LOVE BARANCE 2




*    *    *

「うーん……」
 重苦しさで目覚めれば、快斗の右腕はしっかりと褐色の身体の下敷きになっていた。
「お、重い……」
 といっても、恐らく過程で言うなら快斗の腕は彼の背に回っていた名残で今はこうなっているのであろうし、平次のせいだけでないのは分かっている。……いるのだけれど。
「だーるーい〜」
 承知の上でぼやく。本当にだるいのは腕だけじゃないのだから、訴えは間違ってはいない筈である。
 ただし、快斗の首の下には彼の二の腕が下敷きになっているままで、絡めたままの脚なんてどっちがどっちの上だ下だなんて言えたものではない。
 状況的にはお互い様といった所だ。
 身体にかかる心地良い重みと充足感、そして直接伝わる温もりにぼやきながらも身動きする気もなくなってしまう。
 このまま丸くなってその腕の中、いつまでも怠惰に、そう……猫みたいに喉を鳴らして寝ていられたらいいのに。ぼんやりとそう思う。KIDとしての強がりも心配事も悩みも、快斗としての迷いももどかしさも一旦全部棚上げしてしまって。
 それは今の快斗ならまるっきり不可能な話ではなくて、望めば多分容易に叶えられる望みで。もしかすると、望まずとも既に与えられるのかもしれない、望みだ。
 だが、完全に痺れて感覚のなくなってしまっている右手の現状を思い出してしまったら機嫌の良い猫のままにもいられず、渋々、熟睡しているらしい平次の下からそぅっと腕を引き抜く。
「……んー」
 無意識でか身じろいでそれを助けた形となった平次は、そのせいでか半ば覚醒したようだ。ぼんやり眠そうな瞳を数度しばたいて、……半身を起こし覗き込んでいた快斗をその瞳に捉えた。
「ゴメン、起こしちゃったか」
「……快斗」
「うん」
 腕の中に引き戻そうとしたのか伸ばされた指に指を絡め、微笑んで引き寄せられるがままに快斗は軽いくちづけに応える。
 しかしその後、身を起こそうとする快斗を引き止めるように、平次が絡めた指に力を込めた。
「帰んの」
 どこか寝ぼけた声が拗ねたように呟く。
 快斗が予告の一つもなく唐突にやって来ても、それこそ挨拶もなく唐突に姿を消していても、いつだって苦笑一つで泰然としていた平次がこんな風に問うなんて、初めてかもしれない。驚きを隠して快斗は小首を傾げる。
「んー? ナニ、帰んないで欲しい?」
 からかい混じりの問いに、
「まだ、帰らんで」
 半分寝ぼけ眼なのに、平次は即刻頷いてそう言う。その上、腕を腰に回して快斗を腕の中へと引き戻そうと促して来た。腕がいつもより幾らか温かくて……彼がまだ半分程度は夢の中なのが知れる。
 快斗はずっと束縛の影に敏感だった。
 それは自分が背負う二つ名の為でもあるが、そのせいだけではないだろう。恐らく手に入れて失う事への怯えが根底にある。
 だから、身を絡め取る糸の気配が垣間見えたら、相手が誰であれどのような間柄であれ、即刻ダッシュで逃げる心積もりはいつだってあった。
 それなのに、彼の巻いてくれた信頼と言う白い糸と愛情と言う見えない糸はどうしてだか心地良くて、いざとなると逃げ足が鈍る。
 どうかしてる。そう分かっていても、振り解けない。もう囚われてしまっている心がそうしたくないと叫ぶから。
 離れよう。離れなければ。
 焦りに似たそんな思いが心を過ぎっても、自らを捕らえている繊細なその糸が切れないようにとさえ、願う。
 その上彼にしては稀である甘えるような素振りとくれば、何だかほのぼのと微笑ましくすらあって自然と顔は綻んだ。
 無意識から出たらしい拘束に不思議と嫌悪感は全く生まれない。
 促されるままにコロンと転がって、平次の腕の中に戻るとクスクスと笑いが漏れる。腰から快斗の背に回った腕がやんわりと痩身を抱きしめた。
 その心地よい拘束にしばし浸るのも楽しい。
 額を合わせるみたいにして、なぁ、帰らんで、ともう一度低くねだる声に、うん、と快斗は素直な頷きを返す。
「まだ帰んないよ。シャワーをね、浴びて来ようと思っただけ」
「……そぉなん」
「そぉだよ。だからさ、寝てて。すぐ戻るから」
 宥めるような軽いキスをもう一つ。
 納得したか力の抜けた腕から擦り抜け、シーツの海からするりと滑り降りる。気恥ずかしさを呼ぶ自らがつけた爪痕は極力見ないようにして、足下にくしゃくしゃに押しやられていた上掛けをふわりと平次の背中まで引き寄せた。
 仕上げに今にも閉じてしまいそうになっている瞼に悪戯に唇を落とす。目を閉じるとあどけなくすらある恋人の頬を一撫ですると、後ろ髪を引かれながらも快斗はその場を離れた。
 右腕には切り裂かれたカーテンのように包帯が垂れ下がっている。
 せっかく平次が丁寧に巻き直してくれたのにすっかり緩んで、いつどの段階で引っ張られたか下敷きになったのか、辛うじて手首に纏わりついているような有様だった。
 いくらか残念な気もするが、包帯は解けてしまっても平次の向けてくれた信頼までが崩れてしまった訳ではない。耳朶に直接吹き込まれた囁きはまだしっかり残っていて、思い返しただけでもくすぐったいような幸せな気分を連れて来てくれる。
 ……それこそ全身に散っている、ほの赤い花と同じで。
 快斗は鼻歌まじりに機嫌良くバスルームへと向かった。
 心地よく肌を打つ滝のような熱いシャワーでやっと頭をすっきりとさせながら、快斗は瞼を閉じる。
 閉ざされた視界、そして雨のように他の音を打ち消すシャワーの作る閉鎖された空間で全ての意識をシャットアウトしようとして、だけど。
 元来、快斗は気配に聡い方だ。
 だがしかし、これは気配を読むだとか探るだとかアンテナに引っかかるだとか言うレベルの問題ではなかった。
 シャワールームのすりガラス越しに見知ったシルエットが腹を減らした熊のように行ったり来たり右往左往していれば、誰だって気付く。そりゃもう快斗が世界に名を馳せる大怪盗なんかでなくたって、普通に、嫌でも。
 せっかくだから軽くシャワーで流したらバスタブにお湯も張って、温泉の素でも入れて朝からのんびりと長湯でもしようか、とか。
 快斗のそんな小さな野望は、好奇心をツンツン突っつかれて脆くも敗れ去った。
 急ぎの用事があるなら声をかけるなり踏み込んで来るなりすればいいのだ。急がないなら、それこそわざわざ脱衣所で待ち伏せる必要もないだろう。
 放って置いても快斗は寝室へと戻ると告げていたのだから。
 彼は寝ぼけていたのかもしれないが、それでも一応『帰らない』とも『シャワーを浴びて来るだけ』だとも言ってある。
 それなのに中途半端にガラス越しのシルエットが、うろうろ、うろうろした日には、どうにも気になって落ち着かない。
 結局、快斗は好奇心にも恋人にも弱かった。
 ザッと汗を流すだけ流して、のんびりの長湯は早々に諦める。
「平次?」
 ガラスの向こう、動向を窺っているらしい恋人の名を小さく呼ぶ。だが消す間際のシャワーの音に紛れたか、声は届かなかったらしい。
 のしのし、ガラス越しの彼の歩みは止まらない。
 ならばとガラス扉を顔半分程だけ開けて、快斗は脱衣所をそっと覗く。
 ふわ、と。一緒にこぼれ出た湯気にそれを知ったか、いきなり平次は足を止めて振り返った。
 先程の寝ぼけ眼ではなくしっかりと見開かれた瞳が素早く快斗を捉える。
 目が合って快斗は小首を傾げた。
「……どーしたの。もう一度、寝たんじゃなかったんだ?」
 問うと、一瞬快斗を凝視して固まった平次が、慌てて置いてあった大判のバスタオルを手に取り両手に広げる。
 視線と仕草で招かれて、快斗は迷わず三歩で彼の腕に飛び込んだ。くるりと抱き込まれそのままぎゅっと抱きしめられると同時に額に落とされるキスに、自然と顔が笑み綻ぶ。
 とても大切にされ、甘やかされているのだと実感出来て……目が覚めた時に覚えたのと同じ幸福感に包まれる。全身がほこほことしているのは、きっと今浴びたシャワーのせいだけじゃない。
 目を開くと少し困ったような笑顔で平次が口を開いた。
「や、目ェ覚めてもぅてな。したらどうにも気になって気になって。……どない?」
「ナニが?」
「何て、手ェやん。どうもないか?」
 口早に言われやっと平次がタオルを取る際に床に置いた物にも気付いた。白地に赤十字がワンポイントについた、プラスティックケース。
 救急箱だ。
「ああ……、ちゃんとしてたよ?」
 と、得意気に腕を上げる。
 ところが、持ち上げた右手のビニールはその働きを八割方放棄して緩いゴムから浸水したらしい水で、その姿は見るも無残。ガーゼまでもぐしょぐしょに湿ってしまっていた。傷口まで沁みて来てなかったのが不思議な程である。
 あり?と小首を傾げると迎え撃つは溜め息一つ。平次が半眼で胡乱にそれを眺めている。
「……ちゃんとやて……?」
 呟かれ、快斗は『アレレー?』とどこかで聞いたような誤魔化し笑いでそれに応えた。
「でっでもさっ、見た目はこんなだけど中はそんなに沁みて来てないから、大丈夫だいじょーぶっ」
 焦ってつけ加えたものの、返された微妙な笑顔からするに信用されたかは怪しい。
「……痛ないんやったらええけどな」
 数秒落ちた沈黙の後、どこか諦め口調で平次は会話を切り上げると、手を下げるよう身振りで促す。素直に従うと改めて平次はタオルを引き上げしっかりと巻きつけ、快斗を包み込んだ。
「……へーじ……?」
 くるーり、と。……それは完璧に過ぎて微塵も身動きが取れない。
 戸惑う声に返されたのはどこか悪戯な光を孕んだ視線。にやり、と意味深に笑われて違和感は確信に変わる。
「……もしもし? 動けないんですけどー……?」
「動かへんでええよ」
 言うが早いか、平次は快斗の腰に手をかけ肩に担ぎ上げる。
「わ、わっ」
 抱き上げる、なら方法は様々だ。
 けれど担ぐは他に表現の仕様がない。米俵でも担ぎ上げるように無造作に肩に担がれて、快斗の視界も平次の肩を越え背中へ。
 ぐるり。
 咄嗟に衝突を緩和するべく手を突こうとしても、綺麗にタオルに巻かれてしまっていて不安定な身体を支えられず、ぼふ、と快斗は鼻から背中に衝突した。手だけでなく足までしっかり巻き付けられたタオルに拘束され、暴れようにも正しく手も足も出ない。
「こんなとこで話し込んどったら湯冷めしてまうし、ちゃっちゃとベッド戻ろな〜」
「あだだ……。だからって、なんで簀巻きなんだよーっ」
「ええやんええやん。……それよりジブン、こないしとったらなんやエビの尻尾の出た生春巻きみたいで、ごっつ可愛ええで?」
 生春巻が可愛いかどうかで快斗は瞬間悩み、慌てて突っ込み所はそこじゃない、と首を振る。そもそもどうしてここで生春巻きなのだ、と新たな突っ込み所に思わず力が抜けた処で『しかも暴れへんしええわ〜』と呑気に笑う声は存外本音っぽい。
 どうしてくれようと背中を睨みながら考えていたら、揺すり上げられた拍子に頬がシャツ越しにふと体温を伝えて来た。たったそれだけが、ぞくぞくと覚えのある感覚を連れて来る。
 小さく息を詰めた気配に気づいたのだろうか。歩調を緩めた平次がふと怪訝そうに担ぎ上げている快斗を見やった。
 身動ぐと、抱え方を変えられ快斗の視線は普段あまり見る事の叶わない平次のつむじを捕らえる。次いで顔が上げられ、つむじが消えて、現れたのは推し量るような瞳。
 どないしたん、と目顔で尋ねられて快斗は苦笑を漏らした。
 時折張り倒したくなる程に鈍いが、大抵の場合別段気付かなくとも良いような場合まで彼は気付く。勘がやたらと鋭いのだ。
 そんな平次に『何でもない』は通用しないと予測もつくから、どう言おうかな、としばし迷ってからおもむろに口を開いた。
「あのさぁ。生春巻は、……好き?」
 聞けば、瞬間きょとんと表情を崩し、返事までに間が開く。だが、すぐに意味を汲んだ瞳が一際楽しげに輝いた。
「おう。めっちゃ好物やで」
「でも、ギョーザも焼肉も『好物』なんだよね?」
「せやな。好物は好物やけど、今は他は全然目に入らへんわ」
 意味あり気な視線が快斗の顔から首、そしてバスタオルに包まれた身体の線を辿る。じわり、また体温が上がった。
「……なぁ、そろそろ食べ頃ちゃう?」
 ニヤニヤと言ってのける不遜さは確信犯のそれだ。まったくもって始末に負えない。
 不自由な体勢の報復に快斗は目前の平次の耳に甘く噛みつく。だが、些細な悪戯は多少のくすぐったさを与えただけのようで、まるで人さらいのように快斗を運んで行く平次は、臨む処と軽く喉で笑う。
 余裕綽々と歩む、彼の足取りは揺らがなかった。
 如何に軽いとは言え二十歳に手が届こうかと言う男子一人抱えているとは思えない確固たる足取りで半ドアだった寝室のドアを横着に足で開け、更に肩で押し入る。
 あくまでも快斗から手を放すつもりのない徹底ぶりである。
 春巻き状態のままころりとベッドに転がされて、
「ほな、イタダキマス」
 手を合わせて拝まれると、かぷり、戯れつくようなキスがやって来た。
 唇で食んで、軽く歯をたてて、舌が唇を軽く舐め上げる。こんにちは、とノックするよう舌先で突かれたけれど。
 そう簡単に応えるものかと唇を引き結ぶと、笑う気配と一緒にくちづけは鼻の頭に、額に、そして頬へと転々と移ろって行く。
「快斗」
 促す声は頬に唇を寄せたままだったから、吐息が柔らかく頬をくすぐって火がつく手前でやっぱりどうにも治まらず、快斗はぎゅっと目を閉じる。それが更に感覚を鋭敏にすると知っていながら。
「……快斗」
 再び呼ぶ声に身動いで、瞼を掠めた吐息に誘われ快斗は薄く目を開いた。
 のし掛かって来る男を見上げる。真正面から跳ね返って来る視線が、近い。
 近くて、快い。
 まるで許可を求めるように視線を合わされて、態度と裏腹に向けられる頼りない視線に負けて微笑んでしまった。
 結局の所、快斗はKIDという仮面をつけ続けていない限りクールでなんかいられないのだ。意地っ張りで天邪鬼だけど、それを凌駕して甘いのが大好きなのだから。
「コラ、もう! こんな朝っぱらから食欲旺盛でどーすんの」
「それこそしゃーないやん、食べ盛りの成長期やもん」
「いつまで成長期なんですか、へーじサン?」
 からかい合うようなたわいのないやり取りの間にも悪戯なてのひらがタオルをずらして侵入しては次々肌に火を灯して行く。無駄な足掻きと知りつつも、その手を押しのけて、払いのけて。
「知りまへーん。それに腹減っとらんでも同じかもしれんで」
 言葉遊びの合間に交わされる、小さな攻防。
 そんな間にも小さな火はじわじわと広がって炎へと変わり、次第に、そして確実に、体内から快斗を追い込んでいく。
 覚えのある感覚に溺れる前にと、快斗は両手を突っ張って平次を押し留めようと最後の足掻きだ。
「同じって……?」
「笑いなや。……ジブン前にしたらいつでも食べたなるみたいやねん。なんぼでも。そういうん、がっついとるみたいで嫌やってんけどなー……」
 笑うなと釘を刺されているにも関わらずやっぱりちょっと笑ってしまって、平次に睨まれた、けど。
「しゃあないやん。ほんまに足らへんねんから」
 諦めたように白状する彼の言葉が、すとんと胸に落ちた。

(足りなかったの、オレだけじゃなかったんだ)

 仕方ない、なんてポーズを作って体裁を繕っても、本当はそのキスを、温もりを、熱を、際限なく求めてしまうのはきっと自分の方だと思っていた。けれど単に今まで口に出さずにいたと言うだけで、本当は彼も同じだったのだろうか。
 ここの所ずっとすれ違ってばかりで、文字だけとか声だけとか、遠目に姿を垣間見るだけじゃ全然足りないのは。
 ふとした瞬間に込み上げて来る飢餓感を、独りで宥め賺していたのは……?
「需要と供給のバランスが悪いねんよ。せやからこーやってジブンが腕ン中おるん見たら、抑え利かんくなる」
 思わず抵抗する筈が力が抜けてぼんやりと見上げる羽目になった快斗の頬を、ゆっくりとてのひらが撫でる。そのままこめかみを滑って、髪へと。
「やから」
 頭ごと抱え込んで耳の後ろを強く吸い上げられる。一拍の間に、何、と視線を上げると、数パーセントの苦笑の混じった微笑みとぶつかった。
「せやから、なぁ、帰るん、やめへん?」
 あまりにも予想外の台詞に、快斗はらしからずぽかんとまともに見返してしまう。その見開かれた目を見て『おっきい目ぇ』と平次が微笑う。
「あー、つまり、やね。帰らんと、もうここに住んでまう言うんはどないやろ?」
 いつまでも呆然としたままの快斗に、通じなかったかと小首を傾げつつ平次は軽い口調で言い直す。
 冗談だとは思わなかった。軽く聞こえてもいい加減な気持ちで切り出したのではないのも、分かる。まるで衝動的に動いているような顔をして彼は実は慎重なタイプだ。
「ほんまに今すぐ、言うんやなくてええねん」
 凍りついたように表情を動かさない快斗を、不安がっていると取ったのか、迷っていると取ったのか、穏やかな声が降り注ぐ。
「ここがあかんねやったら、一緒にどっかええとこ探そ?」
優しい声が、まなざしが、快斗の答えを待っている。先ほどまで悪戯を仕掛けて来ていた指も、今はただ優しく快斗に触れているだけだ。
 決して応えを強要しているものではない。
 それも分かっている。
 いるのに、それでも快斗は即答出来ない。イエスもノーも言えないで、口を引き結んでいるばかり。
「一緒に暮らしても時間帯ずれる時はあるやろ。連絡取れへんかったり、何日も家を空けたりすんのは今とおんなしやって分かっとる。せやけど、……一番に帰って来るとこが俺ンとこやと嬉しい」
 突っ張っていた手が、いつの間にか肌蹴られたバスタオルの上に落ちている。無意識に手探りし、タオルに皴を寄せた。
「どうしとるんやろって窓の向こうに目ェ凝らすより、いっつもこーやって手ェ伸ばした時に届くとこに居りたいんよ」
 なぁ、あかん?
 そう重ねて問い掛けたきり彼は瞬きもせず、射竦めるよう快斗を凝視したままひたすらに答えを待っている。
 痛い程の沈黙が静かに流れ……、ようやっと快斗はぎこちなくも視線を合わせた。
 平次の身体に微妙な緊張が走る。そんな些細な事も、今は空気を通って伝わって来た。快斗をベッドに張り付けにしている平次との距離が、限りなく小さいから、だ。
 
(この距離に、いつも?)

 おしゃべりには自信があるのに、こんな時には言葉にならない。多分きっと、衝動とはこれを言うのだろう。悠長に言葉になんか出来なくて、頭で理解するよりも早く、身体が動く。
 いきなりかかった負荷に自身を支えきれず平次が快斗の上に引き倒される。『どわっ』だとか『ぐえ』だとか上がった叫びを、快斗はきれいに黙殺した。
「ちょ、ちょお、快斗?」
 目を白黒させている平次の首にかじりつき、腕を回したまま、両のてのひらを組んでぎゅうっとしっかりと抱きつく。
「…………快斗………?」
 呼ぶ声は聞こえても、思い切り引っ付いているから肝心の顔はお互いに見えないまま。
 それでも、首筋に、肩、密着する身体で、触れ合わない少しの隙間も途端に二人の間で再び熱を放ち出したのが分かる。
「……重ない? ちょお放してくれたら、ずれるで?」
 今度は『いやだ』と首を振る。
 平次の困惑した雰囲気は感じていたけれど、快斗にしてもそれどころじゃなかった。今この顔を晒すのはそれこそヤバイ。もうちょっと、せめて後数秒、と腕に力をこめる。
 どっちつかずの顔がまだ少しだけ『泣きそう』寄りだったから。
「なぁ、……答えてくれへんの? それともこれが返事なん……? ジブンも離れたくないんやって、勝手に解釈してまうで……?」
 急かされて、ダメ、と首を振る事も出来なくて、ああもう、と快斗は叫ぶ。
「〜〜っ、こ、ココア!」
「あ?」
 抜けた合いの手が上がった。
 とりあえず意表は突けたらしい、と、大きく深呼吸して辛うじて快斗は腕を緩める。平次の視界に妙な顔になっていないかまだ今一つ自信のない自分を晒す。
「ココア、いれて?」
 変に気合の入ったおねだりに、平次は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で『ココア?』と口の中で繰り返している。
 どう考えても二人にとって重要な会話の、腰を折ったのは快斗だ。けれど、平次は不機嫌になる代わりに不思議そうに快斗を見返す。
「今、か?」
「うん、今。飲みたい。すっごい飲みたい!」
「そんな握り拳で言わんでも……バンホーテンとかないで。森永でええ?」
「うん!」
 ふわり、と苦笑をもらして平次が鼻先にキスを落とす。ぽん、ぽん、とてのひらが髪の上で踊って離れる。
「ちょお、待っとり」
 するりとベッドから滑り降りた背中は快斗の視線を引き連れたまま、ドアの向こうに消えた。

*    *    *

「ほい、お待ちどぉさん」
 結局背中を追いかけてベッドを抜け出て来た快斗に、平次は苦笑しながら「これでも着とき」とTシャツを投げた。
 だからそれを着て、キッチンの隅で立ち動く平次をぼんやりと見ているとその声と共に、マグが差し出される。
「熱いで、気ぃつけや」
 言って、わざわざキッチンの床に座り込んでいる快斗の横に平次も腰を下ろした。
 ココアの甘い香りが鼻腔をくすぐる。ふわり広がる幸せな香りに自然と快斗も顔を綻ばせた。
「いただきます」
 ふう、と息を吹きかけ、一口。お湯だけでなくちゃんと牛乳も使って作られた、ミルクココアの味がする。甘すぎず、水臭くもない、絶妙の甘さは正しく快斗の好みだ。美味い、と呟くと隣でコックが満足そうに一つ頷いた。
 二口、三口。咽を通って胃へと広がる仄かな温もりは隣の体温と同じくらい、快斗をリラックスさせる力を持っている。それに勇気づけられて。
「あのさぁ」
 そっと声をかけると、明らかに中身の違うだろうマグを傾けながら、平次は視線を返す。
「コレ、さ。一昨日ココア作ろうとして火傷したんだよ。ここにね、」
 快斗は、ガーゼだけ替えて来た右手首を視線で指し示す。
「うずら卵大の水膨れとその周りに小豆大のが3つ出来てたんだけど、一晩寝たらそれがいっこのピンボール大の水膨れになっちゃってパンパンに膨れちゃってんの。割れたら最高に痛そうだったから、大袈裟だけどガーゼだけじゃなくて包帯も巻いてたんだ」
「……火傷……やったん」
 茫然とする平次に、少し申し訳なさそうに快斗は微笑みかける。
「うん。……なんか、紛らわしい事しちゃって、ごめん。誤解させる気はなかったんだけど」
「いや、それは……勝手に勘違いしたんやし……。そぉか、火傷なぁ……」
 昨夜のやり取りを思い返したか、平次は眉間に皴を寄せて唸っている。
「いつもはなるべく仕事前は火使ったり、飲んだりしないようにしてるんだけどさ。なんかここんとこちょっと疲れてて……ダメで。いきなりココア飲みたくなって」
 衝動に負けたのだ。
「お湯と牛乳沸かしてて、その向こうのココアの缶取ろうとして、つい湯気の上に手、かざしちゃって……。あつ、って思った拍子に缶は取りこぼしてそこら中にココア撒き散らしちゃうし、慌てて今度はミルクパンもひっくり返しちゃって、キッチン中粉だらけの上にべちゃべちゃ」
 思い出しただけでもうんざりする大惨事は正しく彼にも伝わったらしい。想像したらしい平次は頭を抱えている。
「そらまた、難儀な……」
「うん。もう片付けだけで一騒動だったよ。途中で仕事行く時間なっちゃって、結局そのまま仕事行って三時間。帰って手袋取ったら巨大な水膨れの出来上がりって訳。すぐ冷やしてたらまた違ったんだろうけど、ダメだね、慌てるとろくなことない」
 苦笑しながら、もう一口。あの時飲み損ねたココアより、彼がいれてくれた分だけ美味しいココアが、それすらもどうでも良い気分にしてくれる。
「だからさ、提案っていうか、お願いなんだけど」
 甘い、甘い香りが漂うキッチンの片隅で、快斗は切り出す。
「一緒に暮らしたら、いつもなんて言わないから。オレの為にココア、いれてくれる……?」
 疲れた時に特に飲みたくなるココア。本当は、こうして一緒に飲める時間の方が欲しかったのかもしれない。逢えなくて、疲れて、失望していたから。
「お安い御用や。ほんなら俺もお願いがあんねんけど」
「……ナニ?」
「怪我したら、手当てさせて。独りで痛いの我慢せぇへんで、言うて」
 そっとガーゼに触れる指。
「バンソーコも包帯も、あんまり沁みへん消毒も用意するて誓うから」
 だから、と平次は快斗と向き直る。
「一緒に、居ろ……?」
「うん。オレも、ただいまもおかえりも、行ってきますもいってらしゃいも、おはようもおやすみも、全部平次と一緒がいい」
 腕が快斗の肩を引き寄せる。距離も、気持ちも、やっと一緒の所に来た気がして、天秤秤が吊りあった気がして。
「それから、キスとかもね」
 肩の力を抜いて、ココアの香る部屋の中でコーヒー味のキスを受けた。


◆END◆◇◆平×快◆


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