build up

 

 

 

*** 1 ***

 ワープロに向かってどの位たったのか。
 キーを打ち続けているのに、そして確実に枚数は進んでいる筈なのに、打ち込んでは排除の繰り返しで思うように話は進んでいない。
 締切りまでは余裕があるとはいえ、途中経過を見にわざわざ東京からやって来てくれる担当編集者を思うと心は晴れやかにはならない。
 せめてこの辺りまでは、と指を動かしている内に食事や睡眠のタイミングを外してしまったツケが、日差しのきつい今頃になって回って来だした。
 昼日中らしい喧噪にまみれた昼下がり。寝ちゃいけない、寝てる場合じゃないと心に言い聞かせているというのに、瞼はそれに反して落ちよう落ちようとする。
 必死で首を振ってみたり目を擦ってみたりするものの、首がかくんとして目を覚ましたら三分、五分と過ぎてしまっている……流石に三回も繰り返すとアリスは自分に呆れた。
 クーラーの効いた室内が快適過ぎるのがいけないなんて言えた義理ではないが、こうなると手元はパッタリと停滞してしまう。
 思い切ってここいらで寝てしまうのも一つの手ではあったが、今寝てしまうと片桐氏の到着予定時間である午後四時には爆睡に突入していそうで、そうなると余りにも申し訳が立たない。
 が……。がくっと四度目に意識を取り戻すと、もう頭が完全にそれ以上の働きを拒否していた。限界が迫っていたのだ。
「あかんわ……」
 呟いて、アリスは危なっかしい手つきで原稿を一端フロッピーに落とし、スイッチを切った。そのままふらふらと壁や机にぶつかりながら、どうにかこうにか部屋を脱出したものである。

 

 

 午後二時の日差しは、もぐら生活の作家家業にはかなり勧められないものの一つだと言える。
 しかも、壊れかけの推理作家には、特に。
 眩しい日差しと、本意ではなくとも体を動かす事によって目を覚まそうと考えたその発想は悪くはなかった。しかし良くもなかった。
 目的地もなく、くたびれた顔つきの三十男がふらふらと彷徨っている姿は、かなりのパーセンテージで不審人物である。
 しかし、そんな事に気付くまでもなく明るい景色を見るともなく見ながら歩いていたアリスは、視界の端に何かを捕らえて足を止めた。
 路なりに住宅地が続き、間にぽつりと薬局とクリーニング屋が肩を寄せ合っている。その先の角地には、大きな空き地があった。正確には、ほんの二ヶ月前までは空き地だった場所が、あった。
 今では工事中の堀に覆われ、十五階建てのマンションの看板が張りついている。
 堀の向こうには、十五階の半分の高さはあろうかという、見るからに建設中の高層マンション……その上部には二本の階段が、ひょろりと空へ伸びている。
 アレは何だろう。
 どことなく不思議な光景に、アリスは視線を絡め捕られた。
 ただただ空へと続いている階段は、ビルの側面三階の高さにつけられたドアと同じ位、奇妙で不思議な感覚を与える。
 どこかへ行きたいとか、逃避を願った訳ではない。
 どちらかというともう少し現実的に、あのてっぺんから見る景色はどんなだろうと思う。こっそりと潜り込めるだろうか、そこに立つ人は何を思うだろうか、そしてそこから落ちた人がどこかに消え去る事は可能だろうか…こうなると既に職業病とも言えるだろう。
 ほんの五分か十分の、気分転換の散歩。目覚まし代わりの。それがどこをどう間違ったか、どんどん想像の翼は広がって行く。
 しかし、それも唐突に破られた。
「言い訳も食べ物も、空からは振って来ないんじゃないか」
 低い呆れたような声と、掌一つ分、重みをかけられた肩とで。

 

 

*** 2 ***

 やきもきした気持ちを押し隠しながら街を歩いて、どうにかアリスを見つけた。見つけたはいいが、アリスは火村に気付きもせずに歩道でぽつりと独り、何に夢中になっているのか空を見上げて突っ立っている。
 声をかけると、アリスは酷くびっくりした顔で振り返った。正確には肩にかけた火村の手が勝手に振り返らせただけだったが。
「びっ…!」
「っくりしたのはこっちだ。行き詰まってるならさっさとそう言えよ、この馬鹿」
 数日ぶりに見た顔は、ここまでびっくり顔でなくともと思うくらいのびっくり顔で、火村は無意識に緩めてあるネクタイを、更に人差し指を差し入れて緩める。
 急にどうしたとか、何故こんな所にいるのかとか、そんな疑問が飛び出して来るかと思ったが、アリスは先刻の火村の台詞から一部分を繰り返しただけだった。
「……バカ?」
「訂正。この大馬鹿」
 どれだけ自分が、そしてアリスの部屋で待つ客人が心配したか、この顔は絶対判っていない。そう思っただけで、火村の舌のストッパーは軽く外れてしまった。
「大体なんだ、その顔。食べるのも寝るのも後回しにしたな、さては? 三日以上人間的生活を放棄するなとあれだけ言って置いたのに、また無視しただろうお前は。忘れてたとでも言うつもりか? やれやれ、何が入っているんだ、この頭は」
 平手でこめかみをぺちぺちとするが、アリスからはまだ反応が返らない。びっくり目のまま助教授をまじまじと見返す。
「あーあ、勿体ない。そうやってぽかんと空見上げてた間にも、元々少ないアリスの脳味噌の皺が減ってたんだぜ? こりゃ、溝がつんつるてんになる日も近いな」
 立て板に水の如くの軽口にいつもならぽんぽんと返す筈のアリスが、まるで圧倒されたかのように黙り続けているので、段々火村は落ち着かなくなって来る。同時に、少なからず心配にも。
「おい、どうかしたか、アリス? 随分ぼんやりしてるじゃねぇか」
「…火村……」
 アリスの声はかすれて小さかった。そして、アリス自身そんな自分に驚いたようにすぐ口を引き結び、軽く眉を顰める。
「ほら、先生」
 火村はアリスを促して歩き出した。
 どこに行くつもりだったのかとの問いはしなかった。もういいかでも、もういいなでもなく。行くか、とも、行こう、とも言わなかった。下手に言葉を選ぶより、ぽんっと背を押すだけの方が、アリスの足は素直に従ってくれる事を知っていたからだ。
「……何で、こんなトコおるんや、センセ」
 暫く歩いて、ようやくアリスはその疑問を思い出したのだろう。ぽつりと出た問いに火村はあっさりと答えた。
「失踪した先生を探してたんだ」
「……?」
 アリスは自分を指さす。火村も同じようにアリスを指さした。
「そう」
「なんで?」
「片桐さんがお前の部屋の前で途方に暮れていたから」
 友人は慌てて手首を掴む……ただし自分のものでなく、隣を歩いていた火村の、である。
「…なんで? この時計、合うてるよな?」
「腕時計を持ち歩いていなかったといってどうこう言うつもりはないが、せめてアクションの前に一言あってもいいとは思わないか、アリス?」
「遠回しに嫌味言うてんと。合うてるんか?」
「ハイハイ、合ってるよ、合ってます。ついでにもう一つ教えてやるよ。片桐氏は到着予定より早く着いたんだそうだ。ところが」
 火村は指折り数える。
「先生の部屋の鍵は開いてるのに部屋は無人、電話は勿論留守番電話のまま、電気は点けっぱなし」
 あっちゃあ、と声に出さずにアリスは額を押さえた。
「気の毒な担当編集者殿が、何かあったのではと青くなっている所にやって来てしまった助教授が、おや留守ですかと帰れると思うか? 気のいい知人を安心させようと行動するのは極めて当然の成り行きというものだろう?」
 こりゃ一つどころじゃないよな、と呟いてそれでも火村は更に言を継いだ。
「車のキーも現金も置いてあるし、室内は散らかってはいても荒らされた風ではない。ワープロを調べてみたらフロッピーが入ったままだし、最後に書き込んでから二十分とたってなかったから、近場と踏んで探しに来たんだ。早く見つけられたのは運が良かったようだけどな。説明は以上。お前、ちゃんと謝れよ、片桐さんにものっすごく心配かけたんだから」
 こづかれて、慌ててアリスは頷いた。ものすごく、の『の』と『す』の間に確実に小さい『つ』が入り強調しまくったが、敢えてそこは目をつぶる事にしたのか、反論はなかった。
 そのついでとばかりに、火村に対しても目をつぶったのか、そちらにもコメントはなかった。別に礼がほしくて迎えにでた訳ではないから、それもどうでもいいが。
 じっと見ていると、不意に視線を上げたアリスとばっちりと合ってしまう。
「空で何を見つけた?」
 見つけたアリスは、酷く熱心に空を見上げているようにも、どこか違う所を見ているようにも見えた。声をかける前の一瞬の躊躇を、彼は知らない。
 アリスは、その事か、というように笑み崩れた。何か安心したかのような笑顔で。
「空やなくて、階段。建設途中のマンションの、階段が……空に伸びてて。見たやろ?」
「ああ…、あったな」
 視線を一瞬だけ背後に返して、火村は頷く。戻した視線を、それで? とアリスに据えて。
「面白いやろ、アレ。じーっと見てるうちにいろんなモンを見つけたで? 何かを創っている途中っていうのは、時々ひどく……不思議な形をしてる気がする。完成したらそれと判るものでも、途中だとまるで違う姿をしていたりもするし、別のものに見えたりとかな。人もそうやけど……ああいうのは飽きへんよなぁ」
「………そうだな」
 火村の控えめな同意に、アリスの舌の滑りは徐々にいつも通りに良くなって来たようだ。
「デパートに、パン屋とかギョーザとかの店入ってるやろ? ガラス張りで、中で作ってるのが見えるのが面白くて、ちぃさい時ようへばりついてでき上がりまで見とったもんや」
「ああ…地下の…。目に見えるようだな」
「そうやろ。昔から何か作るってるのが好きやったんかもしれんなぁ。後は普通に暮らしてたら見れない裏方も興味がある。デパート、病院、建設現場……の、関係者以外お断り、いう奴」
「良かったな、作家になれて。今じゃ『取材です』でフリーパスだぜ、先生」
「アホ。まだそこまでオールマイティーやないわ。なんせ名の売れてない貧乏推理作家やねんから」
「どうりで。お陰で、壁のこちらで二の足を踏んでいる先生を拾えた訳だ」
「それはええけど、この陽気は計算外やった。熱吸収率良すぎて、頭焦げるかと思ったで」
 火村は喉の奥で、そして唇で笑んでくしゃくしゃとアリスの髪をかき回した。「ホントだ」髪が熱を吸って熱くなるまで立ち続けるなんて、やっぱりアリスだ。
「まぜんな! …君は、何で? 今日は休みやないよな?」
 舌だけでなく頭の方も覚醒してきたのか、アリスは質問を投げかけて来た。が、今一つ働ききってはいないらしい。基本的な事柄が抜けている。
「水曜も働けと?」
「……あれ?」
「まぁいいさ。ところで、仕事はどうだ? 行き詰まってんじゃないか?」
「チーター並や」
 アリスの答えの間に気付き、火村は笑いながら合わない節に無理やり歌詞を詰め込んで、一節うなる。
「三行進んで二行戻る?」
 意思の疎通が良すぎたのか、アリスはさも嫌そうに顔を顰めた。これは、火村の許容範囲は鼻唄まで、とアリスは常々主張していたので、そっちの意味で顔を顰めたのかもしれない。
「一応それでも一行は『進んでいる』訳やから、『行き詰まる』とは言わん事になってんねんで、センセは知らんかったかもしれんけど」
「そりゃ存じませんで」
 火村があっさりと流すと、アリスは不意に話題を転じた。といっても基本路線は変わっていないようだが。
「片桐さん、なんか言うてた?」
「お前の事を心配してた」
「あー…ええっと、それはええねんけど、いや、ええっていうか有り難い思てて、うん。そうじゃなくて、例えば……片桐さんから逃げ出したとか、片桐さんを避けてるとか、そんな風に思われとったらどうしようって思って。勿論そんなつもりじゃなかってんけど、なんか結果こんななってもうたし」
 考えている内にどんどん不安になったのか、アリスの口調はみるみる早口になって行く。火村は笑い出しそうになるのを堪えて、断言する。
「いや、それだけはない。頭っから誘拐とか事故とか、お前になにかあったんじゃないかってそういう心配ばかりしてたんだから。お前が信頼されているというよりは、単にあの人は人がいいんだろうけどな」
「両方や! ちょっとは見習ったらどうや?」
「見習ってるさ。でなきゃとっくに指摘してる筈だ。『進んでる』と言い張る先生と『編集者から逃げ出した訳じゃない』と力説してる先生の関連を」
「せやから、進んでるって!」
 意地になったように怒鳴る。けれどすぐ、アリスは肩を落とした。なんだかんだといいながらも、二人はマンションまでもう遠くない場所まで帰って来ている。
 マンションを見上げ、足を止めてアリスは苦笑を浮かべた。
 部屋に帰るまでに、片桐に会うまでに、もう少し話をしておきたい。そんな気持ちがアリスの瞳には真っ直ぐに現れる。
 正直に気持ちを乗せた目を向けられると、火村もいい加減な対応は出来ない。同じように真っ直ぐな言葉で向かい合うのは難しくても、出来る限りそう返したいと願うようになった。
 そう、人に思わせるだけの力が、あるのだ。
「………やっぱり今のナシ。本当は、そんな順調でもないんや。…君相手に格好つけても始まらんしな」
「いいんじゃないか。それはそれで。強がっていられる内はまだ大丈夫だろ、アリスは」
 殊更、仕事に関してはそういう所がある。真っ白な、ゼロから作り出していくその作業に、自分が出来る事はほとんどない。自分相手に愚痴る事や強がる事で、アリス自身に『まだ大丈夫』と信じさせる事が出来るのなら、それでいいと思っている。
 それはアリスの『大丈夫』の範囲内だから。
 けれど本人は自覚が薄いのか、不思議そうに「そうやろか」とだけ呟く。
「多分な。けど、本当に大丈夫じゃない時には、言うなよ『大丈夫』なんて。見るからに大丈夫じゃない時に本人が大丈夫って言っちまったら、周りは助けてやれねぇんだから」
 例え心配をかけまいとして出た言葉だとしても。周りは、友人は、心配しないでいられる筈がないのだから。
「……判った。やばかったら、ちゃんと言う。でもな、書くことは助けてもらえへんから。それが仕事やって判ってるし」
「判ってる。でも、お前の仕事にだって、編集者がまとめてくれて、印刷会社が刷って本にしてくれて、出版社が宣伝してくれてるだろ? お前の仕事は作り出す事だけど、独りでやってる事じゃない。いろんな人が関わってるんだ」
「そうやな。君もおるしな?」
「そう、愚痴もいい放題。友人に恵まれたな、先生?」
「それはともかく、編集者には恵まれてるで」
 アリスの反論に火村もペシッと後頭部をはたいて「ともかくじゃねぇだろ」とぼやくが、本当は判っている。きっと二人とも。
「じゃあ、上がるか。片桐さんが心配してる」
「せやな。捜索届け出される前に、帰ろか」
「……ちゃんと言えよ」
 片桐には心配かけてゴメンナサイを。自分には、大丈夫って言葉と、駄目な時には駄目だって言葉を。
 アリスは頷いて、笑った。

 

 

『With an armload of Moons』より◆1998.09.23初版◆


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