夜の虹

 

 

 

 それが夢だという事は、よく判っていた。
 白の空間。
 どこまでも続く、白の絨毯は毛足が長い。
 何もない真っ白な部屋で、私の後ろには同じく真っ白な壁が立ち昇っていて、左右にどこまでも、続いている。視界の果てまでの、白。
 夢の中のわたしの横には、男が一人。並んで壁に凭れて座っている……火村、だ。
 斜め上方から見えているだけだったその風景が、風にゆらいでふわふわと私の意識を乗せて、わたしたちへと近寄っていく。それに伴って、次第にわたしたちの会話も耳へと届いて来る。
 火村が、わたしの耳元に唇を寄せた。
「判るよな?」
 当然そうだろう、と尋ねる火村に、わたしはピントの外れた表情で、いいやと首を振って見せる……左右に。
 何故判らないのだろう、と傍観者の筈の私の方が、いらいらと焦りを抱えきれずに持て余していた……わたしは判らなければいけないのに!…と。
「やれやれ。じゃあ、アリス、お前には特別にヒントをやるよ」
 一言、一言と、火村は低い声で…まるでとっておきの秘密をこっそりと教える幼い子供のように、もったいぶりながら、三つの言葉をそっと告げる。
 彼の謎を解く為の、大切なキーワード。
「それの答えが、パスワードになるんか?」
 火村は目を眇めて、軽く頷く。けだるげに、自らの前髪をかき上げて。
「必要なのさ。それがなければ……」
 唐突に、続く言葉が消された。ザーとノイズが被り、彼の言葉を消して行く。口の動きだけが、鮮明に脳裏に焼きつくのに、その口が紡ぐ言葉は理解出来ない。それが悔しい。
 まだ判っていないわたしに、私はそれを叫ぶ。早くしなければ、間に合わない!
 白い景色は急速に渦巻かれ、歪みに引きずり込まれて、そしてその声は届かない事を絶望の中で私は悟ったのである。

 

**********

 

 目が覚めると、時計の針は最早限りなく十三時に近い位置を指していて、常の作家時間で計算しても明らかに寝過ごしてしまっていた。
 そして、覚醒すると同時に、覚えのある頭痛にも見舞われてもいた。
 共に、原因は判明している。
 夢見が悪かったのだ。
 こんな時は決まって眠りが不足がちになり、その揚げ句が無意識で睡眠時間を延長してしまって、当然の結末で頭痛に一日中悩まされてしまう。
 夢の中でまで謎解きをさせられるとは、心休まる時もないではないか。普段は、謎を組み立てる推理作家が職業ではあるものの、日常では火村に誘われフィールドワークに付き合っては、頭の運動をしているのだから。
「ああ、もう…それもこれも火村があんなこと言い出すから……あれ?」
 ベッドに寝転んだまま、天井見上げて夢の中の火村に八つ当たろうとして、私ははたと気がついた。
「パスワード、何やっけ」
 キーワードが三つ。
 その答えが、火村の謎を解くパスワードとなる……珍しく、夢の内容をやけにはっきりと覚えているというのに、どうした事か肝心の所がぽっかりと抜け落ちてしまっているのである。
 わたしに判らないでいた答えが、あの時の私には判っていたというのに…!
「……火村のアホ…!」
 無理やり起き上がった私が、ここにいない男へ八つ当たった次にした事は、何はさておき火村と会う約束を取り付ける事だった……。

 

 

 京都、英都大学社会学部助教授、火村英生がその電話を受けたのは、折しも昼食を終えて、研究室の扉を開いた直後の事である。
 ル、と一声唸って一拍置いてから、ルルルルルと鳴り出すその電話の特徴で、たった今掛かったばかりだな、と冷静に判断して火村は受話器に手を伸ばす。
「はい、もしもし」
「火村? …俺やけど」
 普通、俺やけど、なんて言う挨拶を三十を幾つも越えた大の大人がしていては、示しもつくまい、というものだが、生憎この有栖川有栖という人物は、知り合った大学の二回生の頃から一向に変わらない。
 それにすっかり慣らされてしまった、自分も自分だが。
「どうした、先生。こんな時間にお目覚めか?」
「大きなお世話様や。それより、話があるんやけど」
「……女からの台詞なら、その後に来るのは『親と会って』か『別れましょう』ってところだろうさ」
 顎と肩で受話器を挟んで、机の上のメモを脇に寄せて開いた場所に腰掛ける。
 からかい口調には、思ったより不機嫌な声が返って来た。
「生憎、可愛い女の子じゃないもんで、そんな色っぽい話やない。まあ、ええわ。とりあえず、会って話したいねんけど?」
 都合はどうだ、と尋ねて来る。
「今日はまずい。どうかしたのか?」
「どうって…いう問題でもないかな。聞きたい事があるねん……考えても判らなくなったから、きっと聞いたら早いと思って」
「急ぐなら…」
 言いかけた言葉を、アリスが遮る。
「いや、いい。すまんかった、君の都合のいい時でええから」
「…じゃあ、明後日。午後二時にJR大阪駅、中央口噴水前でどうだ?」
「明後日…二時、大阪駅の中央口、噴水前やな。判った」
 復唱して、じゃあと電話を切りかけたアリスを呼び止めて、もう一言の追加。
「お前が強引に取り付けた約束だからな。一応行くけど…遅れても責任持てねぇぞ!」
「判ってる」
 妙に神妙な声音で、アリスが答えた。
 ついでに、先程から気になっていた事柄を口に昇らせる。
「ところで、アリス。随分小さい声だけど、何か訳があるのか?」
「……大きい声出すと、響く」
 大きくない声が、そう答える。この答えは、酔っぱらいの親父の見本のようだ。火村は、思わず口元に笑みをこぼした。
「もう歳なんだから、飲み過ぎは良くないぞ、先生」
「誰が。単に頭痛や、それもこれも君のせいやねんで、知らんやろうけど」
 アリスが、これまた意味不明のからみ方をして来る。まるで今現在、酔っぱらっているかのように。
「知らんやろうけど、ってのは何だよ。俺がなにかしたか?」
「君やけど、君やない。じゃあ明後日にな」
「アリス?」
 通話は、唐突に切れた。
「なんだ、あいつ…」
 受話器を放り投げるようにして戻すと、火村は煙草に火を灯して溜め息のままに煙を吹き上げる。
 何をしたというつもりなのだろう?…今の会話では彼の言っていることが、まるっきり理解出来なかった。
 俺だけど、俺じゃない?
 情緒不安定な様子。そして、頭痛がして?
 夢見でも悪かったか…でなければ、また風邪でも引いたかだろうか。
 何にせよ、二日後には振り回される事が、これで決定したも同然である。
 火村は煙草を灰皿に押しつけて、コーヒーをいれるべく腰を上げた。

 

**********

 

 待ち合わせをした。
 噴水前で午後二時、早くも遅くもない適当な時間だけに、街は人で溢れている。
 JRの大阪駅には出口がいくつかあるのだが、その中でも中央口の噴水前といえば待ち合わせのメッカともいうべき場所で、人待ち顔の若い男女がそれぞれ壁にもたれ、しゃがみ込み、時計を気にしている。
 いるかな、と、ざっと見渡して驚いてしまう。
 まだ時間には早い。
 それに、一昨日電話した時には、『お前が強引に取り付けた約束だからな。一応行くけど…遅くなっても責任持てねぇぞ!』とまで言われていたのだ。
 恐らく、時間丁度にやって来るか、でなければ遅くなるのだろうな、と思っていただけに、そこに彼を見つけた事に驚いてしまって何故だか足は止まってしまった。
 見つけたのは、横顔の彼。
 そういえば、初めて見た時も彼は横顔だった。
 それから随分とたって、今の自分は当たり前の権利であるかのように、彼の横に立つのを許されているけれど…気がつけば、それが火村という人間の向かいではなく横顔しか見えなくしてしまっていたのかもしれない。
 正面でなく、横…それは返って、視界を狭くさせていたのではないのだろうか。
 見えているつもりで、知っているつもりで。
 それでも同じ見るなら…立ち位置とするならば、彼の後ろで…後ろ姿が遠ざかって行くよりかは、ずっといいと思っていた。
 ちらりと時計に視線を走らせる火村の、表情を消して横顔を見てそんな事を思うというのは、以前より欲張りになったという証明になるのかもしれない。
 彼の中の謎……『人を殺したいと思ったことがあるから』と、そんな言葉を吐く度に、私はその答えを知りたくもなるし、それと同時に、その言葉が君を傷つけてはいないかと不安になって、結局は私は、その謎の前で行ったり来たりしているだけなのだ。
 何を言えば、どうすれば、伝わるものがあるのだろうか?
 伝われば、彼の中の何かが変わるのか……何かが壊れてはしまわないだろうか、と。
 彼が、うなされて飛び起きる都度、そう思うのだ。

 誰を殺したいと思ったのか?
 どうして殺したいと思ったのか?
 何故殺さなかったのか?
 今でも、殺したいと思うのか?

 そう尋ねる事もままならない。尋ねても、素直な答えは返らない。
 私の中のどこかの配線が、ジリジリと燻って焦げだして行く…少しずつ燻って、そしていつか焼き切れてしまうのだろう。
 そうならない為の、謎を解く、パスワード。
 夢の中で、私はそのパスワードを知っていた。三つのキーワードから成り立つ、パスワードを。

 

**********

 

 はっと気づくと、視界の中では時計の針が、十分程度進んでいた。
 そして、火村はまだこちらに気づいてはいない。
 その時、歓声が上がった。
「火村先生!」
 いかにも女子大生らしい三人組が、ぱたぱたと彼に駆け寄って行く所だった。
 噴水の周りに溜まっていた若者達も、ちらりとその様子に視線を流しているようだ。私は、何となく足が竦んで、また一歩を踏み出し損ねた。
「お買い物ですかあ?」
「判った! 先生待ち合わせやね?」
「わあ、もしかして、彼女ですかァ! 火村先生の彼女拝めるなんて、ラッキーやん、うちら!」
 三人して、きゃーっと叫びを上げる。
 だが、その勢いにも火村は微塵も動じる様子もなく、三人を見回して口の端に笑みを乗せた……目が笑っていない、見るからに営業用の、ではあったが。
「そんなんじゃないさ。…君たちは買い物かい?」
「勿論です。だって先生、バーゲンですよお!」
「これから、大丸行って、阪神行って、阪急行こって言うてたんです。せやけど、その前にお茶しよか、って。ねー♪」
「ねー♪」
 バーゲン時期のデパート巡りとは、流石に女子大生は勢いが違う。間違っても、付き合えないコースである。
「先生も大阪、よく来られるんですか?」
「まあ、たまにね」
 何が、たまにね、や。フィールドワークを含めればそれこそしょっちゅう来とる癖に、と心の中で突っ込みを入れてしまう。
 火村は軽く視線を四方へと動かした……今度はこちらへも。
 見つかった!
 そう思った瞬間、火村はそのまま視線を流す。
 その視線の動きに、不自然さは見られない。気づかなかった、のだろうか…?
「ね、先生。お茶ご一緒しませんかあ?」
「めちゃお勧めの喫茶店ですから♪ こっからだと、十分位なんですよー。あ、待ち合わせの彼女…じゃないんでしたっけ。その方も、ご一緒に!」
「そうそう! 私たちも、待ちますから」
 会話はとんでもない所へ転がっていく。これでは益々、出て行けない。
「せっかくだが、連れが来たから、行くよ。君たちもほどほどに帰りなさい」
 ええーっ! っと叫びを上げる三人に軽く手を振って、火村はそそくさとそれでいて真っ直ぐこちらにやって来た。
 視線も合わせず、顔の向きすらどこか余所へやりながら、通り過ぎ様に抜群のタイミングで私の腕を取ると、そのまま引きずるように歩き出す。
「ちょっ…火村?」
 犯人を連行する刑事だって、ここまで横暴じゃないだろう。すっかり真顔で『先生』の仮面は噴水前に忘れて来たらしい。
 目つきまで鋭い。
「火村。……どこへ行くんや?」
「着いたのなら、さっさと声をかけろよ」
 不機嫌な声の、丸きり違う答えが返された。
 人混みをすり抜けて、二の腕をぐいぐい引かれるままに、足を進めて行く。
 タクシー乗り場の横を過ぎ、短い横断歩道を通り、『ご協力お願いしまーす!』と呼び込みをする献血車の前を足早に抜けて、歩道橋へと昇るエスカレーターに足をかけて、漸く火村は腕を放す。
「まったく…呼び出しておいて遅れるか、普通? お陰でうるさいのに捕まっちまったじゃねぇか」
「別に、遅れた訳やない。時間丁度に来たら、なんや誰かさんが女子大生に囲まれて楽しそうにしとったから、遠慮してたんや」
「…楽しそう? アリス、眼科に行くなら付き合うぜ。早いほうがいい」
「口元が笑っとったやんか」
「へえ?」
「………まぁ、目は笑ってなかったけど」
「判っているなら、よろしい。ああいう場合は、さっさと出て来るように」
「……すいません」
 何故だか、謝るはめになっていた。しかし、横顔の火村は、笑っている。
 先刻の、目の笑っていない営業用スマイルではない、意地の悪い目元の、ちゃんとした笑顔。
 こういう落差を見せつけられると、まぁ横顔でもいいか、という気分になれるから我ながら現金なものである。

 

 

 

 歩道橋を渡り、阪急の前へと下りる。信号に阻まれ、二人は足を止めた。
「ところで、どこに行くんか答えてもらってないねんけど」
「アリス。ゆっくり話を聞いていられなくなった」
 また、会話がずれた。
「お前も悪いんだぞ。珍しく朝っぱらから動き出してマンションにいないし、携帯電話の電源は入ってない。せっかく、連絡してやったってのに」
「…何かあったんか?」
「あった。殺人だ。一端、区切りがついたから、助手を連れて来るって断って抜けて来たんだよ。……行くだろう」
「行く」
 火村の台詞には、クエスチョン・マークが付いていない。質問でなく、断定という辺りが読まれていて悔しいもするが、やはり想像通りであろう答えを、それも即答でしてしまった。
 こんな機会を、逃したい筈がない。
「お前の話は、これが片づいてからでいいか?」
 その質問には、一瞬考えてしまう。
「……その方がいい。もうちょっと考えてみる事ににする」
 一言一言、考えながら答えると、火村は横顔で頷いた。
「それで行き先は…そこやな?」
 信号が変わり、歩き出した私達の斜め前で、曾根崎警察署の窓ガラスが眩しく光を反射していた。

 

**********

 

 彼は、曾根崎警察署の前を素通りし、梅田花月劇場前を行き、新御堂筋の角を左に折れる。北幼稚園、曾根崎幼稚園を過ぎて、細い通路を入って行くと、太平レジャーセンタービルの隣にその建物はあった。
 そこまでの十分少々の合間に、ようやく火村は事情を説明し出した。
「現場は曾根崎二丁目十番地、コーポそねざきの302号室だ。被害者は、部屋の住人、篠崎香代子、三十三歳。第一発見者の202号室の住人と管理人からは確認が取れた。身内は、神奈川の叔父夫婦だけらしい」
「ふぅん。で、死因は?」
「撲殺。額に一撃と、本棚が倒れたのか遺体の周りには本が散乱し、幾つかの打撲傷がみられる。お前を迎えに行く時に、丁度、解剖に回される所だったな」
 淡々と、事実だけが並べられる。
「凶器は人魚の置物。扉に鍵は掛かっていなかった。現金などに手をつけた様子のない所から、押し込みや強盗というよりは怨恨の線が強い」
「……密室とか、何か君向きの奇妙奇天烈な事件って感じでもないんやな」
「まだ判らない」
 火村の返事は、簡潔だった。
 コーポそねざきは、三階建ての薄灰色の建物で、太平レジャーセンタービルの隣で、目立たずに立っていた。
 三階まで昇り、玄関先の警官に挨拶をして通してもらう。すると中から、長身の男が出て来た。
「お待たせしました。助手を連れて来ました」
「ほう、あなたが噂の」
 どういう噂なのか、聞くのが怖い。
 だが、男はその件にはそれ以上に触れず、銀縁眼鏡の向こうからぎょろりとこちらを検分するかのように、視線を寄越して来た。五十代半ば辺りに見えるその人物を、警部だ、と火村が簡単に他己紹介した。
 何かに似ているな、と思った第一印象は、彼が握手を求めてきた瞬間に確信に変わった。鎌を持ち上げる仕草の、カマキリに似ている!
 が、場合も場合である。私は必死で表情を引き締めざるおえない。
「有栖川です」
「どうも。まずは、現場をご覧になりますか。おい、先生方に、写真をお持ちしろ」
 刑事の一人が、慌ててやって来る。室内には白いテープの痕だけで、件の女性の死体はもう既にない。なんとなく、心を撫で下ろした。
 ワンルームの八畳間の部屋の奥に、小さなキッチンがある。右手の奥には、バス・トイレ。室内に散乱している本がなければ、それなりにこじんまりと納まった部屋だったのだろうと思われた。
「概要は、先生からもうお聞きになりましたか?」
 写真を手渡してくれながら、その刑事が聞いて来る。何枚かの写真の中で、ロングヘアーの女性がやや俯せに倒れている。血痕の少ない、穏やかな死に顔。それは、普段ならつい目を背けそうになる死体とのご対面を、抵抗無く済ませられた。
「ええ。物取りの線は薄いと聞いたのですが」
「現金、印鑑、通帳、貴金属…全て手つかずで発見されました」
 犯人の目的が他の何かであったにしろ、人の出入りの少ない人物のようなので、正確なところは叔父夫婦の到着待ちになっている、と彼は言い添える。
「事故ではないですよね。警察の方ではもう、容疑者は絞られているのですか?」
「関係者が少ないですからね。署の方に移ってもらいました。まずは、第一発見者の、西野香。被害者の真下の202号室の住人で、物音を聞いて、302号室を尋ね、被害者を発見。以前何度か騒音問題で揉めたこともあったらしいですが、最近では特にトラブルは無かった様子…動機の線では薄いですね」
 西野香、と手帳に簡単にメモを取る。火村は一度聞いている内容らしく、時々頷きながらも室内をぐるりと見て歩いている。
 いつのまにか、火村の両手には黒の絹の手袋がはめられ、落ちている本に、しゃがみ込んで一冊一冊目をやり、立ち上がっては本棚を見上げた。
 流しに、トイレに、そして窓の外にと見落としがないようせかせかと彼は歩き続ける。
「そして、被害者と付き合いがあったという、同じ会社に勤めている、品川達彦。被害推定時刻のアリバイがなく、今朝、ここを出て行くところを、管理人に目撃されています。近所の聞き込みに何人か行ってますので、こちらは結果待ちです。あまり部屋に友人を呼んだりという事もなかったようで、無くなっている物等の確認は芳しくありません」
 話を聞きながら、私も室内を見て歩く。足元の本は、殆どがハードカバーで、伝記、推理小説、エッセイ、専門書とまとまりがない。
 こんな物が頭上から降って来たら、そりゃあ痛かった事だろう、と考えて、その頃にはもう死んでいたのかもしれないとも気づく。
「被害者の右手がこの本を抱えるようにしていました。息絶えるまでに、なんらかのメッセージ代わりに手を伸ばしたのか、それともこの本棚から落ちた本自体が犯人の仕業で、犯人が手の下に置いたのかは、まだ判りません」
 現物は既に鑑識に回ったという。写真を見せられると、火村もこの件は知らなかったのか、寄って来て同様に覗き込んだ。
 群青色系の斑模様に、ゴシック体で『夜の虹』とある。
「夜の虹…?」
 唐突に、頭の中が混乱する。
 闇。幻。七。
 三つの言葉。それから導き出される、パスワード。
 それは、こんな言葉ではなかっただろうか?
「知らねぇな。どんな話なんだ?」
 火村は写真に視線を落としたまま、聞いてくるが、生憎手に取った事はなかった。
「さぁ…俺も、読んでない。本屋で平積みになってるのは、見たけど。それももうしばらくはたってると思う」
「ふぅん。そう、夜の虹、夜の虹…夜には虹はかからない、よな? 雑学家の先生?」
「雨がやんだ空や大きな滝のあたりに、弓形にかかって見える、七色の美しい像。日光が空気中に浮く水滴で屈折・分散して現れる。これが虹や」
 だから、夜はないだろう、と断言すると、火村はえらく訝しげな表情で私を見る。
「えらくすらすらと答えたな、どうしたんだ、アリス?」
「聞いといて、どうしたはないやろ。たまには素直に誉めてもええねんで」
 まさか、夢の中の火村の言ったヒントの、幻と七から連想して、辞書を引いたとは言えない。しらっと誤魔化しておく。
「そりゃ、失礼。ついでにその冴えた頭で、この部屋もよく観察しておいてくれ。何か知りたくなったら、お前に聞くから」
「火村先生」
 警部が寄って来た。長い手足を持て余し気味に、ひょいひょいと歩く。
「今朝の、先生に見つけて頂いたテープの件ですが、どうやら留守番電話の録音テープを篠崎香代子は全て保管していたようです。これでかなり、人間関係などもクリアになるでしょうな」
「そうですか。それで、この本については」
「一応、出版社の方にも問い合わせておるようですが、さて。まだ何とも…」
「何か判ったらお知らせ願えますか。後、篠崎の勤め先の方も見てみたいのですが」
「では、連絡しておきましょう。他には何か?」
 火村は、ぐるりと室内をもう一度見回す。そして、警部に視線を戻して。
「凶器の人魚の置物に、指紋は出ましたか」
「……残念ながら、拭い取られてました」
「判りました。では、今日はこれで引き上げます。今晩は有栖川のところにいますので、何かありましたらお願いします」
 いつの間に決まったのか、火村は勝手な宣言をすると、私のマンションの電話番号を警部に告げて、挨拶を切り上げてしまった。
 そう長居したつもりもなかったのだが、コーポそねざきを後にした頃には、太陽はすっかり落ちてしまっていた。

 

**********

 

 天王寺、阿倍野地下街、通称アべチカの中の、串カツ店で夕食を取っている間も、アリスは心、ここにあらずといった体で、機械的に出てくる串を口に運んでいた。
 初めは、自分自身が事件の事で頭を一杯にしていた為に、それと気づかなかったが、彼が夕食を何でもいいと言い出して、ピンと来た。
 例の、聞きたい事がある、という件についてだろうかと、顔を伺っていると、それに気づいたアリスが慌てたように口を開く。
「良かったんか? こんなさっさと引き上げて」
「何がだ?」
「…だから、容疑者に話を聞いたりとか、本の事とか。それに、ほら、会社だって行きたかったんやろ?」
「お前が来るまでに、話はとりあえず、した。本の事は警察に任せておけばいいし、あんな時間から会社なんか行ったって、誰も捕まらないさ。明日の朝でいい」
 アリスは困ったような顔で、一つ頷く。
「第一、話があったんだよな? それを聞いてない」
「あっ、あれは…もういい!」
「……何を焦ってるんだよ、アリス?」
「判ったから、もう聞く事もないし。答えが判っても、それでどうなのかはどうせ判らないってのも、判ったから。…あかん、言ってる方もこんがらがって来た」
「どうりで。聞いてる方は、もっと判んねぇよ」
 ビールも飲まずに、丸きりしらふでこれだけ訳の判らない会話を繰り広げられる者も、そうはいないだろう。
「だから…つまり。例えば、やな。数学の公式問題があったとするやろ?」
 何を思いついたのか、アリスはそんな風に切り出す。
「考えても解けへんかった問題が、夢の中ではスラスラと解けたとする。で、目が覚めたらやっぱり判らなくて、どうやって解いたんかなぁって知りたくなる訳や。でも、解き方を思い出しても、実際その答えがあってるかどうかなんてのは、数学の公式じゃないんやから、確かめようがない」
 だから、忘れてほしいとアリスは言う。
「夢の中の、ミステリーだな、それは」
「そうやな」
 ずっと、困った表情のまま、会話は途切れた。
 もっと何か言ってやれたらいいのに、こういう時に限って必要な言葉は見つからず、吸殻ばかりが増えてゆく。
 解けない謎などないと、言ってやれたらいいのに。
 これほど切実に願った事もなかった。

 

*********

 

 翌朝、目覚めた時には、ソファーの上には火村の姿はなくその名残に、毛布だけが取り残されていた。
 いつもの部屋の、いつもの朝なのに、まるで空々しく他人の家にいるようかのような錯覚に襲われて、私は立っているのも辛い気がして、重力のままにぺたんと床に座り込んだ。
 昨夜の気まずい会話を思い出すと、理屈よりも先に落ち込んでしまう。
 要領を得ないあの説明で、黙って引き下がってくれるのなんて、火村くらいのものだろう。自分だったら、もっと具体的に、と問い詰めてしまっていたかもしれない。
 けれど、あれ以上のうまい説明も、きっと出来ない…今も。
 溜め息をついて、毛布を片づけようとして、テーブルに小さい白い紙切れを見つけて一瞬、息をする事も忘れてしまった。ばかみたいに、それを凝視して。
 見慣れた、火村の文字が並んでいた。警部と連絡がついたので、出かけると書いてある。新展開があれば、また知らせるとも。
 そして、迷ったような余白の後で、また電話する、と締めくくられていた。
 昨日の事件について、それ以上に触れず、そして昨日の会話についても触れない。
 用件だけでなく、でもそれ以上でもないたったそれだけのそのメモは、とてつもなく彼らしかった。
 だから、彼の側にいる事を、望んでしまうのかもしれない。
 口からそっと漏れたのは、安堵の溜め息だった……。
 そして私は、彼の謎を解くパスワードの事は、それきり忘れる事にした。夢は所詮夢でしかないのだから。
 横顔だけでなく、向かいに立ってみればいい。
 また、違う何かが見えて来るに違いない。
 傷つけても、傷ついても、きっとそれきりになる事はないと、何故だかその時脈絡もなく確信していた。

 

 

 

 電話が鳴ったのは、それから、二日後のこと。
 ワン・コールで取った受話器から、挨拶より早くその言葉は飛び出して来た。
「品川達彦が自白した。事件解決、だ」
「……何て…?」
 聞こえてはいたが、その意味を捉えきれずに私は聞き返す。
「だから、篠崎香代子殺害容疑で、品川達彦が逮捕されたんだよ。同じ会社の」
「ああ…付き合っていたとかいう、男」
 名前まで空では覚えていなかった。
「ええと、確か手帳にメモが…あ、あった。へぇ、それで決め手はなんやったんや?」
「留守番電話の録音テープ、さ。品川達彦が部長の娘と見合いをする事になって、別れ話を持ち出したが、篠崎香代子は承知しない。別れるなら、見合い相手に留守番電話のテープを送りつけてやると、脅したそうだ。話はこじれにこじれて、揚げ句に品川はかっとなって殴りつけたらしい。彼女が血を流して動かなくなったのを見て、殺してしまったと思い一目散に逃げ出した、と」
「でも、そしたら凶器の指紋がないのとか…例の本なんかはどうなるんや?」
 共犯の可能性や、また第二の犯人の可能性等が、次々と脳裏に浮かんでは消えて行く。
「どうやら、篠崎が虫の息で行ったという事だ。凶器の指紋を拭い取った際付いたと思われる血痕も確認された。本棚の安定が悪かったというのも、西野と管理人の証言で裏付けられた。それが原因で何度か地震のような大音をたてて、西野と揉めたようだから。時間的にも一致している」
 篠崎香代子という人物を、把握出来ていないせいかもしれないが、それはすんなりと納得できるような内容ではなかった。ムキになったように、言を継ぐ。
「篠崎香代子が、なんでそんな事を? 自分を殺そうとした相手を、庇うなんて?」
「……それが、俺にもずっと判らなかった。だけど、答えは最初っから目の前にあったんだ。簡単な、答えが」
 火村の声が、少しトーンダウンする。
 もう一度問いかけようとして、気がついた。
「…本、か?」
「そう。夜の虹、さ。初めはあの本に思い出があるのかと思った。作者名だとか、出版社だとか、登場人物だとかに、品川や西野って文字を探して見たりした。だけど、そうじゃなかったんだ」
 絞り出すように答える、火村の声。
 どこか遠い所で、聞こえるかのような。
「愛してたんだ」
 耳元で、低い声。これは、誰の声だ?
「言葉として、あった。『夜の虹』は、あり得ない事の例え。そしてもう一つ、そこにあっても見えない、あるって事が判らない…そういう意味もある」
 解けない謎。
 解けた、謎。
「例え自分を殺そうとした男でも、彼女は愛していたんだ。指紋を拭い、事故で死んだかのように、本棚を崩して。誰にも見えない狂気の愛でも、それはそこにあったんだ」

 夢の中のミステリーにも、いつかこうして答えが得られるのだろうか……?

 

 

『むぎゅ。』より◆1998.01.15初版◆


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