
 けれど『ん?』と快斗はもう一度身を傾げ、またも肩を触れ合わせたかと思えば改めて白馬の顔を覗き込んで来る。明らかに唐突な動きは、既にそっぽを向いてまで隠そうとした表情について、すっかり忘れての動きに見えた。
「……あの、何か……?」
「んー、あ、いや。安直過ぎるか」
 独り言めいた呟きに、軽く眉を引き上げる仕草で先を促すと、小さな逡巡の後。
「まぁ、うん、捻りなさ過ぎとは思うんだけどさ」
 そう前置きをして、彼は小さく首を傾げた。
「幸せ?」
「…………は、……?」
 意味を上手く捕らえられずに、白馬は軽く瞳を瞬かせる。滲む困惑を見て取った快斗が視線を上に投げ、下げ下ろし、しばし間を置いて言葉を選び直した。
「いやだから、ほら、あの店に居る時のオマエと、オレと居る時のオマエの共通点がさ。『幸せ』かなーって」
「……ああ、」
 しあわせ、ですか、と呟く声は吐息に紛れる。
 快斗の見つけた答えは飾り気がない。シンプルで、言葉は悪いがありきたりだ。
 だが、身近な言葉なのに、はい、と手渡されて初めてその意味を知ったかのような、その言葉に触れたかの如く、そんな驚きがあった。
 しかもそれが快斗が見つけた共通点だと言うのに、重ねて驚く。
 それは、何よりあの店に居る白馬と快斗と在る時の白馬が、どちらも『幸せ』という共通項で括れると彼が判断を下したと言う事で、驚きと共に幸福感がふんわりとわきあがる。
 彼と居る時の自分が幸せそうに見えるならば、裏返せば白馬と過ごしている彼にも、多少なりともそういう要因があるのではないだろうか。……そんな期待で。
 やや呆然と感動が入り交じりフリーズしていた白馬は、先程の快斗ではないが取り繕いきれなかった表情をさらすのもためらわれ、とりあえずやや俯いて視線を逃した。
「あのさぁ、そのリアクションって」
 その微妙な間が、快斗に誤解を与えたようだ。妙に勢い込んで彼は身を乗り出す。
「もしかして一発必中大当たり?」
 キラリン、といたずらっぽく快斗の瞳が期待にと輝く。それを陰らせてしまう答えを返さなくてはならないのが、残念な気持ちで白馬は首を振る。
「あ、いえ、残念ながら」
「……なーんだ。オレもなかなかオマエを分かって来たぜ、とか思ったのにな」
 一転、ふにゃり、と脱力した身体を彼はソファーへと委ねる。白馬は苦笑がちに一言加えた。
「違ってましたけど、間違ってはいませんよ」
「……?」
 全身を弛緩させ、緩めたままに快斗がまなざしで意味を問う。
「つまり、僕の思っていた理由ではありませんでしたから『当たり』じゃないですけど、君の答えはあながち『間違い』じゃない、と言う意味です」
「んーと、つまり。マル、ペケ、サンカクで言えばサンカクか。……やっぱまだまだじゃん」
 そう言う快斗を白馬がどれだけ理解出来ているかと言えば、サンカクどころか落第点かもしれない。
 万華鏡のように、くるりと一回りで彼は次々と違う顔を覗かせる。分かった、理解出来たかも、と思った矢先に初めての顔と出会う、といったように。
 だからだろうか。不思議と彼の謎は尽きる気がしない。
 だからこそ、彼に惹かれ続けるのかもしれなかった。
「何となく、君は謎を残して置きたいタイプかと思いましたが」
 全部分かっちゃったら面白くないじゃん、なんて言いそうな雰囲気がある。そのイメージは彼独特の遊び心からか、生来のおおらかさの現れか、はたまた人間的な余裕が思わせるものなのか。
 ともあれ、探偵にありがちな性分の一言で片づけるのもどうかと思うが、何もかもを知りたいとあがくのはいつも、自分ばかりな気がしていた。
 不意に、きゅっと耳を引っ張られ白馬は、いたたっ、と小さな悲鳴を上げる。
「時と場合と相手によるんだよ!」
 耳が引かれるまま快斗へと身を傾がせた白馬の頬で、ちゅ、と可愛らしい音が聞こえて。目を見開いた白馬を突き放すように、彼は身を離す。
「じゃなきゃわざわざ尾行までして、オマエがナニしてんのかなんて知ろーとするか!」
 バカ、と軽いこぶしが仕上げに肩口を小突いた。
 こっそり始めたアルバイト先に予告なく現われた快斗に、驚いたのは瞬間で、つい彼ならばなんの不思議もなく知り得るのだろうとすんなり納得してしまっていた。
 彼がそうするに至った理由を想像すらせずに。
 聞きようによっては熱烈な告白にも聞こえる台詞を告げた本人は、その自覚があるからか単に頬へのキスが照れくさいのか、肩口を小突いた後に額をこすりつけるように押し当てて、安易にその表情を窺わせない。
 目前で好き勝手に跳ねている髪は、案外ふわふわとしていつまでもなでたり梳きたくなる手触りなのを、白馬はもう知っている。
 誘われるように指先を髪に差し込む。するりと、時折強情に跳ねている毛先が指先から逃げる前にその頭を抱え込んだ。
「わっ、ナニす、」
 条件反射的に放れようとした身体も白馬はしっかりと捕まえたまま、頭のてっぺんに唇を落とす。そして額に、まぶたに、鼻頭に、そして焦らすようにその口の端に。
 腕の中の身体に小さいながらもはっきりと走った震えが、密着した全身で感じ取れる。
 愛しい、と思う。好きだとか、可愛いとか、愛しいとか。思っても込み上げるままに簡単には愛を語らせてなどくれないのが快斗だ。
 ならばと気持ちを指や唇に託し伝えても、どれだけ届いているのかは結局想像するしかない。……別の人間である以上。
 大切な想いを頑なに言葉にしないまま重ねた身体から必死に気持ちを探し、それでも届かない距離を感じながら二人が平行線を保っていたのは、遥か昔の事などではない。まだたったの一月かそこらしか過ぎていないのだ。
 腕の中にその身を囲っても。
 キスしても。
 その身体に触れない場所などない程に近付いても。それだけで何もかもは伝えられない。
 それも、触れる事も叶わなかった頃には知らなかった。触れ合う事を許されて、けれど告げる言葉を封じているが故、届かないものを知った。
 指に、行為に、気持ちを込めれば伝わるものだってある。言葉だけが全てではないから。
 けれど同時に、言葉を封じたままでは全ては伝わらない。
 それも真理なのだ。
 それをはっきりと認識したのは快斗が初めてバイト先を訪れた日の夜、あの小さな公園でだった。
「甘い、ですね」
 あの日は唇に、そして口内にもとろけそうなケーキの甘さが広がっていて、今日は今日で酔いそうに甘い彼仕様のコーヒーの味を彼から味わった。
 舌先に残る独特の甘さが消える程に口内を味わい尽くして、コーヒーの深みや苦味がなくなっても尾を引くように余韻が残る。
「……とても、甘い」
 砂糖とミルクがたっぷりと入ったコーヒーならではの甘さか、それとも、と思い巡らせ呟けば、ぽかり、と力ないこぶしが軽く背を打った。
「文句あるなら、」
「とんでもない」
 帰る、とでも続きそうだった台詞に、被せるみたいに言い切る。
「疲れた時には甘いものが一番ですしね」
 言えば、快斗は軽く睨むようにして、白馬を見返して来た。
「……って、オレかよ……?」
 そんな視線一つにまた誘われたように思える。間近で、白馬の軽口を不服そうに跳ね返す強気な視線なのに、不思議と色気や甘さが誘いかけて来る気がするのだ。
「ご明察。君は他の何より甘くて、他の何より元気になれます」
 この甘さは中毒性があるだけに危険な所までが、彼そのもの。
 眼の縁やこめかみ、額や鼻先にと蜜を求める蝶の如くランダムにちょんちょんとくちづけを落としながら告げれば、しょうがないなーと吐息のように密やかな囁きと共に緩く囲った腕の中で快斗が僅か身動ぐ。
 並んで座っていたソファーの上、中途半端に引き寄せられたその身を一度離し、彼は改めて白馬へと向き直った。
「よおっし! んじゃ、ご褒美!」
 ちゅっ、と軽いリップ音をたてて、可愛らしいキスが贈られる。キスそのものは先程頬へと貰ったキスに近い妙に可愛らしいものだが、今度は場所が違った。
 唇は、唇に。
 音を立てて触れて、速やかに放れてしまう。
 瞼を閉じる間もキスに応える間もなくあっけなく放れた唇に、苦言の一つも呈しようとしたものの、言葉は半ば呻きと消えた……その後に続く、快斗の動きで。
 指を肩口に添え身を寄せた快斗が、白馬ののどに唇を押し当てる。
 のどは人間としては急所の一つで、本能的に庇いたくなる場所で。ましてや快斗が相手なら充分警戒心がかきたてられても良い筈なのに、同じ位、快斗だからこそ無防備になれた。
 故意に傷つけたりはしないと白馬を信頼し、どこまでも無防備になってくれる快斗が、相手だから。
 のどを滑る唇の触れた後が空気に触れてひやりとするのに、時折食むように悪戯にうごめく唇は熱いくらいで。そのまま降りた唇は開襟シャツの併せ目から覗く鎖骨に届くと、今度は戯れるよう軽く歯を立てる。
 痛みなんてないのに、名を呼ぼうとした声は不明瞭にのどに絡まって止まってしまった。
 悪戯な子猫のように、甘噛みを一つ。そして白馬の反応を伺うようにちらっと視線を上げながら、ゆっくりと唇が肌を強く吸い上げ、仕上げとばかりにちろりと覗いた舌が赤く染まったその痕を丁寧に舐め上げる。
 ふわふわと甘い空気は一転して、しっとりと絡みつくような濃厚な甘さを伴って二人を包んだ。
「……思い切りつけましたね、……痕を」
 互いに、見えるような場所に痕は残さないのが暗黙の了解だったでしょう、と苦笑混じりに訴えても快斗はまるで悪びれない。
「いいじゃん、明日からもう開襟シャツじゃなくてもいーんだから」
 確かにバイト時は白の開襟シャツに黒のベスト、黒のパンツにカフェエプロンという制服だったが、それも今日まで。
 学校の制服の半袖シャツは一番上までボタンを閉めれば鎖骨までは見えないから、セーフといえば辛うじてセーフだがどうにもその位置は際どい。
 放っておけば、襟をきちんと閉じていても隠れないような場所にまで痕を残されそうで、慌てて両頬に手を添えて動きを阻む。
 だが、こんな所でも快斗の動きは白馬の予想を軽く越えて行った。
「どうせ制服のボタン、外したりしないだろ?」
 そう軽口を叩くと、いきなり顎を上げるように彼は身を引く。頬に添えていたてのひらからするりと抜けると、行き場をなくして空に浮いたままの右手を強引に掴んだ。
 彼へと腕は引き寄せられて、そこに唇が寄せられる。
 否、寄せられたのは唇だけではなかった。
 ただ添えているだけに見える快斗の手は、存外がっちり白馬の右手を掴まえていて。指先にくちづけを落とされるだけでなく、そのままかぷりと人差し指の第一関節に軽く歯を立てられる。
 鎖骨にたてられた歯と同様に、痛みらしい痛みもない。生まれたのは、むず痒さと至極微かで小さい、熱。
 そして噛まれた場所からじんわりと広がった疼きは、確かな甘さを伴っていた。
「もしかして、君、かみつくのが最近のブームなんですか」
 第一関節といい鎖骨といい、かみぐせがあったのだろうかと問えば、何とも半端に熱を冷まされた、という風情で快斗が上目に視線を寄越す。
「それもなくもないけど……どっちかっていうなら、痕を残す方がブームかなぁ」
 やっと解禁だし、と付け加えて、改めて快斗は手へと向き直った。
 両手に掴まれた右腕は逃げようもなく指先からてのひら、手首へと唇で食んだり、軽く歯を立てたりキスとも子猫のじゃれつきとも軽い愛撫とも判断し難い様相が続く。
 やたら積極的なその姿に、物珍しさと同じ位負けん気の強い快斗らしさも感じて逆に微笑ましくなってしまって、困ってしまう。……恐らく快斗としては微笑ましく思わせたいのではなく、行儀良く白馬の中で眠っている熱を煽りたてたくて仕掛けているのだろうから、白馬としても水を差すのはなるべく避けるべきと心得ている。
 快斗の唇と歯と舌は手首から肘に、そのまま二の腕へと移ろった。
 指先から二の腕の露出している肌のあちこちにうっすらとピンクに染まった目印と歯形はあるものの、強い鬱血もあからさまな噛み痕も認められず、唇もやんわりと食むばかりで鎖骨のように強く吸われたと一目瞭然なキスマークは残されていない。
 なので、油断もあってされるがままに任せていたのが間違いだったのかもしれない。
 半袖シャツの袖を彼の手がたくし上げて、内側のやや柔らかい場所に唇が押し当てられる。唇が軽く皮だけ食んで、間を置かずに強く吸われた。
 軽い痛みに白馬は慌てて快斗の肩へと手をかける。
「ちょ、黒羽くん、またそんな……」
「だいじょーぶ、ここもフツーにしてたら見えやしないって」
 彼はニヤリと確信犯の笑みで言う。
「だからって、君ね……」
 過去の経験から鑑みるに、今のは半日もすれば消える類のものではなく、少なくとも翌日までは下手すれば二、三日は確実に残る印だ。
 快斗の言を信じるならば一見して周囲に悟られる場所ではなく、この手の事でからかうなら目の前の相手が筆頭だ。つけた当人が流石に騒ぎ立てはしないだろうが、一滴の墨が落ちたかのような不安にはそう簡単には目をつぶれない。
 だが、理性では気をもみつつも別のどこかではこう言った形であれ快斗の刻む執着の現れを、喜んでしまっている自分もいた。キスマークとはなんと甘く愛しい恋人の主張だろうか。
 腕を軽く上げて、覗き込むようにしてやっと、彼の刻んだ印がうっすらと見えた。
「な? そうそう見えないって」
「……では、見えない場所なら君につけても構わない、と理解しますよ」
「いいよ、今日は特別。ご褒美だから」
「……アルバイトを完遂したご褒美にしては、大盤振る舞いですね」
「チガウんだなー、これが」
 チガウ、の処で人差し指を『チッ、チッ、チッ』と軽く三度振り、快斗が人の悪い微笑みを浮かべる。
「オマエがバイト頑張ったご褒美をオレがやるんじゃなくて、オレがオマエのバイトを邪魔しなかったご褒美を、貰うんだよ」
 分かる?と問う瞳はやはり笑み混じりで、どことなく勝気で楽し気だ。
「痕とかつけまくって、オマエはオレのもんなんだって実感したい」
 愛を交わしても、彼の全てを求めてはいけないと白馬は思っていた。
 快斗は快斗だけど、怪盗KIDでもあるから。
 ただ快斗を愛したいだけでも、彼の全てを求めるのは傲慢であろうし、二つ名の活動に支障が出るような愛し方は自分勝手だ。……そんな風に。
「いっぱい痕をつけられてオレもオマエのもんだって感じたい」
 白馬は快斗の意外な主張に、軽く瞠目した。痕を残さない、翌日にダメージを残すような抱き方をしないを初めとする暗黙の了解を愛し方のルールとした、白馬なりの気遣いや自制は的外れでしかなかったのか。
 ……そう言えば、大前提として快斗の意思を確認してはいなかった。
 そもそもが気持ちを言葉に乗せてダイレクトに伝えられるようになったのだって、アルバイトを始めてからの事。つまりここ一月余りの事で。
 始まりに恋の自覚などまるでなく。
 気付けば言葉を飲み込んだまま言葉以外で互いの気持ちを伝えてしまっていた。だから、半分だけ目隠しをして疾走するみたいな、危うく足許がおぼつかない、不安定な恋で。
 言葉はなくとも彼に好かれているのは感じている。そうして言葉でなくとも伝わっていると思い込んでしまった。
 道は是正したけれど、気持ちに言葉を添わせるだけで、『好き』は地に足をつけるのだと実感して間がない。……まだ慣れない。
「オレを全部やるからさ。オマエ全部、寄越せよ、白馬」
 踏み込んで、相手の『丸ごと』を求める気持ち。
 身体も、心も、時間も、見えない場所に残す執着の証さえも。
 全てを差し出され、全部寄越せと求められるのが、これ程に鼓動が轟きふわふわと心踊るものだとは知らなかった。
「……何だか、」
「……何だか……?」
 快斗が訝し気に繰り返す。
「それってプロポーズみたいですね」
「だとしたら?」
「はい、喜んで、ですよ」
「誰だよ、コイツ居酒屋なんかに連れ込んだの」
 王子様台無し〜と意味不明な呟きと共にそれでもご機嫌な笑みで快斗は、白馬の左手を取ると薬指の根元へと歯を立てた。
 一噛み、二噛み、間に、うえ、なんてえづきながら。
 隠しようがない所に、快斗はリングを刻む。
「じゃあ差し当たりはコレで賄うとして。バイト代の使い道は決まったな」
「……おや。三か月分じゃなくていいんですか」
 しかもバイトの一か月分などたかがしれてる。
「後二か月もほったらかしにするなら、オマエなんかポイだポイ!」
 何かをクシャクシャと丸めて捨てるジェスチャーをする長くしなやかな指を捉えて。
「では差し当たり僕からもコレで」
 歯で刻むリングに快斗が面映ゆそうに微笑む。
「ただ……バイト代はばあやに寅屋のどら焼きを買ってしまって」
「なにおぅ!」
 オマエなんかポイだと騒ぐ快斗を背に、白馬は机の引き出しの奥に潜ませてあった小箱へと手を伸ばした。


end

◆◆『ソーダ水のないしょばなし 〜ソーダ水のささやき・こぼれ話〜』より◆白×快◆


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