「無条件幸福」





 サイコロを転がして、3つ進んで、5つ戻って。先に進むのはいつも君。

 

 冷たく厳しかった風が、肌に心地良く感じる季節。
 日の光の下、誘われるまま促されるまま、二人で連れ立って歩いているのは少し前なら極めて珍しい事態だと言える。
 初めて二人の間の垣根を打ち壊したのが月下の下であった為か、初め彼は頑なに夜間の遭遇を好む傾向があった。
 それが徐々に変わり、彼が家を訪ねて来たりこんな風に二人で出かけたりするようになり。共に過ごす時間が増えるにつれてようやく、白馬は自分が日常に対して酷く鈍感な部分があるのに気づかされた。
 例えば、季節の移り変わりしかり、休日の過ごし方、しかり。
 快斗に『休日デート』などとまず思ってもいなさそうな口実で呼びつけられたのは、人気のない堤防である。もう数週間前なら花見と称した酒盛りでごった返していたであろう場所だった。
 今では青々とした新緑と穏やかな水面の小波に目を止める者もなく、閑散とした景色の中堤防を時折自転車のペダルを踏む音だけが通り過ぎて行く。
 空気はからっとして、薄いピンクから塗り変わった新緑が目に鮮やかで、眩しい。
「今日はオレらの独占かもよ。……葉桜も結構イイだろー」
 堤防の、何故か階段になっていない場所を選んで下りながら、彼は得意気に笑む。その足元をよく見ると、やはりせっかちな誰かが踏みしだいて降りたのであろうか、斜面の草は微妙に倒れていて、僅かに土が覗いていた。
 てってって、と。最後は小走りになりながらそれでもどこかのんびりと斜面を下り切った彼は、ひょい、と振り仰いだかと思うと「あ、」と呟いて足を留めた。
「……えーっと……あっちに、階段あるけど」
 流石に「オマエ転びそうだからあっちから降りろ」とまでは直接的ではないにしろ、多少遠回しにした所で失礼な提案であるのは変わらない。白馬の中の負けん気がひょっこりと顔を出して来る。
「大丈夫です。そこ、どいて下さいね」
 本当に? とでも言いたげな視線を向けられて、苦笑しながらも白馬は慎重に坂を下って行く。
 最後には彼と同じように少し足早になって、どいていてくれと頼んだにも関わらずその場に佇んでいた快斗の傍に、とん、と駆け下りる。
 じっと顔に向けられる視線を感じて顔を見返すと、快斗はにまにまと笑っていた。
「……何か」
「今さ、オマエ緊張しただろー」
「………してません」
 声はどうしたって憮然と響く。彼は「ふうん?」と呟いて更に笑みを深めた。いつになく今日の快斗は笑顔の大盤振る舞いである。ただし、屈託のない無邪気な笑顔とは程遠く白馬をからかって遊んでいる時によく見られる多少いじわるな笑顔ではあったが、一応それも笑顔の数の内である筈だ。
「緊張したんじゃありませんよ、慎重なだけです」
「……しょうがねぇなぁ、そういう事にしといてやるか」
 肩を竦めるようにして、結局彼はやんわりと微笑んだ。笑ってそのままぐるりと周りを見回す。表情を和ませ、どうだ、と得意気に彼は目顔で語った。
 外見のイメージを裏切り季節の移ろいに鈍感な白馬に、さりげなくそれを教えてくれるのは、いつの間にかいつも、彼。言葉に出して何かを語るのではなく、ただ足を止めて空を見上げる仕草や、風を感じて目を伏せる穏やかな横顔によって。
 今だってそうして周りを見渡す彼の仕草につられて周りを見渡して、白馬は思わず目を見張った。
 河川敷はちょっとした公園ともなっていて、桜とベンチだけでなくキャッチボールが出来る程度の広さを有している。
 そこは色の宝庫のでもあった。葉桜の緑とクローバーの緑の陣地に黄色が果敢に殴り込みをかけて領地争いをしている。
 黄色の背の高い方が菜の花で低い方がたんぽぽ。どちらも花の名に詳しいとは言い難い白馬にもそらんじられる、代表的な春の草花である。
 そこここに群生しているのは、淡い赤紫のレンゲ。
 白馬に把握出来たのは精々その程度だったが、新たな花々に足を止めるより早くその視線の先を読む快斗が、すかさず名を教えてくれる。
 所々にどこかから飛んで来たのか、ひょろ長い茎の上、ぽんっと花開いているオレンジの花弁を持つ花は『ポピー』。
 地面を這うように根を巡らせる、小指の爪ほどの小さな青い花の名は『ツユクサ』。
「雨露の露、の草って書く」
「露草……また随分と可愛らしい花なんですね。こんなに小さいと、触れるのも躊躇いませんか」
 あまりに小さく、可憐な花だから。けれどそんな白馬に快斗は首を傾げる。
「そうかぁ? 野っ原に咲いてるもんなんて、皆、見掛けより逞しいもんじゃねえの」
「……かもしれませんが。かと言って手荒には扱えませんよ」
 思わず言葉に必要以上の力の篭もってしまった白馬である。
「野の花も庭園の花も、花は花ですから」
 快斗は物珍しいモノでも見るように白馬を見上げ、「バカだなぁ」そう小さく呟いてくるりと前方へ向き直った。けれど間際の彼の笑顔は言葉とは裏腹にひどく楽し気なものだったから、白馬は多分少し苦笑混じりであろう微笑みを返す。
 バカみたいに、狼狽えたり空回りしたり。些細な事に浮ついたり踊り出したくなったり。そんな日常は、多少バカになった気分に陥るのを差し引いても、十分に白馬を幸せにしてくれる。
 たとえ、せっかくサイコロを振ったというのに、進めないおろか3歩も5歩も戻ってしまっても、一回休みに当たってしまったのだとしても。
 河岸に添って、二人は足並みをけして揃える事なく歩き出す。
 景色に目をやっては前になり後ろになり、時に足を止めつつもそれぞれのペースで、けれど不思議と一定距離以上には離れずに二人は歩を進める。
 葉桜が時折柔らかく風に揺らされてざわめく他は喧騒も遠く、反対の河岸で釣り糸を垂れている人影もまばらである。絵に描いたような穏やかな昼下がりに、自然に白馬の歩調もますますゆったりとしたものになって行く。
ふと目に止まったのは、ぼんぼりのような白い花。
「あれは……、」
「シロツメグサ」
 これまた素早く返事が返された。
「これでさ、花冠とか花の首飾りとか作んの。よく青子に手伝わされてさー、花冠作り選手権とかあったらオレ優勝狙えるぜ♪」
 そう言って白馬を見てニヤリと笑う。
「……作ってやろっか。快斗くん特製、白馬の王子様仕様の花冠」
 言うが早いか彼はしゃがみ込み、とっととシロツメグサの選定にかかっている。
「レンゲでもいーんだけどさ、シロツメグサの方が茎が長くて丈夫だから冠は作り易いんだ。知ってた?」
「いえ黒羽くん」
「やっぱりな〜。んじゃ作り方知ってる?」
「いえあの黒羽くん、そうではなくて、」
「教えてほしい?」
「いえ、ええと、黒羽くん! 気持ちだけで……遠慮させて下さい」
 とうとう白馬は快斗同様にしゃがみ込み、快斗の両腕を捕獲してどうにか、彼の野望を阻んだ。
花冠を作る快斗の図には多いに惹かれるものがあったが、出来上がった花冠を被るのが自分なら話は別。
 大問題である。
「なンだよ、白馬の王子様仕様、気にいらないっての?」
「花冠が似合うのは王子でなくお姫さまでしょう。僕がもらっても困ります」
「……ちぇっ。似合うと思うんだけどなぁ」
 快斗がぼやく。
 白馬の確保した彼の両手も余程諦めきれていないのか、捕らわれたまま如何にも残念そうにわきわきと動いている。
 両の腕から両の手に捕獲対象を移行させると、快斗はしっかりと握られてしまった指を見、至近距離にある仏頂面へ目をやり、そしてもう一度指先へと視線を落とした。
 快斗の指先が白馬のてのひらの中で拘束度を調べるように、少しジタバタする。
 白馬は瞬間迷って、そぅっと拘束を弛めてみた。
 すると。
 ……力を抜いたその隙に指を引き抜かれてしまうのではとの疑念は、意外にも想像だけに終わって。緩い拘束の中でも、彼の指は不思議とそのまま留まっていたのである。
 これは、もしかしてもしかすると、とても良い雰囲気なのだろうか。
 日差しはぽかぽかと暖かく、風はさわやか、目に鮮やかな花と緑と穏やかな川のせせらぎ。しかも見渡す限り人影もなく、二人は手を取りみつめ合っている。舞台装置はばっちりというのかもしれない。はた、と白馬は思い至った。
 彼の視線は己の指先から白馬の顔へとまたもや戻っていて。
 沈黙が数秒。
 そしてこれまた唐突に「笑え」と彼は命令を下したのだった。場にそぐわぬ非常に厳かな、やや低い声で。
「……はい?」
 白馬は軽く眉をひそめる。
 なんだか前後をばっさり切断する、とてつもなく不自然な会話の流れが起こった気がする。
 彼との会話は急発進して急降下して挙げ句急回転するジェットコースター並みにスリルがあって実に心臓に悪い。
 そこが快斗の持ち味でもあるが、おっかない処でもある。
「あの……何と言いました……?」
「わ・ら・え!っつってンのッ!」
 恐る恐る聞き返すと、今度ははっきり一語一語と強調してくり返される。
「……急に言われても……」
 反論は、笑え笑えと要求して来る険呑な視線に屈して尻すぼみに消えて行く。
「…………これで満足ですか」
 白馬は諦めて口角を吊り上げ、引きつりがちながらも微笑みを作り上げた。社交辞令は幾らか弁えてはいても、笑えと言われて即座ににっこり出来る程白馬は役者ではない。
 対する快斗はと言えば、じっくりと白馬の笑顔を吟味して、
「堅い」
 と、一言である。
 思わずがっくりと項垂れた白馬だったが、捕獲していた筈の両指がいつのまにかきゅっと握り返されていて、思わず息を呑んだ。
 向かい合ってしゃがんで手と手を取り合っている姿は、どうにも滑稽だ。ロマンチックにもなりきれず、無邪気と呼ぶにもやや毛色が違う。
 だが、戸惑う白馬と裏腹に快斗はさも楽し気に声を立てて笑い出した。
「君ねぇ……、」
 憮然とした顔つきを維持しつつも、つられて白馬も自然と笑みが深くなる。
 快斗の笑みはまさしく大輪の花が花開く瞬間の華やかさがあり、知り合った当初決して自らに向けられる事のなかった笑みはその分希少で。
 彼にその笑みを向けられると、白馬は問題の是非を差し置いて無条件降伏してしまいたくなるのだ。
「そうそう、いい感じ。そうやって笑ってりゃいーの。花冠なくってもじゅーぶん華のある王子様なんだから、オマエ」
 見透かされたかのようなタイミングで華があると称えられ、どきりとした内心を押し隠すべく白馬は素早く二、三度瞬いた。
 幸い、シロツメグサはもう彼の眼中を外れてる。
「その内、腹抱えて大笑いするオマエも見れたらとは思うけど……想像つかないよなぁ」
「そうですか? 普通に笑ってると思うんですがね」
「普通じゃなくて馬鹿笑いが見たい」
「馬鹿……まぁ、そういった笑い方もしてる、と思いますよ。見てないと言うなら、君がそのタイミングに居合わせていないだけでしょう」
 本当は、彼といる時が一番感情の起伏が激しいと、自覚がある。その快斗が見ていないというのならきっと『馬鹿笑い』はしていないのだろう。
 けれど珍しく快斗が、白馬に関する事で本気で悔しがっている。……これもそうありはしない。
 白馬は曖昧に微笑んで、もうしばしこの素朴な楽しみに浸る決意をしたのだった。
 そうでなくとも快斗と親しくなってからというもの、家人やら友人やらに『変わった』だの『快斗の影響受けまくり』だのと好意的に取って良いものかと悩みそうな言葉を日々着々と頂いているのだ。
 少しくらい彼を悔しがらせても、まだ天秤は傾きっぱなしなのだから。
 いずれにせよ、『馬鹿笑い』するとすればその場に快斗は居合わす筈だ。
 笑いの発作も。
 驚きの連続による胸の痛みも。
 視線を合わせるだけで狂い出す理性の歯車も引きずり出される情熱も、全て彼からもたらされる。快斗にだけだ。
「え、そうなんだ? ……高笑いしてるオマエなら見覚えあるんだけど。タイミング、ねぇ」
 振り返って白馬を見上げ、彼はしみじみと言う。
 そういうつまらない事ほど忘れてしまってくれればと思うのに、記憶力の良過ぎる恋人には無理な相談であるらしい。
「ありえないと騒ぐ程のものではないですよ。君が僕に甘えてくれる可能性が限りなく低くても、完全にゼロとは言い切れないように、ね」
 事実と期待と皮肉を混ぜた台詞に、快斗はくるりと目を動かせて大仰に頷いて見せた。
「なるほど。……じゃあ意外と早く見れるかもしれない」
 意味深な呟きに虚をつかれて、黙る。
 裏返した意味は、つまり……?
 満足した猫のように笑うと快斗はするりと立ち上がり、手を引いて白馬にも立ち上がるよう促す。
 快斗はまたぶらりと歩き出した。
 完全に離れてしまった、彼の右手。
 繋いだまま、子供の如く引いてくれている、彼の左手。
 瞬間に風をはらんで先に立った彼の羽根のように広がる、Tシャツの上に羽織った前ボタンを止めていないシャツの裾。
 ひらひらと魚が光を弾くように遊びに誘うように揺れる彼の右のてのひら。
 それらに誘われるまま、白馬は歩調を合わせる。
 合わせようと努めた、のだが。
 快斗は知らないふりで時折ステップを変えたり大きく踏み出したりして、白馬を出し抜いてはその成功に悪戯っぽく微笑む。
 明らかに彼は確信犯の笑顔である。白馬はそれを横目に大きくため息をついた。
「時々、君には嫌われているんじゃないかと思いますよ」
「ああ、うん、愛憎は表裏一体って言うもんな〜」
「そのわりには憎まれる程愛されてるように感じないのは何故でしょうかね」
 軽い口調での切り返しに快斗は吹き出して笑い出した。どうツボに入ったのか、けらけらとひとしきり笑って……ようやっと満足したのか、ふう、と空を仰いで大きく息を吸い込んで吐き出した。
 ニヤッ、とからかう様な笑みを浮かべ「バッカだなぁ〜ちゃんと愛してるって!」と、彼の空いてる手がぽんぽん、と白馬の背を叩く。
 内容と口調に大きなギャップがあるのは否めない。
「……もう少し重みがほしいというか、こう……信憑性に欠ける言い方というのはどうかと、」
「たらたら文句つけない! せっかくの愛の告白に!」
「そう思いたいのは山々ですが……担がれている気がしてなりません」
「疑り深いなぁ」
「生憎こういう性分なもので。……出来れば、ゆっくりと目を合わせてもう一度言ってもらえませんか」
 なるべく刺激しないようそっと『お願い』すると、快斗は向かい合いにっこりと花のように微笑んだ。
 繋いだままだった指にくいっと引き寄せられ、『あ』と思った時には僅かに伸び上がった快斗が至近距離にいて。唇は白馬の耳に寄せられ、吐息が耳たぶをくすぐり反射的に首を竦める。
 咄嗟に目を閉じてしまったものの、逆に存在と熱ばかりを感じて頭の中は混乱を極めた白馬である。
「ゼータクモノ!」
悪戯っぽい囁きを残して、唇は帰りがけにあっさりとキスを攫って応える暇も与えず遠ざかる。彼ならではの見事な撤退のタイミングに白馬は手も足も出なかった。
 身構えたものの二度目の貴重な告白を貰えなかった事にがっかりするべきか、予想外の彼からの甘いキスを素直に喜んでしまって良いものか。
 微妙な心境に表情を決めかねていると、快斗はそんな白馬を面白そうに眺めてから背後へと大股で回り込んで来た。
「はい、今度はオマエが先に歩く番♪ 行った行った!」
ぐいぐいと背を押され、なし崩しに歩き出す。
「あの、黒羽くん」
「はいよ、白馬くん♪」
 快斗は茶化してそう切り返して来る。
 だがここで腹を立てて会話を投げ出したり、からかわれたと気を削がれたりしたらしたで、間違いなく快斗の機嫌は垂直落下を免れない。
 ちなみに過去の白馬はそれで何度か口を聞いて貰えないという子供じみた反撃を食らって学習したのだ。今となっては黒羽快斗の透明な取り扱い注意のシールが見えない人物の方こそ、謎だと思っている。
 そして過去を踏まえた結果、会話はそのまま続行の道を辿り、喜ばしい事に快斗の機嫌も白馬の見た処いつもよりやや上調子で維持されている。
「うやむやになってしまったけれど、先刻から僕は前でも後ろでもなく君の隣を」
歩こうとタイミングを測っていたのですよ、と。
念を押すつもりの台詞も「はいはいはい分かってるって!」と言う彼の強引な言葉と背を押すてのひらに押し切られた形で途切れてしまう。
「分かってるんだけどさ、オレまだオマエの隣を歩くより駆け抜けて突っ走って行きたいんだよ」
彼のもう一つの姿はまさしくその言葉を体言しているかのように、夜の街と空を駆け抜けている。
「そうしていつものように、僕には君の背中を追いかけろと……?」
「もう飽きた?」
声はいつもの彼らしく軽く何気なく問うていたが、背を押す力が僅かに弱くなっていて、そんな些細な変化に白馬はとても嬉しくなった。
 快斗にはいつも振り回されて不安にさせられて、驚かされてばかりだ。だが同時に退屈はしないし、つい忙しさに忙殺されかける白馬を救ってくれるのも、暖かい気持ちにさせてくれるのも彼で。
 白馬が立ち止まる時も方向転換する時も、快斗は車軸のように白馬の中心にいて事ある毎に脳裏に浮かび目を逸らす事すら許されない。
 なのに快斗自身は白馬と相対していても、そして遠く海峡を挟んでの会話でさえも余裕の表情や声音を崩して見せた事がない。白馬の行動や思考が彼に影響を与えているとも思えないし、ましてや白馬を前にして弱気さを垣間見せる事など滅多になかった。
 そんな快斗の見せた変化だからこそ、それが至極小さなものでも、ほのぼのと嬉しい。
「飽きる……事だけはありえません。ただ君の背中を追いかけるのは、結構骨が折れるものでね」
「それ、褒め言葉? それとも泣き言?」
「さぁ。本音八割、愚痴二割といった処でしょうか」
「あっそう。オレはオマエに追いかけられて楽しいのが八割、一割は面倒臭ぇなって思ってる」
「計算が合いませんよ」
 一割足りない。
 白馬の指摘には背後で笑う気配があって。
 真面目に言ったというのに、河原に響くのは快斗の楽しそうな笑い声。
 つられて振り返ろうとしたら、やはり「ダメだってば」と笑い声のまま止められてしまう。
 背を押していた筈の手が一瞬離れ、白馬のシャツの裾を軽く掴かみなおす。
 それを残念に思っても振り返るのを止められてしまっては、彼の手が離れるのを止められないし、ましてや抱きしめる事も叶わない。
 ならば、と、白馬はゆっくりと歩みながら後ろへと手を差し出した。
「……え……?」
「先刻は君が手を引いてくれたでしょう? 今は僕の番ですよ」
 言いながら、可能性は半々かな、と思う。快斗は自らが手を伸ばす時には物怖じしなくても、それを白馬にされた時に素直に手を取るかどうかの確率はそんな処だろう。もしくは六対四で軽く躱される。
 スローテンポで歩を進めつつ、手を開いて、閉じて、ひらひらと揺らす。
 ぐっぱーと誘いかけると、くすくすと笑う振動が直接伝わって来た。焦らしもせずにひどく素直に指の間に滑り込んで来た、快斗のてのひらと、白馬の背にとん、っともたれた額から。
 その貴重なバランスを崩さない為に、白馬の足は自然と立ち止まる形になって、手を引かれた快斗もそれに倣う。
 快斗と繋いだ、てのひらが熱い。
 彼の吐息が、ひどく熱く感じる。
「黒羽くん」
「うん?」
「あの、やはり振り返っては、」
「ダメったらダメ」
 楽しげな快斗の返事の中身はにべもない。そして白馬はバカ正直に逆らえず、身動きも取れない。全面降伏も目前の態勢である。
「では、前に回ってくれませんか」
「無理」
 振り向くのもダメ前に回るのもイヤと、我が儘をひどく満足そうに言われて白馬は途方に暮れる。そこに追い打ちをかけるようにすりすりと背中に懐く気配。
「君、確か今日……『休日デート』だって」
「ん。言った。誰かさんは端から信じてなかったようだけど」
 笑顔の大盤振る舞いに、悪戯っぽい告白、逃げ出さなかった指先。やっと気づいて白馬は愕然とする。
 ……まさか。
 逸る気持ちで振り返る……動きを阻もうとする快斗の手を掴み取り、彼へと向きなおる。
 その途端、後悔の念に襲われた。強引に真っ向から捉えた、彼の目に、表情に。
「『ちゃんと愛してる』って言っても、キスしても、オマエいつだってちゃんと取り合ってくれねぇんだもん」
 掠め取られた甘いキスと垣間見えた弱気。快斗の声はある意味いつも通りに、いつも以上にずっと笑っていて。楽し気ですらあって。
 それが彼のお得意のポーカーフェイスだと思いもせず。その奥で叫んでいた、本当の快斗の声に気づかなかった。
 熱かったてのひら。
 熱かった吐息。
 それらに確かに兆しはあったのに、白馬は見逃してしまっていた。気づけずにいた。
「そんなだから、オレ、もう笑うしかないじゃん……?」
 だから、思いもしなかった。……白馬の見えないところで、快斗が泣いているだなんて。
 声も震わせず気配も感じさせず、こんなに切ない瞳で。ひどく無防備に快斗は涙を落とす。幾筋もの涙が頬を伝って顎からぼとぼとと彼のシャツに跡を残して沁み込んでいく。
「君は」
 常に何かを楽しんだりあるいは強気に見返してくる快斗の瞳が、白馬の次の言葉を恐れるように足元へと落とされる。
 俯いた快斗の頬の涙を丁寧にてのひらで拭う。更に降ってくる涙をてのひらに感じながら、視線が合うようそっと上へと促す。
「君はいつも、僕に背を向けて、こんな風に泣いていたのですか……何でもない風に、笑って……?」
 てのひらで、親指の腹で、拭っても拭っても涙は止まる気配もない。壊れた蛇口のように流れているのに、快斗は嗚咽一つ漏らさないで頑固なまでに口を一文字に引き結んでいる。
 声を上げずに涙だけが零れる様は胸に痛い。
 ずっと表に出ないよう出さないようにしていた快斗の、溢れ出た気持ちがこの涙なのだと思うと、白馬は自分の到らなさに歯噛みするしかない。
 好きだと告げておきながら、自分の気持ちだけで手一杯で彼に好かれているという確固たる自信が持てなかった。
 受け入れてもらえた事だけで満足だと自己完結して、自信が持てないでいるのを理由に快斗の言葉をちゃんと受け止めていなかったのだ。
 それを快斗は感じ取っていたから、益々気持ちを出せなくなって。
 そうさせてしまっていたのは白馬だ。追い込んで、言葉の端々にしか気持ちを乗せれないようにさせていたのは自分なのだと、今なら理解できる。
 白馬の問いには答えが返らず、宙に浮いたまま。
 曖昧な笑みで、彼は一旦きつく瞳を閉じた。その拍子にまた零れ落ちた雫を、袖で乱暴に拭う。
「ワリィ。もー、平気」
 快斗は涙の滲む目許をごしごしと擦り、笑う。
 華やかな、花のような笑み。
 だが、それも強がりでしかないともう分かってしまったから、目に映るのは笑顔を形造った中の痛い程の切なさばかりで。
 白馬の顔を見て、快斗の笑顔が苦笑に変わる。
「そンな顔すんなよ? オレが苛めたみたいじゃんか」
「君が『そんな顔』で笑うからですよ。僕に謝る機会もくれない気ですか」
「……そんな、こと。泣いたのなんか、オマエが気にする事じゃ、」
「いいえ。君に泣かれると、」
 快斗を腕の中に閉じ込める。強く強く抱きしめても、いくら言葉を重ねても、この悔恨と祈りはどこまで伝わるか判然とはしない。
「……胸が痛い。けれど、泣くのを我慢して笑う君を見るのは、なお辛い」
 そんなやり方でしか愛しい気持ちを伝えられないのが少なからずもどかしい。それでも白馬はただひたすらに抱きしめた身体の背をそっと撫で下ろし、好き放題に飛びはねている髪を梳き上げる。
 仕草や、言葉は万能ではない。
 それでもそういった表し方をしなければ伝わるモノは皆目なく、そのようなものによって心の距離はゼロにも万にもなるのだと、今は解している。
「僕は、こうして逃げないでいてくれる君の気持ちを、もっと早くきちんと理解すべきでした。分からないなら分からないと問うべきだったんだ。君に甘えてばかりで……すみませんでした」
 快斗はぼんやりと白馬を見上げている。
 言いたい事も言わなければいけない事も沢山ある筈なのに、不思議と快斗の眼を見返しているとそれ以上に言葉を重ねられず抱きしめる腕を強めた。
 快斗が身じろぐ。
 拘束を疎んじているのかとやや身体を強ばらせた白馬だったが、腕がするりと伸びて背に回されると吐息がもれた。
 肩口に頬が寄せられて重心が若干白馬よりに傾く。
 腕にかかる重みが幾分増えて、それが心を預けてくれるに等しい所作だと分かるから、白馬の口元にはほんのりと笑みが戻る。
「良いのですか、僕を甘やかせていますよ、君は」
「知らない。オレは甘えたい時に甘える事に決めた。……いーだろ……?」
「ありがとう」
「礼、言われる覚え、ないもん」
 そっけない位の台詞が、彼の口から発せられると甘く響く。
 かなり重症だが、快斗を腕の中に捕らえておける幸せもかなりのものだ。
「ホントは……こうやって捕まえてくれりゃあいーのにって、ずっと思ってた」
 すり、と頬を寄せる仕草。
「それが、残りの一割」
「僕に追いかけられている時、のですか?」
 快斗が頷く。
 追いかけられているのを楽しんでいるのが八割、面倒に思うのが一割、捕まえてほしいとの思いが、残る一割。
「確率の変動を期待しておきます。出来れば二割か、三割程度に」
「無茶言うなぁ、オレ確保不能がウリなのに」
「ええ、だから、すぐなんて言いません」
 そっと抱きしめていた腕を解き、見上げて来る快斗の唇にちょこんと触れるだけのキスを落とす。先程貰った掠め取るようなキスと同種の軽いキスに、快斗の泣いたせいで赤くなった目のふちが更にやんわりと色を増す。
 一面の緑と水面の水色、花々の黄色に赤紫にオレンジ。新たに彼の柔らかな朱が加わって目に映る景色はパステル調で優しい。
 戸惑ったままの彼の肩に手をかけて、一歩目を促す。
 三歩先に進んだのを確認して、白馬も一歩進んだ。二人の『あがり』は遥か遠く、けれど今はそれすらも気にならない。
 彼の背を追いかける日々が続いても、手を伸ばせば届く事も名を呼べば振り向いてくれるであろう事も、もう知っている。
「まだしばらくはこうして君の後ろを歩きます。後ろからでもこうして捕まえられますから、ちゃんとね」
 背中から抱き竦めるとほっとしたように小さな吐息と、次いで声を上げずにくすくすと笑う気配。
 僅かに首を傾げる程の間を置いて、快斗が楽しそうに問う。
「しばらくっていつまで?」
「君次第です。ただ……」
 抱きしめるというよりは背後からのしかかるに近い態勢で、白馬は顔を快斗の肩に伏せた。
「君が駆けるのに疲れた時は、思い出して下さい。僕が後ろにいることを」
 吟味するような沈黙があって、快斗は生真面目な面持ちを崩さずに頷く。
「分かった、覚えとく。……オレが甘えようとする前に、オマエってばオレ甘やかし過ぎ」
「でも」
 苦笑する快斗にやはり苦笑いで応えて。
 本当は全然足りていないと分かってる。沢山貰って来たものを思うと、沢山泣かせて来たと思うと。
「君には貰ってばかりですから」
「…………ナニ、……を……?」
 白馬は苦笑をやや強める。後ろからうなじに落としたキスに、くすぐったいと笑う快斗の声。
 伝わって来るリアルな体温が、白馬を幸せな気分にしてくれる。
「君のそんな笑い声やこうして二人でいる時間とか、僕の知らなかった花の名前だとか、そんなものです」
「オレだって。オマエがキスする時の目の色とか、知らなかった紅茶の名前、教えて貰ったりしてる。お互い様だってば」
 白馬が彼の肩から顔を上げると同時に、背を預けたままの快斗が顎を上げ仰向けに視線を合わせる。
「今度は紫陽花の頃に来よっか」
 奇麗な淡い色をまとう、そんな頃に。
 是の応えに幸せそうに微笑んで、キスを誘う様に瞳を閉ざす腕の中の柔らかな花。
 さやさやと五月の葉桜が風に揺れた。

◆『off-day』より/白×快◆


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