・turning point・



「別れてほしいんだ」

 

 全てが壊れるのにはほんの一瞬で事足りる。
 絶望的な思いで新一はその言葉を受け止めた。
「何の、冗談だよ……?」
 笑い飛ばそうとして笑えなかった。
 喉が渇いて頬は引きつれ、出た声なんてしゃわがれた自分のものとも思えない掠れ声。

 

   *   *   *

 

 KIDと出会って間もなく、新一は快斗に出会った。半年がたつ頃には快斗はもう生活の中に自然にいて、失えない存在となっていた。
 だからこそ、白き衣を脱ぎ捨てた怪盗の正体を知った時の衝撃は言葉に尽くせなかった。
 裏切られたと思った。
 騙されていたのだと、打ちのめされた。
 あっけなく懐を開いた自分にも呆れたし、優しく暖かい空間を成し、あえてそれを粉々に打ち砕くようなやり様を選んだ快斗を恨む気持ちもあった。
 求めてやまなかった真実を手にした新一は、ただ手の中の真実を呪った。
 全てを壊され絶望を知っても、それでも新一は快斗を離せなかった。
『これで全部オレはオマエのものだから』
 そんな風に泣きそうに笑う快斗の手を、やっぱり泣きそうになりながら必死で握りしめて。
 どんな真実も彼を失う事を思えば容易く背を向けれた。

 

 

 快斗は怪盗KIDをやめなかった。
 詳しくは語らなかったが、捜し物が特別な石である事を新一は聞いた。命の石パンドラという名で、探す事になった簡単な経緯も。
 新一も探偵はやめなかった。
 探偵である自分を全て削ぎ落とすのはかなり難しくもあり、快斗もそれを望みはしなかった。むしろ探偵としての新一も必要としているように見えた。
 ただ、暗黙の了承としてKIDが空を駆ける夜に探偵が家を空ける事はなくなった。
 『おかえり』と掛ける言葉の為に、『ただいま』と返される笑みの為に。
 一緒に暮らして二年と半。
 快斗がいるだけで新一の毎日は色づいた。
 楽しくて嬉しくて温かい生活。勿論分かり合えなかったりたまに独りになると寂しさを噛みしめたりもした。
 それでも共にある幸せを感じていた。
 手にした幸せが突然に覆されるなんて考えもしなかった。
 別れが唐突に訪れるものだと、一方的に押しつけられるものだとは。
 KIDの正体を知った時以上の絶望なんて知らなかった。知りたくもなかった。

 

   *   *   *

 

 快斗は笑わない。
 柔らかくて新一の大好きなあの懐っこい笑みも、新一だけを求めている時の蕩けそうに深い笑みもない。
「快斗……?」
「冗談なんかじゃないよ。もうタイムリミットなんだ」
「何の期限だよ! 分かるように……っ」
 快斗はそっと目を伏せた。新一の視線から逃れるように。
 それだけでまるで知らない人物と話をしているかのような錯覚を覚えて、新一の声は不自然に喉に絡みついた。
 ふら、と上体が傾いだ。
「座って」
 やんわりと新一をソファーへと促す指は変わらず優しいままなのに、彼はいつものように『新一』とは呼び掛けない。隣に腰掛けもせず新一を見下ろす瞳の表情は読めない。
 見ていられずに新一は足元へと視線を落とした。
「オレが、命の石パンドラを探している理由は、前に言ったよね……?」
 快斗の声は奇妙な程静かだ。それすらも今の新一にはただ違和感として襲いかかる。
 新一は俯いたまま一つ頷いた。
「おまえの親父さんが、怪盗KIDとして探していたから」
「盗一さんはオレの為にパンドラを探してたんだ」
 新一は面食らって思わず視線を上げた。
 快斗が『父さん』でも『親父』でもなく名前で呼んだ事実と、命の石パンドラを快斗の為に探していたという主張が違和感をじんわりと強めている。
「あの人は……黒羽盗一さんはオレの親父なんかじゃなくて、オレは黒羽快斗じゃない。盗一さんに出会った頃のオレは、誰でもなくて誰ともいなくて、独りだった」
 快斗の言う意味を捉え切れず、新一はただ耳を傾け続けた。聞き逃してはいけない気がした。
「ひょんな機会で、彼の舞台を見たんだ。若きマジシャン黒羽盗一。そうしたら彼はオレを知ってると言った。『二年前に君と会っていないかい?』って。……驚いたよ」
 快斗の表情は変わらない。淡々と語る声を新一はただ受け止めるだけでしかないのが歯がゆい。
「小さな公園で子供相手にマジックショーをしてたんだ。オレはそれを遠巻きに少し眺めただけなのに、覚えているっていうんだ。一緒に夢を見た相手を忘れやしないと。人違いだって、知らないって言えば良かったのに、オレにはそれが出来なかった。オレは盗一さんに何だか話をしたくなったんだ。問いつめられた訳でもないのに」
「不思議な、人だな」
「そうだね」
 快斗は頷いた。
「不思議で、器の大きい人なんだよ。オレの話を笑いもせずに、真面目に聞いてくれた。その上で、あの人はオレを息子にしたいなんて言い出したんだ。それこそ冗談だと思った。無茶苦茶だ。けど誰でもなかったオレは、そんな風に『誰か』になる誘惑に勝てなかった。その日に『黒羽快斗』は出来上がったんだ」
 不意にソファーの前に膝をつき、快斗がやや下方から見上げて来る。
「分かる? 黒羽快斗なんて元々いなかった。そしてもうすぐ確実にいなくなる」
「分かんねえよ。快斗が、おまえが元々はいなかったっていうのは分かった、と思う。けど、いなくならなきゃいけないってのは、わか」
 分からない。そう言いかけてぞっとした。
「パンドラって……おまえ、永遠の命なんて必要な程、どこか悪いのかっ!」
 黒羽盗一と血の繋がりがないと聞いた事よりもそちらの方が重要だった。
 永遠の命をもたらすという、石。
 タイムリミットという不吉な響き。
 急な別れ話。
 何もかもが一本の線上にあるようで……死、という誰もが避けて通れない直線の上に。
「確かに、ある意味普通じゃないね」
 快斗の口元は自嘲気味に歪められた。
「ああ、そうだ。一箇所訂正があるよ。パンドラは永遠の命をもたらす石なんかじゃない」
「何だって……?」
 命の石・パンドラ、と彼は呼んだ。
 そして、新一はその意味を深くは考えてはいなかった。ただ言葉のままに想像していただけだった。
 自分の考えが大きな間違いだとも知らず、思い込みであるとも思わずに。
 快斗も、その新一の誤解を今日まで訂正もせずに捨て置いていた。
「本当は、永遠の命という呪いを解ける、最後の希望の石だよ」
「それじゃまるで…快斗。いや、でもおまえ、成長してる……」
 思わず額に手をやった。じわりと汗が吹き出ている。快斗の言い出した事は確実に新一を混乱へと突き落とした。
 それでも呆然としたまま、呟く。
「背だって伸びたし、手も、顏つきだって……!」
 たった三年の間でも、コナンから新一へと戻った自分のあまり変わり映えしない姿とは対象的に、彼は伸びやかに育っているようにみえる。
「でも二十歳でオレは折り返すから、ここから先はもう一緒には行けないんだよ」
 快斗の言葉をバカバカしいと一笑に付す事は出来なかった。何より、新一自身が十七歳からその身を七歳へと変化させるという普通に考えると有り得ない体験を経ている。
「折り返す……?」
 そう、と彼は頷く。
「二十歳、十九歳、十八歳……十歳まで巻き戻ったらまた折り返して二十歳まで成長する。そして同じ道を巻き戻る。オレはこの決められた時間の繰り返しでしか生きてないんだ。もう、随分と長く」
 折り返して成長している時はいい。同じ時を過ごした人と会わないでいる、差し迫って必要なのはそれだけですむ。
 だが、巻き戻っている時には人目を完全に避けなければならない。ほんの数ヶ月でも不審を買う恐れがあるから。
 その為快斗はその期間の十年は大抵隠遁生活を営んだという。生きているのに、いないような生活。
 確かに『自分』なのに、誰でもなく名もない。
 そんな暮らしの中で出会った黒羽盗一はいい意味で、かなりの規格外れだったのだ。
 そして、快斗にとって幸運だった。
「パンドラの存在を知ったのは盗一さんが先だったんだ。オレには黙って探そうとまでしてくれた。それが怪盗KIDの発端で、彼の命を奪う結果となった。なのにオレは何年もそんな事とも知らずただ彼の死を悲しむだけで、彼の奥さんに庇護されて生きていたんだ」
 快斗の言葉の中には誤魔化しも嘘も見つけられはしなかった。新一はただそれらを受け止めるだけで精一杯だった。
 快斗が新一の目を覗き込んで来る。
「オレたちが出会わなければ、オレは盗一さんの真実も知らないままだった。パンドラも知らず、望みを持つ事もなかったんだよ」
「望み?」
「たった三年だけじゃなくて、ずっとこのまま一緒に歩いて行きたい。それがオレの望み。でも無理だったみたいだね」
 ごめんね、と小さく言い添えられた時、初めて新一の全身を足先から何かが突き上げて、身体中を一息に走り、貫くのを感じた。
 泣いてしまいそうな予感や、怒りなのか悲しみなのかもう判別もつかないような、熱く強い何かが。
 新一はぐっと歯を喰いしばった。そうしないと押し流されてしまいそうな気がした。
「後はもうまっすぐな道をオレたちは遠ざかって行くしかないんだ。どうしようもないんだよ」
「……まだ決まってない」
 ここが分岐点であったとしても、終わってはいない筈だ。
 こみ上げてくるその何かを押さえつけたまま、新一は『考えろ』と自分に言いきかせた。こんな終わりは納得出来ない。してはいけない。
 この手を離さずに済む方法はある筈だ。
 何か。必ず何かが。
「そう……例えば」
 新一は顔を上げ、快斗をその瞳で射抜く。受けた瞳は束の間その力に晒され、耐えきれなかったのかゆるやかに眇められた。
「パンドラが見つかれば、おまえは黒羽快斗のまま、ここに居れるんだな?」
「それは……でももう巻き戻り始めてる。パンドラだって本当に見つけられるかなんて分からないんだ。……無理だよ」
「オレは諦めない」
 不意に立ち上がった新一を快斗は凝視している。何か思いがけないものを見てしまったように、視線を反らさないまま。
「黒羽快斗を諦めない! だからどこにも行くな、快斗!」
 一息で叫んだ。自分で驚く程の一喝だった。全身の細胞まで全てが彼を欲し求めていた。
 圧倒されている快斗に、突き動かされるまま腕を伸ばし、きつく抱きしめる。
 出会った頃にはあまり差のなかった身長も、今では彼の方が頭半分抜きんでている。肩幅も広い。胸板は厚く、けれど指の繊細さは失っていない。
 そばで見てきた、少年から青年への微妙な成長の証がここにある。
 全部が新一の知る三年分の黒羽快斗で、彼にとってそれが何度目の二十歳の快斗であっても、新一には間違いなく唯一の快斗だった。
「快斗」
 ぎくり、と快斗が身じろいだ。手を振り払われる事はなくても、その手は優しく抱き返してもくれない。
 緩く握られたままの手が、彼の諦めを示しているような気がした。同時に、諦めてしまう事を覚えてしまった彼が、悲しい。
 引き止めるだけの力のないかもしれない自分が悔しかった。
 だめだ、と小さな呟きが耳を打った。
「もう、オレを呼ばないで」
 いつだってひょうひょうとしていた快斗の、初めて見せた苦悶の声だった。
「黒羽快斗はいなくなるから。キレイに消えてみせるから。そんな声で呼ばないで」
 合わせた視線の先には痛みと怯えが半々に混じった、弱い輝きの瞳がある。これから黒羽快斗でなくなるという、彼の瞳。
「いやだ」
 新一は一言で拒否する。快斗が痛そうに顔を顰めたのが見えたけれど、新一は黙らなかった。
 彼を傷つるのは本意ではなくとも、譲る訳にはいかなかった。
 黒羽快斗を諦めるというのは、優しく抱いてくれた腕を失うという事だ。
 自分の名を呼ぶこの声を。
 ひたむきに寄せられる視線を。
 分け合った体温を。
 彼の想いを、そして自分が抱えてる想いの行く先を。
 そして黒羽快斗を慈しんだ、黒羽盗一と夫人の想いを捨て去る事でもあった。
 彼を呼ぶ、親しい友人たちの声を。彼を愛する気持ちを。
「おまえがいくつでも知った事じゃねぇよ。理由だってどうだっていい。過去におまえが誰と出会って何と呼ばれてたって、これから他の誰になったって」
 彼という存在を記憶の中にしか持てないのは、自分の中のかなりの部分を共に失うに等しいのに。
 忘れろ、だなんて。
「オレにとってはおまえは『快斗』だ。これからいくつになっても変わらない。だから、オレのそばから、ここから、居なくなるな」
 後悔する日は来るのかもしれない。
 何かを変える力なんて持っていないのかもしれない。
 辛くなっても悲しみに呑まれても。
 今ここで手を離してしまう事だけは出来ないし、快斗が本心からそう望んでいるのだとしても、既に新一には選べない選択でしかなかった。
 ぐちゃぐちゃに入り乱れた心の中で、それでも伝える言葉が口をつく。
 望みは一つ。
「おまえと居たいんだ」
 腕が背に回され、次の瞬間には新一は快斗の腕の中に抱き込まれていた。抱きしめるという言葉ほど、柔らかい行為ではない。けれどしがみつくような必死さは、新一の中の愛しさを掻き立てて瞳から溢れた。
 肩口に伏せた快斗の表情は見えなくても、肩口を濡らす熱い雫は共通の切なさだった。
 そして共有出来ないでいる心でそれが彼の悲しみでないようにとそっと願う。
「バカだよ、新一」
 肩に目元を押しつけたままの彼の声は少し籠もって響いた。
 それでも彼が呼んでくれる自分の名は特別だった。ただそれだけの事が、新一の中の不足している部分を補ってくれる。
 こくり、と新一も頷いて応えた。
 問題は手つかずで先送りにされただけで、解決してなどいない。
 彼がどれほどの決意を持って手を離そうとしたのか分からなくもないのに、その気持ちを無下にしてそれでも自己を通した。利口なやり方では決してない。
 ただ、快斗と分け合う体温と切なさと、彼が呼ぶ自分の名だけが足元を照らす灯だった。

 

   *   *   *

 

 快斗は新一の元に留まった。
 彼の言葉を証明するかのように、彼自身には少しずつ逆行という変化が訪れた。
 迎える四季の中で、背は少しずつ縮み、精悍さを増していた頬に丸みが戻る。一年が過ぎ新一が二十一歳になった時、見覚えのある十九歳の快斗へと『巻き戻った』。
 外出を避け、限られた者としか会おうとしなくなった快斗だったが、二人でいる空間は変わらず優しかった。
 絶えず笑い合い、時に互いの体温を分け合う。そんな些細な普通の幸せを快斗は奇跡と呼んだ。
「そんなんじゃねぇだろ」と、新一は笑った。
 それは奇跡ではなく努力だ。
 パンドラという真の奇跡を諦めない事、快斗が快斗自身と工藤新一という人間を諦めてしまわない事、自分の中に後悔が生まれない事。
 多分、そういった祈りや願いを抱き続けていられる事が、真の意味での奇跡なのだ。
 二十二歳を迎えた時にも、十八歳の快斗がそばに居た。
 年齢差は出ても、二人の間には壁は生まれなかった。
 切なさは透明な液を塗り重ねるように、見えなくても積み重なっていったが、それでも二人は共に暮らす事を選び続け幸せを求め続けていられた。
 それから少しして、快斗はパンドラを手にした。狂った時に終止符を打てる、唯一の希望。命の石。
 だが、彼は奇跡の石の使用を躊躇った。
 狂ったループを描いていた快斗の時間が、動き出すと共に終焉を迎える可能性を懸念した為。そして、無事に動き出したとしても、二人の間には四歳の開きが生じている。
 彼がそれに不安を抱いたのだと、すぐに知れた。
「四つも年下になっちゃったけど、それでもいい?」
 そんな風に問うたから。
「年下の彼氏が流行りなんだろ」と返した。
 その言葉は無事に快斗の背を押せたようだった。
 足元を照らす灯はまだそこにあって、二人はそこからゆっくり、せーので一歩目を踏み出した。

 

   *   *   *

 

 七歳の新一をコナンとして快斗は知っているのに、十歳の快斗を新一は知り損なったとスネて見せたら、快斗は新一の手に一枚の写真を滑り込ませた。
 黒羽盗一氏と夫人に左右から抱きしめられて、真ん中で表情を決めかねている、子供の写真だった。
 幸せで切ない写真だった。
 それだけでなく、大切に仕舞い込まれていたのであろう事が窺える、一枚だった。
 彼が家族の写真を手放さずにすんだ事を、その意味を、ただ嬉しく思った。その時やっと『黒羽快斗』を諦めなくて本当に良かったと、新一は実感出来た。

・end・

◆快×新◆


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