Kiss me quick

 

 

 

 N総合病院では、外科の患者の病室は5階と6階に振り分けられており、交通事故で担ぎ込まれたアリスの知人は5階の6人部屋にいた。
 それほど交流のない編集者だったが、縁あって二度ほど仕事を一緒にしたことがあったのと、茨城県民の彼が出張先の大阪で事故に遭いそのまま担ぎ込まれたというので、アリスは見舞いを決意した。
「思ったより…お元気そうで安心しました」
「いやぁ、わざわざすみません、有栖川先生」
「いえ。これ良かったら」
 そうではないかと思ってはいたが、既に花瓶は二つ分ほどの花束が無理やり押し込まれているし、サイドテーブルには菓子折りの上に雑誌が数冊、そして時計が乗っかっている。
 入院のお見舞いに花はつきものである。如何に短期間であろうと、特に花が好きでなくとも、ないと寂しい。しかし、重なるとそれはそれでやっかいなものだ。花瓶が足りない、水の変える手間がいる、そして置く場所だっている、個室でなければ、他の入院患者との兼ね合いだってある。
 そして花以外にするのも、実は割と難しい。現金が無難かと思えば、立場や付き合いの長さ深さなどでこれはこれで頭を悩ませられてしまうものだ。
 アリスも延々デパートをほっつき歩いて、結局松茸昆布の佃煮とじゃこ山椒を選んだ……お茶漬けの話で盛り上がったのが頭の隅に残っていたのだ。
「おっ、うまそうですなぁ。早速夜にでも頂きます。いやぁ、病院食というのはアレですな、味が薄くてねぇ」
「そうらしいですね。奥さんがいらっしゃってたら、返ってどうかとも思ったんですけど」
「事故の連絡で飛んでは来よったんですけど、まぁ婦人会の集まりがどうの手芸サークルがどうのというもので、とっとと帰しました。一応、松葉杖で動けますのでね」
 片足骨折でギブス、あちこちにテープとガーゼという痛々しい姿である。
「関西の方は楽しい方ばかりでね、お陰様ですっかり入院生活をエンジョイしとります」
 いかにもうまい冗談だというようにひとしきり笑ってその後十分程話し、アリスは部屋を出た。
 病院のにおいや、雰囲気には、どことなく人を疲れされるものがある。会話にだけでなく、多分そういったものにも多少疲れを感じながら、アリスはエレベーターで1階に降りた。歩きながら、ついでに首や肩をぐりぐりと回す。
 待合ロビーのその向こう、自動ドアの入口から入って来る、二人の男女が目に入った。歳の頃は二十代始めから、いって半ばといった辺りか。
 ショートヘアーを綺麗に金髪に染めた目元の涼しげな女性。Tシャツにジーンズとカジュアルな装いである。
 また男性は、身長180余りのがっちりとした体格をしている。パリッとしたYシャツに縞のネクタイ、なんだか着慣れていない感じを醸し出しているグレイのスーツを着込んでいた。
 しかも、静かにしなければならない病院に、言い合いをしながら入って来るその姿は一際目を引きまくっている。なんだ、と思いつつアリスも入口へと歩き出した。
「なんだよお前、それ!」
「なによ、あんたこそその格好!」
「言っただろ、部長の奥さんの見舞いだって」
「いつ? 早く来いだの花持って来いだの、途中でようやく病院だって言ったくらいじゃない、あーっもういっといてよ、先にっ!」
 噛みつかんばかりに言い合いながら、二人はエレベーターの方に…つまり、アリスのいる方に歩いて来る。
「仕方ねーだろ、こっちだってバタバタしてんだから」
「ああそう! じゃあ文句つけないで!」
「でもケーコ、それはまじぃって!」
 やや押されがちだった男性が、反撃とばかりに女性が抱えていた鉢植えを指差す。
「知ってるでしょーがっ、水曜は近所の花屋が休みなの! 家にあった中で一番変わってんだからね。手に入れるのすっごい大変だったんだから!」
「鉢植えは病気が根付くっていうんだよ、知らなねーの?」
「判ったっ! じゃあもう勝手にすれば? いいわよねこんなのっ」
 丁度アリスはその瞬間、二人と通りすがる所だった。
 といっても、そのカップルとの距離は三歩半はあったというのに、女性はだかだかと大股の一歩半でアリスの前に来て、鉢植えを「あげる!」という叫びと共に放り出すかのようにアリスに押しつけた。
「…え、ちょっとコレ…」
「おいちょっ…っ! ケーコ!」
 突然の成り行きに、呆然とするアリス。身を翻し、入口へと駆け去る女性。そして後を追う、男性。
「走らないで! ……静かにして下さいね」
 鉢植えを抱え慌てて追いかけようとしたアリスの後ろから、どすを効かせた厳しい声が降って来た。
 先程にこやかに挨拶をした年かさの看護婦の冷たい視線を浴びて、アリスは蛇に睨まれたカエルのように竦み上がったのだった。

 

**********

 

「……と、いうよーな事があった訳なんや」
 チキンカレーを喰わしたる、と豪語した手前、焦がさないようにこまめに鍋をかき回す作業をしながら、アリスは今日あった出来事を話して聞かせていた。
「へぇ…で、そのケーコさんとやらと、彼氏、追いかけたんだろ?」
「一応な。けど看護婦さんに足止めされてもうたから、行った時にはもう1台目のタクシーに乗ったケーコさんを追いかけて、彼氏が2台目のタクシーに乗って行ってしまってて。タクシーは残ってなかったし…鉢植え返す為にタクシー代使って追いかけるってのもまぬけな話やな、と思って」
 後となれば顔は判っても、名前は女性の方の『ケーコ』しか判らないのだから、探しようもないというものだろう。
 拾い物でもないから、交番に届ける事も出来ず、ましてや病院に預けて帰る訳にもいかない。第一、台風のような二人に巻き込まれてすっかり目立ってしまった後なので、結局逃げるように帰って来てしまったのだ。
「それでこの鉢植えな訳だ。すみれだろ、これ」
「やろなぁ、三色すみれやと思うで。ただなんでコレが変わってるのかが判らへんねんけど…?」
「俺に聞くなよ、そんなの」
 キャメルを燻らせていた火村が、パタパタと右手を払って答えた。
 ところが、ピタリと腕を止めると不意ににやりと笑う。
「なぁアリス」
「ん?」
「今の話がフィクションで、お前が作った話だったって事にしないか?」
「…いきなりやな」
「そうしろよ」
 何故か非常に嬉しそうに、火村はそう促す。何やら乗り出して上機嫌で。しかたなくアリスは一つ溜め息をついた。腕を組んで。
「……そのメリットは?」
「アリスの株があがる。割としゃれた誘い方だぜ、これは」
「……しゃれた?」
 鉢植えを挟んで、至近距離で二人は睨み合った。
 しばらくして先に降参したのはアリスだった。これ以上睨み合っていたら、チキンカレーも焦げつくかもしれない。お手上げ、と両手を上げる。
「あかん、降参や。その心は?」
 火村は煙草を灰皿に擦りつけて、更に身を乗り出した。ちゅっ、と音をたててキスをされ、アリスは一瞬固まってしまう。
「ひ…火村っ、あのなっ」
 慌てて両手で口元を覆ってアリスは仰け反り逃げようとするが、火村は楽しそうに笑って、素早くその指に唇を寄せた。
「教えろといったのはお前だ、アリス。判り易く説明してやったのに、逃げようとするか?」
「…何を訳の判らん事を…」
「これがお前の用意したすみれで、野生の三色すみれだと仮定してれば、答えはすぐそこにある」
「……? は、花言葉か、何かか?」
「正解。Kiss me quickだとさ」
 もう一度、火村はキスを浚った。

 

 

『With an armload of Moons』より◆1998.09.23初版◆


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