四匹目の猫

 

 

 

 夢現で、火村は腕の中にあった筈の温もりを探して、布団の中で寝返りを打つ。
 無意識で掌をシーツの上に滑らせて、目一杯腕を伸ばした所で、ピタリと動きを止める。
 が、そう広くもないそのテリトリーには冷え冷えとしてきている毛布とシーツしか見つからず、火村は黙ったまま一瞬困惑した。
「…アリス?」
 寝ついた昨夜……正確には今日の3時頃には確かにこの腕の中に擦り寄るようにして眠っていたのに。寝惚け眼を必死に見開いて見ても、室内にその姿はない。
「どうなってんだ? …あいつ」
 火村は独りごちた。
 いなくなるならなるで、一言言って去る位の良識や常識はないものだろうか? いや、探したらどこかにメモの一枚位あるのかもしれない。
 ごそごそと掛け布団を押しやり、先程より高い位置から室内を見渡してみて、深く嘆息する。…それらしいものはない。
 用事でも出来て帰ったか。いきなり何か必要になって(もしかしたら必要だと思い込んで)買い物にでも飛び出したのかもしれない。過去を振り返ってみて、火村はその可能性も打ち消せないなと思う。
 でなきゃ、その辺りに散歩にでも出たか…起こしてもなかなか起きないお前が悪い、と今頃向こうが怒っているかもしれないと気がついて、火村は大きく一つ伸びをした。
 まずは着替えて、さっぱりと頭をすっきりさせる必要があるだろう。
 婆ちゃんに尋ねるのは、それからだ。そう考えながら、まず火村は朝の一本へと手を伸ばした。

 

 

「…散歩?」
「そうやろねぇ、桃ちゃんは早ように行ったようやけど。コオちゃんとウリちゃんと一緒やないやろか」
 飯くらい食ってから出てきゃいいのに、と思わず火村は小さく呻いた。と、ころころと笑われてしまう。
「そんな顔しはらんと」
「そんな顔って」
「心配で心配で…っていうような顔ですがな。おやまぁ、噂をすれば何とやらやわ」
 言葉の途中から、小さな足音達がバタバタと近づいて来る。と、元気良く猫達が部屋に飛び込んで来た。一匹、二匹…。
「はいはい、すぐご飯にしましょな、コウちゃん。ウリちゃん、アリスちゃん」
 …三匹! 火村はポカンと足元を駆けずり回っている三匹目を見つめる。
 ひょいと尻尾を持ち上げた三毛猫が、まるでその言葉が判ったかのようなタイミングで急ブレーキをかけ、返事をするように婆ちゃんを見上げて、にゃあ、と一声。
 パタパタと足音を響かせて、瓜太郎と小次郎がそのまま部屋を駆け抜けて行く。
「………婆ちゃん」
 火村は呆然とその猫を眺める。白色と黒色と茶色の、三毛猫。ひくひくと髭を揺らし、淡い茶色の瞳が火村を見上げている。
「今朝はあじにしようと思うんよ、アリスちゃんも好きやんねぇ」
 婆ちゃんの台詞に、三毛は台所へと飛んで行ってしまう。あらあら、と笑い声が聞こえるのを、更に火村は唖然と見送った。
 猫のアリスの登場に、消えた有栖川有栖。
 アリスの冗談というなら、狙いはさておきまだ理解出来る。担がれたのだとしても、それなりに、やり返してそれですむ。
 しかし、アリスは自分の悪戯に大家である彼女を巻き込んだ事はなかったし、彼女がこうも平然と火村を騙せる筈もなかった。益々頭は混乱して来る。
 自分は立ったまま眠っているのだろうか?
「……アリス?」
 にゃ、と短い鳴き声とともに、三毛は火村の足元へ駆け戻って来る。誘われるように腕を伸ばして、火村は三毛猫を抱き上げた。
 瓜太郎より幾らか軽めの、三毛猫。
 小さな爪を潜ませたその前足が、まるで甘えるかのように火村の胸元に伸びて来て、くんくんとまるで犬が匂いを嗅ぐように首元へと頭を寄せる。
 細い髭に首をくすぐられて、火村は小さく苦笑を洩らした。
 くるり、と光を反射している瞳を覗き込むようにして腕の中に、小さく、囁きかける。
「お前が?」
 その温かさが、今朝まで腕の中にいた、甘えるように擦り寄って来た、彼の温かさを思い出させて…。
「………アリス、だって?」
 指先の熱、伸ばされる腕、首筋に掌をあてる癖、挑みかかる瞳……放しがたい温もり。確かめるように、火村はもう一度呟いた。
「アリス?」
 猫は、ゆっくりと見つめ返した。

 

 

「起・き・ろ!」
 風船の弾けるような衝撃と共の覚醒は唐突で、火村は文字通り飛び起きた。跳ね起きる勢いに、一瞬驚いたような表情で一歩下がった彼を、咄嗟に捕まえる……まだ息が荒い。
「な…んや、びっくりした。心臓に悪い起き方するなぁ、まだ寝惚けてるやろ、君」
 呟いて、彼は火村のまるで凍りついたままのような、それでいてどこか呆然とした表情に気付き、傍に膝をついた。
「悪い夢でも、見たんか? えらい人相になってまぁ…いい男が台無しやぞ」
 そういって笑いかけて来る声は、からかい口調でありながらも、やや心配気な声音になってしまっている。
「いや…ああ」
 見慣れた部屋は、アリスのマンションの一室だった。いつものソファーでアリスの仕事に一区切りがつくのを待っている間に、うつらうつらとしてしまったらしい。
 火村はアリスから目を離さずに、ようやくそれだけの現状把握が出来た。まだ、脈拍は早いままだが、アリスに苦笑いらしきもので応える。
「確かに悪い夢だ。……アリス」
 引き寄せられる腕に、アリスは不思議そうな顔で従う。手の中の両手の一本一本に火村はそっと唇を落とした。まるで一つの儀式のように。
「…火村? 君、もう寝惚けてはおらんよな?」
「そう見えるか?」
 お得意の、疑問に疑問を返す口調に、アリスは安心したように楽しそうな笑い声を上げた。
「いや。でも、判り難い甘え方やとは思う。他の人やったらびっくりするんやないかな」
「甘えてなんか、ねぇよ。そんなんじゃない」
 指は、捕まえていた指先から頬を滑って、耳を掠めて今度は髪の毛に潜っていく。探るように、縋りつくように、愛おしむように。
 確かめるようにシルエットを辿る指の後に、唇が追いかけて来る。そっと落とされるだけの、ゆるやかで柔らかい動き。
「…なるなよ」
 思わず呟いた言葉に、アリスが瞳を開く。
「何?」
「……猫」
「何で? 君ほどの猫好きはそうおらんで。生まれ変わったら君ん家の猫になろうと決めてたんやけどな」
「肉球より、こっちの指先の方がいい。名前を呼んでくれる、この声がいい。アリスのままがいい」
 笑ってない声。首元に鼻先を寄せる仕種。
「一緒の言葉を話して、名前を呼んで、キス出来る方が。有栖川有栖のままが一番、いい」
 ……見つめ返す瞳が、淡い茶色に染まった。

 

 

『一緒に雨を見てる』より◆1999.05.02初版◆


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