そして三日で世界は壊れた。
事の始まりは些細なミスだった。
ミスと、タイミングの悪さ、そんなものが重なった結果、だった。そしてそれは致命的なミスとなった。
その瞬間、KIDは白のスーツの二の腕が朱に染まるのを為す術もなく見ていた。
追っ手を振り切り宝石を月へとかざす…代わり映えしないいつもの儀式の結果も相変わらずハズレで。違ったのは、常ならばその行動の予測のついた筈の探偵の予想外の再登場と、組織の狙撃が重なった事。
キラリと反射するその光の意味に気付き、身を翻した時には一歩遅く、左腕に、熱と衝撃。
KIDは二、三歩よろめいた。
「KID!」
悲痛な声を上げたのは、何故だか探偵の方だった。
一瞬後には煙幕で閉ざされた視界の中で、探偵が自分を呼ぶ声がもう一度聞こえた。が、KIDはそれを黙殺した。
足を留めるのは自殺行為だ。早急にこの場を放れるのは自分の為でありこの探偵の為でもある筈。
熱が痛みに変わる前に、KIDは速やかに軽い跳躍でその場を離れた。出血で変色して来るスーツを横目に、出来たのは簡単な止血だけだった。
トランプ銃と煙幕、そして閃光弾で追っ手を撹乱し、KIDは路地裏を駆け抜ける。途中で痛み止めの錠剤を噛み砕いて、それ以後は熱から意識を逸らした。痛みを忘れて、逃走に全力を注ぐ。
例えそれが予定外の結果でも、起こってしまった事は変えられない。受け入れてそこからどうするか考えるだけだ。
隠れ家へと辿り着く間際に追いつかれたのは、探偵が常より必死だったからだろうか。
それともタイミングが悪かったからか…自らの力が及ばなかったからかもしれない。
多分そういった理由のどれかか、全てだったのだろう。
「KID」
けれど、振り返ったのもミスだった。
息を整えながら歩み寄って来る探偵から、回避行動を取らなかったのも。
「もう逃げれませんよ」
「さぁ、どうでしょうね?」
いつも通り笑えた。その事で少し安心する。まだ大丈夫、まだ自分はKIDでいられている。
寄って来る体から微妙に左を後ろへとずらして視界から隠したつもりだったが半瞬ばかり遅かった。その動きを見て取った探偵の表情があからさまに曇り、緊張を漂わせる。
忘れた筈の痛みが、ずく、と腕から広がって、そっと唇を噛んだ。
「撃たれたのはそちらですね?」
「貴方には関係ありません」
「馬鹿な事を……」
低い声で呟いて、探偵が目を眇めて自らのネクタイを引き抜いた。
「……銃弾は」
抜けているのか、と短く問う探偵の声をKIDは無視した。止血しようと伸ばされた腕をも、音を立てて弾く。
「KID!」
責めるような声で呼ぶ探偵から、一歩分間を空けた。それでも本来の互いの位置には距離には、まだ足りない。……近すぎる。
「言ったでしょう? 貴方には関係ないと」
「……彼等は何ですか。貴方を狙ってるのですか、それとも貴方が今夜盗み出した、宝石をですか」
問いを重ねる探偵に、KIDは薄く笑み返すだけに留めた。
痛みと、熱と、左側からじわじわと広がる感覚を、無視するのも限界がある。こんな場所で出血多量で倒れている訳にはいかないのだ。
痛覚を無視できても左腕が痺れて来たのは無視出来ない。それが意味するところは、一つ。時間は残されていないという事。
後ろか前か。
後ろなら容易く飛び越えられる壁。越えれば隠れ家も近い。だが、今の自分にそれだけの余力があるかどうかが問題だった。
後ろが無理なら、突破は前。……煙幕の手を借りて探偵の横を擦り抜けるしかない。リスクも大きいが不意はつける。
迷いがあった。
焦りもあった。
この場にいささか長居し過ぎた。
「言いたくないというのなら、別の……KIDッ!」
詰め寄ろうとした探偵は、反射的に腕で顔を庇ったようだった。
閃光。ついで、煙幕。
その中、踏み切ろうとしたKIDの腕に、何かがぶつかった。捕まれた事でそれが誰の指かを知り、KIDは素早くそれを振り払う。と同時に、利き足で一気に踏み切った。
初めてマントを重いと感じた。水中でもがく時の抵抗にも似た、空気圧。
余裕で飛び越えられる筈の壁にどうにか足を掛け、そのまま壁の向こうへと身を委ねる。
落ちる、という感覚は何度やってもグライダーで『飛ぶ』のとは違い、いつだって神経を逆撫でるようなそれを伴っていて、その一瞬だけで掌が汗ばむのを感じる。首元から入り込む風の冷たさで、辛うじて理性と意識を保っている状態だ。
落ちるのはほんの数瞬。
それでも目を逸らさない、体勢を崩さない。そうすれば着地は難しくなかった。KIDはふわりとマントを閃かせ、重力を無視したような軽やかさで地面へと降り立つ。
その壁の向こうで探偵の咳込む声が、聞こえた気がした。
近くに、遠くに、聞こえた気がした。
§ § §
青白い顔。
認識したのはその色だった。
白を通り過ぎ血の気の引いた青白い顔で、目を瞑り両手を組み合わせている。
寝かされているベッドの脇に膝をついて、何かに一心に祈るように。身じろぎもしないその姿を、快斗も視線だけで束の間盗み見た。
イギリス帰りの探偵はとても色白で、淡い琥珀の瞳の色や色素の薄い髪の色ととてもよく似合っている。いつもそう思っていた。
だが、今は色白を越えて、痛々しくさえある。
「……死にそーなツラ」
小さく笑った快斗の声に、白馬は弾かれたように顔を上げた。
「目が……、」
快斗の枕元へとそっと身を乗り出すように寄り、白馬は顔を覗き込んで来た。快斗の視線の動きと意識を確かめるようにしばらく沈黙を守ったが、その後で息苦しそうに吐息を漏らした。
「もう……目を覚まさないのかと、思いました」
白馬の声は低く、そして囁きに近い。快斗を凝視するその表情は硬く、未だ何かを警戒するように唇を引き結んでいる。その顔色には朱は昇らず、白よりも青と表現するに相応しい色合いのままだ。
「勝手に殺すなよ」
軽口のつもりで投げ返した言葉の不穏当さは、即刻証明された。
白馬の叩きつけた拳が、快斗の顔の間近のベットへとめり込む。ギシ、と耳元でベットが悲鳴を上げるのを奇妙に冷静な面持ちで快斗は見ていた。
「冗談事ではないのですよ。現に僕は医師を呼べず、君は死にかけてた!」
腕を撃たれたくらいじゃそう簡単には死にはしない。
けれど、手当が遅ければ、それがきちんと出来てなければ、出血が多すぎれば…いくつもの要因で簡単に人は死に至るのも事実だったから、快斗はその悲痛な声に反論など出来なかった。
「この三十八時間、僕がどんな気持ちでいたか……ッ」
それきり、白馬は顔を背けてしまう。枕元に取り残された拳の、小さな震えがまだ彼の中で渦巻いている緊張と不安、その反動のいらだちと安堵を物語っている。
不思議だった。
確かに白馬は常に快斗をKIDと疑って、KIDを捕らえようと追い掛けていた。
なのにKIDには『貴方』と呼びかけ『君』と快斗を呼ぶ。
本人が自覚しているよりもKIDと快斗を別物として認識しているのではないかと快斗は思っていた。
だというのに、KIDの正体が快斗と知った筈の彼は、境目を失って幾らかは動揺しているようだが以外にもKIDとしてではなく快斗として接している節が強く窺えるのだ。
不思議だと思う。どうにも腑に落ちない。
「もっと、喜ぶと思ってたんだけどなぁ」
白馬の拳から視線を外し、天井へと転じ、呟く。
「KIDを捕らえたオマエは、もっと肩で風切って偉そうに……笑うんじゃねぇかと、思ってた」
勝ち誇って『ごらんなさい、必ず捕まえると言ったでしょう?』そんな風に得意気に笑う姿しか想像しなかった。いつか捕まる日があるとすれば、そんな風かもしれないと快斗は想像を巡らせていた。
快斗の半ば独白の如き台詞は白馬にも届いた。だが、否定も肯定も返さずに、彼は立ち上がって快斗を見る。
百八十cmの白馬が立ち上がると、横になったままの快斗からは表情も瞳も、ひどく遠いものになってしまう。
「君のその傷の診れる、医師の当てはありますか。僕に出来たのは止血と消毒だけですから」
傷が銃痕だけに、普通の医院に担ぎ込む訳にいかないのは通じている。白馬が、KIDの人脈を問うているのも明らかだったが、快斗は首を左右へ振る事でそれに答えた。
「……君が電話をしている間僕は席を外します。この場へ呼べないと言うのなら車で送らせても、タクシーを呼ぶのでも構いません。熱は下がったとはいえ、このまま放置していい傷じゃないのは分かるでしょう」
快斗は、もう一度首を振った。たったそれだけの動作でも頭がくらくらして来る。少し血が流れ過ぎたのかもしれない。
「黒羽くん」
「上着、どこ」
「何を言って……駄目です、寝て下さい!」
身をよじって起き上がろうとした快斗を、白馬は慌てて押し止める。
上半身は素肌で左上腕部に包帯が巻かれているその姿で、白馬の手を振り払おうとした快斗の肩に白馬は掌を押し当てた。
一瞬こめられた力に快斗が低く呻いた途端、無理矢理押さえ込むかと思われた手は、力無く当てられただけに変わった。
「もう一度傷が開いたら……僕にはどうにも出来ない。お願いですから、黒羽くん」
暴れないで下さい。そう呟いた声はあまりに必死で。快斗は黙って力を抜いた。両手がそうっと自分の肩をベットに戻し、上掛けを直すのも黙って受け入れる。
実際、白馬に止められなかったとしても、身を起こせていたかどうかは分からなかった。
身体の左側からじわじわと熱が広がる気がする。意識も、気を抜くとふっと飛んでしまいそうで、快斗は慌てて二、三度瞬く。
「白馬、上着」
白馬は何かを耐えるような表情で、快斗を見つめている。両手は堅く握られ、白馬の感情をその中に握り込もうとしているようで。
「今更、逃げようとしたりしねぇよ。頼む」
静かに告げる快斗の声に、白馬は躊躇いをその瞳に映し、それでも頷いて部屋を出て行った。
束の間目に触れた隣の部屋を染めるオレンジの色合いに、三十八時間の時間経過を実感してしまう。彼の言葉を信ずるならばあれは、夕日だ。
間を置かず、白馬は戻った。その手には快斗が現在も身に纏っているスラックス以外のKIDの衣装の全てがある。
「上着だけでいい」
端的に言うと、やはり白馬は黙って一つ頷いてマントやシルクハット等をベット脇のサイドテーブルへと移し、上着だけを手渡す。
既にそれは純白とはかけ離れていた。
左腕からの出血が袖から胸元までも染め上げ、乾いて茶黒く変色している。僅かに血の匂いが残っていて、我が事ながら快斗は軽く顔を顰めた。
快斗は横になったまま襟に指を滑らせて、それを取り出す。
ルパンV世がカリオストロの城という映画で指輪を隠していた場所だと言っても、多分この探偵は不思議そうな顔で首を傾げるだけに違いない。現実と関係のない事を思い浮かべ、少し気分が持ち直した。
右の袖口の折り返しをほどこうとして、指に力が入らない事に気付く。歯で糸を切ろうかと思った時、指が割り込みそれを遮った。
快斗が何をしようとしているのか悟ったらしい白馬の指だった。
ベットに腰を下ろしサイドボードの引き出しからハサミを取り出すと上着を受け取り、袖口の折り返しの糸を解いていく。そうやって取り出した包みを、白馬は快斗に手渡した。
「他には?」
「左のポケットの裏と、裾。後ろの切り込みの近いところ」
白馬はもくもくと上着を解体して行く。
数々の仕掛けもその瞳に触れている筈なのに、白馬はそれらには言及せず、一心に快斗が示した箇所から包みを取り出す事にだけ集中しているようだった。
が、全てを出し終えた白馬も、快斗が包みから出した物に目を止めると複雑な表情になる。
サイドボードの上の水差しからコップに水を注いで快斗の口元まで寄せながら「それは?」と問う。
「抗生物質」
口に含み、白馬の手を借り錠剤を飲み下す。
「炎症止めと、化膿止め、増血剤と鎮痛剤」
快斗は薄く笑う。
「KIDに仲間なんていない。傷を負えば自分で治す。それが怪盗KIDだよ。今回は、オマエに拾われたようだけどさ。自分の手に負えなくなった時がKIDの最後だ、そう思ってる」
医師の当てはあるのかと問うた白馬への、これが快斗なりの返事だった。
初代である黒羽盗一の付き人だったという寺井は確かに快斗にとっても良き協力者である。だが、初代への義理だけで彼に自分の犯罪の片棒を担わせる気はなかった。
ましてや危険を伴う箇所への係わりは、一切断っている。快斗にとっても、心配症な祖父の同様の存在だけに、尚の事である。
「なぁ白馬。オレはオマエが追ってたKIDで、オマエはオレを捕らえたんだろ? なのにどうしてそんなに浮かない顔なんだ? 手当なんかしたんだよ?」
目顔で答えを求める快斗に、白馬は困惑した表情でベットの縁に再び腰を下ろした。ベットの重心が傾ぎ、快斗は心持ち白馬の方へと身じろいだ。
不意に強く意識する。このベットは白馬のもので、この部屋は白馬の寝室で、そこにいるのは白馬探なのだと。
快斗を運び込むのは客室でも、それこそ別荘でもホテルでも良かった筈だ。快斗がKIDで、撃たれて担ぎ込まれたという事実を考えると、ここでない方が良かったくらいだ。
何よりベターはKIDを警察病院に放り込めばいい。彼の立場的にもそうするべきだった。
けれど彼はここへと運んで恐らく言葉通り三十八時間、快斗を見守っていたのだろう。
行動の予測はついても何故そうしたのかという探偵の大好きな『動機』が分からない。
「僕にも、分かりません」
ぽつりと呟いた白馬の顔は戸口を向いている。快斗に見えるのは背中、横顔。
「ただあの時…路地裏で血を流して蹲っているKIDを見つけた時、彼は意識朦朧としている様子でした。僕は彼を捕まえましたが彼はこの手を払い退けようとした。ろくに立ち上げれもしない状態で、それでも僕を拒否しました」
そんなやり取りが自分達の間で行われていたと聞いても快斗にはピンとこない。有り得るだろう、と漠然と思うだけだ。
「発熱していましたし、傷も開いたようで、どんどん赤い染みが広がっていくのを見て、僕は」
その時の光景を思い出したか、白馬が不意に声を詰まらせた。
目を閉じて膝の上で両手を組み合わせている。目が覚めた時に見た白馬と、その仕草は重なって見えた。
「彼が死んでしまうかもしれないと、怖くなりました。だから僕は君の名前を呼びました」
「……え?」
静かな声で語る白馬から思いがけない言葉が出て、快斗は小さく声を上げた。白馬が振り返る。
「『黒羽くん』と呼びました。呼んで、逃げないでほしいと頼みました。彼は不思議そうに僕を見返しました。その時に、彼は君になりました」
「どういう……意味だよ……?」
「もうKIDではなかった、としか言い様がありません。『KID』ではなく『黒羽快斗』だと、思ったんです」
白馬の声は苦しげだった。快斗も声が出せない。
探偵が泥棒の正体を知るのに、痛みを伴うだなんて、きっと誰も思いはしない。
快斗も想像もしなかった。
だが、KIDの正体を知ってしまった白馬はその事実で目に見えない所に、傷を負った。明らかに、快斗が傷つけてしまったのだ。
「君は、この腕の中で気を失いました。彼がKIDのままなら僕は何の躊躇いもなくすぐ中森警部に連絡したでしょう。けれど相手が……この腕の中で血を流しているのが黒羽くん、君だったから僕にはどうすれば良いのか分からなかった」
白馬は、ぽつりと付け足した。
「今も、分からないんです」
正直な言葉だと思った。嘘のない気持ちだと思った。
そして同時に無性に白馬に謝りたいような気分に襲われた。
彼が今向き合っているのは、かつての自分がKIDとして空を駆けるのを選んだ時に切り捨てて来た筈のジレンマだった。こんな形で白馬が背負い込まなければならないものではない。それを申し訳ないと強く思う。
なのにこんなに真っ直ぐに思いを口に出してくれた相手を、きっと自分は利用する。その信用には応えないで、冷ややかに、計算高い、自分の中の理性の部分で考えてそうしてしまうだろう。
快斗は自己嫌悪にどっぷりと浸かりながら目を閉じた。
ごめん、と言えないままに。
眠りはすぐに訪れた。
§ § §
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