そして三日で世界は壊れた




 そして三日で世界は壊れた。

 

 

 事の始まりは些細なミスだった。

 ミスと、タイミングの悪さ、そんなものが重なった結果、だった。そしてそれは致命的なミスとなった。
 その瞬間、KIDは白のスーツの二の腕が朱に染まるのを為す術もなく見ていた。
 追っ手を振り切り宝石を月へとかざす…代わり映えしないいつもの儀式の結果も相変わらずハズレで。違ったのは、常ならばその行動の予測のついた筈の探偵の予想外の再登場と、組織の狙撃が重なった事。
 キラリと反射するその光の意味に気付き、身を翻した時には一歩遅く、左腕に、熱と衝撃。
 KIDは二、三歩よろめいた。
「KID!」
 悲痛な声を上げたのは、何故だか探偵の方だった。
 一瞬後には煙幕で閉ざされた視界の中で、探偵が自分を呼ぶ声がもう一度聞こえた。が、KIDはそれを黙殺した。
 足を留めるのは自殺行為だ。早急にこの場を放れるのは自分の為でありこの探偵の為でもある筈。
 熱が痛みに変わる前に、KIDは速やかに軽い跳躍でその場を離れた。出血で変色して来るスーツを横目に、出来たのは簡単な止血だけだった。
 トランプ銃と煙幕、そして閃光弾で追っ手を撹乱し、KIDは路地裏を駆け抜ける。途中で痛み止めの錠剤を噛み砕いて、それ以後は熱から意識を逸らした。痛みを忘れて、逃走に全力を注ぐ。
 例えそれが予定外の結果でも、起こってしまった事は変えられない。受け入れてそこからどうするか考えるだけだ。
 隠れ家へと辿り着く間際に追いつかれたのは、探偵が常より必死だったからだろうか。
 それともタイミングが悪かったからか…自らの力が及ばなかったからかもしれない。
 多分そういった理由のどれかか、全てだったのだろう。
「KID」
 けれど、振り返ったのもミスだった。
 息を整えながら歩み寄って来る探偵から、回避行動を取らなかったのも。
「もう逃げれませんよ」
「さぁ、どうでしょうね?」
 いつも通り笑えた。その事で少し安心する。まだ大丈夫、まだ自分はKIDでいられている。
 寄って来る体から微妙に左を後ろへとずらして視界から隠したつもりだったが半瞬ばかり遅かった。その動きを見て取った探偵の表情があからさまに曇り、緊張を漂わせる。
 忘れた筈の痛みが、ずく、と腕から広がって、そっと唇を噛んだ。
「撃たれたのはそちらですね?」
「貴方には関係ありません」
「馬鹿な事を……」
 低い声で呟いて、探偵が目を眇めて自らのネクタイを引き抜いた。
「……銃弾は」
 抜けているのか、と短く問う探偵の声をKIDは無視した。止血しようと伸ばされた腕をも、音を立てて弾く。
「KID!」
 責めるような声で呼ぶ探偵から、一歩分間を空けた。それでも本来の互いの位置には距離には、まだ足りない。……近すぎる。
「言ったでしょう? 貴方には関係ないと」
「……彼等は何ですか。貴方を狙ってるのですか、それとも貴方が今夜盗み出した、宝石をですか」
 問いを重ねる探偵に、KIDは薄く笑み返すだけに留めた。
 痛みと、熱と、左側からじわじわと広がる感覚を、無視するのも限界がある。こんな場所で出血多量で倒れている訳にはいかないのだ。
 痛覚を無視できても左腕が痺れて来たのは無視出来ない。それが意味するところは、一つ。時間は残されていないという事。
 後ろか前か。
 後ろなら容易く飛び越えられる壁。越えれば隠れ家も近い。だが、今の自分にそれだけの余力があるかどうかが問題だった。
 後ろが無理なら、突破は前。……煙幕の手を借りて探偵の横を擦り抜けるしかない。リスクも大きいが不意はつける。
 迷いがあった。
 焦りもあった。
 この場にいささか長居し過ぎた。
「言いたくないというのなら、別の……KIDッ!」
 詰め寄ろうとした探偵は、反射的に腕で顔を庇ったようだった。
 閃光。ついで、煙幕。
 その中、踏み切ろうとしたKIDの腕に、何かがぶつかった。捕まれた事でそれが誰の指かを知り、KIDは素早くそれを振り払う。と同時に、利き足で一気に踏み切った。
 初めてマントを重いと感じた。水中でもがく時の抵抗にも似た、空気圧。
 余裕で飛び越えられる筈の壁にどうにか足を掛け、そのまま壁の向こうへと身を委ねる。
 落ちる、という感覚は何度やってもグライダーで『飛ぶ』のとは違い、いつだって神経を逆撫でるようなそれを伴っていて、その一瞬だけで掌が汗ばむのを感じる。首元から入り込む風の冷たさで、辛うじて理性と意識を保っている状態だ。
 落ちるのはほんの数瞬。
 それでも目を逸らさない、体勢を崩さない。そうすれば着地は難しくなかった。KIDはふわりとマントを閃かせ、重力を無視したような軽やかさで地面へと降り立つ。
 その壁の向こうで探偵の咳込む声が、聞こえた気がした。
 近くに、遠くに、聞こえた気がした。

 

   §  §  §

 

 青白い顔。
 認識したのはその色だった。
 白を通り過ぎ血の気の引いた青白い顔で、目を瞑り両手を組み合わせている。
 寝かされているベッドの脇に膝をついて、何かに一心に祈るように。身じろぎもしないその姿を、快斗も視線だけで束の間盗み見た。
 イギリス帰りの探偵はとても色白で、淡い琥珀の瞳の色や色素の薄い髪の色ととてもよく似合っている。いつもそう思っていた。
 だが、今は色白を越えて、痛々しくさえある。
「……死にそーなツラ」
 小さく笑った快斗の声に、白馬は弾かれたように顔を上げた。
「目が……、」
 快斗の枕元へとそっと身を乗り出すように寄り、白馬は顔を覗き込んで来た。快斗の視線の動きと意識を確かめるようにしばらく沈黙を守ったが、その後で息苦しそうに吐息を漏らした。
「もう……目を覚まさないのかと、思いました」
 白馬の声は低く、そして囁きに近い。快斗を凝視するその表情は硬く、未だ何かを警戒するように唇を引き結んでいる。その顔色には朱は昇らず、白よりも青と表現するに相応しい色合いのままだ。
「勝手に殺すなよ」
 軽口のつもりで投げ返した言葉の不穏当さは、即刻証明された。
 白馬の叩きつけた拳が、快斗の顔の間近のベットへとめり込む。ギシ、と耳元でベットが悲鳴を上げるのを奇妙に冷静な面持ちで快斗は見ていた。
「冗談事ではないのですよ。現に僕は医師を呼べず、君は死にかけてた!」
 腕を撃たれたくらいじゃそう簡単には死にはしない。
 けれど、手当が遅ければ、それがきちんと出来てなければ、出血が多すぎれば…いくつもの要因で簡単に人は死に至るのも事実だったから、快斗はその悲痛な声に反論など出来なかった。
「この三十八時間、僕がどんな気持ちでいたか……ッ」
 それきり、白馬は顔を背けてしまう。枕元に取り残された拳の、小さな震えがまだ彼の中で渦巻いている緊張と不安、その反動のいらだちと安堵を物語っている。
 不思議だった。
 確かに白馬は常に快斗をKIDと疑って、KIDを捕らえようと追い掛けていた。
 なのにKIDには『貴方』と呼びかけ『君』と快斗を呼ぶ。
 本人が自覚しているよりもKIDと快斗を別物として認識しているのではないかと快斗は思っていた。
 だというのに、KIDの正体が快斗と知った筈の彼は、境目を失って幾らかは動揺しているようだが以外にもKIDとしてではなく快斗として接している節が強く窺えるのだ。
 不思議だと思う。どうにも腑に落ちない。
「もっと、喜ぶと思ってたんだけどなぁ」
 白馬の拳から視線を外し、天井へと転じ、呟く。
「KIDを捕らえたオマエは、もっと肩で風切って偉そうに……笑うんじゃねぇかと、思ってた」
 勝ち誇って『ごらんなさい、必ず捕まえると言ったでしょう?』そんな風に得意気に笑う姿しか想像しなかった。いつか捕まる日があるとすれば、そんな風かもしれないと快斗は想像を巡らせていた。
 快斗の半ば独白の如き台詞は白馬にも届いた。だが、否定も肯定も返さずに、彼は立ち上がって快斗を見る。
 百八十cmの白馬が立ち上がると、横になったままの快斗からは表情も瞳も、ひどく遠いものになってしまう。
「君のその傷の診れる、医師の当てはありますか。僕に出来たのは止血と消毒だけですから」
 傷が銃痕だけに、普通の医院に担ぎ込む訳にいかないのは通じている。白馬が、KIDの人脈を問うているのも明らかだったが、快斗は首を左右へ振る事でそれに答えた。
「……君が電話をしている間僕は席を外します。この場へ呼べないと言うのなら車で送らせても、タクシーを呼ぶのでも構いません。熱は下がったとはいえ、このまま放置していい傷じゃないのは分かるでしょう」
 快斗は、もう一度首を振った。たったそれだけの動作でも頭がくらくらして来る。少し血が流れ過ぎたのかもしれない。
「黒羽くん」
「上着、どこ」
「何を言って……駄目です、寝て下さい!」
 身をよじって起き上がろうとした快斗を、白馬は慌てて押し止める。
 上半身は素肌で左上腕部に包帯が巻かれているその姿で、白馬の手を振り払おうとした快斗の肩に白馬は掌を押し当てた。
 一瞬こめられた力に快斗が低く呻いた途端、無理矢理押さえ込むかと思われた手は、力無く当てられただけに変わった。
「もう一度傷が開いたら……僕にはどうにも出来ない。お願いですから、黒羽くん」
 暴れないで下さい。そう呟いた声はあまりに必死で。快斗は黙って力を抜いた。両手がそうっと自分の肩をベットに戻し、上掛けを直すのも黙って受け入れる。
 実際、白馬に止められなかったとしても、身を起こせていたかどうかは分からなかった。
 身体の左側からじわじわと熱が広がる気がする。意識も、気を抜くとふっと飛んでしまいそうで、快斗は慌てて二、三度瞬く。
「白馬、上着」
 白馬は何かを耐えるような表情で、快斗を見つめている。両手は堅く握られ、白馬の感情をその中に握り込もうとしているようで。
「今更、逃げようとしたりしねぇよ。頼む」
 静かに告げる快斗の声に、白馬は躊躇いをその瞳に映し、それでも頷いて部屋を出て行った。
 束の間目に触れた隣の部屋を染めるオレンジの色合いに、三十八時間の時間経過を実感してしまう。彼の言葉を信ずるならばあれは、夕日だ。
 間を置かず、白馬は戻った。その手には快斗が現在も身に纏っているスラックス以外のKIDの衣装の全てがある。
「上着だけでいい」
 端的に言うと、やはり白馬は黙って一つ頷いてマントやシルクハット等をベット脇のサイドテーブルへと移し、上着だけを手渡す。
 既にそれは純白とはかけ離れていた。
 左腕からの出血が袖から胸元までも染め上げ、乾いて茶黒く変色している。僅かに血の匂いが残っていて、我が事ながら快斗は軽く顔を顰めた。
 快斗は横になったまま襟に指を滑らせて、それを取り出す。
 ルパンV世がカリオストロの城という映画で指輪を隠していた場所だと言っても、多分この探偵は不思議そうな顔で首を傾げるだけに違いない。現実と関係のない事を思い浮かべ、少し気分が持ち直した。
 右の袖口の折り返しをほどこうとして、指に力が入らない事に気付く。歯で糸を切ろうかと思った時、指が割り込みそれを遮った。
 快斗が何をしようとしているのか悟ったらしい白馬の指だった。
 ベットに腰を下ろしサイドボードの引き出しからハサミを取り出すと上着を受け取り、袖口の折り返しの糸を解いていく。そうやって取り出した包みを、白馬は快斗に手渡した。
「他には?」
「左のポケットの裏と、裾。後ろの切り込みの近いところ」
 白馬はもくもくと上着を解体して行く。
 数々の仕掛けもその瞳に触れている筈なのに、白馬はそれらには言及せず、一心に快斗が示した箇所から包みを取り出す事にだけ集中しているようだった。
 が、全てを出し終えた白馬も、快斗が包みから出した物に目を止めると複雑な表情になる。
 サイドボードの上の水差しからコップに水を注いで快斗の口元まで寄せながら「それは?」と問う。
「抗生物質」
 口に含み、白馬の手を借り錠剤を飲み下す。
「炎症止めと、化膿止め、増血剤と鎮痛剤」
 快斗は薄く笑う。
「KIDに仲間なんていない。傷を負えば自分で治す。それが怪盗KIDだよ。今回は、オマエに拾われたようだけどさ。自分の手に負えなくなった時がKIDの最後だ、そう思ってる」
 医師の当てはあるのかと問うた白馬への、これが快斗なりの返事だった。
 初代である黒羽盗一の付き人だったという寺井は確かに快斗にとっても良き協力者である。だが、初代への義理だけで彼に自分の犯罪の片棒を担わせる気はなかった。
 ましてや危険を伴う箇所への係わりは、一切断っている。快斗にとっても、心配症な祖父の同様の存在だけに、尚の事である。
「なぁ白馬。オレはオマエが追ってたKIDで、オマエはオレを捕らえたんだろ? なのにどうしてそんなに浮かない顔なんだ? 手当なんかしたんだよ?」
 目顔で答えを求める快斗に、白馬は困惑した表情でベットの縁に再び腰を下ろした。ベットの重心が傾ぎ、快斗は心持ち白馬の方へと身じろいだ。
 不意に強く意識する。このベットは白馬のもので、この部屋は白馬の寝室で、そこにいるのは白馬探なのだと。
 快斗を運び込むのは客室でも、それこそ別荘でもホテルでも良かった筈だ。快斗がKIDで、撃たれて担ぎ込まれたという事実を考えると、ここでない方が良かったくらいだ。
 何よりベターはKIDを警察病院に放り込めばいい。彼の立場的にもそうするべきだった。
 けれど彼はここへと運んで恐らく言葉通り三十八時間、快斗を見守っていたのだろう。
 行動の予測はついても何故そうしたのかという探偵の大好きな『動機』が分からない。
「僕にも、分かりません」
 ぽつりと呟いた白馬の顔は戸口を向いている。快斗に見えるのは背中、横顔。
「ただあの時…路地裏で血を流して蹲っているKIDを見つけた時、彼は意識朦朧としている様子でした。僕は彼を捕まえましたが彼はこの手を払い退けようとした。ろくに立ち上げれもしない状態で、それでも僕を拒否しました」
 そんなやり取りが自分達の間で行われていたと聞いても快斗にはピンとこない。有り得るだろう、と漠然と思うだけだ。
「発熱していましたし、傷も開いたようで、どんどん赤い染みが広がっていくのを見て、僕は」
 その時の光景を思い出したか、白馬が不意に声を詰まらせた。
 目を閉じて膝の上で両手を組み合わせている。目が覚めた時に見た白馬と、その仕草は重なって見えた。
「彼が死んでしまうかもしれないと、怖くなりました。だから僕は君の名前を呼びました」
「……え?」
 静かな声で語る白馬から思いがけない言葉が出て、快斗は小さく声を上げた。白馬が振り返る。
「『黒羽くん』と呼びました。呼んで、逃げないでほしいと頼みました。彼は不思議そうに僕を見返しました。その時に、彼は君になりました」
「どういう……意味だよ……?」
「もうKIDではなかった、としか言い様がありません。『KID』ではなく『黒羽快斗』だと、思ったんです」
 白馬の声は苦しげだった。快斗も声が出せない。
 探偵が泥棒の正体を知るのに、痛みを伴うだなんて、きっと誰も思いはしない。
 快斗も想像もしなかった。
 だが、KIDの正体を知ってしまった白馬はその事実で目に見えない所に、傷を負った。明らかに、快斗が傷つけてしまったのだ。
「君は、この腕の中で気を失いました。彼がKIDのままなら僕は何の躊躇いもなくすぐ中森警部に連絡したでしょう。けれど相手が……この腕の中で血を流しているのが黒羽くん、君だったから僕にはどうすれば良いのか分からなかった」
 白馬は、ぽつりと付け足した。
「今も、分からないんです」
 正直な言葉だと思った。嘘のない気持ちだと思った。
 そして同時に無性に白馬に謝りたいような気分に襲われた。
 彼が今向き合っているのは、かつての自分がKIDとして空を駆けるのを選んだ時に切り捨てて来た筈のジレンマだった。こんな形で白馬が背負い込まなければならないものではない。それを申し訳ないと強く思う。
 なのにこんなに真っ直ぐに思いを口に出してくれた相手を、きっと自分は利用する。その信用には応えないで、冷ややかに、計算高い、自分の中の理性の部分で考えてそうしてしまうだろう。
 快斗は自己嫌悪にどっぷりと浸かりながら目を閉じた。
 ごめん、と言えないままに。
 眠りはすぐに訪れた。

 

  §  §  §

 

 

 次に目覚めた時、快斗にはまたもや時間経過が分からなかった。ものすごく寝たような気もするし、ほんの二〜三十分のようにも感じる。
 白馬の寝室には時計がない。掛け時計もなければ枕元に目覚まし時計もない。
 あいつ、どうやって毎朝起きてんだろう、と目覚まし二つとケータイのアラーム機能をフル活動していても度々寝過ごしてしまう快斗はぼんやりと思う。
 その時、サイドボードの上にそれを見つけた。常に白馬が身に着けていた、金色の懐中時計。いつだって得意げに取り出しては『何分何秒遅いですよ』と細かい事を言う白馬を思い出して、快斗はそれを少し面白く思う。相当大事にしている品であろうに自分の為に置いて行ったのかと思うと、笑みが浮かぶだけでなく意外な気もした。
 薬が効いているのか腕に痛みはなく、それをいい事に快斗はずり上がるようにして枕に肘をついて上半身を起こす。
 上掛けから出てしまうと適温の筈の室内も少し肌寒く、肩からぞく、と震えが走る。
 時計を確認すると、五時間程が経過している。
「……結構寝てたじゃん、オレ……はっくしゅっ」
 盛大にくしゃみをした所で、白馬が血相を変えて飛び込んで来た。
 何事、と見返した快斗と視線を合わせ浅く二・三度呼吸を整えてから、少し落ち着いたのか、それでも足早にベットへと歩み寄って来る。
 青かった顔色は普段に戻りつつあるが、その代わりのように疲れと寝不足を隠し切れていない。
「まだ横になっていたほうが良いですよ」
「もう痛くねーもん」
 ケロッと答えた快斗に、白馬は大げさに溜息を吐く。
「薬が効いているからでしょう。無茶ばかりしないで大人しくしていて下さい」
「ハラ減った、白馬」
 上掛けを引っ張り上げようとしたらしい白馬は、ベットの縁に両手をついてがっくりと項垂れた。
「食いもんない?」
「……スープを頼んであります。取って来ますから、ここで食べて下さいね」
 起き上がって席に着く、などという反論には絶対に耳を貸さないと言わんばかりの釘の刺し方に、快斗は大人しく引き下がった。
 すぐに出て行くかと思われた白馬は、クローゼットから手早くローブを出すと快斗に羽織らせたばかりか、袖を通すのにも手を貸す。
 その上快斗の背に枕ともう一つクッションを追加して楽な体勢が取れるように腕を差し入れ整えた。いたれりつくせりの文字が頭を過ぎり、快斗は逆らいもせずに、世話を焼いている白馬を斜めに見上げた。
「? ……何ですか?」
「オマエって尽くすタイプだったんだ」
 一瞬きょとんとして、白馬は少し表情を和らげた。吹き出しそうなのを堪えて無理矢理苦笑したような、複雑な表情で軽く応える。
「尽くすって……変な言い方しないで下さい。僕は常に親切ですよ」
 自称・親切な男は「すぐ戻りますから」と念押しし、ヒーターの温度設定をいじってから出て行った。
 温風を頬に感じる。妙な穏やかさが却って落ち着かない気分に陥らせているとはきっと思いもしないのだろう。しかも、あの白馬に庇護されている、とは。
「変なの」
 あそこまで心を砕かれたのは小学生の時に四十℃の熱を出して寝込んで以来かもしれない。
 その後の快斗は誰にでも誇れる健康体だったし、父親を亡くしてからは殊更母親に心配をかけまいと多少の不調は押し隠している内に復調させていた。
 KIDを始めてからは緊張の連続で寝込むような病とは無縁だった。怪我はあったがそれこそ誰かに面倒を見てもらう訳にもいかない。自然と応急手当の腕は上がり痛みを表に出さない術をも覚えた。
 なのにこの期に及んでこの自分が、あの白馬に、あれこれと世話を焼かれているのだ。
 くすぐったいような、それでいて身の置きようがないような気分になるのも無理からぬ事なのだろう。
 落ち着かない気分のまま立てた膝に頭を乗せて「何てこった」とぼやいていると、タイミング良く自称・親切な男がトレイを片手に戻って来た。
「どうかしましたか」
「……………」
 まともに問われても困る。オマエが親切だとやり難いんだよとは流石に言えず、結局快斗は『ハラ減った』と恨めし気に白馬を見上げるだけに止めた。
 慌てて白馬は快斗の膝の上にトレイを置く。スープ皿とスプーンのみという非常にシンプルな組み合わせだ。
「腹持ち悪そー」
「四十三時間物を食べてない人が急に腹持ちの良い物なんて食べたら胃が驚きますよ」
「四十八時間」
 満腹でKIDの仕事に挑む訳にはいかない。
 予告は二十四時だったが最終的に白馬に拾われたのは二時近かった筈だから、丸二日ぶりの食事だ。
 珍しくはないけれど、意識し出すと強烈に空腹を感じた。
「尚悪いですよ」
 と、呆れたように呟く白馬を無視してせかせかとスプーンを動かす。スープ皿の半分を攻略した処で、パタン、と扉が閉まる音に顔を上げると、トレイを片手に白馬が入って来た。
 いつ視線が外され彼が部屋を出たのか、まるで分からなかった。その事実に一瞬背筋を寒気が走る。
「もう少し上げましょうか」
 快斗の震えを誤解した白馬は疑問形でなくそう呟いて返事を待たずに踵を返し、エアコンの設定をいじる。
 その後ろ姿を、快斗は目で追った。
 足音はじゅうたんに吸収されているが、特別気配を殺して動いているようには見えない。むしろ存在感に溢れていると言っても良い。
 なのに快斗は先程その存在を意識していなかった。その動きを把握していなかった。それは注意力が散漫になっている、等というレベルの問題ではない。
 間近まで踏み込まれても認識しない。アラームが作動しない、という事だ。
 白馬がKIDの正体を知ったという事は、快斗に対するフリーパスを手に入れている状態と承知していても、快斗自身の感覚がその距離を受け入れるのには時間がかかるだろう、と、快斗はそう見当をつけていた。
 例えるなら、小さな名探偵こと江戸川コナンと関わりを持った時以上に。
 白馬は常に快斗の中からKIDの意識を引っ張り出そうとするような言動が多い。
 コナンと同じ探偵を名乗っていても、白馬が近くにいるだけで快斗の中から発せられる警告音は鳴り続け、KIDとしての自分が刺激されるのも仕方がない。
 そう思っていたのに。
 意識より先に、感覚がこの距離を許している。これが捕らわれる、を意味するのか。
「……そうかも」
 快斗はぼんやりと呟いた。
 白馬がスプーンを止めて快斗を不思議そうに見遣る。その顔つきが本当に怪訝で、快斗は少し笑った。
 彼はこのゲームのルールを知らない。自らの手札の強さを知らないでいる。
 そして自分に残された手札は限られており、ポーカーフェイスだけで乗り切ろうとしている。
 何とも皮肉な話だ。
「黒羽くん?」
「何でも、ねぇよ。マヌケヅラ」
「すみませんね、元々こういう顔なもので」
 憮然としたものの、白馬にしては幾分軽い冗談口調で切り返して来た。
 そして、もう一度食事を再開しようとして、スプーンを口元まで運ぶが、のろのろとそこから先へは進まず、揚げ句諦めたか彼は手を下げてしまう。
 快斗の皿の中身はどうにか片づいていた。普段の快斗なら間違いなくおかわりおかわりと騒いでいる処だが、流石に今はまだそこまでの余力はない。
「もういいのですか?」
 声に懸念が潜んでいる。気遣われている、と勘違いしてしまいそうで、慌てて切り返した。
「オマエこそ。付き合ってダイエットする必要なんてないんだぜ?」
 たった一皿のスープを飲み残す、だなんて育ち盛りの男子高校生には似合わない。それこそ、快斗と同じく、体調を崩しているのでなければ。
 白馬は苦笑で首を振る。
「君が寝ている間に、僕は少し食べていましたから。そんなにお腹は空いてなかったんです。何か他の物を用意してもらいましょうか」
 快斗は無造作にトレイを白馬へと突き返した。
「今はもう、いい。ごちそーさま」
 白馬も頷いて受け取り、部屋を出かけてたたらを踏んだ。視線が不自然に空を飛び、彼の迷いを現している。
 ……白馬は振り返った。
「黒羽くん。まだ起きていられそうなら、少し話がしたいのですが」
 躊躇いがちに切り出された台詞は、予測内だった。むしろ、いつ言い出すのかと待ちかまえていた。宣告を待つ罪人と同様、恐怖と諦めと、自ら切り出せないでいる弱さを感じながら。目覚めてからずっと。
 だから、白馬の言葉には、来たか、と思うだけで。
「オマエがそうしたいなら」
 好きにすれば?
 投げやりともとれる語彙に、白馬は表情を厳しく引き締めて頷いた。
 白馬の気配が消えた室内で、快斗の視線が扉からサイドテーブルへ、意識的にKIDの衣装からは視線を外し、金色の懐中時計へと彷徨う。
 冷たさは怖くない。手を触れるのも。これから白馬と話すであろう事柄も起こるかもしれない事象も。
 ただ鼻先まで踏み込んで来る白馬との距離に慣れてしまうのは怖かった。
 これが捕まる、捕らわれるという事なら、これだけは怖いと思う。
 だが、もうそれは快斗にどうこう出来はしなかった。
 全て、起こってしまったのだから。
 彼自身を象徴するまぶしい金色の時計から、快斗は目が離せなかった。

 

  §  §  §

 

 戻って来た白馬は唐突に快斗にそれを突きつけた。
 電話の子機である。
 おもむろに差し出されたそれと、彼の顔をマジマジと見比べる。子機は通話状態ではないし、無論彼の顔に文字が並んでいる訳ではない。
 ナンダ、ドウシタ、と身構えている快斗に、じれたように白馬が子機を押しつける。
「御家族が心配されているでしょう? 僕は向こうの部屋にいますから終われば内線で呼んで下さい」
 部屋番号はこれ、と白馬はいくつかのボタンを指し示す。そうしてせかせかと部屋を出ようとする背に、快斗は声を投げた。
「いいのか?」
 白馬が足を止める。
「誰か呼んで、ここから逃げようとするかもしれないぜ」
「KIDに仲間はいないと言ったのは君です。逃げない、とも言いました」
「口じゃなんとでも言える」
 嘘なんてついてないと誰に分かる? 何を根拠に信じようとする?
「僕が君を信じたところで世界がひっくり返る訳でもない。君が本当にそうしたいなら、こんなところで僕と押し問答などしないで黙って姿を消せば良い話でしょう。ここは牢獄ではないし僕は警官ではないのですから、何の拘束力もない」
「オマエはKIDの正体を知っているのに?」
 その時の白馬の表情を一言で現すとしたら『痛い』……痛みを堪えている、そんな表情。
「僕はそれしか知りません。他の何も知らない。……終わったら、呼んで下さい」
 今度は止める間もなく白馬は部屋を出て行く。快斗も止めなかった。止めようとも思わなかった。
 白馬に斬りつけ返す刃で自らも傷も負う。そんなやり取りだったとしても今更後悔も出来やしない。今の会話は本題のさわりでしかないのだから。
 握りしめていた子機を眺めて、結局快斗は自宅に連絡するのはやめた。
 KID絡みだとしてもそうでなくても快斗の外泊自体はそう珍しいものではない。下手に普段しないような事をすれば却って母親に心配をかけてしまいかねない。
 KIDに関して黙して語らず、息子がKIDを始めたと見当をつけても知らぬふりを貫いている母親は、心配しているのよ、等とは決して口に出さない。
 それは心配していないのではないと、快斗も知っている。
 だから、自宅にかける代わりに暗記している番号を押す。これは知っている人の少ない、彼への直通の回線だ。
 通じると同時に快斗は浮かれた声を上げた。
「やっほー♪ もうガッコーは終わったかな、コナンちゃん?」
 ブツッ。
 音を立てて通話は切られた。
 一瞬呆気にとられて、すぐに笑いがこみ上げて来る。
 快斗はクスクス笑いながら、えいっとリダイヤルボタンを押した。
 相手は五コール目まできっちりと放置し続けたが、諦めたのか呆れたか、渋々『ンだよ』と出てくれた。
「ひどいなぁ、いきなり切る事ないでしょ」
『ルセー。思わず切りたくなるよーな第一声すっからだ』
 憮然とした幼い少年の声が、不機嫌に応じる。
「えー何か変なこと言った、オレ?」
『……いや、おまえが変なのはいつも事だって、忘れてたオレが馬鹿だった。……平気か……?』
 彼の問いかけは漠然としているが、何を示しているかは心当たりが二つ三つあるだけに、快斗は口元に苦笑を忍ばせた。
「うん、どうして」
『……非通知、だった』
 鋭いところを見ている。
 この小さな探偵さんに関して快斗は大きく手の内を晒している状態だ。電話する際にも非通知扱いにはしないし、彼からかかる事はないようだが自宅の番号も知らせてある。
 共同戦線を張る上で少なからず彼、そして彼等の信頼を得る必要があった。
 言葉だけじゃダメ。
行動だけでも足らない。
KIDである快斗自身のパーソナルデータがその信頼と引換に相応かどうかは分からないものの、快斗はそれを提示した。
 複雑な表情で、でも最終的には好奇心に負けたのか必要と判じたのか、快斗なりの誠意を無下に出来なかったのか、ともあれ彼がそれを手に取った事によって両者の垣根はそれぞれ幾らか下げられる結果となった。
 そこに快斗からの非通知。江戸川コナンが訝るのも無理はない。
「何ともないよ」
 快斗はゆっくりと発音した。口早に笑い飛ばすのはいかにもわざとらしい。
「この電話は借り物だから非通知にしてあるけど、それだけ。なぁに、心配してくれてた?」
『オレじゃねーよ』
 慌てたように少年が反論して来る。
『灰原が! ……おまえ、昨日も来なかったし。別に約束とかしてねーけど! 来ても来なくてもそんなのおまえの勝手だけどよ。その後もフォローの一つもないなんて妙だって、灰原が……言ってたから、ちっと気になってただけだ』
 あくまでも心配なんてしていないと言い張るコナンに笑みがこぼれる。念を押せば押す程真実から遠のいて行くと分かっていない辺りが微笑ましい。
 クスクス笑っているとやっとそれ以上に言い募る馬鹿馬鹿しさに気付いたか、コナンは大きく溜息をこぼす。
『それよりおまえ、ちゃんとあいつに頭下げとけよな。灰原、怒らせっと結構おっかねーぞ』
 彼女が側にいる訳でもないだろうに、まるで内緒のように声をひそめている。
 現在、彼等の置かれている事態の深刻さとは裏腹に、共にいる時の心地良さは、割と理由がはっきりしている。
 長く独り暮らしだった、阿笠博士。ひとりぼっちになってしまった、灰原哀。精神的に一人になる事を選んだ、江戸川コナン。
 独りな彼等が集まる時、そこには家庭に似た空間が出来る。それがKIDを選んだ快斗には柔らかく居心地が良く感じる一因なのである。
「そっか、哀ちゃんにも心配かけてたんだ。ごめんって謝っておいてくれる?」
『やなこった。自分で言え、そんなの』
「あー……そうしたいんだけど、すぐには行けそうにないんだよね。ちょっとこっちも立て込んじゃって」
 この腕でのこのこ米花町まで出向いたら、絶対怪我を見抜かれる。ドジとこづかれる程度で済めばともあれ、戦力にならないと頭数から外されでもしたらサイアクだ。
 それでなくても灰原哀は後方支援担当、江戸川コナンは実行部隊担当とはいえ実際問題として彼は七歳の姿で無茶をし過ぎる。
 出来れば西の高校生探偵辺りを巻き込んでおきたかった。
 きっと彼は戦力としてだけでなく後始末で警察を引っ張り出すのにも大層重宝だった筈。だが、この件は当人に打診する以前にコナンに駄目出しをくらった。曰く、あいつには知らせなくていい、と。
 言葉に出さなかった『知らせたくない』という気持ちを、快斗は尊重した。ただし、服部平次から首を突っ込んで来た場合は責任は持てない、というより目一杯歓迎し扱き使ってやろうと内心思ってはいる。
 だが、現状で快斗がKIDとして動けないのでは話にならない。
 だから、せめて怪我を隠し通せるまでの数日は彼等の元にへ顔を出せそうにもなかった。
 そもそも今後という点では白馬との話し合いの結果による処が大きい、というのも事実だった。
 決戦間近でなかったのは不幸中の幸いであろう。
『もしかしてアタリだったのか?』
 コナンの声が一段低められた。
「残念ながら、アレはハズレ。ただこのところ餌が良過ぎるのか食いつきが良くてね。キャッチ&リリースしておいたから群の方、ちょっと様子見てみようかと思って」
『オレも行く』
 コナンの返事は素早い。
『止めるなよ。危ないのなんておまえも一緒なんだから』
 危険度が違う。
 それは口に出さなかった。そういう言い方をするとこの小さい探偵が殊更に意固地になるのは知っているので、代わりに「何言ってんの」と軽く受け流す。
「大将のお出ましには早過ぎだよ。だーいじょうぶ、先に釣り始めたりなんかしないから安心して」
『…………』
 微妙な沈黙に信用のなさが現れていて、快斗はあららと苦笑するばかりだ。
「コナンちゃんとの約束は守っている方だと思うんだけどなぁ。そんなに信用ない?」
『信用してねー訳じゃねーよ。どっちかってーと、オレがおまえを信用してないんじゃなくて、おまえがオレ達を信用してねーんじゃねぇの?』
 思わず言葉に詰まった。
 信用、していない訳じゃない。
 互いに必要なデータは提示しているし、協力し合って計画を立てている。
 一時的に手を組んだだけの他人じゃなくて、今の彼等は快斗の中で頼もしい仲間であり暖かい家族同様の存在となっている。
 だが全てがオープンな状態じゃないのも確かだった。
 江戸川コナンの望みが組織の壊滅。灰原哀の望みは自らの手で江戸川コナンを工藤新一へ戻す事。そして阿笠博士の望みは、皆の身の安全である。
 KIDの望みはその全てと微妙に重なり合ってもいたから、突っ走りがちな探偵の目から隠し事をしたり、事後報告となってしまう。
 その点を指し信用していないと言われれば、快斗には返す言葉はなかった。
『悪ィ。無理言った』
 少し間を置いて、コナンが小さく呟いた。慌てて快斗は見えもしないのに首を振る。
「ううん、オレこそ、ごめん」
 素直に謝罪の言葉が口から転がり出る。
「でもオレ、博士も哀ちゃんもオマエも好きだよ」
 好きだから、大切にしたい。好きだから、綱渡りは一手に引き受けようとしてしまう。核となっている気持ちは、好意。
「大好きなんだよ。本当に」
 言い募る快斗にコナンは笑い声をたてる。
『もぉ、いーって。あんまりヤバイ動き方はすんなよな? 分かってるとは思うけどKIDは一番標的になり易いんだから』
「うん。ありがと」
 目立つのはKIDの存在意義の一つだから、白き衣を脱ぎ捨ては出来ない。けれど変装はKIDの主義には反しない。慎重であれ、と彼が望んでいるのは分かったから、快斗も行動は選ぼうと思う。
「約束、だね」
 快斗の柔らかい声に対しては『アテになんねーよなぁドロボウの約束ってのも』と、探偵のぼやき声が耳に届く。灰原哀には自分できちんと謝る事を念押され、快斗はようやくラインを断った。
 思いがけず長々と話込んでしまったのは会話が心地良かっただけでなく、少しでも白馬との会話を先送りにしたいと思っていたからかもしれない。白馬と膝を突き合わせて話し合う前の、束の間の息抜き。そんな風に。
「さぁって、そろそろ始めましょうかね」
 呟きはあくまでも軽やかに。快斗は内線番号を押した。

 

  §  §  §

 

 

 内線で呼びつけた白馬に子機を返すと、何とも複雑な表情で彼は受け取り、そしてそのままサイドテーブルへと置く。
 ベットから三歩程離れた場所で、彼はゆっくりと立ち止まった。
「どう、しますか」
「……あん? 何が」
 問い返すと、白馬は益々困惑した面持ちでしばし口ごもる。
「ご心配、されていたでしょう? 今から、家まで送らせ……」
「とっとと帰れって?」
 割り込ませた声が嫌に硬く響いて、快斗は内心ぎょっとする。白馬は白馬で一瞬声を途切らせ、眉を顰めた。
「邪魔ならいつでも消えるけど」
 突っかかり方は誉められたものでもなかったが、まぁいいやと快斗はそう言い足す。そのままベットから足を下ろそうとした快斗を、白馬が慌てて押し止める。
「ああもうっ、すぐそうやって極論に走ろうとする! 誰も邪魔だなんて言ってませんよ」
「あっそ。じゃ、尋問でも開始する?」
 軽く言った快斗に、がっくりと白馬は項垂れた。
 出鼻で白馬の調子を崩したのが幸いしたか、すっかり快斗のペースで会話が進められている。出だしとしてはまずまずだ。
「何ですか、尋問だなんて。僕は話がしたいと言っただけです」
「じゃ見下ろしてないで、はい、座る。この目線で喋ってっとオレ、すーごく喧嘩売りたくなっちゃうんだよね〜」
「………君ねぇ」
 嫌味の一つでも返って来るかと身構えた快斗だったが、白馬は小さく溜息を落とすだけで結局それは飲み込んだ。
 諦めたように椅子を引き寄せようとする腕を、快斗は掴んで引き止める。
「黒羽くん?」
「ここ、ここ……げ、」
 利き手で白馬を捕まえ、つい何気なく左手でベットの縁をぺたぺた叩こうとして、呻く。撃たれた左上腕筋は包帯でその傷は見えず、鎮痛剤がその痛みを忘れさせてくれている。だが、痛みが無いだけでなく、感覚もなかった。
 慌てて、指を動かそうとしてあまりに緩慢な動きしか出来ない事に更に顔を顰める羽目になる。
「動かさない方がいいです」
 白馬が素早く囁いて、手首に指を添える。掴むでなく、ただ添えられただけの指に諭されて、快斗も指を無理に動かそうとするのはやめた。
「大丈夫ですよ」
 白馬は、躊躇いがちにベットに腰掛けた。半身を捻って快斗と向き合う。
「すぐに前と同じように、カードを扱えるようになります」
 多分、と正直に言い添えなかったのは、彼なりの優しさだったのかもしれない。励まそうとしてくれる気持ちは間違いなく彼の物で。その気持ちを、自分は暖かいと感じている。それも確かだった。
 けれど快斗はワザと笑みを浮かべた。
 気遣ってくれてアリガトウ、思いやってくれて嬉しい。そんな気持ちとは真逆の、人を小馬鹿にした笑みを。KIDの浮かべる、口の端を引き上げた、冷たい笑い方で。
「それですぐに宝石でも盗まれたら、困るのはオマエじゃなかったっけ?」
 白馬が、息を飲む。
「そーゆー話だろ、オマエがしたいのって」
 畳みかけるように、快斗は言葉を連ねる。
 快斗の手にある手札は少ない。その分、効果的に扱う必要があった。
「いいぜ、しようじゃねーの。話って奴をさ。言いたい事があるなら聞くよ。聞きたい事があるなら言えば?」
 白馬の淡い色の瞳が陰る。らしくない暗い色に。そしてそっと目を眇め、探偵は絞り出すように返答を返した。
「両方、です。尋ねたら答えてくれるのですか」
 快斗は軽く肩をすくめて見せた。と言っても右肩だけなので様にならない。
「出来る範囲で。オマエはKIDを捕まえた探偵だから、その権利はあるよ」
 何でも、とは言えなかった。確かにKIDは探偵に捕らわれているけれど、何もかも終わってしまった訳ではないから。
 表情には何も現れなくても、彼の視線はその迷いを示したかのように、彷徨う。きっと、何から問うべきか思案しているのだろう。
 長い夜になるのかもしれない。
 金色の懐中時計の蓋は閉じられたままなので、快斗が正確な時刻を知る術はなかった。
「何故、怪盗KIDなどしているのですか」
 いきなり核心に切り込まれ、快斗は表情には出さずにそっと苦笑した。
『貴方は誰ですか』
『何故こんな事を?』
 思えば、この問いはKIDとして散々はぐらかして来た、お馴染みの問いかけだった。そう問う時の白馬は間違いなく探偵でしかなく、探求する瞳を持った狩人だった。
 あの目に晒されている時の緊張感を、快斗はよく覚えている。突き上げる高揚感と、音を立てそうな緊張感、そしてうねるような快感を。
「捜し物するには、一番てっとり早かったんだよ」
 パンドラを。そして父を殺した、組織の手がかりを探すのに。
「窃盗は犯罪ですよ」
 白馬の声に苦みが混じる。
「知ってる、そんなの」
「なら、何故です」
 自然と乾いた笑みがこぼれた。
 何故、何故、何故。
 パネルの裏の隠し部屋を見つけた自分も、何度も父の写真にそう問うた。
 何度も、何度も。けれど答えなんて得られなかった。
 写真の中から微笑む父からも。沈黙を守る母からも。協力者の寺井からも。誰からも。
 彼は望めば答えが返る。あの時の自分にはなかった答えてくれる存在に、回り回って自分が位置してしまった。
 そう思うと浮かぶ笑みはどうしても乾いたものにならざるを得ない。
「その質問の答えは、先刻と同じ。お次をどーぞ」
「捜し物、ですか。君が主に盗んで来たのは宝石でしたね?」
「そう」
「わざわざ盗んだ宝石を返すのは何故ですか」
「捜し物以外には用ねーもん」
 必要なのはパンドラと呼ばれる石だけ。けれど月の光に透かし見なければ、その判別は出来ない。だから盗む。違えば、返す。ただそれだけの事。
 白馬は快斗の答えを一つ一つ噛みしめるように頷いている。
「君の探している宝石は、手にしてみなくてはそうとは分からないのですね?」
 見るだけで分かるなら盗むまでもない。
「鋭いねぇ、探偵さん」
「茶化さないで下さい。どんな宝石を探しているんです?」
 呆れ口調の白馬の問いに、快斗は気配を切り替える。笑顔でシャッターを下ろす如く、一言で。
「言えない」
 白馬の表情は変わらなかった。
 ただ淡々とした語調は変えず「そうですか」と呟き返しただけで。
 快斗が答えない可能性も計算内であるかのように、一つ頷いてそれ以上の追求をしようともしない。
 怪盗を捕らえた探偵として、強気に答えを迫ってもおかしくない場面で大人しく引き下がるのはよっぽど人が良いのか他に考えがあるのか、だろう。
「見つけて、どうするんです?」
 この質問には即答出来なかった。パンドラを見つけたら、どうする?
 見つけてから考えても遅くはないと思っていた。だが、探して、見つからないで、それでも探して。そうする内にどんどん本当にそんなものがあるか、疑惑は膨らんで来た。永遠の命、なんて嘘臭いにも程がある。
 それでもあるのかもしれない、というのなら探し続けるしかなかった。
 こうなるともう、あるとしたら、見つけたら、仮定法のその後を考えるのは快斗にとって億劫で無益なだけだった。
 今、白馬に問われるまで。
 もしパンドラが見つかったら?
 組織にだけは渡さない。それは確か。
 けれどパンドラに本当に何らかの力があるのかなんて、快斗だって知らない。知らないものを使えはしない。
 捨ててしまって差し支えないかも不明だ。砕いてしまえるかどうかも分からない。
 こんなに分からない事だらけでは、答えなんて出せっこない。
「どうするかなんて、分かんねぇよ」
 白馬は、いささか意外そうに瞬く。
「目的があって探しているのではなかったのですか、その宝石を」
「一応。でも目的でもあるけど、探す行為に付随するものも、オレにとっては目的だからさ」
「付随するもの?」
 パンドラを探している、組織の連中。黒羽盗一を事故死に見せて殺害した、連中。快斗を撃った、連中。
 けれどこれは探偵向きの話じゃない。
 軽く眉を顰める白馬に、快斗はぺろんと舌を出して見せる。
「言えない、その二」
「……ノーコメントですか。君と話すのはなかなか骨が折れそうですね」
 そう言いつつも、思ったより彼の声は困っている風でもない。
「怪盗KIDには、八年間の空白期間があります。年齢的に考えても君がKIDになったのは復帰してからのKIDだと思うのですが」
「間違ってねぇよ」
「言葉の選び方について一度じっくり話し合いたいものですが、まぁいいでしょう…以前のKIDは君に縁ある人物なのですか」
「親父だよ」
 白馬の表情が、初めて狼狽えた。一瞬声を飲み込んで、忙しなく瞬きを繰り返す。
「黒羽くんの……え、」
「父親。もう死んでるんだから、お得意の何故攻撃は勘弁してくれよ? オレにゃ答えらんない」
「そんな……! じゃあ君は後を継いでこんな馬鹿げた事をしていると言うのですか!」
「いーや? 別に親父に頼まれた訳でもないし、継いだって言われても困る。好きでやってるだけだしさ」
 血の昇った白馬をやんわりとかわす。
 冷静さが売り物の探偵も、家族という存在が絡むとなると、存外こんなものなのかもしれない。至って、まともな反応だ。
「まぁ、馬鹿げた事かどーかは見解の相違って言わせてもらうけど」
 付け加えた一言は、単なる嫌味だ。
 怪盗KIDなるものが如何に馬鹿げているか、パンドラという石コロがどんなに信憑性のない存在か、快斗自身は重々承知している。その上で、知らないものとして背を向けれなかった。ただそれだけ。
 白い衣を纏った日から。その道を選んだ日から。
「……すみません」
 ふっと白馬の声から勢いがそぎ落とされる。熱の急激に冷めた、顔つきで。
「何も分かっていない僕が、言っていい言葉じゃなかった」
 素直に向けられる、謝罪の言葉。
 江戸川コナンに向けるのは容易いのに、自分は何故か白馬には素直に謝れない。なのに、白馬はそれが出来る。
 謝る、だけでなく数々の感情を彼に向かって素直に出せるかというと、それすらも自信がない。
「オマエが知らないのはオレが知られないようにしてたからじゃん。知らなくて当たり前なんだから、別に謝んなくったっていい」
 彼が痛みを感じなくて、良い。
「親父は何も言わなかったよ。だからオレだってずっとKIDの事なんか知らなかった、親父がKIDの姿で捜し物をしてたなんて知らなかった」
「さぞかし、驚いたでしょうね」
 白馬がそっと口を挟む。快斗は口の端に軽い笑みを乗せて、そーだな、と返した。
「オレは親父が好きで、マジシャンとしても尊敬してる。だから、捜し物見つけるので親父がどうしてそんな事してたのかとか、そーゆーのちょっとでも分かるんじゃねーかって、思って」
 父親が空を駆けた理由。自身の空を駆ける理由。父親の怪盗KID。快斗の怪盗KID。
 快斗が追いつきたいと願ったのは、超えたいと望んだのは、マジシャン黒羽盗一の背中。
 けれど今は怪盗KIDの背中を追い掛ける方が忙しくなってしまった。
 出会えた小さな探偵や科学者を思うとそれはけして無駄ではなかったが、見失った背を思うとそれは時折快斗を切なくさせた。
「怪盗KIDやってる意味なんて、そんなもん。分かっちまうと結構がっかりしたんじゃねぇの、KIDの正体とか、目的とかさ」
 おどけて言うのと「いえ」とすかさず否定の言葉が滑り込まれたのは、ほとんど同時だった。
「KIDの影と君の影が随分重なって来ました」
「それって良い事なのかどうか、オレには分かんねぇけど。でもオレが今KIDのカッコしてオマエの前に立っても、オマエ『黒羽くん』って言いそう」
 言うでしょうね、と自嘲気味に白馬は同意する。
 そうでなくても怪我をしたKIDを快斗と呼んだ時点で、後ろに戻る道は閉ざされてしまったのかもしれない。彼自身は自覚していなくとも。
 彼の前で自分はKIDとしてはあれないかもしれない。それでもそれだけの価値はあるだろう。
 彼はKIDを見て、快斗を思う。それこそが快斗の狙いだった。正体がばれた以上、KIDとして立ち続ける為には白馬を取り込むしか手はない。
 信用して話す訳ではなく、話す事によって白馬の退路を絶つのが目的なのだ。
 彼の心根が優しいのを利用して、つけ込んで。
 汚いやり口でも、まだ立ち止まれはしないから。コナン達との約束を守る為になら、いつか彼を傷つける終わり方しか出来ないと分かっていても。
 白馬はマジマジと快斗を見返している。快斗の中のKIDを透かし見ようとしているのか、しばらくしてやや目を細めた。
 指先で快斗の頬を辿り……今度は不思議そうにその指を見る。
「こんなに、違うのに、どちらも君だなんて。どうにも実感がわきませんね」
 快斗には白馬に触れられたという実感の方が、よっぽどわかないでいる。
「なんか変な気分」
 ぽつりと呟いた快斗に、白馬が首を傾げる。
「オマエとこんなにKIDの話ばっかしてんのに、オレ達の間にKIDがいないの、初めてだ」
 二人を隔てる見えない壁として、いない筈の怪盗KIDが、快斗と白馬の間には常に存在していた。
 KIDは快斗にとっての防波堤であり、当たり前のクラスメイトとして暮らすには透明で強固なガラスだった。
 それがこんな形であれ二人の間からKIDが取り覗かれただけで、彼は自分に触れるのだ。こんなにも自然に。
「だって、君がいつも目で牽制していたじゃないですか」
「オマエこそいつだって観察してますって目で見てただろー」
「君が派手な事ばかりしてるから、自然と目がいくだけですよ。観察だなんて人聞きの悪い」
「派手で賑やかでうるさいくらいのが、黒羽快斗だろ?」
「本当に?」
 茶化して言ったつもりが、真面目に切り替えされてしまい快斗はまた詰まる。
 いつの間に会話の流れは彼のペースになっていたのだろう?
「僕には教室での君も、黙って考え事をしている君も、変わらず黒羽快斗に見えます。それじゃいけませんか」
「いけないかなんて……」
 答えようがない。どうしてだか、会話の流れを変えるポイントが見つけられないまま、快斗は俯く。
「怪盗KID、やめませんか、黒羽くん」
 不意に、会話の流れを断ち切って、白馬が切り出した。
 冷や水を浴びせられたように、快斗はさっと頭の中がクリアになっていくのを、感じた。
「今なら僕が忘れれば、まだ」
「庇ってくれんの?」
 ひどく冷めた声で、快斗は割り込んだ。
「窃盗犯で国際的指名手配犯を、白馬警視総監ご令息で探偵の、オマエが?」
 白馬の瞳に浮かんだのは、傷ついた光。またやった、と思う。結局こうなるだろうに、束の間漂うバリアーのない空間につい忘れてしまいそうになる。自分は彼を傷つけ、そして利用しようとしているだけだという事を。
「こんな傷は、初めてじゃないでしょう!」
 負けじと白馬も快斗の左腕を指さし、言い返す。
 腕の手当がなされていた点で、既に過去の傷跡を彼が目にしているのであろうとは思っていた。ただ、彼はこの時まで何も言わなかった。
 こんな事がなければ古傷には触れないつもりでいたのかもしれない。腕に掴みかからなかったのも理性が働いてただけでなく、彼自身の育ちの良さの現れなのだろうか。
「君の捜し物は、もっと他の方法では探せないんですか。君を撃ったような連中と関わらずには、探せないとでも?」
「やめない」
 きっぱりと、言い切れた。
 震える事無く、躊躇う事なく。けれど声が硬く響いたのは意識した以上だった。
「今は、まだ、やめれない。オレだけの事じゃないから」
 約束が、ある。
 パンドラ自体は最悪見つからなくったっていい。だが、組織から哀の研究に必要なデータを手に入れて、かの組織を壊滅に追い込むまでは、怪盗KIDはやめれない。
「君のお父さんだって……」
「親父も、もう関係ない。あのさぁ、オレ、今オマエに嘘はついてねぇよ。言えないのは言えないって言うけど、騙してない」
「……分かってる、つもりです」
 硬い表情で、白馬は頷く。
「けれど僕はもう君に怪我をしてほしくないんです。勝手な事を言ってますけど、君がどんなに重いものを抱えて飛んでいるのかを思うと……」
 白馬は両手を組み合わせた。沈黙が落ちる。
 ああ、こうやって彼は祈るのかと、ぼんやりと思う。
「前に、万引きをしかけてる人を見ました。中学生の、女の子です」
 白馬は快斗から視線を外し、床を睨みつけるように、話し出す。不意に転じた話題になんとなく口を挟めず、快斗は黙って彼を見る。
「彼女が、鞄に店の品を入れようとしたその瞬間に、偶然目があったんです。僕も驚きましたが、彼女も驚きました。一瞬で青ざめて、品物を投げ捨てるみたいに置いて、僕を睨み付けてから彼女は店を飛び出して行きました」
 その組んだ指を。
「結果的に、その子は万引きをしませんでした。もうしないか他の場所でまたしてしまうか、僕には分かりません。ただ忘れられないんです、あの一瞬の、青ざめた、絶望の顔を」
 うん、と快斗は小さく頷いて先を促す。
 視線はそのまま。彼の、その視線の先を。
「万引きは歴とした犯罪です。僕は自分がもし万引きをしたらと考えました。何か手に入れたくて、万引きしたとしたら、と」
 声は苦渋に充ちている。
「盗んでもきっと喜々として使う事は出来ないでしょう。お店の店員に見られたのではないか、僕を怪しんでいるのではないか。そう思うとその店には行けなくなります。その店も、その店の近くを通るのも、怖い。交番の前を通るのも怖い、自分の方を見ている気がする。街はもう心安らぐ、楽しい場所ではありません」
 視線で追う、その感情の揺らぎを。
「学校へ行くのも恐怖が伴います。誰かが見ていたのではないか、こっそり噂になっているのでは。今に誰かが僕の耳元で「見たよ」と囁くかもしれない。先生が僕を見ている気がする、疑われているのではないか……視線が怖い。話すのも怖い、名を呼ばれるのも。考えすぎと君は笑うかもしれませんが、常に不安がつきまとうと僕には思えるんです」
「……笑わねぇよ」
 快斗の呟きも、小さい。
 笑える訳もない。考え過ぎているのでなく、彼の精神がそれだけ真っ当に育っている証拠のようなものだから、彼は誇っても良い。
 ありがとう、と言うように白馬は目元を少し和ませて、話を続ける。
「家の中も平穏ではなくなるでしょう。お店から連絡が来ていたらどうしよう。親がいつもより饒舌なのは様子を見ているのではないか。何も言わなければ、それは告白を待っているのでは。溜息は、何故こんな事をと自分を責めているのかもしれない。疑心暗鬼は広がります。恐怖、不安、怯え。いつだって楽しめない、笑えない。そうなると益々周りもその変化を訝るでしょう。そしてその視線に怯える。悪循環でしかありません」
 快斗は膝を立て、その上に頬を乗せる。
「小心過ぎるかもしれません。けれど万引きくらいと嘯いている高校生を見た時に果たして彼等はそこまで分かっているのだろうかと思うのです。考えたらきっと僕には出来ない。ものすごい重圧を抱え込む訳ですから」
 上掛けの柔らかさが、肌に優しい。耳に痛い筈の白馬の声は、痛みでなく少しの重さを伴って快斗へと届く。
「KIDは少し違います。盗んだ宝石は大抵持ち主の手に戻っている。しかし盗んだという事実は消えません。その事実が君にかけているであろう負荷は万引きの何倍か何十倍になるのか、僕には想像も出来ない。君が……教室で笑っている時や、KIDとして空を飛んでいる時も、背追ってるいるだろうものを思うと……君にKIDを続けてほしくはないんです」
 白馬の視線はどこかから快斗へと移されていた。ひた、と見据えられている。
「聞いてはもらえませんか」
「やめろって……?」
 白馬は頷く。快斗は頷かない。……頷けない。
「KIDはオマエに捕まったんだから、ホントは…言えないとか、やめないとか、言える立場じゃないのは分かってんだ。オレも」
 きっとKIDを捕まえたのが彼でなければ、そして自分が彼のクラスメイトの黒羽快斗でなければ、こんな選択肢すら与えられはしない。
「オマエが庇ってくれる気持ちも、心配してくれてるのも分かった。有り難く思ってる」
 つけ込むのが気が引ける位には、ゴメンとかアリガトウとかいう言葉が身体全体を駆け巡り渦巻いて、時々息が詰まりそうになる。
 本当は犯罪者の心配なんか、しなくてもいいのに。快斗の背負っているものなんか、思いやる必要なんてないのだ。
「けど、白馬。まだ、ダメなんだよ」
 約束があるから。
 白馬は、やめてほしいと言うだけでなく、何故そう思っているかを話してくれた。自分の言葉で語ってくれた。
 けれど快斗は、言えない、やめない、と告げるだけ。どうして、には答えられない事が多すぎる。これで納得してほしいというのはあまりにも都合が良すぎる。
 立場が反対だったら、快斗なら納得しない。間違いなく怒る。そうして問い質す。
 が、彼はそれ以上言い募りもしなかった。ただ視線を床へと落とした。責める言葉も諦めの言葉もなく。
 静かに目を伏せて、両の掌を組み合わせただけだった。今度のその仕草は、祈りではなく彼の気持ちをそこから出すまいと、漏らすまいと、堅く握り込んでいるように見えた。
「この傷」
 白馬が、はっと視線を戻す。
「この傷、一週間で治るかな」
 唐突に話題を変える不自然さは承知の上で、快斗は首を傾げて見せる。
 白馬の視線は躊躇いがちに、快斗の左腕へと注がれた。今は羽織ったローブに阻まれて、包帯も見えない、傷に。
「かすっただけでなく、貫通ですから、無理ですよ。僕は医者ではないですけど、完治するには二ヶ月はみた方がいいんじゃないですか」
「完治じゃなくていーよ。とりあえず使えれば」
 白馬は少し困ったように、首を振る。
「少なくとも一ヶ月は、大人しくしていた方がいいでしょうね。素人手当ですし」
「一ヶ月、か……分かった」
 何とかなるかもしれない。もっとじっくり下調べをしてから、と思ってはいたが。
「オレに一ヶ月、くんない?」
 返されるのは、怪訝な眼差し。
「どういう、意味ですか」
「まだKIDやめれない訳あるから。一ヶ月、待ってくれれば、多分、全部言える。オマエの望むよう出来ると思う。それじゃダメか……?」
 白馬は、小さく息を飲んだ。快斗の言葉を噛みしめるように束の間眉を寄せて考えている。快斗も、返事をせかしはせずに、黙ってその答えを待った。
 快斗に出来る、ただ一つの彼への約束。そして取引でもある。
「一ヶ月、ですね?」
 静かな白馬の確認に、快斗はしっかりと頷く。
「怪我が治るまでにまた怪我をするようでは、本末転倒ですよ……?」
「気をつける」
「出来る範囲で、ですか?」
 やっと軽口を叩くだけの心境になったか、白馬が茶化すのに、快斗も笑い返す。
「分かって来たじゃん。んじゃ、そーゆー事で、こっち」
 白馬の腕を取り、引き寄せる。大人しくされるがままに近寄って来た彼も、流石に鼻先が触れ合うまで十二cmを切ると、ピタッと固まってしまう。
「あの、黒羽くん……?」
 仕方がないので快斗の方から身を乗り出し、瞳は閉じずに眇めたままで、えいやっと唇に狙いをつけて伸び上がった所で、予想外の動きがあった。白馬が身を引いたのだ。
 ガツッ、ともゴツッとも取れる音と共に、二人は呻いた。
「〜〜〜ッ!」
 快斗は額を押さえて。白馬は顎に手をやり顔を顰めている。
「何ですか、いきなり」
「勝手に動くなよッ」
 同時に口を開いて、やっと白馬が快斗の思考に追いついた。え、と呟いて顎の手で一瞬口元を覆う。
 まさか、と唇が音を出さすに動かし言い、目一杯瞳を見開いているのを見て、快斗は二ヤリと笑って見せた。
「キスなんて挨拶でしちゃう国に居た癖に、オマエ、大げさ」
「大げさとかっそんな問題ではないでしょう。大抵は頬ですよ。よほど親しい間柄でもマウストゥマウスではほとんどしません!」
「へぇ? 日本じゃ口止めは唇でって、昔っからの習慣なんだぜ?」
「またそんな僕が分かってないと思って、適当な事ばかり……くちどめ……?」
 何か不条理な事を聞いた、とでも言うように白馬はそう繰り返す。快斗は唇を人指し指で示し、笑って見せた。
「そ、口止め。一ヶ月の執行猶予の代償はオレ、なんてどー?」
「……馬鹿な事を」
 呆れたように肩を落とす白馬は、今の快斗の言葉を完全に冗談としか捕らえていないようだ。空振りか、と快斗は乾いた笑いでぼやく。
「……へえへえ、どーせバカですよおっだ。まぁ、あそこまで露骨にキス避けられりゃ分かるけどさ」
「避けたっていうより、驚くでしょう、普通。それとも君、本気でキスする気だったんですか」
 口止め、は本気だった。彼が動かなければ、してた。そして後悔もしなかっただろうと快斗には分かっていた。
 KIDをクラスメイトの黒羽快斗として彼の中で意識させる事は成功している。けれどそれで十分とは言えない。
 友達、でなくそれ以上の存在となれれば、決して白馬は快斗を売りはしないだろう。友達として彼が黙秘を約束するより、それは確実に快斗に安心をもたらす。
 打算、だった。そうして、自分にはそれくらいの事は何も感じず出来る筈だった。
 なのに、こうして軽く流されて拒否されただけで、返す言葉も見つからず、まるでつけられた傷から熱が溢れ出しているかのように、ある筈のない痛みがきりきりと快斗を責め立てる。
 なじられた訳でも、あざ笑われた訳でもないのに。
「嘘」
 白馬の視線が次第に細められ、快斗を探るように眺めている。不自然な間とその視線に耐え切れず、快斗は慌ててそっぽを向いて呟いた。
「嘘だよ、口止めなんか。うそ」
「嘘は言わないって、さっき君は言ってました」
 真面目な顔で、なのに奇妙に穏やかに、白馬が否定する。
「信じんなよ、そんな何もかも。冗談だよ。嘘。オマエからかっただけなんだからっ」
 オマエ、利用しようとしてんだから。
 それは言えなかった。
 白馬が身を乗り出して来る気配に、はっと顔を上げた時は二人の鼻先の間隔はもう十pを切っている。
「は…くばっ」
 右手で彼を押しのけようとして、快斗はもがく。咄嗟にベットにつきかけた左手は、動かなかった。もたれていたクッションを背が滑り、よろめく。
 ふう、と耳元で吐息を感じた時には、もう快斗の身体は白馬の腕の中に収まっていた。自分の物ではないかのように感覚のない左腕は、変わらずくったりと投げ出されたまま。
 何が起こったのか、理解出来るまでにはしばし時間を必要とした。
 白馬を止めようとして、ベットに倒れ込みかけた事。
 白馬が引き寄せて、抱き留めた事。
「これだから両手は……、」
「な、に?」
 耳元過ぎてよく聞き取れず、問い返すとやんわりと身体を放される。彼の右腕は、まだ快斗の身体に回ったまま。
「君、両手利きでしょう」
 スパークして一度砕け散った頭は『普通の会話』が出来るまでにまだ回復していない。感情が飽和段階を越えてしまった後のように、心許ない。
 彼の紡ぐ音は、優しかった。
「そ、うだけど」
 しばらく考えて、やっと答える。
 利き手は、と問われたら右だが、マジックの練習を始める時に両手を同様に使えるように、という所から快斗は始めた。今ではほとんど同じように両手を使えている。
「気をつけて下さい。利き手が使えない時に、咄嗟に左が出るでしょう。下手に両手利きだと……」
 言葉途中で、ふっと白馬は表情を改めた。
「すみません、そもそもは僕のせいだ。腕、平気ですか」
 平気、と答える筈だった。
「白馬」
 大丈夫、と。
「白馬白馬はくば、はくば……はく、ば」
 壊れたように、出て来たのは彼の名前だけで。
「黒羽くん? ちょっ、どう」
 呼ぶ癖に、だからと言ってどうしたいのか、自分でも分からない。ただ、気付いてしまった瞬間に、暴走した、としか言えない。
「ほら、黒羽くん、落ち着いて」
 引き寄せて抱き込む、右手。とん、とんと背を宥める、優しい左手。顔なんか上げれない。
 壊れた世界は戻らない。強固に打ち立てたつもりだった壁から、感情が溢れだして行く。
 彼の名前になって、どんどんどんどん。
「白馬はくば、ごめん、白馬、ごめん。オレ……、」
 気付いてしまった。利用していたのは、自分だった。
 後悔なんてしないと思っていたのに。
「オマエ、利用する気だった。オマエちゃんと考えてくれたのに。KIDじゃなくてオレの事見てくれたのに、心配してくれたのに。……ごめん」
 KIDの秘密を守る為、コナン達との約束の為にと言ってKIDを利用していた。
 口止め、なんて言ったのも自分の為だったのに、いざ身を乗り出した白馬に、やっと気付く。
 本当はそんな理由でキスしたくなかった。
 KIDを理由に、キスしたくなかった。
 やっと二人の間からKIDが消えたと言うのに。
「謝らなくてもいいんですよ。僕は君の事を知りたいとは望みましたが、君を追いつめたい訳ではないんです」
 とん、とん。
 柔らかく背に当たる掌に、段々と快斗も落ち着いて来る。鼓動の音と重なるリズムに少しずつ合わさって。
「もう、落ち着きました……?」
 抱き込んでいた白馬の右手が弛められる。僅かな身じろぎでもそっと離れて行きそうな腕を感じて快斗は動けない。
「君が、口止めだって言ったでしょう。僕は、KIDに、そして君に随分と惹かれていました。だから、君が執行猶予の代償、なんて本気で言っているのならって、八つ当たりのような真似をしてしまったんです」
 もう、しませんから。そう呟いて放れようとした腕を、慌てて快斗は掴んだ。
「ほんと、う、に……?」
 両手で掴みかかれない、感覚のないままの左手に、初めて苛立ちを感じる。答えをせがむ子供のように、白馬の服の、袖を引いて。
「なあ、それ、ほんと。惹かれてたって」
「過去形じゃありません。君のお陰で、この三日間で僕の世界はめちゃめちゃですよ。死ぬ程心配しましたし、君が寝ている時も起きている時も考えるのは君の事ばかり」
「オレがKIDだったから?」
 口を挟んだ快斗を、白馬はそっと腕の中に抱き込み直した。今度は、両腕で。
「勿論それはありますけど、でももう関係ありませんね。今度KIDが現れても、KIDの格好してKIDのように話してる、君でしかないのですから」
 瞳が、柔らかく笑う。
 そうでしょう、と声なく問われて、快斗も笑みがこぼれた。
「オレの世界もひっくり返っちまって、もうボロボロ」
 閉じたままの懐中時計は多分今ごろもう次の日を示していて。
 たった三日間。
 しかも快斗はそのかなりの部分を寝て過ごしていたというのに、事態は止められないで進んでしまった。
「これから立て直して行くしかないでしょう。口止めは必要ありませんが」
 白馬が鼻先十cmまで頬を寄せる。
「キスをしても、いいですか」
 律儀に問うて来る白馬の顎に、快斗はキスした。
「やり直し♪」
 一瞬虚をつかれた白馬も、そういう事なら、と唇を寄せる。
 快斗の額に落ちた唇は時間差僅かで、唇へと落ちた。
 快斗は今度は瞼を閉じた。

 三日間で、恋は世界を破壊する。

・end・

◆鍵−key−・白×黒◆


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