奏葬の雫



 やっと、やっと新一は納得した。
 三人の客と連れだって来た彼に、微笑みかけさえした。
「工藤…?」
 彼は怪訝そうに見遣る。
 その視線を避けて、横の客人たちに短い挨拶を述べて、新一は背を向けた。
 どうしてももう一目見て確認したくて、迷惑を承知でこんな所まで来てしまった。
 海。沖からの風に煽られて、髪を、ベージュのスーツの裾をはためかせて、歩く。
「待てよ! どういうつもりだ?」
 手を取られて、強引に振り返らされた。意志の強さが全て凝縮されたような眼が、探るようにこちらを見ている。
 眼は。
 瞳は、純粋に『黒羽快斗』のモノだった。その中には、その心にも、記憶にも、彼は存在しないのだと知らしめる、瞳。
 KIDの瞳。
 KIDを内にしている、快斗の瞳。
 それらは見つける事は叶わなかった。…もういないのだと否応なく実感した。
「快斗。…いや、黒羽。迷惑をかけて悪かった」
 恐らく、彼をそう呼んだのは初めてだった。
 KIDとして出会って、快斗として知り合って。どんどん、どんどん惹かれていく心を止められなかった。
 自信たっぷりに笑った彼。
『KIDを知らないか、名探偵?』
 翼を隠して降りて来た、少年。
『快斗って呼んでよ、新一』
 KIDだけど、KIDとしてだけじゃなく、一緒にいたいと望んでくれた。奇跡を生み出す指先を、抱きしめてくれた腕を、KIDを、快斗を。
 どれ程好きだったか。
「バカみたいだ…オレ。もっと早く分かって当り前だったのに」
 呟きには、もう返事も必要とはしない。
 さようならと、告げないまま去って行ったKID。
 連絡の途絶えた、快斗。
 どうしても受け入れられなくて、諦めきれなくて。探して、探して、探して、やっと見つけたと思ったのに。
 『黒羽快斗』の中にもう彼らはいなかった。
 そこにいたのは、新一の知らない黒羽快斗で、新一を知らない黒羽快斗で、それがずっと認められないままだった。
 呼ぶ前に、いつだって会いたいと自覚する前に現れていたから。今になって、呼んでも呼んでも返る言葉がなくて、こんなに絶望を覚えるなんて思いもしなくて。
 結局彼を困らせるばかり。
「おい…!」
「ごめん。バカだな、ほんと。こんなことならもっと早くっ…」
 声がむせぶ。
 みっともない姿を、隠すのももう無理だった。だって快斗はあの時からいなかった。KIDが消えた時から、KIDだった快斗も。
 それをもっと早く認められていたら。もっと早く、彼の為だけに…泣いてやれたのに。
 もっと名を呼べば良かった。快斗ってその名前も、名を呼ぶのも本当は好きだって伝えれば良かった。つまらない意地なんて、捨ててしまえば良かったのに。ちゃんと応えれてれば。
 もっと何かが変わっていたかもしれなかった。さようならの一言もなく失わずにすんだかもしれないのに。
 例えそれが仮定ばかりであっても。
 今、こうして『黒羽快斗』を困惑させたりしなかった。
「ごめん、黒羽。もう来ないから」
 彼が、眼を見開く。
 捕まれていた手首から力が抜けた。その彼の指をそっと外して、泣き笑いで別れを告げる。
 さようならという言葉を舌に乗せられなくて、じゃあ、なんて言葉でしかなかったけれど。
 これで全てが幻になる。決別によって過去になる。
 どうしてこんな道を選んだのか、尋ねる相手ももういない。記憶の中だけにしか、いない。
 同時に『黒羽快斗』の中で、自分は少し関わっただけの過去になる。
 どうせなら、なるべく早く忘れてほしい。そんな願いすらこめて、振り返らずに歩き出す。

 追って来るものもない。

 誰も来ない海岸を、さくさくと一歩ずつ踏みしめて歩く。
 自分の足音しか聞こえない。尽きない後悔を自分の中に収める為に、足を持ち上げて、下ろす。
 単調な繰り返しが、足を先へと進めて行く。
 あの時の快斗は、KIDと逝ってしまった。あの夜。月の下で。
 一緒に行けたら良かったのに。逝きたかったのに。いこうって、いつもみたいに指を差し出してくれたら、迷わずその手を取っただろうに。
 追いかける事さえも許さないで消えるなんて、残酷すぎる。
 足元を、波がくすぐる。
 新一は波を追いかけるように海原へと踏み込んで行く。
 押して、引いて。
 戻らない彼をもう捜さなくていい。
 泡立つ水際を蹴散らして駆けて行った日が、いつの間にかとても遠い。
 足首からふくらはぎを濡らす、海水。潮の香り。
 不思議と、寒いとも冷たいとも思わなかった。
 波が膝をくすぐって、太股を撫でても、危機感はなかった。その力強さに流されるのも良いかも、と思う程。
「KID」
 月も隠れた。
 捕まえても捕まえても指をすり抜ける水のように、留まらない時のように。胸に痛みだけ残して。
「…快斗」
 いつか、なんてもう言わない。快斗の痛みも傷も、決意も。
 聞く事のなかったそれらを今の『黒羽快斗』は持たずにすむなら、自分に言葉はもういらない。
 もう。
 『黒羽快斗』に何一つ残さず、持って行く。
 KIDと、快斗の為だけに。
 彼等をおくる為だけに、頬を濡らして。水平の彼方に。

 足を止めるものなんて、もう、ない。

・END・

◆ペーパー裏・快(K)×新◆


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